42話 宿屋ザンクの激うまナポリタン···
水を掛けてきた女性に促されるまま、宿屋ザンクそう書かれた建物の中へ入る。
一階は食堂になっていた。外観は古びていたが、店内は意外と小綺麗で、しっかり手入れされているのがわかる。
だが——店内を見渡しても客の姿はない。
(まぁ……この街の状況じゃ仕方ないか)
さっきの女性が何度も頭をさげる。
「ほ、本当にすみません!まさかお客様だとは……!」
布を手に必死に俺の服を拭こうとするが、「いいって、大丈夫だから」とその手を止めると、そのまま服に魔法をかけた。
濡れていた服は一瞬で乾き、皺も消えて新品のように整う。
「……え?」
女性の動きが止まり、そのまま固まる。
その時、奥から男が現れた。
「申し訳ない、妻が失礼をした」
落ち着いた口調でそう言い、軽く頭を下げる。
そのまま出来たての料理をテーブルに置いた。湯気の立つ皿を見た瞬間、思わず目を細める。
(え……あれナポリタン、だよな)
香りに腹がぐぅ、と鳴る。それを聞いた男は、わずかに口元を緩めた。
「詫びだ。よければ食べてほしい」
隣でシルの目が一気に輝く。
「マジかよ」
そう言うと同時に席につき、フォークを手に取ると豪快に口へ運ぶ。
(こいつ···ほんと食に目がないよな)
「美味そうだな」
そう言って、俺も席につく
(いただきます)
手を合わせ一口食べた瞬間、その手が止まらなくなる。
携帯食ばかりだったのを差し引いても——明らかに違う。
(……うまい。いや、なんだこれ……今まで食ってきたナポリタン全部軽く超えてきやがるぞ)
シルも同じだった。
「うめぇ!なんだこれ!最高じゃねぇか!」
そう言いながらガツガツとかき込む。
その様子を見ていた男と目が合う。穏やかに笑っていた。
「口に合ったようで何よりだ。俺はダグ。それで——水をかけてしまったのが妻のリナだ」
「す、すみません……」
リナが申し訳なさそうに微笑む。
リナは薄緑色の髪の毛を束ね、緑のカチューシャが印象的だ。
ダグは茶色の髪を短く揃え腰にはエプロン。
二人とも身なりは清潔に整えている。
そして、その表情にはどこか人の良さが滲んでいた。
俺はフォークを置きながら店内を見回す。
「これだけ美味いものが出せるなら、もう少し客がいても良さそうだが。俺たち以外に客はいないのか?」
ダグは頭をかく。
「もう一人いる。この時間は外に出ているが、夕飯前には戻ると思うよ」
「……一人か」
そう言うと、ダグは少しだけ視線を落とした。
「場所も良くないし、この街の状況もある。それに……俺は運があまり良くないらしい」
「─なんて、街がこうなる前から··この店の客足は大きくは変わっていないんだがな」
困ったように笑う。
その言葉に、シルがナポリタンを頬張りながら口を挟む。
「運が悪ぃ?」
首を傾げる。その表情には、何か引っかかりを感じている様子があった。
ダグは一度こちらを見る。
「君たちは、この街に来たばかりか?」
「ああ」
頷くと、ダグは少し間を置いた。
「……なるほど」
「なんだ?」
問い返すが、ダグは軽く首を振る。
「いや、大した話ではない」
そう言って話を切り、穏やかに続ける。
「こんな古い宿だが、好きなだけ滞在してくれ」
「二階へ上がったすぐ左側と、右の一番奥の部屋以外なら、好きな部屋を使って構わない。部屋が決まったら教えてくれ。三食付きで一泊三銀貨だ」
その瞬間——
ガタッと音がする。
シルが立ち上がった。
(……また何か言い出す気か)
そう思ったが——
「安すぎるだろ!」
店内に響く声。
「そんなんじゃ商売やってけねぇよ!ほとんど飯代じゃねぇか!」
予想外だった。
俺は一瞬だけ固まる。
(……そうなのか?)
貨幣価値がよくわからない。
ダグとリナは顔を見合わせ、小さく笑った。
「気にかけてくれてありがとう。ただ——いい宿だったと思ってもらえれば、それで十分だ」
ダグは静かに言う。
「儲けるつもりはない。いつかまた、この場所を思い出してもらえたら、それでいい」
シルは信じられないと言いたげに肩をすくめて、大人しく席についた。
───
俺たちは廊下を挟んで向かい合わせの部屋をそれぞれ選んだ。
二階へ上がり、部屋の扉を開けると中はシンプルで、ベッドと小さなサイドテーブル、その上にランタンが一つあるだけだ。
どさりと荷物を床に置き、窓の外に目をやると、遠くに鉱山が見える。削られた岩肌が、陽の光を受けてキラキラと光っていた。
「綺麗だ····」
思わず呟いていた。
一息つくと、ベッドに腰を下ろす。……硬い。だが横になると毛布は思ったよりも心地いい。
(大きな街しか大衆浴場がないのがキツイんだよなぁ。なんとか最低限の清潔は保持できてるが、湯につかりたい···)
そんなことをぼんやり考えているうちに、意識がそのまま深く沈んでいった。
どれくらい眠っていたのか——
ドンドンッ!!とけたたましい音が響く。
「おい!起きてるか!」
「……うるせぇ」
体を起こした直後、返事も待たずにドアが開いた。シルだ。
「入るぞ」
(もう入ってるだろ)
「許可なく入るなよ」
「いいから来い」
言葉は完全に無視されたまま、腕を掴まれ、そのまま強引に引っ張られる。
「おい、ちょっと——」
抵抗する間もなく階段を降ろされる。夕暮れ時の薄暗い光の中、目を擦りながら一階へ降りると、店内にダグとリナの姿はなかった。
代わりに外からガタガタと音が聞こえる。
二人で外へ出ると、店の前でダグとリナが壁を水でこすっていた。
「……どうした」
声をかけると、ダグが振り返る。
「ああ、騒がしくしてしまって申し訳ない。少し時間がかかりそうでな。夕飯はもう少し待ってもらえると助かる」
何でもないように言うが···
俺はそのまま壁へ視線を向ける。
そこには無数の落書きがあった。“出ていけ”“大嘘つき一家”“ホラ吹き”——それ以外にも、目を覆いたくなるような罵詈雑言がそこら中に刻まれている。
夕食が遅くなると聞いた瞬間、シルがあからさまに肩を落とし、ガックリとした表情でこちらを見る。
……分かりやすい。
俺は小さくため息をつく。
シルに促されたようで不本意だが、看板に手をあて時間を戻す。
くすんでいた木材が一瞬で艶を取り戻し、ひび割れや汚れが消えていく。
その様子を見て、シルは両手を握りしめながらニコニコとこちらを見ると、今度は壁の方へ顎で示した。
「……チッ」
小さく舌打ちが漏れる。
削れるのはありがたいが、こいつに指図されるのは癪に障る。
俺は落書きだらけの壁へ視線を向けた。
(……ここだけ戻すと、逆に浮くな)
この部分だけが新しくなれば、違和感が目立つ。
どうせやるなら——
(建物ごとか)
そう決めて、壁に手を当てる。
その動きに気づいたダグとリナが、慌ててこちらを見る。
「いけません、汚れますから中へ——」
言いかけた、その瞬間。
パキッ——
小さな音が響く。
続けて、建物全体からパキパキと乾いた音が鳴り始めた。
次の瞬間、壁に刻まれていた落書きが掠れ、滲み、跡形もなく消えていく。削られていた傷は塞がり、くすんでいた木は本来の色を取り戻した。
ダグとリナが息を呑む。
一歩、二歩と後ずさる。
「……な、にを……」
言葉が続かない。
だが変化は止まらない。
軋んでいた板は歪みを戻し、割れは消え、剥がれかけていた塗装も滑らかに整っていく。
屋根や扉、——建物全体が静かに、だが確実に巻き戻されていった。
やがて音が止む。
そこにあったのは、先ほどまでの古ぼけた宿屋ではない。
手入れの行き届いた、温かみのある新築の建物だった。
ダグとリナはただ呆然とそれを見つめている。理解が追いついていないのが、その表情からはっきりと分かった。
——だが。
その二人の背後に、さらに一人。
この夫婦以上に驚愕し、顔から血の気を引かせた人物が、いつの間にか立っていた。




