9話 神様の涙
拳太が社を訪れてから、剛太は夜、なかなか寝付けない日が続いていた。
「シロ、あなたも眠れませんか」
布団の上で寝返りを打つ剛太の隣で、シロもまた、耳をぴんと立てたまま落ち着かない様子を見せていた。
「わふ……」
小さく鳴くシロの声が、いつもより不安げに聞こえる。
剛太は起き上がり、障子を少し開けた。夜の境内は静まり返り、月明かりが石畳を淡く照らしている。武ノ山の稜線が、闇の中にくっきりと黒く浮かび上がっていた。
(今夜は、やけに静かです……)
風もなく、虫の声すらしない。まるで山全体が息を潜めているような、そんな夜だった。
剛太がそのまま座って夜空を眺めていると、ふと、遠くから微かな音が聞こえてきた。
それは、風の音でも、獣の声でもなかった。
――すすり泣くような、低い声。
「……え?」
剛太は思わず息を止めた。耳を澄ますと、その声は確かに、山の奥深くから響いてくる。震えるような、苦しげな、それでいてどこか懐かしいような響き。
『――くるしい――』
『――たすけて――』
声は途切れ途切れに、しかし確かに、言葉の形を成していた。
「シロ、聞こえますか、今の……」
剛太が振り返ると、シロは剛太の膝に頭を寄せ、じっとうずくまっていた。その様子からすると、シロにはあの声が聞こえていないようだった。
(私にだけ、聞こえているのでしょうか……)
剛太は着替えもそこそこに、社の外へ出た。夜気がひやりと肌を撫でる。武ノ山の方角を見上げると、月明かりの下で、山の稜線がわずかに揺らいで見えた。まるで、山そのものが呼吸をしているかのように。
『――武ノ山が、泣いている――』
これまで何度も聞いてきた、あの低い声。だが今夜は、それがはっきりと、本物の泣き声と重なって聞こえてくる。
「一体、誰が……」
剛太は思わず一歩、山の方へ足を踏み出した。だが、その瞬間、背後からふわりと熱気を纏った気配が現れた。
「剛太、こんな夜更けに何をしておる」
「ゾクヤケシャ様……」
振り返ると、いつもの陽気さが嘘のように、真剣な顔をしたゾクヤケシャ様が立っていた。
「聞こえておったのじゃな、あの声が」
「ゾクヤケシャ様にも、聞こえるんですか」
「いや、ワシには聞こえておらぬ。だが、おぬしの顔を見れば分かる。何かを聞いたという顔をしておる」
剛太は震える声で、聞こえたことをそのまま伝えた。すすり泣くような声、「くるしい」「たすけて」という言葉、そして「武ノ山が泣いている」という、あの馴染みの声。
ゾクヤケシャ様は黙って聞き終えると、深く息を吐いた。
「……やはり、そうか」
「やはり、とは?」
「実はなワシも長年、この山にはずっと違和感を覚えておった。誰かが、何かを堪えているような、そんな気配をな」
ゾクヤケシャ様は武ノ山の稜線を見上げた。その瞳に、これまで見たことのない、深い憂いのようなものが浮かんでいる。
「おぬしの祖父が何か知っておるはずじゃ。あの目は、何かを隠しておる者の目じゃった」
「お祖父さまが」
剛太の脳裏に、実家で会った祖父の穏やかな顔が浮かぶ。あの優しい笑顔の奥に、何かが隠されているというのだろうか。
そのとき、剛太の耳に、再びあの声が響いた。今度は、これまでで一番はっきりと。
『――剛太――』
自分の名前を呼ぶ声。剛太は思わず、その場に立ち尽くした。
「私の……名前を……」
「呼ばれたのか、名を」
「はい、確かに」
ゾクヤケシャ様の表情が、さらに硬くなった。
「これは、ただ事ではないぞ」
二人がそのまま、夜の武ノ山を見つめていると、ふと山の中腹、ちょうど東の峰の方角に、一瞬、青白い光がぽつりと灯った。
まるで誰かが、灯籠に火を灯したかのように。
「あれは」
「あの辺りは、確か、古い言い伝えのある場所じゃ。武ノ山を守る神が祀られておるとかいう」
光は数秒でふっと消え、また元の暗闇に戻った。剛太はその余韻を、しばらく見つめ続けていた。
シロが縁側から出てきて、剛太の足元に寄り添う。その体は、心なしか、いつもより温かく感じられた。
「シロ、あなたはもしかして、この山の何かに関わっているんですか」
「わふ……」
シロは答えるように、小さく一声鳴いた。
その目に浮かぶ光が、月明かりを受けて、一瞬だけ人のように見えた気がした。
「剛太、今夜のところは、社に戻って休むといい。今、慌てて動いても、何も分からぬ」
「でも……」
「明日、改めて中峯のところへ話を聞きに行こう。ワシも一緒に行く」
剛太は少し逡巡したが、やがて頷いた。
「わかりました。今夜は、休みます」
社へ戻る道すがら、剛太は何度も武ノ山を振り返った。稜線は、変わらず静かに、闇の中に横たわっている。
だが、そこに何か、大きな秘密が眠っていることを、剛太はもう疑いようがなかった。
布団に入ってからも、剛太はしばらく眠れなかった。シロが隣で丸くなり、規則正しい寝息を立てている。その温かさに、剛太は少しだけ安堵しながら、目を閉じた。
(武ノ山が、泣いている……。そして、私の名前を呼んでいる……)
(この声の正体を、必ず突き止めます)
その決意を胸に、剛太はようやく浅い眠りに落ちていった。
夜明け前、武ノ山の稜線に、再び一瞬だけ、青白い光が灯った。
それを見た者は、この夜、誰もいなかった。




