第三章 見返りと美人 第五節 目覚めの準備
角成は海香を送った後、玄宗邸に直行してみた。
今度は入り口の駄菓子屋と薬局がある。
角成は急ぎ足に入って行く。
玄宗邸には般若さんと玄宗さん、二人揃って、
「おかえりぃ」と、ダイニングで角成を出迎えてくれた。
「率直に聞きます。海香さんの携帯に付けたあのストラップは何か仕掛け、……と言うか何と言うか……」
「あるよ、仕掛け」
玄宗さんが答え、
「からくり、って言った方が雰囲気あるよ」と、半田さんから般若さんに戻ったお姉さんが、付け足す。
般若さんはテーブルの上に、海香に渡した藁細工のムカデ頭の対になる、ムカデの身体側の部分を置いた。
「これね、盗聴器なんよ」
「ちょちょちょちょちょちょ、それ犯罪ですよ犯罪!」
角成が口角泡を飛ばし抗議する
「うん、警察・検察が立証できたらね」
「いやいやいや、有罪とか無罪とか法律の問題じゃなくて、倫理と言うか、されてイヤなことはしないと言うか……」
角成が混乱して幼稚園レベルのことを言い始める。
「悪用せえへんよ、それは安心して」
「でも実際これは……」
「これは、玄ちゃんが保険に付けてくれって」
角成が精一杯怒った顔で玄宗さんを睨む。
「車の中で若菜ちゃんが言っうとってん『かっくんが心配やから』って」
「でもそれとこれとは話が別で……」
「海香ちゃんが切羽詰った顔してて、しかも自転車の後ろで泣いてたから『もしも、万一、かっくんが刺されるようなことがあったらアカンから』って」
角成は一気にトーンダウンする。
……角成も実はあの時感じていた。
『……最悪の時は、ひょっとして海香姉ちゃんに刺されるかも』と。
「かっくんゴメンっ!」
玄宗さんが大声で謝った。
「いや、僕、何といって良いのか解らないんですけど、とにかくやっぱし盗聴は犯罪で……」
「ちゃうねん、ファミレスには俺と般若姉さんと若菜ちゃんおってん」
「えっ?」
「こっそり隠れとってん」
「じゃあ、その後の一連のやり取りは?」
「半田さんが帰ってからあとの、追い出されたくだりも全部知ってる」
「公園で大神様との、あのぉ、そのぉ……」
「うん、お見事! あれはスゴかった! 俺感動したモン」
「私も感動した。あれかっくん考えたん? スゴイね」
角成はテレた。
が、直後怒りにも似た複雑な感情が湧き上がる。
「僕の行動、言動を監視してたんですか?」
「う~ん、まぁそうなる。 ……やっぱしイヤやよな。……ごめん」
玄宗さんがもう一度謝る。
「かっくん、盗聴器のニーズって、意外なところで意外な人達に……」
「知りませんし、知りたくもないですよ、そんなこと」
角成は般若さんの言葉を遮るように大声を出した。
その時、すっくと般若さんが立ち上がり、角成の顔に般若さんが顔を近付け、
「かっくん、二択。人の話を最後まで聞かない、ちゃんと会話する気がないなら、今すぐに家に帰る。それとも会話する気があるなら、黙って聞く! どっち?」と言い睨んだ。
突然の真顔の般若さんに角成が驚き、恐れをなして帰ろうとした。
「今帰ったら、アナタがそんなヤツなら、私はあんたと一生口きかない。さぁ、どうする?」
踵を返した角成の前を、おきくさんが睨みを効かせながら立ちはだかる。
(だいたい猫と喋る方が不自然じゃんか。口きいてくれなくなるのは、すんごいイヤだけど)
角成がそう思ったら何だかバカバカしくなり、
「話を遮ってすいません」そう言って席に戻った。
般若さんは、少し悲しそうな顔で、
「どこまでやったっけ? あっ、そうそう、今では盗聴器買うのはストーカーとか嫉妬深い彼とか彼女とか、そういう人達以外に、フツーのお母さんもおるんよ」
「えっ? 仮にも人の親でしょ?」
「うん、子供のランドセルに仕掛けるんやって」
角成は絶句した。
( ……いじめ……)
般若さんが角成に目で頷き、
「子供のことが、心配で心配で心配で、思い余って買う親もいるんよ」そう言った。
「かっくんは気ぃ悪かったかも知れんけど、若菜ちゃんが二人の事、物凄い心配しとって、それでアレを付けさせてもらって……」
「そうだったんですか」
そうだった。
海香は、
「死のうと思っていた」、そう言っていた。
……もしもそれが実行されて、角成が道連れにされていたら、今ここにこうしている角成は、肉体がない状態、精神のみ、意識のみの存在、源蔵さんのように半透明になっていたかもしれなかった。
若菜のスルドさに感謝すべきことなのに、結果オーライにあぐらをかき、正義漢ぶって抗議したことを、角成はものすごく恥ずかしくなった。
玄宗さんが続ける。
「……でだ、その後のライブ中継を俺と鬼の姉さんと若菜ちゃんで楽しんだと」
「で、何でラブシーンは無かったの?」
角成は怒ろうかどうしようか悩んだ結果、どうして良いか解らなくなり聞く。
「こういう時普通怒るの? それとも……、どうしたらいいの?」
「なんでやねん! って、突っ込むだけでOKッ!」
玄宗さんが笑う。
角成は気まずさを隠すように、藁ムカデの身体とやらを手に乗せる。
その時、突然藁ムカデの身体が振動と共に動いた。
……気がして、驚いた角成は、藁ムカデを放り投げて椅子から転げ落ちた。
「おっ、かっくんに電話とちゃうか?」
振動しているのは角成のお尻のポケットのスマホだった。
「めったに鳴らないから鳴ると緊張して……」
角成は誰に言うともなく言い訳した。
電話は海香からだった。
「今日はホントにありがとう」
般若さんが玄宗さんを指差し『チェンジ、チェンジ』と口を動かす。
「あっ、海香姉さん、玄宗さんに替わります」
そう言って角成はスマホを玄宗さんにパスした。
般若さんがうろたえる玄宗さんを見て、少し楽しそうにしている。
玄宗さんが頑張って会話している横で、般若さんはイヤホンの差込み端子を、藁ムカデの首? というのか胴体の開いたところに刺した。
藁ムカデは端子を刺されると、むにゅむにゅ、うねうね、しなやかに、そしてこの上なく不気味に動いた。
「ひえ~気色悪~~~っ」
角成と般若さんが小声で言い、顔を見合わせ笑いを堪える。
そっとイヤホンを、二人それぞれが片方ずつ耳に刺す。
クリアーに二人の会話が聞き取れた。
(※プライバシーの関係上二人の会話は割愛します)
ただ、
「あっれ~、この藁細工、目が光ってる~。電波に反応するんや。おっしゃれ~」そう海香が言っていた。
そういう装置? らしい。
……この藁製品?、 ……似非工芸細工は。
玄宗さんが電話を切り、そこで藁ムカデのぐにぐにな動きも止まる。
「こういうこと」
イヤホンを外した般若さんが言う。
「でもまだ何か聞こえますよ」
角成はイヤホンを付けたまま言う。
般若さんは、
「うん、盗聴器やからね。携帯近くの音、主に人の声だけやけど、キッチリ拾うように作ったから」と言った。
「作ったって、般若さんが?」
「うん、しかもローテクで」
「えっ、……ということは、LSIかICとか無しで?」
「うん、天然素材オンリーで、……ちょっと混ぜ物してるけど」
「何を混ぜたんですか?」
「おきくさんの毛」
「藁とそれだけで出来てるんですかぁ」
角成が素直に感心する。
おきくさんが角成の足元で丸まり、短い二本の尻尾で角成の足首を二拍子のリズムで軽く叩いている。
角成が何気なくおきくさんを見ると、おきくさんもイヤホンをしていた。
思わず二度見してしまった後、角成が聞く。
「おきくさん何を聞いてるんですか?」
「デューク・エリントン。今はジャズの気分なの」
おきくさんの首輪、……いや、敬意を表してネックレスと呼ぶべきか?
……とにかくそこに、林檎がトレードマークの小さなMP3プレイヤーがぶら下がっている。
般若さんが続ける。
「うん、藁って言うてもここの裏庭に勝手に生えてるイグサを干して、それを叩いた後に細~く割いてを編んだの。でもこれって破魔子さんに教えてもろたんよ。破魔子さんのノートに書いてなかった? ……って読んでたらファミレスであんな態度取らへんよね」
般若さんの言う通り、角成はおばあちゃんのノートをまだ見ていない。
そうなのだ、あのノートさえ読んでいれば、角成の脛にアザはできなかった。
「だったら最長でも二~三日しか、盗聴器の機能が続かないことも知らんよねぇ」
「はい、当然全く全然」
「おきくさんの毛の力借りて三日、借りへんかったらよくもって一日弱かな」
角成はものすごく嫌なことを思い出す。
角成が暮らすこの地域は自然豊か、……そう言うと聞こえは良いが、早い話が田舎である。
なのでムカデは結構目にする。
だがムカデと言えば外来の「背中に色がついたゴケグモ系が登場するまでは、地域にもよるが、日本嫌悪毒虫節足類代表格だった。
なので、皆見つけ次第、当然の如く斬首されていた。
だが頭と身体が離れても、しばらくムカデは動いていた。
角成の記憶では、ほぼ丸一日ほどは生きていただろうか。
ともかくあの生命力には色々な意味で驚いていた。
……その生命力を何かに変換させて、音声送信の動力源にしてる?
……でもこれは作り物。
……やっぱり無機物は無機物。
……でも、ギリギリ有機物っぽいおきくさんの毛入り。
……そしてここは、玄宗邸。
そこに玄宗さんの説明が入る。
「色々レンタルとかリースとかしてるからなぁ。これは上州赤城山と近江三上山に話通してあるレンタルものやねん。まぁ、破魔子さんがそうやってお膳立てしてくれたモノ、やって知ってたらそれでええんちゃう?」
そして角成は考えるのをやめ、玄宗さん推奨の『丸呑み』を実行することにした。
「それでこれどうします? もう必要ないから捨てますか?」
角成が海香の道連れにされなかったのだから、もうそれは必要ないはずだった。
その時玄宗さんがすっくと立ち上がり言った。
「それより、かっくん怪我してなかったか? どこや? 見せてみ?」
「あっ、忘れてた」
そう言って角成が、腕を出す。
本当に表皮だけが裂けた状態で、透明な体液のみでうっすら出た血は、完全に止まっている。
しかも今は完全に乾いた状態だった。
「一応消毒しとくか」
角成は傷口を流水ですすぎ、ソファーに移動して玄宗さんに消毒用アルコールで拭いてもらう。
「もったいないよなぁ、これ飲めるんとちゃう」
玄宗さんは消毒用アルコールの茶色いビンを眺めながら言う。
「今日も、飲む用のアルコール飲んでるんですか?」
角成の問いに、
「今日は車で帰りたいから、一滴も飲んでないよ」と玄宗さんは答えた。
そして玄宗さんは処置しながら、
「それに、コインパーキング代も案外馬鹿にならんのよ。このあたりは、夜間一律料金とちゃうから。……よし、これでOK」と言った。
玄宗さんが傷口に、透明でものすごく沁みる接着剤のような傷口保護膜形成液を塗布して乾かしてくれた。
「血ぃ出てたら瞬間接着剤やけど、せやなかったらこれで充分」
「玄ちゃんその知識は誰から? キレイな看護婦さん?」
「はっはっは、まぁな」
般若さんの質問のあと、玄宗さんの睫毛は動かなかった。
どうやら本当に医療機関従事者からの情報らしい。
角成は処置してもらっている時に、照れくささから何気なく藁ムカデヘッドホンを耳に近づけると、海香の激昂する声が聞こえた。
「 ……だから何べんも言わせんとって、あたしは出て行くから」
「そんなこと言うてママ困らせよ思てもあかんあかん」
「あたしの勝手にさせてもらうから、もうママのことホンマに知らんからね」
「はいはい、わかったわかった。勝手にしいや、勝手にしたらええわ。ここまで育ててもらった恩を仇で返されるとは、あんたにこんな仕打ちされるとは、まさか思ってなかったわ」
「だったら聞くけど、ママがせえへん洗濯とか食事の支度とか食器荒いは、今まで誰がやってたん? 荷物らしい荷物もないけど、適当にまとめるから。ホンマにもうかまわんといて」
海香の母が何か叫んでいるが、声が遠ざかり、すぐに母の声は聞こえなくなった。
そして海香が大きなため息をつき、何も聞こえなくなった。
海香は海香なりに、あそこで一生懸命暮らしていたようだ。
だがもう限界だったのだろう。
本当に今日、角成に言ったことを実行に移していたかもしれない。
角成は、今、自分に、海香に何ができるか考えた。
しかし答えは『何もない』だった。
(今日も慌しい一日だった……)
と、角成がため息をつき、白い猫が膝に乗ってきた時、また角成のスマホが鳴った。
今度は若菜からだった。
「カクナリどうよ、大丈夫?」
「うん、ありがとう。心配かけたね」
「なんか私の知らんとこで色々やってるみたいやけど、まぁ、そのぉ……」
「うん……」
「がんばりや」
「ありがとう、若菜姉ちゃん」
「じゃ、玄宗さんそこにおる?」
「うん、代わろうか?」
「今日はいいわ。それとファミレスに来たキレイなお姉さんもそこにおる?」
「はんに、……オッホン、ウェッホン、半田さん?」
「そうそう、玄宗さんとその人、半田さん? にも、今日はありがとうございました、って言うといて」
「うん、わかった」
角成は電話を握ったまま「ハッ!」と気付く。
「もしもしっ、若菜姉ちゃん、半田さんのことキレイって?」
「うん、正直ビックリするくらいキレイやね、あの人」
「芸能人で言うと誰に似てる?」
「う~ん、あの人ほど背が高くないけど、仁村なんとかさんって、ほら、枚方出身の……」
角成と同意見だ。
やはり海香は、美的感覚か視力か、そのどちらか、もしくは両方を偽ったのだろうか。
偽りかどうかは、海香以外わかるはずがない。
これも角成は丸呑みカテゴリーに入れた。
電話を切った角成は、強烈な睡魔に襲われる。
「かっくんあのな、その腕の傷やけど……」
玄宗さんの声が次第に遠ざかって行った。
***
僕は夢を見ていました。
忙しそうに急ぎ足で行き交う人々。
そこは、頭に髷こそ結ってはいませんが、洋服を着ている人をほとんど見かけない、かなり前、というか昔のようでした。
そこに、秋生まれの三毛の子猫が平屋造りの長屋の屋根で遊んでいます。
屋根の上でそこかしこを飛んでいるアキアカネにとびついて、板塀の上まで追いかけます。
そのまま子猫はアキアカネを追って板塀の上から大通りに飛び降りると、運悪くそこに急ぎの荷を積んだ大八車が通りかかり、子猫ははね飛ばされて大怪我を負ってしまいました。
そこを偶然通りかかった商家の若奥さん風の女性が、
「なんの罪科のない小さな猫に、なんと哀れな」
涙声でそう言って、大怪我の子猫を家に連れて帰ります。
子猫は三日三晩生死の境をさまよいました。
その頃は今とは違い、獣医さんもそんんなにいませんし、猫用の薬もありません。
ですが、若奥さんは子猫の身体を一生懸命に撫で擦り続け、そして子猫の口に麦わらで水をたらしてあげていました。
若奥さんの寝ずの看病が実を結ぶ形で、その三毛の子猫、おきくさんは助かります。
名前の由来も、おきくさんが運ばれた日にはまだつぼみだった小菊の花が、おきくさんが立ち上がれる日に綺麗に開いていたから、それに因んで「きく」と、若奥さんと若旦那さんで名付けたのでした。
若奥さんと若旦那さんと言っても二人は親から独立した所帯を持っています。
そう言うと聞こえは良いのですが、実はこの二人、駆け落ちをした夫婦でした。
若奥さんは店だけで間口三間奥行き八間もある大きな呉服屋さんの娘さん。
そして若旦那さんは、いつも勝手口から声をかける魚屋さんでした。
大店の娘さんでありながら殊勝にも店の裏方である、掃除・洗濯・賄いをしていた若奥さんと若旦那さんはそうして知り合い、そして恋に落ちます。
ですが、士農工商がとっぱらわれた世の中でも、家の格というものはあります。
見えませんが、必ずあります。
交際の許しを得に来た若旦那さんを、若奥さんのお父さんは烈火の如く怒り猛り、若旦那さんを店先で殴りました。
そして帰り際お父さんは、
「そんなに娘が欲しいんやったら、いっそのこと盗んでみぃ。お前も男やったら、一生かけて女守る気概を、世間様に向けて見してみぃ、出してみぃ」
商売人が店先で、しかも客前で暴力を振るってしまったことを後悔しながら、お父さんは苦し紛れにそう言いました。
次の日の夜、お父さんがお風呂に入っている間に、お母さんの手引きで、裏口から送り出されます。
そして今は、河口の近くで、間口一間の魚屋を営んでおりました。
最初旦那さんも子猫をたいそう心配していましたが、元気になるにつれて別の心配ごとが頭をもたげます。
魚屋に猫。
どう考えても無茶な組み合わせでした。
しかし奥さんは、
「きくちゃんは大丈夫やさかい安心して」
明るい顔で言いました。
「しかしなぁ……、いくらお前の大事なきくちゃん言うても、……猫やで。所詮は畜生、恩も仇もないんとちゃうか……」
「きくちゃんは絶対にそんなことあらへん。私が保証します、なっ、きくちゃん」
まだ小さなおきくさん、きくちゃんは、
「その通り」とばかりに大声で返事をし、事故で裂けた短い尻尾を勢いよく一振りしました。
そしてきくちゃんは、命の恩人の奥さんと三つの約束をしました。
・ネズミを家に近づけない
・家族として誇りを持つ
・死ぬ時には姿を隠さず、奥さんと旦那さんのそばから旅立つ
この三つを守り抜くことが、子猫だったきくちゃんの生きる目的になりました。
*第一の約束*
まずその当時のこと、いくら『ネズミ退治』いっても、食べ物を売るのに殺鼠剤『毒』は使えません。
しかし、猫も飼うわけにもいかない。
なのに、猫を飼った。
ならば、猫にネズミを退治してもらう。
旦那さんは当初そう考えたのですが、きくちゃんが元気に走り回るようになった日から、ピッタリとネズミが出なくなり、きくちゃんが捕まえる必要すらありませんでした。
それは、お隣の雑貨屋さんからもお礼を言われるほど、その一角のネズミが絶滅したかのように出なくなったのでした。
*第二の約束*
ある日奥さんが言いました。
「きくちゃんは器量よしやから、猫が好きそうな人にじゃれついて、ウチの店先まで連れといで」
それは本気とも冗談とも取れる口調でした。
ですが、きくちゃんはそれを真面目に実行しました。
道行く人をじっと見ていると、きくちゃんを『ジッ』と見つめる人たちが度々いました。
ある日きくちゃんは、
「にゃぁ(よかったら買ってってください)」と、女性に声を掛けました。
「あら? 呼んだ? 私のこと、呼んだ?」
女性が近付くと、
「にゃぁ~~(そう、なんか買ってってください)」
「あら~、こんなかわいい子に呼び止められたら、何か買わなあかんや~ん」
そこにきくちゃんの横に立っていた旦那さんが、
「はぁ、あのぉ、えっとぉ、……いらっしゃいませ……」戸惑いながら言いました。
その隣できくちゃんがひときわ大きな声で、
「おおきに、ありがとうございます」と、まだ買う前から言ってました。
こうして、幾人もの猫の好きな常連さんを作りました。
その中には大きな料亭の御主人がいて、きくちゃんもその人がどんな人とか関係なく大好きだったので、店に来た時にはずっとそのお客さんのそばに、ニコニコしながらいました。
その御主人が旦那さんの真面目な人柄に感心し、そして『同じ仕入れるなら』と、その御主人の紹介で、老舗旅館や老舗料亭のお得意先が何軒もできることとなり、見事に商いは軌道に乗ります。
そして、旦那さんが最も心配したこと。
『売り物に手を出さない』
これをきくちゃんは、完璧に守りました。
まだ夫婦二人で商売をしていた当時、奥さんも旦那さんも近場へ急ぎの配達に出かけるときがあり、きくちゃん一人……、いや一匹、いや、やっぱり一人で店番をしていた時に、泥棒猫、……この場合は本物の猫です、を撃退し、お隣の雑貨屋さんから褒めてもらっている時に旦那さんが帰ってきて、
「きくちゃん、すごいやっちゃなぁ、お前は」
そう言って皆はたいそう喜びました。
それから奉公人さんが増えるまで、一人できくちゃんが店番をすることも度々あったようです。
そして、きくちゃんの営業努力と、旦那さんと奥さんの真面目で堅実で明るい性格から、お店は急速に大きくなっていきました。
そしてちょうど奥さんが初めて子供を産んだ年に、おきくさんも同じように初めて子供を産みました。
おきくさんは多産な体質らしく、多い時は一度の妊娠で十匹の子供を産みました。
今では十匹の子猫が産まれると里親探しが大変です。
ですが、きくちゃんが妊娠したとなると、きくちゃんファンの常連さんが
「俺がもらう!」
「いやわしが!」
「何言うとんねん、ド厚かましい、ワシの方が先にきくちゃんと話してんど」
と、引く手あま多を通り越して、軽い乱闘騒ぎまで起きた時のことでした。
「まあまあ、きくちゃんの子供が、まだこんな小さい子供やのに旦那さん方に御迷惑おかけするやなんて、もうこれ以上この子らに、こんな小さな身体に罪背負わすのは堪忍しとおくれやす、どうか、この通り」
そこは大店の娘はん育ちの奥さんが機転を利かせ、両手をついて謝ることで一旦は沈静化したようでした。
しかし、魚屋夫妻が思っていたよりも、おきくさん人気がすさまじく、仕様こと無しに、おきくさんの子供をもらうための予約帳ができました。
それは、お店の取引の多寡に関わらず、先着順で名前が書かれていきました。
あっという間に百の予約を超え、その数はおきくさん人気を象徴するかのようでした。
生涯でおきくさんは、……母親になった時から『ちゃん』付けでなく『さん』付けに呼び名が誰からともなく変わっていました……、二百近い数の子供を産み、その子達に皆基本的なしつけをし、そして里親のもとへ送り出しました。
おきくさんの子供たちは一様に性格が良く、人の言うことをよく聞く、たいへん賢い猫、それらを綴ったお礼状が、魚屋夫婦の元にたくさん届きました。
そして、いつしかおきくさんは、生きた招き猫としてその界隈の商家では有名な存在になっていました。
ただ、そのおきくさんにも、悔やんでも悔やみきれないの出来事が一つだけありました。
激しい夕立、集中豪雨さながらの通り雨が魚屋の離れの屋根瓦を叩いていました。
その離れでは、連日寝苦しかったこともあり奥様は三番目の幼子、三人目にしてやっとできた男の子と一緒に昼寝をしていました。
店先では慌ただしく商品が雨に濡れないように、店の内側の棚に入れる者や、また、海までそう距離が無い海抜の低い土地だったために、よく川が溢れました。
この時も、用水路からあふれて土間に上がってくる水を掃き出すのに皆てんてこ舞いしていました。
おきくさんもその時ちょうど妊娠中で、うつらうつらしていた時でした。
やっと歩ける程度のになった男の子が、夏蒲団から起きだして縁側に向かいます。
縁側から先は狭い裏庭があり、板塀一枚挟んだ向こう側は、掘割に続く幅が一尺半の用水路があり、そこをごうごう音を鳴らしながら大量の雨水が流れています。
ぺたりと縁側に座った男の子。
おきくさんが『危ないなぁ』と、その子の傍に行き、
「にゃあ(危ないからお戻りなさい)」
そう言いましたが通じません。
おきくさんは何度も大きな声で注意します。
ですがやっと立てた頃の赤ん坊には全く通じません。
しかたなく奥様を起こしに行きます。
奥様はすぐに起きました。
起きた奥様が悲鳴を上げます。
赤ん坊が、やっと産まれたこの家の跡取りの坊やが、頭から縁側に落ちたのです。
おきくさんは身重でしたが、坊やを庭まで上がってきている雨水から救おうと縁側から飛び降りました。
飛び降りた時に流れとにごりと、ごうごうという溝から上がって来る水音に、おきくさんは臆しましたが、すぐそこに坊やの手が見えました。
おきくさんは、
(大事な坊ちゃんに傷は付けられない) そう思い、必死にオムツを探しました。
そうこうしていると奥様がやって来て、おきくさんを先に抱き上げ、そしてわが子を抱き上げようとした時でした。
急に水かさが増して、坊やが見えなくなってしまったのです。
奥様の悲鳴を聞きつけたお店の人たちも懸命に探します。
それはその日の夕方でした。
河口付近で変わり果てた姿の坊やが発見されたのは。
奥様も旦那様もお店の人達も、三日三晩泣き明かしました。
当然おきくさんも、出ない涙が、でるはずのない涙が溢れ出るほどに悲しみ、そして自分を、ふがいない自分を責めました。
それからのおきくさんは変わりました。
大きかった身体はもうひと回りもふた回りも大きくなり、何事にも動じず常に冷静に行動するようになりました。
(二度と同じ過ちを繰り返さない)
それが唯一、坊やにできる、……大好きだった坊ちゃんにできる、おきくさんなりの供養だったのかもしれません。
*第三の約束*
おきくさんは元々野良猫でしたので、生まれた日、というのが正確にはわかりません。
しかし、生まれた年に拾われて助けられましたので、おおよその年齢はわかります。
この魚屋さん、と言っても今ではもう、立派な鮮魚・乾物卸の問屋で、会社組織にもなっているのですが、おきくさんが二十歳の春、奥様が体調を崩されました。
おきくさんは毎日店の見回りもそこそこにして、常に奥様の傍に付き添いました。
その頃には奥様のお子さんも男女合わせて七人いましたので、入れ替わり立ち代り奥様の様子を見に来ます。
たまに御実家のお母様やお父様も来ていました。
お得意先の奥さま方も、たまにお見舞いに来ていたようです。
おきくさんは家の内外問わず、誰かがお見舞いの人が来るたびに、
「今日はようこそいらっしゃいました」
「本日はお忙しいところありがとうございました」
そう挨拶していました。
不思議とそれはお見舞いに来た人達に通じていて、皆帰り際に、
「あぁ、おきくさん、丁寧なお出迎えとお見送り、おおきにな」
そう言って帰る人ばかりでした。
奥様は誰にでも優しく、そして誰からも愛された、本当に良い人でした。
その奥様が旦那様に病の床で、たった一つの贅沢を願い出ました。
「晴れた日ぃには、お茶碗に少しのお米、生米もらえませんやろか」
ということでした。
その時は商売も、順調に軌道に乗っていましたので、旦那さんは二つ返事で承知します。
奥様は二階の寝室の窓辺に、その当時は珍しかったベッドを置いてもらい、毎日そこの窓から雀に米をあげていました。
毎日毎日、来る日も来る日も、雀が来る日なら小雨でも奥様は、
「巡礼にご報謝致します」そう言って米粒をあげ続けました。
そして一ヶ月あまり経ったある日、決して人馴れしないはずの雀が奥様の掌から米をついばむようになっていました。
雀にも奥様の優しい心根が通じたのかもしれません。
その光景を毎朝眺めるのが、おきくさんのその頃の日課になっていました。
梅雨が明け盛夏が訪れた頃、窓から見える奥様の手は、透き通るように白く、少しの力でも手折れそうなくらい細くなっていました。
奥様の病状が思わしくない方向に進んでいることは、誰の眼にも明らかでした。
おきくさんもそのことには、とうに気付いていたのですが、できるだけ知らないフリをしていました。
おきくさんなりの精一杯の心遣い、愛でした。
そして、その日がやって来ました。
もうほとんど奥様は声も出なくなっていましたが、力を、それこそ最後の力を振り絞るように、御家族の皆さんと従業員さんに、寝床からですが、お礼を言っておられました。
皆泣いています。
最後におきくさんが呼ばれました。
「きくちゃ~ん、あんたとの約束~、たがえることになってしもたけど、……堪忍してや。私が先に、……息子の所に先に行ってる。……せやから、あんたは、……あんたは、ゆっくりおいで。……みんなのために、くれぐれも、急がんといてなぁ」
これが奥様の最後の言葉でした。
そのあと、奥様はこん睡状態になり、……それから二度と目覚めることはありませんでした。
おきくさんは奥様が荼毘にふされるまでの間、全く飲まず食わず寝ずを通しました。
猫の二十歳といえば、かなりの高齢。
皆がおきくさんを心配し、あれこれ気を使いましたが、おきくさんは一切の人間の優しさ・好意・心配を遠慮し、じっと奥様の枕元で置物の如く姿勢を正して座り続けました。
そしてお葬式が終わり飲まず食わず寝ずをやめ、四十九日法要が終わると、朝旦那様を呼びに行くのが日課になりました。
二階の窓から米を撒いてもらうためです。
雀たちもおきくさんの姿に馴れて、逃げはしませんでした。
ですが、幼い頃より守って来た約束、その最後の約束とも言える部分に齟齬が生じて、おきくさんは迷っていました。
何度も何度も奥様の後を追うことを考えました。
しかし、いつも不思議な力、声に阻止されます。
「生きよ、天寿を全うするのだ」
おきくさんはその言葉に従い、そしてすがります。
しかし新たな目標は容易ではありませんでした。
二十一年・二十二年と齢を重ねてもおきくさんの足腰はまだまだしっかりとしていましたが、さすがに目はかすみ耳も遠くなります。
それでもおきくさんは一生懸命生きました。
そして、その日がやって来ました。
それはおきくさんが奥様に助けられて二十四年目を迎えた師走のことでした。
三日降り続く雨が気温を下げ、おきくさんの体温を奪います。
旦那様は湯たんぽを用意してくれますが、もうおきくさんの目は見えません。
おきくさんが利き腕の左前足を伸ばし、旦那様を呼びます。
旦那様はおきくさんの左前足、いえ、左手をそっと握り頬をつけます。
おきくさんは旦那さんの耳に一言だけ、たった一言、こうつぶやきました。
「ありがとう」
おきくさんの左手に力がぐっと入り、
…………そしてゆっくりと、力が抜けていきました。
どれくらい時間がたったのでしょうか、おきくさんは奥様に助けられた当時の家、
……の跡に建ったマンションの前にいました。
『招福マンション』その建物は、おきくさんに由来する名前が付いていました。
そこに葛葉おばあちゃんが通りかかります。
「ひょっとして、誰か待ちゆーですか?」
「いいえ」
「じゃ、どうしてここに?」
「大好きな人が……、人たちが、何人も何人も、……おったから……」
「その人らぁは?」
「さぁ……、どこへ行ったんか……、もう何年も前やから、みんなお浄土かな?」
「良かったら私が何かお手伝いとかしましょか? 人探しとか? こう見えてもちくっと鼻が利くもんで」
おきくさんは鼻で、ふっと笑い、
「人間やのに? そんなことが?」そう言いました。
「ええ、頼もしい友達がいてるんで、私には」
柴犬ほどの大きさの狼らしき動物(半透明)が、葛葉おばあちゃんの影からそっと出てきました。
「そうですか、だったら……、よろしくお願い致します」
おきくさんは両手をついて頭を下げました。
『語り・河内 角成(夢を見ていた本人)』
***
角成が激しく揺すぶられて起こされる。
横で一緒に寝ていた、おきくさんと白い子猫も飛び起きた。
「かっくん起きて、お願い早く起きて玄ちゃん止めて」
般若さんが焦っている。
少し朦朧としながら体を起こした角成に、般若さんは水を飲ませる。
「玄ちゃんが突然怒って、海香さんのところに行く、って言うて飛び出したんよ」
「怒った原因は何ですか?」
「私よくわかれへん。ちょうど席外してて帰ってきたら、玄ちゃんカンカンに怒ってたから」
角成は必死で考える。
だが寝起きの頭ではマトモな答えなど出るはずがない。
角成は玄宗さんに電話してみた。
あの変な呼び出し音がキッチンから聞こえる。
玄宗さんは携帯していなかった。
角成は般若さんに処置してもらったスマホ、角成のものと玄宗さんのものを二つ持ち、海香の家に向かう。
海香の家の前に、海香の母親らしき人物が座り込み、呆然として何かつぶやいている。
「おどろきおどろき、海香もおどろきあの人もおどろき」
その横にいた。
……玄宗さん。
「お前らサイテーやな、ロクな死に方でけへんぞ」
玄宗さんが信じられない言葉を、しかも角成がありえないと思っていた方向、女性に向かって吐いた。
角成は自転車に乗ったまま、玄宗さんと海香の母親の間に割り込む。
「玄宗さん待って、とにかく待って」
「かっくん、コイツら最悪や、娘売りよった」
角成は絶句してしまう。
「コイツら、海香さんの親はどっちも娘にたかるダニや」
涙声で玄宗さんが言った。
角成は言葉を捜すが、視線が中空を漂うばかりだった。
「でや、かっくん、相手はヤクザやけど、今から海香さん取り返しに行くか?」
玄宗さんが声を潜めて角成に言った。
「えっ? ヤクザ、えっ……? ……だったら、警察に……」
「警察は民事不介入、親が娘とドライブ行っても何もでけへん。目的地が最悪の場所でも」
角成が絶句する。
「勝算は充分ある、でや、助けに行くか」
「いいえ」と言えば良い。
こういう選択は常に「NO」で良い。
角成は警察官でもなければ、逆にチンピラでもない。
ごく一般的、……まあちょっと一部分を除けばフツーの高校生だ。
フツーの高校生が、何もそこまでの危険を冒すだけの理由などどこにもない。
それに、女の子が連れて行かれたと言っても、今連れて行ったのは父親だ。
連れて行かれた先で、殺される訳でもあるまい。
……だが、連れて行かれた場所で、絶望の果てに、死ぬより辛い目に遭うとしたら……。
『いいえ』と言えばそれで良い。
家に帰れば温かい寝床がある。
そこで眠り直せば良い。
そう『いいえ』とだけ言えばそれで良い、たった三文字だ。
「玄宗さん、携帯忘れてましたよ。必要でしょ、ミッションには無線機が」
『誰かのために危険に立ち向かう』
それが良いことか悪いことか、角成にはわからない。
だが、海香は『角成に救われた』と言った。
生まれて初めて言われた言葉。
(その言葉の向こうにある気持ち、に応えたい)
角成はそう思った。
……思ってしまい、もう一度海香を救う決心を、今してしまった。
空からは冷たい雨がパラパラと降りはじめ、角成にはそれが海香の涙のように感じ、悲しかった。
「玄宗さん、急ぎましょうか」
「おう、工作班にも連絡せんとな」
玄宗さんはそう言って車で走り去った。
角成は自転車で自分の家に向かった。
海香の母だけが一人その場に、異臭のする玄関の前でぼんやりと、
「おどろきおどろき」とつぶやき続けながら、冷たい雨の中を座っていた。
第三章 第五節 目覚めの準備 終
最終章・第四章 過去からの奪還
第一節 位置について!
に続きます。




