第四章 過去からの奪還 第五節 過去からの奪還
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角成は走っていた。
一生懸命走っているのに、足が思うように動かない。
それもそのはず、四本足で走っていた。
慣れないことも関係しているのだろうか、特に左腕がうまく前後に動かない。
角成が動きの悪い腕を見たら、それは毛むくじゃらの前足だった。
角成は草むらや木の間を縫うように走る。
後ろから人間の怒声が聞こえる。
木立の草むらを走っていたら、ふいに足が地面を蹴る感覚がなくなる。
そこは低い崖だった。
落下した狼の角成が、わき腹を打つ。
息が苦しく全身がしびれる。
立ち上がらなければ、逃げなければ殺される。
角成は懸命に立った。
最後の瞬間まで生き抜くために立ち上がった。
動きの悪かった左前足は、もうほとんど力が入らない。
角成は最後の力を振り絞り歩く。
だが、村外れの六地蔵の、六番目のお地蔵様の前で、とうとう力尽きるように倒れてしまう。
もう動けない。
(お地蔵様、助けてくれとは言いません。どうか、僕の魂だけでも救って下さい。……あぁ、痛いのイヤやなぁ)
角成は薄れる意識の中、お地蔵様を見上げてそう思った。
怒声が近づき意識が遠のく。
角成の目の前に上から幕が下りて来る。
(生の幕切れって、こういうもんなんか……)
角成は漠然とそう思うと……、 すっ、と目の前が暗くなった。
「よし、ええか、お前はこの子の口押えててくれ」
「はい、お父さん」
「よし、腕の関節今入れるからな、がんばれ!」
「ギャン!」
角成は激痛で意識を取り戻した。
「よし、入ったぞ。こいつ最近左の前足傷めたみたいやな。かわいそうに、エライ腫れとる。せやけど、まだ子供やから、これで普通に歩けるようになるかも知れんな」
「よかったねぇ、元気になろねぇ」
「せやけど、おはまも厄介な仔連れてきたな。鶏泥棒やろ、この仔犬、じゃなくって、狼」
近頃この周辺の農家の鶏が、軒並みやられていた。
その犯人を突き止めるべく村の人たちが山に入った。
そこに偶然、子供の狼がいた。
だが村人は偶然とは思わない。
仔狼を本日の犯人に仕立てよう、皆の溜飲を下げるための『いけにえ』になってもらう、そういう理由で仔狼は追われた。
ここは丹波地方のとある山村。
大神様を助けたのは『はま』という少女だった。
たまたま用事で村はずれのお地蔵様のところを通りかかった時に、大神様が山道から落ちてくるのを見つけ、お地蔵様にしゃがんで手を合わせながら、自分の裾の中に気を失った大神様をかくまって追手の眼を欺き、その後家までは背負い駕籠に入れて連れて帰り、そして手当てを父と共にしてくれた。
はまの父は農業とともに、罠を使う猟もしていた。
彼らは動物の解体も行うため、関節の構造もよく知っていた。
そのためこの地方の猟師たちの一部は、古くから捻挫・打ち身・骨折など、ケガの治療も詳しかった。
なので、大神様の前脚の亜脱臼も、適切な治療を行ってくれた。
数日後、ほとんど動かなかった大神様の左前足が、徐々にだが動くようになっていった。
そもそも、皆で山中を駆けている時に、数日前に傷めた脚が不自由なため、大神様は兄弟たちから遅れた。
その親兄弟たちを追いかける最中に、村人たちと鉢合わせし、そして追われ、はまに救われた。
はまの家には、大柄な茶トラのメス猫がいた。
そのメス猫が、大神様の面倒を自らみてくれたので、ケガの回復も思いのほか早かった、
そうして、はまの家の番犬……、というか、番狼に大神様はなった。
はまは、大神様を本当に大事にしてくれた。
父親も猟によく連れて行ってくれた。
大神様はそこで充実した毎日を送っていた。
ある日村人が、はまに、
「お前んとこのあの犬は、狼やろ? 狼はわしらの鶏食うから、早いとこ始末してくれ」そう言った。
だが気丈なはまは、
「何言うの、鶏守っても盗る事なんかない、だから二度とそんなこと言わんといて」そう言って、一歩も引かず仔狼を守る。
大神様は、はまという人間に恩義を感じ、一生をかけて尽くすことを自らに誓った。
大神様が、仔狼でなく狼になった頃、又しても鶏泥棒が出た。
なにぶん昔のことなので、鶏小屋と言っても金網がない時代である。
隙間だらけの格子か、四方の板塀に簡素な屋根がその頃の鶏小屋の相場である。
なので犯人は隙間から出入りできる動物、イタチ・キツネ・野犬、そして、器用に扉を開けることができる、人間、のいずれかであった。
しかし今回は、イタチの仕業であることが誰の目にも、……というか、誰の鼻にも明らかだった。
イタチは鶏を襲った後か最中かに、粗相をしていったのであった
はまは大神様に、
「追っ払える?」 そう聞いた。
大神様は、
[やってみる!] と答えた。
夜が来た。
大神様が、はまの家の土間からそっと出て行く。
イタチの臭いを風下から追って行く。
巣を見つけた大神様は身を隠す。
ほんの数分で母イタチが仔イタチを連れて帰ってきた。
大神様が一番小さな仔イタチに飛び掛る。
大神様が母イタチの眼を見つめながら、ガッチリと仔イタチの首に牙を当てた。
母イタチが飛びかかろうと身構える。
その刹那、大神様は仔イタチを放した。
[金輪際来てはいけない。あそこは人間の暮す場所。今までのことは目をつぶるから。でも今後は、あの村の中でお前の眷属を見かけたら、即座に……]
母イタチは仔イタチを促すようにして、巣を捨てて森の奥へと消えて行った。
それからその村では、キツネ・ニホンザル・イノシシ、それにツキノワグマまでも、大神様が村人たちの目の前で追い払い、それらの動物からの農作物の被害を一掃した。
こうして大神様は一転して『生き神様』『村の守り神』と、そう呼ばれ始める。
ある日大神様が、はまの父親と猟に出かけた時のこと、いつもは紐製の罠を使うのだが、新しく誂えた金属の罠、俗に言うトラバサミを仕掛けてあるところに、大神様が一足も二足も先に行った時、母鹿が足を挟まれていた。
小鹿は母の前に立ちふさがり、勇敢に大神様を睨みつける。
そこにはまの父親が現れ、
「おぉ、子育て中やなかったらええ獲物、大物やったのに、しゃあない、今日はついてないと思うか、なっ」
そう言って残念そうに微笑んで、大神様の頭を撫でた。
はまの父親がそっとトラバサミを開き、鹿の傷ついた脚に薬をすり込む。
大神様ははまの父親を守るように、じっと仔鹿と睨み合っている。
そしてはまの父親が、優しく母鹿を離す。
大神様は、じっと親子が遠ざかる姿を見送った。
その時、突然トラバサミがはまの父親の手から落ち、大神様の右後脚に挟まる。
令和七年 三月十八日(火曜日)
「痛たたたたたたた」
角成が突然ガバッと起き上がる。
そして夜間の薄暗い照明の病室で、綺麗な看護婦さんと目が合った。
「あっ、ども」
「気がついた? 真夜中の消毒終わったら先生呼んで来るからね」
そしてベッドの横の椅子で座ったまま眠っていた、角成の母が目を覚ました。
「角成、お母さんわかる?」
「うん」
「そう、良かった。……角成が起きた……」
母は静かに涙を流した。
病室の外で数人の足音がぱたぱたと聞こえにわかに騒がしくなる。
最初に医師が入って来た。
医師は角成の足の裏を強くこすったり、指先やペンライトの光を眼で追わせたりした。
「河内クン、吐き気する?」
「いいえ」
「頭痛い?」
「いいえ」
「じゃぁどっか痛いとこある?」
「さっき看護師さんが触ってた右足、足首が痛いです」
「ああ、これはケガだから、消毒が沁みたんだよね。でも河内くんはラッキーだね。あの泥水の中でその傷だと、何らかの感染症で傷の治りとか遅れてもおかしくないのに、点滴の抗生剤が効いたのか傷口きれいに塞がりそうだもんね」
角成はこのケガの記憶が全くなかった。
「あのぉ、……この足、ワナとかそんなのに挟まれた、……とかじゃないです……よね?」
角成は、首を傾げて、かわいらしく聞いてみた。
その問いに医師が、
「犬がね、何頭かの犬が、キミの足首や服を噛んでね、流されないようにしてくれたんだって」
それを聞いた角成は、病院の薄暗い夜間照明の中で、
とびっきりの笑顔で微笑んだ。
医師が、
「大丈夫そうだね。じゃぁ、ゆっくり寝て、何かあればいつでも呼んでください」と言って退出した.。
角成の母が、角成の右手をぽんぽんと叩き、
「その手、開いてみて」
そう言った。
角成は母が何を言っているのかわからなかったが、自分の右手が硬く握ったままであることに気付く。
自力で開こうとしたが指が伸びない。
「お母さん、僕どれくらい寝てた?」
「えぇっとぉ、三十五時間、ってとこかな?」
「え~、そんなに? 手ぇがこわばってるはずや」
角成がそう言いながら、左手を添えて小指から一本ずつ開いていく。
最初見えたのはハサミで無造作に切られた水色っぽい布切れだった。
中指が伸びた時には誰でも知っている青い猫型ロボットのキャラクターがプリントされた生地だとわかった。
「離さんかったんや、……僕は。 黒い猫、じゃなかった、青い猫を」
「そうよ、救急車で男の子と別々に搬送するためにハサミで切らんといかんくらい強く握ってて、今の今までそれ離さんかったんよ」
そして角成が重要なことを思い出す。
「お母さん、お母さん! 男の子っ、男の子は! この服を着てた男の子はどこ?」
あまりの大声に、
「静かに、落ち着いて、角成!」母の声も大きくなってしまった。
「お母さん、男の子は?」
「大丈夫、元気よ。助かったんよ。角成が抱きとめた直後濁流に飲まれて流されていきそうになったんを、あのあたりの大型犬数匹があんたの足とかズボンとか噛んで引っ張って流されないようにしてくれたの。でも、若奈ちゃんが水のないところまで運んだ時にはその男の子も角成も呼吸停止やったんやて。それを若奈ちゃんが先に男の子を蘇生させて、そのあと救急車がくるまでずっと角成の心臓マッサージと人工呼吸、大ケガした手でしてくれたらしいよ」
母が泣きながら言った。
「そっか、若菜姉ちゃんが。それと、……おきくさん、よかった。今度は助かった。本当に良かった。」
角成は心底安堵した。
(何故だろう。 何故うれし涙はこんなに熱いのだろう。また一つ、新たな発見だ)
ほっとした角成は、またすぐに眠りに落ちた。
そして角成の母、果子が笑顔で眠る角成の涙をそっとぬぐい、同じハンカチで自分の涙をぬぐった。
角成が次に目覚めた時、尿道カテーテルと点滴が外され、晴れて自由の身になる。
そのあとは、早朝から四人部屋がいっぱいになるくらい人がいた。
……だがその半数以上は玄宗さん目当ての看護婦さん、だったのは言うまでもない。
角成のお父さんお母さんを初め、高鷲さんもいる、由美さんも、海香さんも、道明寺さんも来てくれていた。
その後ろにいるのは、……恵我ノ?
角成が身構える。
「かっくん緊迫せんでええって、恵我ノさんはもう組抜けた」
玄宗さんのこの言葉で、角成以外の人が緊迫した。
「長野さんのおかげでなんとか無事、抜けることができました。河内さんにも、この度はご迷惑おかけしました」
恵我ノが深々と頭を下げた。
「いえ、あのぉ、僕、……そのぉ、………すいませんでしたっ!」
角成がメリケンサック型スタンガンの件を、深々と頭を下げて謝る。
「いえいえ、河内さん、お気になさらず。……って言っても何を謝っておられるのかよくわからのですが」
本当に知っているのか知らないのかは不明だが、恵我ノはそう言って笑った。
角成が皆の顔を見回して、大切な人がいないことに気付く。
「若菜姉ちゃんと般若姉ちゃん! 玄宗さん、二人はどこに?」
「もうな、かっくんええ加減に俺をその名前で呼ぶのやめてくれ、堅苦しい」
「じゃあ、長野っ! 教えろ」
「うぉぃ! 苗字はやめろぉ」
玄宗さんは笑いながら言った。
「じゃ、玄、早く言え!」
「はい、彼女たちは整形外科病棟です」
「お母さん、ごめん、手貸してもらえる?」
「行くんなら車椅子借りてこよか? 足痛いやろ?」
「大丈夫、歩いて行く。でないと、若菜姉ちゃん心配するから」
「お母さん、俺が肩貸しますから、大丈夫っす」
玄宗さんがベッドの横に来る。
角成がそっと両脚を持ち上げる。
皮膚の傷以外は思ったより痛くない。
揃えて置いてくれたスリッパを履いてみる。
そして角成はゆっくりと立ち上がる。
歩くのには全く支障がないようで、見ていた人達が一様に安堵する。
「大丈夫です、玄宗さん、……えっとぉ、玄さま。フツーに歩けます」
「おっしゃ、んじゃ、行こか?」
角成と玄宗さんが一階下にある整形外科病棟に向かって、ゆっくり歩いていく。
スライドドアが開いていたので、角成はそのまま入って行く。
「若菜姉ちゃん、遅くなってごめん」
「カクナリ、……あんた大丈夫? ……って言うか、遅っっそい! すぐに私のところに戻るって言うてから二日も経ってるやんか」
そう言って角成を気遣う若菜だが、右手はギプスに覆われ、左の肘も伸ばしたまま固定具に包帯でぐるぐる巻きにされている。
「若菜姉ちゃん、僕を車の窓から助けてくれた時にその右手……」
「か弱い乙女が車の窓ガラスこぶしで叩き割って、その手でか弱い男の子引きずり出したんやよ。この程度で済んで御の字やわ」
「若菜姉ちゃん、ごめん」
「それを言うなら、ありがとうやろ? それよりこっちがありがとうやわ。小さな命救うお手伝いさせてもらえて」
「若菜ちゃん、ヨーグルトちょうだいな、私最近便秘ぎ……」
そこに朝食のトレイを持った般若さんが現れた。
般若さんはトレイをベッドテーブルにそっと置き、黙って角成を強く抱きしめる。
「こんなに嬉しい苦しさがあったんだ。般若さんの心配や愛情を僕窒息しても受け止める」
「ここは病院や、般若っち存分に抱き締めたれ。アバラの骨折までは大丈夫や」
そして角成を離した般若さんは、
「ほんっとにお疲れ様でした。私のお願いのせいで……、ホントに、よくぞ戻って……」そう言って、ぽろぽろ涙を流しながら頭を深く下げた。
「よかったな、かっくんこうやって元気で」
玄宗さんも目が赤い。
「カクナリっ! こっちは?」
若奈がそう言ってギプスから出ている人差し指で『おいでおいで』をした。
角成がベッドに腰掛け、若奈を抱きしめた。
「かっくん若菜ちゃんな、右手の小指と薬指の手のひらのところの骨、その二本折れてたんやて」
「そうそう、ちゅうちゅ、……ちゅうつ、しゅうちゅ」
「中手骨、般若さんほんまに噛むね」
「その手で、救急車来るまでかっくんの心臓マッサージしてくれたんやって、若菜ちゃんは」
角成はもう一度強く若奈を抱きしめた。
「お母さんからさっき聞いてたけど、痛かったよね、若菜姉ちゃん手痛かったよね」
「あんた昔から変なとこ頑固やからなかなか息吹き返せへんかって、……まぁ、とりあえず私必死やったからもう痛かったとかどうとか覚えてないわ」
「若菜姉ちゃんありがとう」
若奈は照れ隠しにギプスで角成の背中をゴリゴリした。
「私な、一つだけ角成来たら謝らんなアカンなぁ、と思とってん」
抱きしめられたまま、若菜がそっと言った。
「若菜姉ちゃん、なに?」
「非常事態とは言え、……角成にキッスしちゃった」
「よかった、初めてが、若菜姉ちゃんのマウスで」
角成が少しおどけた。
「リップじゃなくって、マウス? まぁそういうことやけど。泥水だらけのマウスで申し訳なかったかなって」
若菜も笑っている。
「そろそろ離してくれんと、嫉妬に狂った私のフィアンセが,後ろからカクナリのこと刺すかもよ?」
角成が振り向くと玄宗さんが、『俺?』と自分を指差し、
「まだ火炎放射付の指輪は発注してないと思うけど……」 そう言って頭をかいた。
角成が自分の病室に帰り、皆に礼を言って一旦帰ってもらった。
そして母と二人で朝食をとっていると、廊下が騒がしい。
「帰れ、お前は。いいから帰れ」
角成の父が叫ぶ。
「いいえ、帰りません。気がついたんでしょ? 意識が戻ったんでしょ? 絶対に帰りません!」
「まあまあまあ、ここは病院です、双方落ち着きませんか?」
恵我ノの言葉で静まった。
数日前まで現役暴力団員だった男は、言葉の説得力より、威圧的な迫力で他人を黙らせる。
玄宗さんが、
「かっくん、お礼言いたいっていう人がここに来てるんやけど、入ってもらってええかな?」と言った。
「はぁ、ご飯も食べましたんで……」
角成は、なぜお父さんが追い返そうとしているのか気になったが、承諾する。
「どうぞ、どうぞこちらに」
玄宗さんに促され、姿勢を低くした男が入って来た。
角成はその男性の顔をじっと見た。
「 ……北田辺、 くん?」
角成ができれば一生見たくなかった顔だった。
角成が小学四年生の頃の話である。
いじめていた者の中で、最も陰湿且つ執拗だったのが、今、角成の目の前で背中を丸めて立っている、北田辺 界斗・修斗兄弟の兄、界斗だった。
角成の父、守がいじめに対する抗議を行ったのも、北田辺家に対して、だった。
角成の脳裏に嫌な記憶が蘇る。
通学路を一人で歩いていると、突然後ろから首を絞められそのままドブに落とされる。
学校の廊下ですれ違っただけで太ももを蹴られる。
油性マジックで顔に落書きされたこともあった。
だが、角成が最も思い出したくなかったのはそれら、それぞれの出来事ではない。
北田辺兄弟、特に二つ年上の兄の界斗が、今目の前にいる北田辺 界斗が、いつも笑いながらそういうことをした、という事だった。
父の守が恐ろしい形相で病室に入ろうとする。
涙目で鼻息の荒い守を、恵我ノが無言で抑えてくれている。
角成が辛そうな顔をしてベッドから降りた。
「お久しぶりです、北田辺くん」
「すいません、俺、あのぉ、……今回助けてもろたのはぁ、俺の子供でしてぇ、そのぉ、何て言っていいかぁ……」
守が何か言おうとした、その時……。
ガバッと北田辺は土下座し、頭を床に擦り付けた。
「子供の頃のこととは言え、すんませんでした。河内さんには、本当に何と言っていいかわからないくらい、本当に、すいませんでした」
病室が静まり返る。
「それと、今回俺の……、私の息子を救ってくれて、命救ってくれて、本当にありがとうございました」
言い終わってもしばらく北田辺は頭を上げなかった。
角成は髪を逆立て皮膚を粟立たせて立ち、そして中空を呆然と見つめている。
耳が痛いほどの静寂だった。
「かっくん、北田辺君な、年上の女性と結婚したんやて」
玄宗さんが穏やかな口調で続ける。
「その女性な、別れた旦那さんからのDVで悩んでたらしいねん。そのことで相談のってたんが、北田辺君やねんて。それである日、旦那さんが、……元旦那さんが酔っ払ってその女性のところに来て、元妻子に暴力ふるうのを北田辺君が無抵抗で、その女性と子供の身代わりになって殴られて、それからは、そのクソ旦那からその女性と子供、かっくんが助けた男の子やな、その人達を守るために、北田辺君はまだまだ若いのに、理不尽な暴力から二人を守る覚悟で、一緒に暮らしてるんやて」
「昔のことが無かったらそういう話聞いて『血の繋がりがない連れ子やのに、この態度は立派だね』と思うけど、……何を今更、虫のいい!」
角成の父が言う。
トーンダウンしてはいるが、まだ怒りが冷めていない。
「かっくん、人は変わる。いいや、変わる『こともできる』動物や。北田辺君もあれから色々あって変わったんやて」
「なぜあなたは、長野さんはこいつの肩持つんですか? こいつら兄弟がどれだけ皆に、特にうちの角成に迷惑かけたか」
「お父さん、ちょっと待って。玄宗さん、何か知ってるんですか?」
「ああ。弟の修斗君な、去年亡くなったんや」
角成も父の守も何も言えなかった。
「それから兄である界斗君は変わったんや。俺は許してやれとは言わん。恨み憎み続けたかったらそれでもええ、俺はそういう生き方を否定せんよ。……実際、俺がそうやから」
「許す、……かぁ」
角成は一生懸命考える。
「そうだ、こうしましょう」
角成が『ポン』と手を打った。
「北田辺君の子供、あの子が小学校に入ったら、毎年たくさんの思い出を作ってあげて下さい」
「はい、でもぉ……」
「すいません、まだ話しは終わってないんですけど」
角成は大き目の声で言った。
「あっ、すいません」
北田辺はもう一回り小さくなった。
「それであの子が四年生になったら、二人で夏休みの工作の宿題を必死で、それこそ二十日以上かけて、頑張って頑張って、頑張り抜いて作って下さい」
「あのぉ、・それって、まさか?」
そう言った北田辺の顔が、苦痛に耐えるように歪む。
「そう、僕がその作品を、登校日の朝、こなごなに叩き壊します」
北田辺がそれを聞いてがっくり肩を落とした。
「角成……、お前まさか、……あの時、四年の時の宿題、 ……落として自分で踏んだって言ってた、あれ……」
「父さん、そう。あれもこの人達のやったこと。夏休みの宿題なんかどうでもいい人たちだから、一生懸命作ったのを今度は僕が壊してあげる。北田辺君、まだまだ先のことだけど、その時が来たらそれこそ命懸けで作ってね」
北田辺はぐうの音も出なかった。
「北田辺君、人の親ならこの無念さわかりますよね? 僕の父さんのその時の気持ち、今なら、僕がわざわざあの子の気持ちを踏みにじらなくても、じゅうぶんわかってくれますよね?」
北田辺は激痛に耐えているような顔で、黙って静かにうなずく。
「これはたとえですから、本当に壊したりしない、というか、そんな度胸ないですから、北田辺君は心配しないで下さい。ただ、一つだけ約束して下さい」
北田辺は苦しそうに顔を角成に向けた。
「あの子の行く末を実り多いものにしてあげて下さい。何と言っても、あの子の命を僕と若菜姉ちゃんが救ったんですから、あの子の命は僕たちにも責任があるわけで……、何も有名人を育てろって訳じゃないです。いいお子さんからいい大人『いいひと』に育ててあげてください。応援してます」
北田辺は病室を出て行く間小さな声で、
「ありがとうございます」
を何度も言いながら皆に頭を下げ、廊下の端で別れ際に角成の父、守に、
「お願いです、気が済むまで殴って下さい。俺、ホンマにつまらん人間で……」そう言った。
守は、
「息子がおいしいとこ全部持ってったのに、親がそんなことしてられませんって」 そう言って力なく微笑み、深く頭を下げ、
「今日は来てくれてありがとう。今日、本当の意味で私の肩の荷が降りた」そう言った。
その頃玄宗さんは、誰にも何も言わず姿を消した。
一人で車を走らせ、目的地近くの神社で車を停めて悩んでいると、再度電話で連絡が来た。
そして、隣県のとある施設の駐車場に入り、受付に声もかけず階段を駆け上がる。
ノックもせず部屋に入ると、そこには介護用ベッドの上に、顔に白い布をかけられた人が横たわる。
ベッドのネームプレートには『滝谷 富堂』と書かれている。
ベッドの横の折りたたみイスには『滝谷様』とマジックで書かれた、大きな紙袋が二つ。
一つの紙袋の上から、名前がマジックで書かれたライトブルーの洗面器がはみ出している。
「その紙袋の中に、滝谷さんの持ち物が全て入っています」
役所から来た、ケースワーカーさんがそう言った。
玄宗さんは故人の顔も見ず、紙袋だけ持って、急ぎ足で屋外へ出る。
玄宗さんが『人生で最も訪れてくれるのを望んだ日』は、こうして突然やって来た。
だが、ちっとも嬉しくはなかった。
玄宗さんが十代の頃は、父に会った時には絶対に何か言おうと思っていた。
話が通じなければ殴ってやろう、とも思っていた。
しかし、この年の初めころ、居場所が判明した時には、かなり認知症が進んでいた。
新しい家族からは、遠っくの昔に、お金が無くなると同時に捨てられて、それからは一人で生きていたらしい。
一度だけ玄宗さんは、この施設にこっそり来たことがあった。
だが父はもう言葉を話すこともなく、ほとんど眠っていた。
その時の施設の職員さんの話では、尊大で傲慢な態度で、入居者の友人も、親しく話す職員さんもおらず、毎日黙ったままの生活だったそうだ。
その時、施設で一緒に対応してくれたケースワーカーさんは、
「息子さんなら、何かできることがあるかもしれません。我々にできることがあればお手伝いしますんで、言ってください。何か、してあげたいことはありませんか?」と言った。
その言葉に対して玄宗さんは、
「……やめてください……」そう一言だけ言って、その場を立ち去ってしまった。
それは、ほんの数ヶ月前のことだった。
玄宗さんは施設への支払いや退所手続きなどを、バタバタと済ませる。
次の日の火葬場執行予約時間は、死後二十四時間経過直後の午前十時。
それまで、火葬場の霊安室に空きがあったので、借りる手配をした。
この施設には独自の取り決めがあり、死後十二時間以内に故人を移送しない、またはできない場合は、施設と契約の葬儀社に、費用は遺族負担で依頼することになっている。
施設から火葬場までの故人の移動は、葬儀社で働いた経験がある玄宗さんが、そう遠くない知合いの寝台車の会社への手配を、棺の発注とともに済ませる。
寝台車が来る前に、役所へ死亡届の提出と、火葬の手続きと火葬料金の支払い等を済ませる。
寝台車は先に棺を火葬場に預け、依頼から二時間ほどで施設に到着した。
玄宗さんが役所届けから戻ったのと、ほぼ同時だった。
火葬場に到着すると、ご遺体は火葬場の霊安室前にストレッチャーで運ばれる。
霊安室と言っても、ご遺体用冷蔵庫があるだけで、ドラマで見るようなお別れ用の部屋などない。
冷蔵庫前で、寝台車の運転手さんと玄宗さんが、脚立のような棺台前後二基の上に置かれた棺に父を納棺し、棺内飾り等一切せず、棺に蓋をして、玄宗さんが持参した懐刀を、棺の上に置き、あとは火葬場の職員さんが、ご遺体冷蔵庫内へ安置するのを手伝った。
冷蔵庫の蓋が締まり、
「明日の火葬開始時刻三十分前には、お別れをする人は来てください」そう職員さんから告げられる。
葬儀社も宗教者も来ず、告別式もお別れのセレモニーも、一切何も行わない。
花一輪すら無い。
玄宗さんは買い忘れたのではない。
知っていて用意しなかった。
玄宗さんは、たたずむ、とか、名残惜しそうになど一切なく、職員さんに一礼し、すぐに駐車場へ向かった。
旧知の寝台車の運転手さんに、その場で寝台料金と立て替えてもらった棺の代金を支払い、お礼を丁寧に言った。
「なんかあるなら、話くらい聞くよ」
察しの良い寝台の運転手さんはそう言ったが、会社から次の搬送以来の電話が入ったので、すぐに帰って行った。
玄宗さんは寝台車を見送ったあと、電話をかける。
「母さん、俺、玄宗。……うん、元気。近々女の子一人連れて行く、うん、母さんち部屋開いてた? ……ちゃうよ、彼女ちゃうって。とりあえずしばらく面倒見たってよ。色々訳ありで困ってる子やねん。ちなみに、カタギの女子高生ね。……うん、ありがとう。……あのなそれと、クソオヤジが死んだ。それだけ」
玄宗さんは母さんの返事を待たずに電話を切った。
あとは次の日に火葬が行われれば、後日必要書類をそろえ、役場での手続きを済ませれば何もかもが終わる。
父との関係は、……それで終わり。
父親として、男として、大人として、どれも及第点にすら程遠い、身勝手な人生を送り、社会に迷惑をかけることが、生きる証だったような人。
仏教的に考えれば『死んだ者は皆仏』である、という。
だが皮肉にも『死ななければ、仏になれない人』という者もたまにいる。
現実とはそういうもの、綺麗ばかりがこの世ではない。
玄宗さんは帰りの道中、音楽もラジオも鳴らさず、エンジン音とロードノイズのみで移動した。
部屋に帰ると、無音を保ち、集中し気合を込めながら、半紙でこよりを作った。
満足のいくこよりができるまで、何度でも作る。
こよりができると、場所を洗面所に移しそのこよりを使い、長い髪を頭のてっぺんの少し後ろで縛る。
縛った髪をローションで軽く固める。
縛ったところをもとどりにして、そこから固めた髪を折り返して総髪のちょんまげを結い、余分な髪を自らカットして整える。
そして意識的に全ての異能者的能力を自ら封印する。
そうでないと、死して尚玄宗さんの周りをうろつく、父親の魂と関わってしまうからだ。
だが、別にちょんまげを結ったからと言って、能力が封印できる訳ではない。
日常以外に身も心も置くために、普段絶対にしないことを選ぶ必要があった。
それが玄宗さんの場合は、たまたま思いついた『ちょんまげを結うこと』だった。
それほどまでしても、死んでからでも父親とは関わりたくない、絶対に関わらない、ということだった。
これが玄宗さんができる父親への最後の抵抗であり、父親からの呪縛を解く方法なのかもしれなかった。
そこにある二つの魂は何一つお互いの心で言葉を交わすこともなく、寒々とした時間が流れるだけだった。
玄宗さんは、取り憑かれることを恐れて、その日は眠らなかった。
令和七年 三月十九日(水曜日)
最後のお別れのために棺は、火葬炉前に、斎場専用台車で運ばれる。
無言で伏せ目がちにした玄宗さんが棺に付き従う。
棺と最後のお別れをする時に、玄宗さんは見覚えのある靴を見つけ視線を上げる。
「かっくん……」
「お手伝いすること、何かありますか?」
玄宗さんは嬉しそうだが寂しそうに微笑み、
「そんじゃ悪いけど……」
そう言って玄宗さんは折りたたみ式のナイフを角成に渡した。
「これで、まげ切ってくれる?」
角成は言われた通り髪のU の字のところを慎重に切っていく。
ローションで固めた髪は、ギシギシ音を鳴らしながら玄宗さんの元から少しずつ離れるように切れていく。
もととりも切ってもらい、髪束を予備に持っていたこよりで束ね直す。
「かっくん来てくれへんかったら、これ自分でやるつもりやった。助かったぁ……」
玄宗さんは守り刀を回収して棺の蓋をずらし、そこから手を入れ、父の手に髪のたばを握らせた。
「これでええやろ、これで。……俺の髪の毛握ってたら、迷うことなくあの世に行ける。このおっさんこっちにとどまったら、間違いなく悪霊やからな。 ……うん、これでええ」
玄宗さんが、自分に念を押すように言った。
収骨までの待ち時間、角成と玄宗さんは待合室にいた。
「どうやってここ突き止めたん?」
「僕の大神様って、ハンターの系譜なんで」
「そうか、そうやったな」
「本当は大神様関係なくって、般若さんが、玄宗さんの携帯の最終発信記録調べてもらったら、このあたりの基地局に一回だけ発信記録があったんで、……あとは、僕の勘をたよりに」
「ええ勘やな。ハンターの勘や」
「すいません、それも嘘です……。このあたり、ここしか建物ないから……。車で通りかかって、このあたりで電話かけただけ、じゃないことを必死にバスの中で祈りながら来ました」
「いやいや助かった。昨日一日黙ってたから、口の中が毒虫だらけに……」
玄宗さんが『あーん』する。
怖々角成が覗き込む。
「湧くっかぁ! そこまでの技術というかテク、というより、体質にはまだなってない!」
「本当に湧くのかちょっとワクワクしましたけど、湧きませんかぁ、残念」
「湧いたら一番先に言うから安心して」
「はい、心配しておきます」
角成は嬉しかった。
こういう会話ができること、……こうして生きていることに感謝せずにはいられなかった。
玄宗さんも概ね同じ感覚だったのだが、角成とは少し違うようだった。
実父が亡くなり荼毘にふしているのだから、それは仕方のないことかもしれない。
玄宗さんは、
「アイツのようになりたくない」
「アイツならこう言うだろうから、そのようには絶対にしない」
「アイツなら、アイツなら、……アイツなら」
そういう意味で、未だに父から逃れられずにいる。
『もう会うことがない』と、自分も母も、これで直接嫌な思いはしなくなるが、精神的な呪縛はまだまだ無くなりそうにない。
なぜなら、それは玄宗さんが自分自身に、父から完全に逃れるため、関係を絶つために、自らにかけた『呪い』のようなものだからである。
だがこれではいつまで経っても、父から逃れられない。
玄宗さんはこれから先のことを考えると、このパラドックスに少しだけ憂鬱になった。
それに、怒りを糧に生きるのは楽だった。
そこに、自分の責任、は存在しない。
自分の考えの最終責任は、全て父に押し付ける、ただそれだけで良かった。
だがこれからはそうはいかない。
「存在意義のない人間はいない、かぁ……、ほんまにその通りかもな……」
誰に言うともなく玄宗さんが言った言葉に、角成は横で、ただ黙ってうなずいた。
第二頸椎、俗にいうのどぼとけ様が入った小さな骨壷一つを、軽バンの後部座席にシートベルトで固定し、角成と玄宗さんは帰路に着く。
高速道路から一般道に降りた時にまた雨が降り出した。
「そう言うたらかっくん退院したん?」
「いいえ」
「いいえって、大丈夫なんか?」
「う~んとぉ、たぶん?」
「って、こんな路上で言うてもしゃあないな、急いで病院に戻ろか」
少し車を走らせて玄宗さんがぽつりと言う。
「かっくんごめん。ちょっと寄り道や」
「どこか行くところでもできたんですか?」
「それが、……高速乗ってる時に見覚えのある車があおり運転してくるなぁと思とったら、案の定運転席に……」
「ええっ?」
角成がリヤウインドを通して後続車を見て、
「あ痛たたた。スキンヘッドさん鬼のような形相ですねぇ」
そう言った。
「う~んとぉ、逃げ切りますか?」
「かっくんそれはムリっぽいな。その後ろに、黒塗りの高級外車が二台おるわ」
「それじゃあ、謝りますか?」
「許してくれるかな?」
「それもムリっぽいですね」
「そうやな」
二人は緊迫感ゼロで笑った。
玄宗さんが、
「まぁ一応は謝ってみるかぁ」 そう言って脇道に入る。
少し走ると店休日のパチンコ店の広い駐車場があったので、そこに玄宗さんは車を入れる。
そしてエスティマが後から入ってきた。
玄宗さんが、
「んじゃ、ちょっくら行ってくるから、かっくんはここで待ってて」
そう言ってドアを開けようとした時、
「傘いりますか? 雨降ってますよ」
角成がそう言った。
「そうやな、その方がオモロいことできるし」
玄宗さんはいつも不思議なことを言い、角成が予想したよりスゴイことをしたり、または思いっきり脱力するようなことをしたりもする。
角成は無責任に期待し、
「枡とか回すんですか?」そう言ってみた。
「それをやると寝正月できんようになるからまだ体得してない」
玄宗さんは軽やかに爽やかに笑った。
玄宗さんが透明のビニール傘をさしながら車を降りる。
エスティマのスライドドアが先に開き、轟マンションの一階にいた男二人が木刀を持って降りてきた。
一呼吸置いて助手席から二階で寝ていた男と、運転席からスキンヘッドの今川が降りる。
今川以外の三人は木刀を持っている。
四人を前にして玄宗さんが、
「よっ、皆さん久しぶり!」
と、かなり陽気に声をかける。
「 …… 」
ヤクザな四人は誰も何も答えず、玄宗さんとの距離を測っている。
「誰か『枡』持ってる?」
「 …… 」
やはり、というか、当然誰も答えない。
「やっぱ怒ってるか、んじゃ、この前はごめんね」
「ふざけんな、こらぁあー」
助手席に乗っていたチンピラが、木刀を振り回して玄宗さんに向かってきた。
「ドバッ!」
玄宗さんがヤクザ達に向けて物凄い勢いで傘を前に突き出して開き、傘に付いた水滴を高速にして飛ばす。
その勢いに負けて傘の骨数本が折れた。
「痛ててててて」
ヤクザたちが水滴を浴び、飛び上がって痛がっている。
彼らの顔の水滴が当たったところが、見る見るうちにミミズ腫れになる。
ミミズ腫れといっても水滴は丸いので、蚊に刺された跡が顔中にできたようになっている。
「くっそぉおおお、あほんだらぁー」
一人が木刀を振り回して玄宗さんに向かって来る。
玄宗さんはゆっくり身構える。
木刀を振り下ろすのを、玄宗さんは半歩下がって余裕でかわす。
次々と木刀がうなりを上げて振られるが、玄宗さんがまた半歩、また半歩……。
紙一重だが危なげなくかわし続ける。
その時駐車場に二台の高級外車が入ってきた。
玄宗さんは流石に、
「マズイ!」と思ったらしく、かわした木刀を難なく奪い取った。
玄宗さんが骨の折れた傘を捨て、木刀を下段に構える。
高級外車のドアが開き、
「お~い、長野ちゃ~ん、元気かぁ~」と、どこからどう見てもコテコテのヤクザか、もしくは、時代遅れの売れない演歌歌手のような、テカテカのスーツを着た人が現れた。
「おっと、これはこれは河堀口さん。今は元気ですけど、明日も元気な俺が好きなら力貸してください」
「いくら出す?」
「え~っと、今、所持金二千円です」
「それは二千円札一枚という意味か?」
「いいえ、千円札二枚です」
「そっか、それなら自動販売機使えるな、よっしゃっ、任しとき」
そう言ってゆっくり近づく。
「おい、そこの丸坊主、△△会□□組って知ってるやろ?」
「あっ、はい、……うちの上です」
「せやな、それは良かった。もし対立組織やったらお前ら全員埋めんならんとこやった」
(えっ? 二千円でひと〇ろし?)
角成は軽バンの助手席で首を傾げる。
「言うとくけどな、この長野っちゅう人はな、うちのオヤジ(組長)のコレの一番のお気に入りや」
そう言って関節一つぶんしかない小指を立てる。
「悪いことは言わん。もうこの人のことは忘れてしまい。それが君らの幸せへのパスポートになる。地獄への片道切符はまだいらんやろ。」
「はあ、そ、そうですか……」
「それに長野くんはめちゃめちゃ強いんや。特に剣道も相当の腕前やから、とてもやないけど君らの敵う相手やない。見たらわかったやろ。やめとき」
これには今川も無言で下を向いた。
今川と男三人は二台目の高級車に気付いて一礼し、雨粒が当たったところをポリポリ掻きながら、ばつ悪そうに車に乗って去って行った。
「はい、約束の千円札二枚」
玄宗さんがレトロ演歌歌手にお金を渡した。
「まいどおおきに~。それよかゴメンやでぇ、遅れて。信号ひっかかってなぁ」」
そう言ってレトロ演歌歌手が一枚を、隣の車の運転手に渡し、
「長野くんのおごりや、みんなで缶コーヒー飲もか」嬉しそうに言った。
玄宗さんは持っていた木刀を、レトロ演歌歌手に返そうと差し出す。
「おう、それやったらこっちの車の後ろの席の人に返しとって」
そう言ってさっき千円を渡した隣の車を指差した。
隣の車の窓が開いた後部座席には、玄宗さんがこの前恵我ノと共に挨拶に行った、以前恵我ノが所属した組の長、矢田が乗っていた。
「うわっ! 一度ならず二度までもすいません、矢田さん。さっきのことは見なかったことにしてもらえませんか?」
「見るも見いひんも、別にけが人も出てまへんし、まぁ、うちの若いもんのやったこと、こっちこそ見逃してもらえたらありがたい……。ホンマはさっきもワシ出て行ったら良かったんやけど、ワシと長野さん仲良く話ししてたら、さすがにアイツら気ィ悪いやろし、それで、電話でこの人にお願いしたんよ。……あっ、それと、缶コーヒーごっつおさんです」
「そうですか、本当にすいません。そしたらこれお返しします」
そう言って玄宗さんは恭しく両手で木刀を差し出した。
「いやな、今から本家で会議で、その行き路に前走ってる車見たら、ウチんとこの身内の車や。しかも軽自動車をえらい煽ってたから、これは何事か、と思って、後ついてきましてん」
「そ~いう~ことでしたか。助かりました。ありがとうございました」
矢田組長は『いやいや』と手を振り、
「それよか、俺の兄弟筋の高見ノさんとこ、どうですか? 最近顔出したはりますか?」と聞いた。
「今週か来週には、近くまでは行くつもりです」
「そうでっか、それやったら里子姉さんによろしくお伝えください、大阪で元気にしてるって。御主人にはこのあと会議で会えるんやけど……」
そこまで言って、矢田組長の顔が曇る。
「せやった、長野さんはカタギやから、伝言一つでも頼み事したらアカンって釘刺されとったわ、俺。また里子姉さんにドヤされるとこやった。忘れてください」
「大丈夫ですよ、俺が勝手に『お二方ともお元気そうでしたよ』って言うだけやったら、あねさんも怒りませんって」
「すんませんなぁ、気ぃ遣ってもろて、そしたら行きますわ」
窓を上げようとした矢田組長は、
「あっ、そうそう。うちの身内には、金輪際絶対に、長野さんらとあの時の女の子には手出しさせません。まぁアイツらも馬鹿じゃないんで、瀬戸内海のハゼとかシャコの餌になりたないやろから。そのこと含め、きっちり言いきかせときますんで、枕高こぉして、ぐっすり寝てください」そう言って窓を閉め、高級車二台は駐車場から出て行った。
玄宗さんが壊れた傘を持って軽バンに戻る。
「あぁ、怖かった。さっ、帰ろっか」
「怖かったですねぇ。元気に病院に帰りましょっか」
「何となく納得しにくい表現やけど、……間違いは、一ミリもないから、ええか」
「それはそうと玄宗さん、ヤクザの組長の愛人と仲が良いんですか?」
「ストレートやな、おい」
「そうなんですか?」
「ちゃうちゃう、さっきのやーさんの指みたやろ?」
「ちょっと、アレでしたよね、そのぉ、爪とか関節とかが、足りなかったりとか……」
「そうや、短かったやろ。あれは、組長の娘さんという意味」
「は?」
「最近代替わりして、今の組長はまだ若いんよ。その人の娘さんはたしか、今年五歳か六際やったかな?」
「はぁ……」
「去年の夏にその子と海水浴場で一緒に遊んでだんよ。ヤクザのとこの子とは知らず。それからあの二名含めた、イレズミの品評会みたいな人らと知り合いになってしもて。で、そんなこんなで、恵我ノさんが円満に足を洗えた、と。そういうこと」
「そういうことだったんですかぁ」
「うん、恵我ノさんはそれに際して、本当はお金いっぱい払わなアカンねんけど、誘拐殺人計画を阻止した、組を守ったという功労で、今回は特例で、無条件で抜けた、ということなんよ。今はなんやら責任とか言うて、組員の責任は組長も連座で取らされる時代やから、……そこを逆手に取らせてもろた」
「そうだったんですね」
「あの人、暴力団員には向いてないし、本人も抜けたがってたから、ちょうど良かったと思うわ」
「そうなんですね」
「で、話は変わって相談があるんやけど……」
「何ですか? お父さんがお亡くなりになったこと若菜姉ちゃんに黙ってろ、って言うのなら、……とりあえず、大阪で流通してる二千円札かき集めてもらいましょか?」
「いる? 財布の中にそんなにたくさんの守礼の門、いる?」
「さあ、どうしましょ?」
「くっそぉぉぉお! 今の俺にとってはヤクザよりかっくんの方が怖い……。助けてぇ~、紫式部さ~んっ」
そんなこんなで二人は元気に帰って行った。
令和七年 三月二十日(木曜日)
昨日、早朝からの無断外出のあと、玄宗さんに病院まで送ってもらった角成は、看護師長さんからこっぴどく怒られて、その後担当医師の簡単な診察を終え無事退院できた。
帰宅直後に玄宗邸に行ってみたが、あいにく入り口の駄菓子屋と薬局はどこにもなかった。
角成の通う学校は春休みなので、呼び出し等も無いらしく登校の必要はなかった。
だが、普段の足である、乗り捨てさせられた自転車を角成は見に行く。
……奇跡的にあのままの場所に、そのまま放置されていた。
角成は自分の自転車で家に帰る。
そして、いつものように誰もいない家に帰り、いつものように仏壇の阿弥陀様に手を合わせる。
あの日、子供を助けた日、大神様の本体である頭蓋骨は、角成が溝に沈めて大破した軽の箱バンと共にどこかに消えてしまった。
もう、角成を誰も神様持ちとは呼んでくれないのだろうか。
もうあそこから、般若さんが運転・操縦する乗り物で旅立つ魂たちを、見送ることもできないのだろうか。
それと、 ……もう、二度とあの大神様と心で触れ合うことはできないのだろうか。
首から下げた牙笛をそっと吹いてみる。
何も起こらない。
角成は大きく落胆した。
第四章 五節 過去からの奪還 終
第四章 過去からの奪還
第六節 タネも仕掛けも
に続きます。




