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72話 ゼルフィナード辺境伯家···

数時間前——



「お待ちください!」


張り詰めた空気を切り裂くように、カイルが声を上げた。


そのまま一歩前へ出る。


「私はこの御方の従者です」


静かな声。


だが、その言葉には不思議な重みがあった。


「我が主を試すような不敬を、目の前で静観することなど許されない立場でございます」


カイルは真っ直ぐラドを見据える。


「どうか、このような真似はお止めいただきたい」


俺は思わず目を瞬かせた。


俺の前に立つカイルの背中は、よく見ると肩が小刻みに震えている。

緊張しているのが丸わかりだ。


(従者…)


一瞬だけ思考が止まる。


そしてすぐに理解した。


(あー、なるほど)

この短時間で俺の意図を汲んだらしい。


だが、相手は甘くなかった。


ラドは微笑みを崩さない。


「試すなど、滅相もございません」


その声はどこまでも丁寧だ。


「この出来損ないの無知な執事に、その寛大なお心で示していただきたいのでございます」


一度頭を下げる。


「どれほど偉大なお方であるのかを」


その瞬間、俺は悟った。


(こいつ……)


自分を徹底的に下げる。


その上で俺を持ち上げる。


そうすることで、こちらが拒否しづらい状況を作っている。


断れば心が狭い。

怒れば器が小さい。

貴族であれば、面子に関わる。


身分を偽る者であれば、魔水晶に触れる事はできない。


(この執事、俺が貴族だった場合を想定して、何手も先を読んでやがる……)


魔法が使えない今、この場では何の小細工も通用しない。


(無理だろ……)


諦めかけた、その時だった。


「状況が違えば、本来なら―」

カイルが一歩前へ出る。


「一介の執事の、このような申し出に答える必要もない」

その声はかすかに震えていた。


「しかし、親書での事前通達もない来訪であり、身分を証明できる物も持ち合わせていない。警戒されるのは当然」


「今あなたを納得させるには、言葉よりもその魔水晶で証明するしかないのでしょう」


「それでも、我が主に対し……身分を証明させるなどという行為は到底受け入れられない」


凛とした姿勢から強く放たれた言葉に、ラドの微笑みは消える。


そして、カイルが胸に手を当てると、静かに告げた。


「それ故に、従者である私が代わりに、証明いたしましょう」


(いやいやいやいや)


俺の脳内で警報が鳴り響く。


待て。


待て待て待て。


お前が証明したってダメだろ!


「おい、カイ──」


止めようとした。

だが遅かった。


カイルは迷うことなく魔水晶へ手を伸ばす。


白く細い指先が水晶に触れた。


その瞬間。


魔水晶が淡い光を放つ。


登録情報との照合。


わずか数秒。やがて水晶の内部に文字が浮かび上がった。


最初にそれを見たのは、箱を抱えていた兵士だった。


兵士は目を見開くと、箱を抱える手がカタカタと震え始めた。


(……なんだ?)


後ろからじゃ、情報を見ることができない。

だが、従者の情報を知らない主なんているわけない。


今、変に動けば俺とカイルの関係性が疑われる。


だが気になる。明らかに様子がおかしい。


兵士の顔色がみるみる青ざめていく。


それに気づいたラドが前へ出た。


「失礼」


そう言って表示された情報へ目を向ける。


そして──


ラドの表情が初めて崩れた。

完璧に整えられていた仮面が砕け散る。


沈黙から、一秒もなかったかもしれない。


ラドがその場に膝をつく。

まるで糸が切れた人形のように崩れると、両手を地面につけ深々と頭を下げた。


乱れひとつなかった銀髪が地面へ垂れる。


「ゼルフィナード様!!」


牢屋に響く声。


それは先ほどまでの余裕を完全に失っていた。


驚愕と畏怖に満ちた叫びだった。


その名を聞いた瞬間。


兵士たちの顔色が変わる。


一人。


また一人。


次々と膝をついていく。


鎧がぶつかる音が連続して響いた。


まるで当然のように。

その場にいた全員が頭を垂れていた。


そして俺だけが──


(えっ?)


状況についていけず、口を半開きにして立ち尽くしていた。







―――――


カイル・ゼルフィナード §辺境伯家


表示された名を目にした瞬間、私の思考は停止した。


なぜ。


なぜゼルフィナード辺境伯家のご子息が、このような荒廃した街にいるのだ。


私は魔水晶に映し出された情報を再度確認した。


間違いない。


そこに記されていたのは、紛れもなくゼルフィナードの名と爵位だった。


(能力はない…まさか……)


出奔されたという噂の三男様。


それが、目の前におられる、カイル・ゼルフィナード様。


除籍されるとも耳にしたことがある。


だが――。


私はその考えをすぐに切り捨てた。


貴族社会において噂話など何の価値もない。


失脚したと思われた家が翌日には王家の後ろ盾を得ることもある。


逆に栄華を誇っていた家が、一夜で没落することもある。


常に駆け引き。


常に謀略。


真実など当事者しか知らない。重要なのは噂ではない。


目の前にある現実だ。


私はゆっくりと顔を上げる。


カイル様は、あの青年を主と呼び、従者として仕えている。

己が身代わりとなり身分を晒してまで、守ろうとしている。


ゼルフィナード辺境伯家。


この国の防衛を担う名門。


代々、公爵家との結びつきも深く、優秀な血族は王家や公爵家の騎士、側近、従者として重用される家系。


魔法が使えないとはいえ、その直系のご子息が、あの青年に頭を垂れている。

辺境伯より上の爵位で、時間魔法士…。


三大公爵家。

直系ではなくとも、それに連なる血筋。

そう考えるのが自然だった。


だが、奇妙でもある。


あの御方からは貴族らしい気品を感じない。

立ち振る舞いも荒削り。言葉遣いも洗練されているとは言い難い。


正直、街の若者と言われた方が納得できる。


しかし――。

それでも違和感より事実が勝る。


この街の危険を察知し、必死に街を救おうとしている事は間違いない。

それが本心ならば、それは貴族としての体裁や教養などより、遥かに価値のあるものだ。


私はカイル様を見る。

その眼差しには迷いがない。


忠誠。信頼。

そして、主を守るという強い覚悟。


あれは演技ではない。

長年人を見てきた私には分かる。


心から認めた相手にしか向けない目だ。


ならば。


今この場に並んでいる事実だけで十分だった。


ゼルフィナード辺境伯家のご子息が仕えている時間魔法士様である。

そのお方が、街を救うために動いている。


それが事実だ。


カイル様の話の信憑性など、もはや問題ではない。


天変地異が起きるかどうかも、もはや些末な問題だった。


私は深く頭を下げた。


――この御方達が、やれと仰るのであれば。


――我々は、その言葉に従うべきなのだ。







――――――



「顔を上げてください」


カイルの静かな声が地下牢に響く。


その言葉に促されるように、ラドはゆっくりと顔を上げた。


そして次の瞬間――


「ただちに街中の警鐘を鳴らすのだ…」


低く静かな声で、後ろに控えていた兵士へ指示を出した。


「はっ!」


兵たちは立ち上がると一斉に敬礼を取り、慌ただしくその場を駆け去っていく。


残されたラドは俺へ向き直ると、神妙な表情で立ち上がり、深々と腰を折る。


「私にできることでしたら、なんなりとお申し付けください」


その姿に、思わず目を瞬かせた。


一方でカイルは、自分の役目は終わったと言わんばかりに、一度俺へ向け丁寧に頭を下げると後ろへ控える。


その所作は最後まで完璧だった。


……いや、待て。


カイルのハッタリで、俺はとんでもなく偉い身分の人間に仕立て上げられたんじゃないか?


正直、貴族の作法なんて知らない。

だが今さら取り繕う方が怪しい。


それに――


お偉いさんと思われてるなら、“態度がなってないぞ”なんて、面と向かって指摘される事もないだろう。


俺は俺のままでいく。


「街に人が残らないようにしたい」


俺がそう告げると、ラドはすぐに頷いた。


「兵に住民への呼びかけを行わせましょう」


返答が早い。


「正午をもってアイアンバレーの門を閉鎖すると期限を設ければ、住民たちはそれに合わせて避難を進めるはずです」


「その後、避難が間に合わず取り残された者達を、保護いたします」


(昨日の敵は今日の友ってやつか!)


素晴らしい案だった。


思わず拍手しそうになる。


だが、ここで「それ、いいね!」なんて言ったら、せっかくのハッタリが台無しだ。


俺はぐっと堪え、平然を装った。


「そうしてくれ」


「承知いたしました」


ラドは即座に頭を下げる。


「それと――」


俺は続けた。


「俺の従者がもう一人、この街の奴と行動してる」


シルとノルの顔が浮かぶ。


「あいつらにも知らせたい」


「承知いたしました」


ラドは迷いなく答える。


「馬を手配いたします。護衛もお付けしましょう」


要望を口にすると、それを叶えるのが当然かのごとく、話が滑らかに進んでいく。


(権力ってすげぇな……)


そんなことを考えながら、俺はふと気になったことを口にした。


「で、あんたはどうするんだ?」


その問いに、ラドは少しだけ考える素振りを見せた。


そして穏やかに微笑む。


「私は、ギリギリまでこの街に残りましょう」


「やらねばならぬ事が、まだ 、ありますゆえ」


そう言うと、ラドは再び深く頭を下げた。


その横顔には恐怖も迷いもない。

ただ、自分の役目を果たそうとする覚悟だけがあった。

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