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ソウル・ロンダリング ある日突然、裏導師 ~南大阪御伽草子~  作者: 富田林 浩二
第二章 遺ー産ハント

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第二章 遺―産ハント 第三節 玄宗さん


 玄宗さんは島根県の山間部の町で生まれ、六歳までそこで暮らしていた。

 その当時家は裕福で、なんでも、おじいさん一代で財を成し、かなり手広く事業を行っていたそうだ。

 だがその祖父が亡くなってかららは少々事情が変わり始める。

 二代目である玄宗さんの父、滝谷 富堂は少し問題があった。

 世間で言われる典型的なダメな二代目で『人は自分の言うことに従って当然、従わなければ怒鳴り散らす人』だったそうで、私生活でも全くその気質は変わらず、買い物に行って目的の物が置いていないだけで怒鳴ることもあったそうた。

 ということは、当然家の中でも暴君で『用意しておけ』と言った物がその日のうちに差し出されなければ、家の中の何かが壊されて、家の中にいる誰かが殴られた。

 その行動の対象は幼い日の玄宗さんも例外ではなかった。

 玄宗さんが幼稚園に通っていた頃の夕食時、理由はもう忘れてしまったそうだが、父親に力いっぱい殴られた。

 その時、不運にも箸が玄宗少年の首から頭に刺さり、救急車で病院に運ばれたが三日間意識は戻らなかった。


 その三日間のことを玄宗さんは『ずっとキツネと遊んでた』と表現した。

 明るくなったり暗くなったりする妙な空間で、大きな紅いキツネの背中に乗ったり、小さな子ギツネと追いかけ合ったり、ものすごく楽しかったそうだ。

 しかし、病室ではスタッフが総力を挙げて、懸命の治療が行われていた。

 硬い紫檀の箸は、頸髄神経、延髄、小脳をかすめて大脳の一部に達していた。

 もしこの時、延髄か小脳が傷ついていたら、玄宗さんは即死だったという。

 しかしそれは、三日目のことだった。

 玄宗少年の心臓が突然停止したのである。

 医師の迅速で適切な処置により何とか蘇生し、それと同時に意識が戻った。

 全身が痺れていたが、痛みはほとんど無かったそうだ。

 ただ、目覚める直前、玄宗さんはキツネ以外に、青白い大蛇と一緒にいたそうだ。

 その大蛇の導きで光の中に入って行くと、意識が戻ったという。

 ちなみに、これは後から聞いた話だそうだが、医師からは、

「奇跡でも起きない限り、この子の全身の麻痺がなくなることはない、要するに、現代の医学や科学ではどう治療しても、動けるようになることはない」そう言われていた。

 要するに、

「脊髄神経の一部が傷付いたおそれがあり、筋肉への指揮命令が届かないおそれがある」ということだった。

 だが、医師の診断とは裏腹に、玄宗さんは驚異的に回復してゆく。

 本人の意思はもちろんのこと、医師、看護婦、理学療法士、その人達との連携がうまくいったこともあり、一ヶ月で上半身の機能が回復し、二ヶ月で立ち上がり、五ヶ月目には、めでたく走って退院となる。

 退院時に医師は、

「まさに奇跡だ」と感心していたそうだ。


 退院して家に帰ると、家の中の雰囲気が違うことに驚く。

『超』が付く一流品の家具や調度品が消えている。

 それに、八人いた家政婦さんが一人もいない。

 何があったかを母に聞くと、

「お父様のお仕事が、最近うまくいっていない」とだけ答えた。

 

 父母は事情聴取で、何度か警察署に呼び出された。

 父親は頑として、

「食事中に立ち歩き転んだ」と主張し、母は父への抵抗のためか黙秘を通した。

 家政婦さん達も何度か事情を聞かれたらしいが、父を怖れていたので、

「見ていません」を繰り返した。

 だが、一人の家政婦さんが長年仕えたというのに、些細な失敗から突然退職金もなしに解雇された。

 そのことに腹を立て、その勢いからか、両親についつい見たことを口走ってしまった。

 それから、玄宗少年の怪我は父親の暴力が原因、要するに『虐待』という噂が広まった。

 そして噂は風より早く伝わり、引き潮より早く取引先が消えて言った。

 というか、それほどまでに嫌われていたので、皆で一斉に手を引く、もしくは、梯子を外すタイミングを、ずっと待っていた、のかもしれなかった。

 当然そうなると銀行も黙ってはおらず、突然の全額回収を宣言してきた。

 父親は八方手を尽くしたが、それまでの傲慢さがこの時全て自分にはね返ってきた。

 皆一様に冷たくあしらい、長年頭を下げ続けた人間に門前払いを食わされ、さらには塩を撒かれたこともあったという。

 だが、父親がそういう仕打ちを受けたのは、本人の問題以外に、もう一つ理由があった。

「滝谷家はキツネ憑きの家だ」

 周囲からそう言われていたのだ。


 玄宗さんも幼い頃『キツネが来たぁー』と同年代の子供に相手にされず、いつも一人で遊んでいた記憶しかないという。

 確かにその頃住んでいた敷地には、お稲荷さんの祠と赤い鳥居があり、毎日御神酒と団子を供えたことを玄宗さんはよく覚えている。

 そのことが原因だと玄宗さんは思っていたが、そうではなかった。

 その地方では新興成金の家を、そう呼び蔑む風習があったのだ。

 だがその一方で、同じ新興成金でも、地域に貢献し地元に多大な利益をもたらす人にはそう呼ばない、という風習もあった。

 要するに『一人勝ちに対する嫉妬』が根底にある、ということが推察された。

 玄宗さんはそのことをかなり後になり知ったが、その地域の人達には怨みや怒りなどの特別な感情を持つどころか、あの父親に対しては当然のことだと思った。

 その後、父親は全ての資産を売却し、残ったお金と隠してあったお金を持って愛人と二人の子供の所へ行き、すぐに音信不通になる。


 玄宗さんと母さんは、父親の署名入り離婚届一枚だけ、あとは何一つ残されることなく捨てられた。


 ちなみに、玄宗さんは自分の父親のことを『あいつ』か『ハゲ』か『ヒキガエル』と呼んだ。


 家にいれば立ち退きと、金利が高い金融会社からの借金返済を迫られる。

 住む家を探しても近隣では誰も貸してくれない、借りるお金もない。

 何より母が辛かったのは、隣近所の好奇の目、それと『ザマミロ』の棘を含んだ視線だったという。

 耐えられなくなった母は、結婚指輪を売却し、そのお金で神戸までの切符を買った。


 神戸までの電車の中で、母さん、未来は、

「玄ちゃん、今まで頼りない母さんでごめんね。何か言うとすぐにお父さんが怒鳴ってばっかりやったから、母さんはいつも言いなりになってて、玄ちゃんのことも守り切れへんかったりで、……本当にごめんね。こうなることわかってたのに……、もっと早く、……玄ちゃん怪我する前に決断してたら、玄ちゃん痛い思いせんで済んだのにね」そう言ったが、幼い玄宗少年は、うなずくしかなかった。

そして、

「母さん強くなるからね。これからは誰にでも、どんな奴にでも、言いたいこと言っていくね。でも、玄ちゃんのことは絶対に、何があっても守るから、そこは心配せんといてね」と言い、いとおしそうな笑顔で、優しく玄宗少年の頭を撫でながら、

「……絶対に守るからね」と、口元を引き締めて言った。


 そして、母の学生時代の友人宅に身を寄せることになる。

 この時から、玄宗さんと母さんは、母さんの旧姓の長野を名乗った。

 母の友人、針中野のおばさんはとても優しく、退院してまだ体力が戻らない玄宗さんを思い、何かと世話を焼いてくれた。

 その家は玄宗さんたちが暮らした家ほどではないが、かなりの広さを持つ家で、最初は客間でもてなし、生活必需品を揃えてくれたりした。

 そして玄宗さんには、服、おもちゃ、絵本、欲しいと言えば何でも買ってくれた。

 だが、生来愛情は深いが、それに比例するようにプライドの高い玄宗さんの母さんは、その気遣いが嫌だった。

 それまで自分の方が上だと思って付き合っていた相手に、優しさからとはいえ情けをかけられることに我慢ができなかった。

 すぐに母は離れを間借りして、針中野のおばさんの紹介する仕事を蹴ってまで別の仕事を探してきた。

 針中野のおばさんの紹介した仕事はご主人が経営する会社の事務職、要するに、彼女より完全に下の立場が確定してしまうのを母が嫌った。


 そして、玄宗少年が小学校に上がる前に、岡山県備前市の日生ひなせというところの古い民家(借家)に引っ越した。

 今思い返せば、母さんの神戸の友人、針中野のおばさんは、

「玄ちゃんのようなかわいい男の子が欲しかった」を口癖のように言っていた。

 ひょっとするとだが、針中野のおばさんは、子供ができないのか、できにくい体質だったのかもしれない。

 その針中野のおばさんに、玄宗少年が懐いているのも、母さんは気に入らなかった。

 玄宗さんはそのことを、

「母さんの両親はその時もう亡くなってたから、母さんに唯一残された家族『俺』を、ほんのちょっとでも、かけらでも誰にも取られたくなかった、……のかも」と、言った。


 日生での生活は、母は早朝漁協で働き、昼は工場で働き、夜と休日は内職と、文字通り寝る間も惜しんで働き通した。

「何かから逃げるために働いているのか、何かに立ち向かっていくために働いているのか」

 幼いながらも、大好きな母さんを間近で見ていた玄宗少年の目には、そう映ったという。

 玄宗少年は早朝から掃除、洗濯、朝食作り、お弁当作りを担当し、学校が終われば浜へ行き、アサリを掘ったり、堤防から魚を釣ったりして、お金を稼ぐ以外で母を助けた。


 とある秋の休日、まだ低学年の頃の玄宗少年が、朝から浜でアサリを掘っていると、浜を隔てた道路から、日傘をさした女性が海を見ていた。

 この日は思いのほかたくさんアサリが採れたので、みそ汁の具にする分は自宅に持ち帰り、水を張ったボウルに、釘を数本とアサリを入れて新聞紙をかぶせ、外に置いておいた。

 玄宗少年は、比較的小さなアサリを残しておいたバケツと釣り道具を持って、いつもの堤防に向かう。

 堤防に着くと、さび釘の頭を金槌で潰し平たくしたお手製の道具で貝を開き、それを竹ののべ竿に糸とオモリと針だけついた釣り道具に、アサリのむき身を刺し、そっと海へと投げ入れる。

 足元のハゼ狙いの、最もシンプルな仕掛けである。

 その日は三十分もかからず、バケツの中には大き目のハゼが二十匹以上泳いでいた。

 それは、親子二人なら夕食にじゅうぶんな量だった。

 玄宗少年は帰ろうかどうしようか迷ったが、

「エサのアサリもまだあるし、こんなに釣れるんやったらもう少し……」と、釣り人あるあるな行動をとった。

 玄宗少年が、バケツと釣り竿だけを持って、漁船の間を釣り歩いている時、背後から声がかかった。

「こんにちは」

 振り向くと、先ほど海を見ていた日傘の女性が後ろに立っていた。

 玄宗少年が、小さな声で、

「こんにちは……」とだけ返した。

 実は玄宗少年、友達も作らず忙しい毎日を送っていたので、人との関わり合いというのは、極度に苦手なジャンルだった。

「その魚、どうすんの? 食べるん? それとも飼うん?」

 女性の問いに、

「食べます……」消え入りそうな声で玄宗少年は答えた。

「おいしい? どんな味?」

 女性がそう言った時に、その日一番のあたりが来た。

 のべ竿なのでリールはない。

 竿を立てたり寝かしたり、膝を曲げたり伸ばしたり、で応戦する。

 玄宗少年が黙々と戦っている姿を、日傘の女性が、

「負けるなっ」優しい口調で言った。

 背後からなので見えなかったが、その声が笑顔から出た、優しい『笑声(えごえ)』であることは玄宗少年もわかった。

 数分の格闘のすえ、玄宗少年は堤防の階段を下りて、獲物の下あごをがっちり掴んだ。

 二十五センチほどのカサゴだった。

「エラ~イ、よう頑張ったね……」

 そう言って日傘の女性は、賞賛の拍手をしながら大きな笑顔になった。

 玄宗少年は獲物との格闘に勝利したことがうれしくて、何も言わずに階段を上りながら『イーッ』と歯を見せて、アドレナリン全放出の時に見せる笑顔で、日傘の女性を見た。

「あら、あんた、いい顔で笑うんやね」

 そう言われて照れながら玄宗少年は困惑していると、「ツーッ」っと日傘の女性は涙を流した。

 玄宗少年は焦りながら、

(俺何かしたん?)そう自問しても答えは出ない。

「……あのぉ、大丈夫ですか? 俺、……ぼく、何かしましたか?」

 左手に釣り竿、右手にカサゴを持って、咄嗟に出たのはこの言葉だった。

 日傘の女性は手の甲で涙をぬぐいながら、

「大丈夫、キミは何もしてないよ。違うんよ、これは」と優しく言い、そして、

「そや! キミこれから少し時間ない? アルバイトせえへん? お父さんとお母さんどこ? ……あっ、でもこれってひょっとして荒療治、逆効果かなぁ……」矢継ぎ早にそう言った。

 玄宗少年は大きく口を開いて下あごを掴まれている魚を見つめて、困り顔になった。

 家に帰る道中、日傘の女性はシャイな玄宗少年を気遣ってか、黙って後ろを歩いた。


 家に帰ると母は「おかえりなさい」と元気に家の中から声だけで出迎えた。

 いつもなら玄宗少年の元気な「ただいま~っ」が聞こえてくるはずなのに、その日はいつものような元気がない。 

「どうしたん、釣れへんかった? それとも、……あっ、わかった。竿持ってかれた? 大物に。まだ裏山から切ってきて乾かしてる竹、何本かあるから大丈夫よぉ」

(物を失くすのはお金を失くすのと同じ、と考えている息子が落ち込んでいる)

 そう思った母が玄宗少年に、内職の手を止めずに声をかけた。

 声をかけても上がってこない息子に異変を感じた母は、飛び上がり玄関に向かう。

 そこには息子とともに、自分と同年代くらいの女性が、口元を引き締めて、にこやかに立っていた。

「はじめまして、私、……」

「存じ上げてます、何かご用ですか? うちの息子が何かご迷惑をおかけしましたでしょうか?」

 玄宗さんは、母の凛とした姿とどこか棘のある言葉使いに、ただならぬものを感じ、

(これは叱られる……)と思った。

「ちがう、俺もこの人も何もしてない!」

 咄嗟に玄宗少年が叫ぶ。

 その女性は、

「大丈夫、大丈夫よ。きみは悪いことどころか、私に笑顔をくれたんやから、大丈夫。だ~れも怒ってないよ」玄宗少年に優しく言った。

「玄ちゃん、外の水道で手と足洗っといで」

 母は吊り上がった目と眉のままそう言った。

「ごめんねぇ~、私のせいで変な緊張させてぇ」

 女性が玄宗少年の背中に言った。

「他人の空似とか双子とかによる勘違いかもしれないので、ちゃんと確認しておきますね。タカミノさんですよね?」

「はい、私、高見ノ 里子で、間違いないですよ」

「その高見ノさん、……高見ノのあねさん、がウチに何かご用ですか?」

「あねさんって、もう誰もそんな呼び方しませんけどね、今の時代」

「はぐらかさないでください、ご用は何ですか?」

 高見ノのあねさんは「ふ~っ」と息を吐きだし、

「おたくの坊ちゃん、玄ちゃんが釣った魚と、玄ちゃんの時間、ウチが買わせて欲しいんです。人助けのために」

「んんん~っ?」

「決して悪いようにはしませんから、お願いします。御主人にも奥さんからよろしくお伝えいただいて……」

 そこまで高見ノのあねさんが言うと、

「主人はいません。私があの子を育ててますんで、あの子を不幸にしない責任は、全部私一人にあるんです。それに、そちらの方々って、すぐに『悪いようにはしません』とか言いますよね。でも何かあった時にはいつも『悪いようにはせん、って言うたけど、良いようにするとは言うてない』とか言って、いっつも逃げますよね。その言い方、やめた方がいいですよ、誰も騙されませんから。それと、うちの息子は行かせません。あの子まだ小学生ですよ」と、玄宗さんの母さんは完全に怒りながら、しかも喧嘩腰で言った。

「あっ、私のうかつな一言、というか態度でご気分害されたなら謝ります、ごめんなさい。だったら、事情を説明……」

 そこまで言った時、手足を洗った玄宗少年が玄関からそっと入って、引き戸を閉めた。

「聞きませんっ! 今日の夕方が納期の仕事、今、してますんで、時間もありません、お引き取りください」

 そこまで言って、母さんは土間に降りて玄関の引き戸を、勢いよく開ける。

 その時、建付けの悪いことも構わず力を入れ過ぎたため、ガチャンという音がして重いガラス戸がレールから外れた。、

「あぶないっ!」そう言って高見ノのあねさんは、咄嗟に玄宗少年と母を守るように両手を広げ、倒れて来たガラス戸を、背中で受け止めた。

 玄宗少年が驚いた顔で、高見ノのあねさんの顔を見上げると、

「大丈夫? 玄ちゃん 私は大丈夫よ、これでも頑丈にできてるから」と、『ゴリッ』という痛々しい音がしたにも関わらず、優しい笑顔で言った。

 玄宗少年の母さんは何度も謝り、成り行き上仕方なく事情を聴くために、内職の道具を広げたままの部屋に上がってもらう。


 お茶を置くスペースをテーブル上に空けたが、あねさんは熱いお茶なのに、湯呑をずっと手に持ったまま飲んだ。

「背中、ケガしてるでしょ、見せてください」

 母さんがあねさんの背後に回ろうとした時、

「大丈夫、何ともないですよ」

「でも後から痣になったりとか……」

 母さんがあねさんのポロシャツの襟に手を伸ばそうとする。

 あねさんは、

「痣ができてもわかりませんって。それに誰も見ぃひんし」と目を合わさず笑顔で言った。

 母さんは、

「あっ、そういうことか……」と言い、

「失礼しました」と、ポロシャツの背中を見ると、うっすら血が滲んでいた。

 母さんは踵を返し、ダッシュで手を洗い救急箱を持ってきて、

「消毒します」と言った。

 あねさんは、

「もういいよぉ」と困り顔で固辞したが、母さんは頑として受け付けなかった。

「失礼します」

 そう言って、椅子に座ったあねさんのポロシャツをゆっくりまくり上げ、

「あ~あ、ちょうど観音様の合掌した手のとこ、擦り傷が点々とできて、赤い数珠かかったみたいになってますよぉ。……玄ちゃんは見なくていいからね」と言った。

「あっはははは~。何その表現、あとで写真撮って、私も見たい~。さっき誰も見ぃへんって言うたけど、逆に、見せたら笑いとれるんちゃう?」

 あねさんはヒ~ヒ~笑っている。

「お怪我させてしまって、本当にごめんなさい。でもその背中は一般の方には、できれば見せない方が……」

「あっ、そうか、せやねぇ、笑いづらいよね、ごめんごめん、でも、私しか見ぃlひんから写真は撮って」

 あねさんは笑うのをやめて、

「でもマジな話、その観音様の数珠? いつできたかわからんよね?」と言った。

「いいえ、さっき玄ちゃんと私を守って……」

 かあさんは頑固だった。

「私、見た通り、背中の痛みには強いから大丈夫。……せやから、反対側、こっちの痛みの話し、させてください。お願いします」

 あねさんは胸に掌を当てて、静かに言った。

 母さんはためらいながら、

「はい……」と答えた。

「では、できるだけ簡潔に……」

そう言って、あねさんは話し始めた。


 スナック、バー、クラブ、ラウンジ等が入ったビルが、玄宗少年の家からそう遠くない所にある。

 そのビルを管理している会社が、高見ノのあねさんのご主人(たぶん組長)が社長を務める会社、と、ここまでは玄宗少年の母さんは聞かずとも知っていたので、割愛してもらった。

 そのビルに入居する従業員さんたちは、地元の人より他所から来た人たちのほうが男女問わず圧倒的に多かったので、その人たちの住まいや、店によっては寮のようなことも、高見ノのあねさんのご主人の会社は行っていた。

 そこに暮らすバーの経営を任された女性(若い衆の奥さん)が、お母さんになれなかったと、落ち込んでいる。

 その人はお酒と魚が好きなので、玄宗少年を連れて行き、その子が釣った魚で料理をしてあげたら、元気が出るか、……それとも、もっと落ち込むか……。

『荒療治、逆効果……』の独り言はそういうこと、だったようだ。

「玄ちゃん、行って来てくれる。このあねさん……、お姉さんの力に、……お姉さんとほかのお姉さんの元気、取り戻してくれる?」

 母さんからの頼みに『NO』という選択肢はなく、玄宗少年は、

「うん」と力強く答えた。

「あら、本当に頼もしい。ありがとうね」

 あねさんは玄宗少年の毅然とした態度に、静かに頭を下げた。

「それと玄ちゃん、もしも、帰りたい、って思ったら、このお姉さんに帰りたいって、言うんよ。そしたら送ってくれるから、絶対に無理したらあかんよ」

「うん」玄宗少年はうなずく。

「今日釣った魚は、何?」

「ハゼとカサゴ」

「じゃあ、あと二つだけお願い……」

 玄宗少年が正面から母さんの、もう吊り上がっていない目を見る。

「ハゼのお造りが一つ目で、カサゴの大きさは?」

「これくらい」

 と玄宗少年は両手をパーにして親指をくっつける。

「もうちょい大きいよ、あの魚。バケツでだいぶ斜めになってる」

 あねさんが補足する。

「それだけの大きさあったら、から揚げ……、よそんち(他人の家)で揚げ物は何かあったらあかんから、煮つけでいこか二つ目は」

 玄宗少年は目を細めながら口をぱかっと開けて笑い、右手の親指を上げ、一つうなずきあねさんの方を見て、

「ちゃんとウロコはきれいに取りますんで」と言った

「さっきから何言うてんの、ちがうちがう、料理は私らでするから、きみは一緒にいてくれるだけで……」

「あのですね、ウチの玄ちゃん、低体温ぎみなんですね。それでだと思うんですが、手の温度が低いんですよ。なので、この子がさばいたお刺身はおいしくって」

 これ以上ない笑顔で母さんは言った。

「じゃぁ、お願いしないといけないじゃないですか」

 あねさんはつられて笑った。


 歩きながらあねさんは、二件電話をした。

 一件は内職の会社に数時間待ってもらうように、と、もう一件は、玄宗少年の母さんの手助けの人員手配、だった。


 マンションの最上階の一室にその女性はいて、洗濯物を畳んでいた。

 あねさんが、

「サキちゃん、若い板さん連れて来た」と玄宗少年を紹介した。

 サキちゃんと呼ばれた女性は『そう』と玄宗少年のほうも見ずに答えた。

「台所借りるよぉ~、新聞紙どこ? ウロコ飛び散らんように、こっちに敷き詰めて、あと、踏み台あったよね、この家」

 あねさんはテキパキと用意をしてくれる。

 サキちゃんは床に座り、力なくソファにもたれていた。

 玄宗少年には、サキちゃんの事情は全くわからない。

 だが、母さんから『お姉さんたちの元気を取り戻してきて』と言われていたので、この人たちに、母さんが喜んでくれることと同じことを、いつものように真剣にやるだけだった。


 あねさんは、包丁を研ぐ以外敢えて手は出さずに、黙ってじっと見つめていた。

 はじめは(こんな小さな子が器用に)とニコニコと見ていたが、玄宗少年の手際の良さを見て、だんだんと関心の度合いが深くなり、五分もせずに玄宗少年と同じくらい真剣な面持ちになった。

 そのあねさんの表情を見て、アンニュイなサキちゃんが、

「えっ? 姉さん、何ごと?」そう言って玄宗少年を挟むかたちで、二人の横顔を見る。

 そこには調理する小さな手と、助手の大人の手があっただけで、他には何もない。

 刃物を持っての踏み台昇降はキケンなので、あねさんがバケツからハゼを捕まえて玄宗少年に渡す。

 玄宗少年はピチピチ動く活け魚を真剣な眼差しで黙って受け取る。

 あとはウロコを丁寧に取り、頭と内臓を取って三枚におろし、手早く薄い皮を引き、いったん真水にくぐらせて、付着したウロコをキッチンペーパーで取る。

 この作業の皮を引く、所までが玄宗少年の仕事で、水から上げてキッチンぺーパーで拭いてお皿に並べるのは、あねさんの仕事だった。

 鮮度が良いのでたま~にピクリと動く、きれいな透明の身がお皿に並ぶ。

 玄宗少年が、

「先に食べててください」と言ったのだが、それに対してあねさんは、

「あのね、玄ちゃん、特別な理由がない限り、みんなで一緒に食べるの。それと、出されたものは全て食べる。絶対に残さない。吐いてでも食べる。絶対ね。あと、いただきます、と、ごちそうさまでした、は、きっちり言う。ごちそうさま、じゃなっくて、ごちそうさま『でした』まできっちりと、ね」と言った。

 玄宗少年が、少し困った顔をして黙った。

「姉さん、それ無理メシですよ。だめですよ、この子どう見ても若い衆じゃ無いでしょ」

「そうやった。堅気とかの問題未満やった。ごめんね玄ちゃん。ごはん残しても誰も怒れへんからね。怒る奴がいたらその姉さんが、しばき回してくれるからね」

「カサゴの下ごしらえ終わったんですけど、あと調味料……」

「玄ちゃんごめ~ん、今用意するわ、何がいる?」

 サキちゃんに少しだが、元気が戻ったようである。

 玄宗少年は、鍋の中で魚に日本酒をふりかけて少し待ち、水を少し足して沸騰し始めたら、砂糖、醤油、味噌、おろししょうが、そして梅干し一つを入れて、落し蓋替りのアルミホイルを乗せた。

 玄宗少年は、フライ返しと箸を使い、丁寧に魚が崩れないようにお皿に移し、鍋の中で梅干しを崩して、その汁を魚にかけた。

「できました。……あっ、ごはん炊くの忘れた!」

 玄宗少年のこの言葉に、大人二人は「えっ?」と言った。

 先に言ったのはサキちゃんだった。

「玄ちゃんはいっつもご飯作ってるの?」

「はい、……できるだけ」

「さっき姉さんが、みんなで一緒に食べる、って言った時、何か言おうとしたやろ? 言うて」

 玄宗少年は目をつむり「う~ん」とだけ言い、ごまかすようにあねさんと一緒に広げた、ウロコの飛び散った新聞をぐしゃぐしゃ鳴らして片付ける。

 周りに飛んだウロコをあねさんが、湿らせたキッチンペーパーで拭き取りながら、

「お母さん忙しいからやよね」と言った。

 玄宗少年はもう一度唸ったあと、

「俺も……、僕も家で結構やることあるから……」と言った。

「そうか、言うても学生やもんね。勉強もあるし」

「あっ、勉強はしてないです」

 その言葉にあねさんが、

「母親助けるとか、勉強せえへんとか、私らの子供の頃と一緒やね」と言い、仕上げに床を除菌シートで拭きながら、サキちゃんの顔を見上げて微笑んだ。


 ごはんは真空パックのご飯を、サキちゃんが電子レンジで温めてくれた。

 皆がテーブルに向かい、三人揃って、いただきます、をした。

 玄宗少年が目を見開き、

「これ、ハゼこんなにキレイに並べたら、こんなにおいしそうに見えるんや……。ホントにありがとうございます。次から母さんには、こうやってキレイに並べたのを食べてもらいます」と言った。

「うそぉ~、褒めてくれんのぉ~。ありがとう、正直言うて私並べるの頑張ったんよ。そこ認めてくれるん、うれっしぃ~」

 あねさんは玄宗少年の頭をシャカシャカと軽い動きで優しく撫でた。

「せぇ~の、で、三人が同時にお刺身を食べましょうか」

 サキちゃんが嬉しそうに言った。

 三人が醬油の入った小皿を持ち、同時に刺身を食べる。

「えぇ~~~~っ? なにこれ、こんなおいしいの初めて。これって、人生で一番のおいしいやわ」

 サキちゃんは、玄宗少年が『ビクッ!』となるほどの大声で叫んだ。

「あぁっ!、玄ちゃんはごはん炊くの忘れた、って言うたけど、私はビールの栓抜くの忘れたわ」

 立ち上がろうとするあねさんに、サキちゃんが、

「まだ日が沈んでませんけど、いいんですか?」と、いたずらっぽい笑顔で止めた。

「いいよ、今日は特別。……でも、サキちゃんアルコールは? 先生から止められてる?」

「そうなんですよ、まだ飲めないです。うちの店、日本酒専門のクラブでしょ。アルコール度数高いから、お店も若い子に任せてます」

「私が知ってる人間で一番の酒好き酒豪やのに、かわいそう。じゃ、ノンアル買ってくるか」

 そう言ったあねさんを制止するように、首を横に振りながら、

「そういうの玄ちゃん飲めないから、そっちは、ねっ。で、玄ちゃんは飲み物何がいい?」サキちゃんはそう言い、玄宗少年に笑顔で聞いた。

「ほうじ茶とかあれば……」

「渋っぶ~っ」

 大人二人は爆笑した。

「玄ちゃんツイてる。昨日京都みやげで、いいほうじ茶もらったから、それ開けよう!」

 サキちゃんが立ち上がり、

「その前に、もう一口。うんまぁぁぁ~っ」と、お刺身を口に入れた。

「お行儀悪いでしょ。真似したら……、ええか、これくらい」

 自発的に動けるようになったサキちゃんを見て、微笑みながら言った。

 サキちゃんが丁寧に入れてくれたお茶を玄宗少年が飲み、

「うわっ、このお茶おいしい! お姉さんお茶いれるの上手なんですね、おいしい」と言った。

 照れながら小さく「ありがとう」を言ったサキちゃんは、

「ほうじ茶ってごはんとお刺身と煮魚に合う、玄ちゃんって天才! 玄ちゃんが言わんかったら、私には想像もつかんかった……」そう言ったあとは、表情を硬くして黙り込んだ。

 その神妙な表情に、あねさんと玄宗少年も黙ったままになった。


 それは何の前触れもなかった。

 突然、

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」サキちゃんは、声を上げて大粒の涙を流し泣いた。

 玄宗少年は驚いて立ち上がり、部屋にあった箱ティッシュをサキちゃんに渡す。

 サキちゃんは、

「玄ちゃーーーーーーーん」玄宗少年を抱きしめて、大声を上げて泣いた。

 声は大きいが、抱きしめ方は優しかった。

「 ……やっと、……やっっと泣いた」

 あねさんが、誰に言うともなくぽつりと言って、玄宗少年の家の住所を聞き、馴染みの寿司屋に電話をした。


 そのすぐ後に、玄宗少年の母のところに労働力として派遣された女性陣から連絡があり、納期分とプラスアルファは仕上げた、と報告があった。


 三人で、ごちそうさまでした、をした時も、三人で食事の後片付けをした時も、玄宗少年を家に送り届ける時も、サキちゃんの涙は止まらなかった。

 家までのほんの十数分だが、サキちゃんは玄宗少年の手を玄関内まで放さず、ずっと他人の眼を一切気にせず泣いた。

「ありがとう、玄ちゃん。おいしかった。玄ちゃんといただきます、ごちそうさまでしたできて、本当に、今日はホンっっとうによかった。ありがとう」

 そう言って抱きしめ、ひときわ大粒の涙を流した。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 玄宗少年の母さんが土間まで下りて一緒に片膝をついてしゃがみ。深々とお辞儀をしながら小さな声で言った。

 家の中には、納品前の段ボールが積み上げられ、食卓にはにぎりとちらしのすし桶がいくつか並んでいた。


 サキちゃんの旦那さんはこの時、公判中だった。

 妊娠が発覚したのは、公判が始まった数日後だった。

 この時サキちゃんがお母さん気分を味わえたのは、それからほんの数週だった。

 病院で手術した翌日、病院の支払い、また、退院当日の斎場の予約や手続き等にはじまり、斎場への送り迎え、入場立ち合いと、収骨用に事前に用意した直径2センチほどの栓ができる小瓶を持参してくれて、そして収骨まで、あねさんが全て手続きや付き添いをしくれた。

 お骨はほんの少し、数ミリ数本しか残らなかったが、用意した小瓶に二人で収め、朝晩挨拶ができるよう、サキちゃんのベッド脇に置いた。

 サキちゃんはそれからずっと、気遣いのほんの少しの笑顔を浮かべるだけで、言葉も少なかった。

 数日経ってもサキちゃんは同じ様子だったので、自分の気持ちを立て直そうと、あねさんは海風に当たるためには浜に来た。

 そこで玄宗少年を見つけた、という内容を、後日改めてあねさんはお礼を兼ねて話しに来た。

 その時に、

「困ったことがあったら、何でも言って欲しい」と、あねさんは言った。

 だが、

「いいえ、結構です。うちのことはうちで解決します」玄宗少年の母さんはそう言った。

「そう言うと思た」

「だけど、……私も玄ちゃんも外で会ったら、笑顔で挨拶しますけどねっ」

「無視されへんのなら御の字、と思てたけど……」

 あねさんは笑顔になった。

「それと、……二度と玄宗は貸しません。 でも、この前みたいによっぽど困った時は……」

「派遣してね」

「いいえ、要相談、ってことで」

「あっ、派遣してくれるんやぁ」

 あねさんが嬉しそうに言うと、

「基本は行かせません。それに、労働力が突然訪ねてきたり、注文した覚えのないお寿司が届いたり。ああいうのも迷惑です」と母さんが言った。

「それもそう言うと思た。ごめんなさいね、次は女性じゃなくってイケメン手配して、上にぎりにしますね」

「全部門前払い食らわします。失礼とか関係なしに」

「でも、お礼はさせてね。本当に感謝してるから、このご恩も絶対に返させてね」

「私たち親子に一切関わらない。それが恩返しと思てください。私たちもあねさんに頼らない生き方を一生懸命しますんで」

「そうかぁ、残念。マジでお店任せたかったのに……」

 あねさんは本気九割で言ったのだが、

「内職ならあの子と話しをしながらとか、一緒に歌を歌いながらでもできるけど、夜の仕事をしたら、これ以上玄宗が……、玄ちゃんに寂しい思いさせられないから、……できないです。ごめんなさい」母さんは少し嬉しそうに頭を下げた。

「結局こっちの申し出は、全部NOやんか」

「ほんまや、ごめんなさいね。あそうそう、観音様のお数珠どうなりました?」

 母さんは話を変えた。

「反社の人の提案は、まっとうに生きてる人間は、全部NOでいいよ、って思う」

 あねさんはそう言いながら、携帯電話の写真を見せた。

「かさぶたが茶色になって、木製の数珠みたいになってもて……」

 母さんはその写真を見て笑い。

「今は?」

 と言って、あねさんの背後に回り何も言わず背中をめくった。

「かさぶたはがれて、微妙なことになってるぅ~。……玄ちゃんは見やんでいいよ」

 そう言って、あねさんの肩をバシバシ叩きながら笑った。

 周りから見ればかなり失礼とも受け取れる行動だが、刺青の入った背中を気安く見て笑ってくれる母さんの行動を、生来人懐っこいあねさんは喜んだ。

「えぇ~っ、そんなんやったら、カッコ悪くてサウナ行かれへんやん」

「元からサウナ行ったらあかん」

 母さんが笑いながら突っこんだ。

 それからも、二人は会えば挨拶や立ち話もしたし、どうしても弱音を吐きたい時や悩み事があった時には、あねさんはよく訪ねて来ていたそうだ。


 それから玄宗少年は、……度々あねさんからの要請で、簡単なお使いに呼ばれてはおみやげに木箱に入ったお菓子や、子供一人では持ちきれない果物盛り、など、主に消えもの、食品をもらって帰った。

 また、二人の誕生日にはあねさんが無理から用事を作り、ケーキを持たせたりした。

 玄宗少年の母さんは、すべて報告を受けていたが、いつも苦笑いをしながら、

「ありがたいね、もらっとき」と言った。

 内気で引っ込み思案だった玄宗少年が、大人と普通に会話できるようになったことを、少しありがたく思っていた、と後に母さんから聞かされた。

 それと、実は玄宗少年、皆が玄ちゃん玄ちゃんと可愛がってくれるので、天気の悪い日は御用聞きのようにあねさんのマンションのインターホンを鳴らし、料理の手伝いや、お使いなども進んで引き受けた。


 また、サキちゃんは会うといつも、

「ちょっとごめんね」と言って玄宗少年を抱きしめ、

「玄ちゃん抱きしめると落ち着くわぁ」と言った。

 そのサキちゃんの抱擁は、旦那さんの出所後も続いた。

 同じビルで働く、名前を知らないお姉さんたちも、玄宗少年をよく抱きしめた。

 あねさんも玄宗少年の誕生日に一度抱きしめたが、

「あかん、なんか青少年保護育成条例とか児童福祉法に違反しそう……」と言って、あねさんだけは抱きしめることをしなくなった。

 

 また、玄宗少年幼少期の特徴として、母さんに『買って』という言葉は学校で必要な物以外は絶対に言わない、というのもあった。

 それは玄宗少年が四年生の時のことだった。

 夕方仕事を終えた母が帰宅した。

 玄宗少年がいつものように『おかえりーっ』と、元気良く言ったが、いつもの母の元気な『ただいまーっ』が聞こえない。

 具合でも悪いのかと思い玄宗少年が急いで玄関に行くと、土間で母は座りこみ、震えて泣いていた。


 玄宗少年の、破れて足の小指がはみ出す靴を握り締めて……。


 玄宗さんは「しまった!」と思ったが遅かった。

 小学生なので当然だが、経済力のない玄宗さんは母に余分な負担をかけまいと、傷みのはげしい自分の靴をいつもは隠していた。

 しかし今日は、アサリのよく獲れる浜を発見し、興奮してアサリ獲りに精を出していたら、いつもより帰る時間が遅くなった。

 しかも帰る途中に雨が降り出したので、急いで家に入り洗濯物を取り込んだので、靴を隠すのを忘れてしまっていた。

「これは足に馴染んで、走りやすい靴やから。それに浜ではいつも裸足やから関係ないし、それにこの靴、俺気に入ってて他の靴イヤやねん」

 玄宗少年は無駄とは知りつつ必死に言い訳をした。

 母は黙って涙を流しながら、静かに、そして強く、心優しい忖度少年を抱きしめた。

 母は家にも上がらず、二人で近くの靴屋さんへ行き、母は三足の靴を選んで買おうとした。

 玄宗少年は、同じタイプの靴しか足に合わないと主張し、今履いているのと同じ靴、……一番安いタイプを一足だけでいいと言ったが、母は遠足用と運動会用と普段用の三足を主張して譲らなかった。

 玄宗少年は、遠足は履き慣れた靴が学校からの指示だ、を主張して何とか一足を戻させたが、

「運動会でこの靴履いて、私の前で一等賞取って」の母の言葉に、

「今年の運動会は、見に来てくれるん?」そう言って、嬉しさのあまり泣いてしまい、結局一番安いタイプの靴を二足、交互に履く用に買ってもらうことになった。


 ちなみに、二人のことをよく知る靴屋のオヤジさんも泣いていたそうだ。

 もひとつちなみに、通勤渋滞の時間帯で、のろのろ運転中の助手席で聞いている角成も泣いている。


 その次の日、玄宗少年は真新しい靴で走って家に帰る途中、不思議な初老の男性と出会う。

「少年、キツネ連れて歩いて、重ぉないか」

 いきなりそう言われた玄宗少年は、怖くなって何も言わず逃げた。

 その男性は、その頃近所に引っ越して来たばかりの、古市 嘉介という人だった。


 数日後、玄宗少年が浜でアサリ獲りをしていると、

「ガラスや貝殻踏むとイカンから、これを履きなさい」そう言って、嘉介老人はわらじを差し出した。

 母から「知らない人から物をもらったり、借りたりしてはいけない」と、厳しく言われていた玄宗少年は、お礼を言い断った。

 だが、初めて間近で見るわらじは、物凄く魅力的に玄宗少年の目に映る。

 そのことを嘉介老人が悟ったのか、

「わしはここが初めてでなぁ、どうやって貝を見つけるか教えてくれ」

 そう言って、

「これはお礼だ」と言って帰りに玄宗少年にわらじを渡した。


 その数日後、堤防でハゼ釣りをしていた時に、また嘉介老人が現れて、

「釣りは初めてでなぁ、どうしたらいいか教えてくれ」そう言った。

 玄宗さんが餌のつけ方からアタリのとり方まで丁寧に教えると、今度は帰りに、

「今日は何も無いから、またいつでもウチに遊びに来なさい」と言った。

 そしてその日の夕食時に、言いそびれたわらじを見せて母に相談し、ごちそうさまでしたの後、母と共に嘉介老人宅に挨拶に行った。

 嘉介老人は、

「お礼というのもなんですが、わしは合気道と書道の心得があります。興味があったらやってみませんか。もちろん月謝などいりません。どうでしょう?」そう言った。

 しかしその時、玄宗少年は母親思いの子供らしく、

「合気道や書道より、お母さんにわらじを作ってあげたい」と言った。

 そして母さんと嘉介老人が色々と話をし、玄宗少年の母はそれから工場での仕事を、週に三日、絶対に定時に帰るようにして、その日を嘉介老人宅での玄宗少年の習い事日にあてた。

 嘉介老人は「全てにおいて、姿勢が基本ですから」と言い、姿勢を正すことだけを注意し、危険なこと以外は何をしても叱る事はなかった。

 しかも、嘉介老人は人を褒めて伸ばす名人だった。

 最初は何かから隠れるような猫背だった玄宗少年の背筋が、一ヶ月ほどで少しだけ伸びた時も、

「何をする時も姿勢良くしている君を見てると、非常に気持ちが良い」とか、

 子供の頃から人の目を真っ直ぐに見る癖も、

「君のその正直な視線は、こっちの襟を正させる大変良い目だ」とか。

 とにかく嘉介老人は何かにつけて玄宗少年を褒めた。

 玄宗少年は嘉介老人から合気道、書道だけでなく、勉強も教えてもらった。

 嘉介老人はいつも、

「学ぶ楽しさ、知的探究心を満たす喜び、それは一生の宝です」そう言った。

 それまで勉強嫌いだった玄宗少年は、この頃から自ら予習復習をするようにもなった。


 そして玄宗少年が六年生の三学期、それは突然のことだった。

 母が、

「大阪に引っ越すことになった」と言った。

 母が勤める会社が、新たに大阪にも工場を作ることになり、そこで部署を一つ任せるからどうしても来て欲しい、ということだった。以前から社長は、真面目な働きぶりと仕事覚えの早さと手際の良さや人当たりの良さ、そして何よりその人柄に感心していたという。

 母は玄宗少年のことを考え、最初は断ったが、

「新工場稼動のためには、あなたの力がどうしても必要だ」という社長や上司の言葉に、ついに首を縦にふった。


 引っ越しが決まってからは、荷造りやこまごましたことの手伝い、また役所の手続きの送り迎えなどに、あねさんとサキちゃんが来てくれた。

 日生を出発する時も、二人が見送りに来た。

「玄ちゃん、最後に、ゴメン」

 サキちゃんは、ほとんど背の高さが変わらなくなった玄宗少年を、力いっぱい抱きしめた。

 この時初めて、玄宗少年も腕をサキちゃんの背中に回し、

「サキちゃん、いっつもいい匂いした。俺、サキちゃんの匂い、母さんの次に好きや」と、少し照れながらだが、嘉介じいさんを見習い、素直に思っていることを言った。

 サキちゃんは、

「昨日の夜、高見ノの姉さんと、ヤケ酒にええ洋酒を一緒にたくさん飲んだからかな。……ありがとう」そう言った直後、

「うわぁぁぁぁ、いややぁぁぁ~~~」周囲の目も気にせず、大声を上げて泣いた。

 サキちゃんはあの日以来の涙だったそうだ。

「大阪にも、あのぉ~、長野さんのキライな、ウチらのネットワークあるねん」

 あねさんの言葉に、玄宗さんの母さんは、

「知りません、遠慮します」と言った。

「そう言うと思た。でもね、うちの旦那の、血のつながってない親しい兄弟とかがおるから、なんかあったら……」

「自分で何とかします」

「そう言うと思た」

「電車がここの駅出発したら、あねさんの電話番号削除しますんで」

「えぇ~、私ほらっ、左腕に長野さんの電話番号彫ったのに~」

 そう言って、スタジャンの左袖をまくる。

「うそっ、いや、ホンマや、私の番号……、痛かったやろ、……お前らホンマにアホや」

 かあさんは少し涙目になり、愛しそうに腕の電話番号をそっと撫でた。

「あんまり擦らんとって……」

「あっ、ごめん、痛かった?」

「色落ちるやんか」

 母さんが目を見開き強めに擦ると、数字がぼやけた。

「マジックインキやんけ、これ。サキちゃん、今から若い衆に墨汁と針の束持って来させて! 今私がここで彫ったる!」

 笑い泣きしながら言って、あねさんとサキちゃんを抱きしめた。

「ホンマや。あんたらいい匂いする。私、あんたらの匂い、玄ちゃんの次に好きや」

 サキちゃんはまた、

「いやや~~~~~~」と、泣き叫んだ。

 あねさんは、母さんのみぞおちを軽く殴る真似をして横を向き、涙を隠そうとした。


 翌日、玄宗少年と初めて会った海岸や魚港を、あねさんとサキちゃんが散歩していると、堤防で釣りをしている、古市 嘉介さんがいた。

 玄宗少年を介して、三人は知り合いだったので、玄宗少年と母の思い出を少し話した。

 その時、嘉介さんにあねさんが話したことだが、あのマジックで書いた電話番号を仕込んでいたのは『忘れないように刺青いれた』という、反社嫌いの母さんに、自虐ネタを発動しようと思っていた、のだそうだ。

 だが、母さんが番号削除、とか言い出したので、あのような展開になったらしい。

 何だかんだで、あねさんと母さんは気が合っていたことの表れのようだった。


 そして、母さんの出身地、大阪で玄宗少年、いや、玄宗青年は中学に通うようになる。


 驚いたことに嘉介老人も数ヵ月後に近所に引っ越して来た。

 そして以前は習っていなかった居合や抜刀術に古武道系の逮捕術(十手、かぎ縄、棒術、その他)、等々を嘉介老人から習うようになった。

 玄宗青年はこの時嘉介老人の勧めで、その地域の警察で柔道と剣道を習い、中学の時に有段者になっている。


 とある日曜日、朝から嘉介老人の家に玄宗さんが行くと、奇妙な光景を見た。

 嘉介老人がぶつぶつ言いながら日本酒で、時折、塩も入れながら墨を磨っている。

 いつも温厚な嘉介老人が、あまりにも真剣で恐ろしい表情をしていたので、玄宗青年は声をかけずに、家の横に増築された床を板張りにした道場スペースで一人体をほぐしていた。

 ほどなく嘉介老人が現れて、

「ちょっと手伝ぉてくれんか」と言い、嘉介老人の指示通り手を塩水で洗い、日本酒で口をすすいだ。

 玄宗青年は何が始まるのか、少しワクワクしたという。

 それからすぐに、三歳くらいの女の子を連れた母が現れ、

「よろしくお願い致します」と言った。

 嘉介老人は女の子を、玄宗青年がこの家で初めて見る魔法陣のような模様の座布団に座らせ、さっき磨っていた硯と、水の入った木のたらいを持って来て、嘉介老人は右側に、玄宗さんが左側に、母は後ろにと、女の子を三方から取り囲む形に座る。

「用意は万端整いましたゆえ、失礼して務めさせていただきます」

 嘉介老人は深々と頭を下げる。

「お嬢ちゃん、お手を拝借」

 そう言って嘉介老人は両掌の中心に、墨で『虫』と書いた。

 次に『虫』を取り囲むように八方向に梵字を書き、

「おん ばさら やきしや うん」

 嘉介老人は手を添えて、両手をそっと握らせる。そして、

「南無春の鬼」

 そっと、そうつぶやき、女の子に手を広げさせた。

 すると突然!

 女の子の両手の指先と指の股から、ニョロニョロと、白い『虫』のようなものが出た。

「えぇーっ」

 玄宗青年とその子のお母さんは同時に声を上げた。

「おぉ、出た出た」嘉介老人は女の子に笑いかけながら言った。

 そして女の子にたらいできれいに手を洗わせて、

「お譲ちゃんよお我慢できたね。はい、ごほうび」

 そう言って、嘉介老人は大きな棒付きキャンディーを差し出した。

 そして嘉介老人は、細い紙に『月日虫戸鬼急急如律令』と同じ墨で書き、縦に七つに折って、

「いつもこの子が遊ぶ部屋の天井の隅に、虫のところが画鋲に刺さるように貼ってください。いつもこの子を見守ってくれます。これで大丈夫です」と言った。

 それで全ては終了し、母子は何度も礼を言って帰って行った。

 ただ、帰り際に女の子が言った言葉に玄宗青年は驚いた。


「キツネのお兄ちゃん、バイバイ」

 キツネ……。


 子供の頃周りからそう言われ、嘉介老人と初めて会った時もそう言われ……。

 自分で意識したことなど一度もない『キツネ憑き』。

 それを初対面の小さな子供に言われた。

 嘉介老人は、女の子には何も言ってはいなかったそうだ。

「見えたんかな、あの子に」

 そう言われても玄宗青年としては、自分のことながら、何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。

「どうしても知りたい、教えて欲しい」と、玄宗青年は嘉介老人に懇願した。

「そうか、何も知らんかったんか。そこまで強力なモノを背負ってるから、わしは知ってるもんやとばっかり思とった」

 そして嘉介老人は、

「そぉかそぉか、それはスマンかった」と言い、玄宗青年をさっきまで女の子が座っていた魔法陣の座布団に座らせた。

 二人が向かい合わせに座る。

 嘉介老人は手で何度か印を結んだ後、『天津祝詞』に続き『中臣の祓い』とかいう、普段は神社以外でまず耳にすることのない祝詞を唱えた。

 そして嘉介老人は、玄宗青年の手を取りじっと瞳を見つめる。

「そうか、そういうことか」

 そう言って嘉介老人はゆっくりと説明にはいる。

「幼い頃、命を落としそうになったことがあるな」

 これは、母さんから聞けば知ることができる。

 しかし……。

「昏睡中は家のお稲荷様が守ってて。そして、いよいよ危うい時には宇賀神様、でっかいヘビに乗ってこの世に引き戻され、その後はお稲荷様と宇賀神様のお力添えで驚異的に回復した、まぁ、そんなとこか」

 玄宗青年は蒼白になった。

 今まで誰にも、母さんにすらキツネとヘビの話しはしていない。

 それを嘉介老人は言い当てた。


 ちなみに、お稲荷様は本来インドのジャッカルに乗る神様、ダーキニー=荼枳尼天を稲荷明神と称し、キツネを使役神とする信仰対象、もしくは、キツネのことをお稲荷様と呼ぶこともある。

 そして宇賀神様は、老人の顔をした体は白いヘビの日本古来からの農耕神、だそうだ。

 これはおまけの話なのだが、宇賀神様とお稲荷様は筋(農耕神筋?)ではかなり近い関係という場合もある、のだそうだ。

 玄宗さんはよちよち歩きの頃から、自宅のお稲荷様の祠に毎朝、御神酒と団子を供えることが日課だったことと、お下がりの味のない団子をいつも食べていたことが、お稲荷様との関係の源となり、いざという時にお稲荷様と繋がりのあった宇賀神様に力を借り、そして今に至る、のではないか、ということだそうだ。


 おじいさんの代でお稲荷様を分祀して頂き、父親の代ではあまり熱心には祭られず、玄宗さんの代で命の危機を救ったことから、その家その一族を守るお稲荷様が、完全に玄宗さん一人のものとなった。

 それと、これは余談だが、父親の信仰心の薄さと普段の心がけの悪さには、さすがのお稲荷様も辟易としていたらしい。

 玄宗青年は自分がつれているキツネは何匹か聞くと、嘉介老人は『二匹』、それと色を聞くと、『真紅』と答えた。

 これにも玄宗さんは覚えがあった。

 いくつの時か、記憶は定かではないが、祠の裏から燃え上がるような真っ赤な毛色をした子ギツネが出て来て、お下がりの団子を一緒に分け合って食べたことがあった。

 そしていつも後ろから見守るように子ギツネと同じような真っ赤な母ギツネがいた。

 それは一度や二度ではない。

 玄宗青年の背中に冷たい汗が流れた。


 ここで玄宗さんのお師匠様にあたる、古市 嘉介さんの話になった。


***


 嘉介老人の生まれは東北地方だというが、場所までは定かでない。

 父と母は各地を転々とする拝み屋をしていた。

 母は生まれつき目に障害があり、子供の頃から一般的に言う『イタコ』の修行を納め『口寄せ』という名の心霊憑依を生業にしていた。

 そして父は、幼い頃、親に捨てられて泣いていたところを拝み屋にひろわれた、ということだそうだ。

 その二人がいつしか出会い、結ばれ子を生したというのが、嘉介老人の出生だという。

 嘉介老人が嘉介少年のころ、姉が二人いた。

 しかし、旅先で上の姉が風邪をこじらせ、たった五日で亡くなった。

 その一年後、下の姉が同じように亡くなり、子供は嘉介少年だけになる。

 その頃は混沌とした時代背景もあり、拝み屋稼業では生活が立たなくなる。

 仕方なく父は、自分を育ててくれた拝み屋を、姫路のあたりに尋ねてみた。

 だが行方は知れず、旅費で蓄えも使い果たしたため、姫路の郊外で農家の納屋を間借りして、自分が工場に働きに出ることで一家の生活を支えた。

 しかし、母は一年もしないうちに病で倒れ、闘病むなしく逝ってしまった。

 嘉介老人が母を思い浮かべるといつも同じ言葉がそこに出てくる。

「お父様は偉い人です。あなたはお父様を尊敬しなさい」

 母は毎日嘉介少年にそう言っていた。

 それから父と嘉介少年の二人の生活が始まり、嘉介少年は父から陰陽師としての様々な知識、秘術、秘法、それに武術まで教わった。

 そして嘉介青年は、中学卒業後働きながら夜間高校を卒業し、その後、兵庫県の山間部の役場に就職した。

 残念なことに、嘉介青年の父はその姿に安心したかのように逝ってしまった。

 親孝行の「こ」の字も両親に出来なかったことを、嘉介青年はずいぶん悔やんだという。


 嘉介さんは普段は役場で仕事をする傍ら、求められれば拝み屋もした。

 が、こちらの方は全て無償で行った。

 今も昔も、公僕たる公務員に副業が認められていないからだ。

 そしてそのことで、同僚からイヤミを言われたこともあった。

 しかし、拝み屋を辞めようとは一度も思わなかった。

 尊敬する父から受け継いだ大切な財産、それが拝み屋としての知識、だったからだ。

「これだけは誰が何と言おうと捨てる訳にはいかん。父母が死んでからの孝行は、これしかない」

 嘉介さんはそう固く心に誓っていたそうだ。


 嘉介さんは二度結婚を考えたことがあった。

 一度目は二十二歳の時、だが相手は病死してしまった。

 二度目は『すえ』という女性で、嘉介さんが二十五歳の時のことだった。

 嘉介さんが思っていることを、必ず先回りして用意する、『すえ』は大変勘のいい女性だった。

 だが、その『すえ』も、婚礼を目前に病死してしまう。

 火葬後『すえ』の家族に無理を言い分骨してもらい、その一部を和紙の中に漉き入れ、ずっと大事にお守り袋の中に入れて肌身離さず持ち歩いていたという。

 嘉介青年は病室で、

「いつでもあなたの力になります」と言われ『すえ』と一生添い遂げる決心をした。

 家族の縁の薄さを実感した嘉介さんは、その時、一生独身で通すことを決意する。


 それから、嘉介さんは驚異的に変わり始めた。

 このことを、

「『すえ』が助けてくれてた」と嘉介老人は言った。

 それまでは、どちらかと言うとニブイほうだった嘉介さんが、ものすごくスルドくなった。

 休日に朝目覚めると、今日は誰がどういう相談をしに自分の所に来るのかがわかるようになった。

 それから一年たたずして、何かが見え始めた。

 最初は目の錯覚だと思いながら暮らしたが、日常の生活の中でだんだんと映像は濃くなった。

 霊はそこかしこにいた。

 最初は見えるだけだったが、そのうち話しかけてくるようになる。

 これは堪らないと、嘉介さんは休日や長期休暇を利用して御嶽山に通い、様々な人から指導を受け、自分なりの制御方法をあみ出し、それから普段は、一定の儀式を経ないことには霊は見えないように、要するに『自分の力の制御が可能に』なった。

 そして定年まで役場を勤め上げ、地元での拝み屋のニーズも無くなっていたので、誰に言うともなく一人日生に移り住み、そこで玄宗少年と出合った。

 その時、ハッキリと見えたのだと言う。

 何の儀式・儀礼もなしに、霊験あらたかな真紅のキツネと宇賀神様が。

 そして玄宗少年に声をかけ、今に至ったのだ、と嘉介老人は玄宗さんに言った。


 その日から、玄宗青年は嘉介老人に、武術以外にも新たなことを教わり始める。

 霊符、神符を書く時の心構えから書き方、祝詞、経文、呪文の数々、結界の張り方解き方や、その他様々な儀式儀礼など、嘉介老人の知ることは全て玄宗さんに徹底して教え込まれた。

 中でも、最も重要なことは『平常心』と教えられたことと、結局一度たりとも怒る(いかる)ところを見たことがなかったのが、玄宗さんの頭の中に最も強く残っていることだという。


 また、玄宗邸は、もともと嘉介邸っだったのを、嘉介老人から譲り受けたそうだ。

 登記や名義変更等何もしておらず、

「満月の日に来たら表札だけが変わってて、鬼のねえちゃんに『これですべて完了です』と無表情にむっつりと言われた」のだそうだ。



***



「とまぁ、そんな感じ。渋滞の暇つぶしやと思て勘弁して。あんまし面白みのない話ばっかしでごめんな。俺のことやけど。……あっ、自分語りするヤツってモテへんっていう話やんな、内緒にしといてな、俺が自分語り長いこと」

 角成はうなずきながら聞く。

「それで嘉介さんは、今どこに?」

「俺が高校卒業間近に就職決まったら、すぐに亡くなった。嘉介のじーさんの父親と同じような亡くなり方や。そういゃぁ常々『運命からは逃れられん』言うとったなぁ……」

 こう言ってはなんだが、玄宗さんは見た目に軽薄そうで、地道な努力や苦労をした、など微塵ほども感じさせない外見だ。

 まぁ、本人も、

「自分は何んも苦労してない。苦労したのは母さん」と言っているが。

 角成は玄宗さんの『明るく軽薄そうな男前』という、見た目で判断していた。

 しかし玄宗さんは、見た目とは全く逆で、何事にも積極的・能動的に様々な事柄に関わり、すごく前向きに努力し、それなりに傷ついたりもして来たことは確かだ。

 だが角成は、必要な物は全て周囲から与えられ、少しでも不備があれば不平不満を漏らし、お膳立てしてもらっていながら、うまくいかなければ『最初から自分が望んでしたことじゃぁない』と逃げ、そして放り出す。

 角成は今までの、何事にも消極的でいい加減な生き方、お子ちゃまで甘ったれな自分を省みて恥ずかしくなった。


「さっ、やっと着いたでぇ。今から重労働や。体力残ってる?」

 近くの駐車場で角成は台車を広げて次々と缶ビールと日本酒を乗せ、けっこうな高さになったその上に角成が買った物を乗せる。

 玄宗さんは猫缶段ボールを担ぎ、ウイスキーを三つずつ、取っ手にロープをかけて前後に振り分けて担いでいる。

 薬局と駄菓子屋の間の路地は開いている。

 路地に入って、玄宗さんがなぜ『重労働』と言ったかがわかった。

 台車の車輪が土にめり込み、体重をかけて全力で押さないと前に進まない。

 台車を前後逆にし、角成が前から引っ張り、玄宗さんが背中で缶ビールの箱にもたれるように、ゆっくり台車を押した。

 そして、玄宗邸の巨大な木の門は新月と満月の日しか開かないので、横の狭い木戸からは、缶ビールの箱を縦にして運び込む。

 角成は生まれて初めて空腹での重労働の辛さを知った。

「おかえりなさ~い、お疲れ様~。……よかったぁ」

「おう、ただいま~。鬼のねえちゃん、何がよかったん?」

「今日も二人に会えた」

 鮮やかなブルーのシャツに皮のズボン、その上に腰から下だけのエプロンをくるりと巻いた般若さんは、玄関の内側で二人に遠慮がちな笑顔を向けた。

 鬼のお姉さんは当たり前に当然のごとく、今日もスタイリッシュにきれいだった。

「二人って、俺も含めて?」

 玄宗さんの問いに、

「うん」

般若さんは不思議そうな顔で、玄宗さんを見た。

「……うん、そうか、俺は嫌われては、ないんか」

 玄宗さんの独り言のような発言に、

「うん、玄ちゃんとかっくんは特別なひと。破魔子さんと源蔵さんと、それに嘉介さんも、私にとって特別なひと」般若さんは、静かな笑顔で言った。

「般若さんただいま」

 角成も笑顔だが、テレ笑いだった。


 寝不足で始まり、夕方に悪霊をナイスキャッチし、そして今、きれいな鬼のお姉さんが目の前で微笑む。

 こんな一日を、夢だった、もしくは、本当は昨日の熱が下がっておらず、高熱の中で見た幻覚、と言われてもすぐに納得ができるレベルの体験だった。

「めしめしめしめし、ごはんじゃぁーっ」

 玄宗さんがこわれた。

「それなら奥に用意できてまーす。かっくんも行きましょ」

 般若さんが『ニッ』と笑いかける。

「はい、いただきます」

 なぜか『きをつけ』の姿勢で角成は言った。

 玄宗さんと般若さんと角成。

 三人でにぎやかに酒類と猫缶を奥に運ぶ。 


 第二章 第三節 玄宗さん  終



第二章 遺―産ハント

第四節 鬼ころし

          に続きます。

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