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恋する巫女は筋肉しか見えない!~神のお告げは百発百中。でも恋だけは毎回大外れ~  作者: たかつど


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10/11

10話 漁師の恋

 

 剛太は約束通り、ゾクヤケシャ様と共に、再び東の峰の実家を訪れていた。


「お祖父さま、この前の夜のことなんですが」


 縁側で茶を出してくれた祖父に向かって、剛太は思い切って切り出した。


「山から聞こえる声のことです。すすり泣くような声で、『くるしい』『たすけて』と最後には、私の名前まで呼ばれました」


 祖父は湯呑みを傾けたまま、しばらく黙っていた。皺の刻まれた顔に、いつもの穏やかさとは違う、何かを堪えるような色が浮かんでいる。


「お祖父さま知っているんですよね。何か」

「……剛太」


 祖父は静かに湯呑みを置いた。


「その声のことは、儂の口からは、まだ話せぬ」

「なぜですか」

「時期が来ておらぬからじゃ」

「時期とはいつのことですか。声はもう何度も聞こえています。今夜にでも、また何か起こるかもしれません」


 剛太が珍しく強い口調で詰め寄ると、祖父はふっと目を伏せた。


「儂とて、何もかも隠しておるわけではない。ただ、お前がまだ知るべきでないことが、この山にはある。それを話すことで、お前に危険が及ぶこともあるやもしれん」

「危険ですか」

「うむ。すべては、然るべき時に、お前自身の目で確かめるべきことじゃ。今、儂が中途半端に語れば、かえってお前を惑わせることになる」


 剛太は納得できないまま、なおも食い下がろうとしたが、隣に座っていたゾクヤケシャ様がそっと肩に手を置いた。


「剛太、中峯がそこまで言うんじゃ。今はいったん、引くのも手じゃぞ」

「ですが」

「案ずるな。何かが起きる前に、ワシも目を光らせておく。中峯それでよろしいかのう」

「うむ、頼む」


 祖父はそう言って、静かに頭を下げた。

 その仕草には、これまで見たことのない、深い重みが感じられた。


「一つだけ、言っておこう」


 祖父が、去り際にぽつりと言葉を継いだ。


「剛太お前が今、麓で積み重ねておる日々、誰かに恋をし、時に失恋し、それでも笑って生きておるその姿は、決して無駄なものではない。いずれ、その心の強さが、この山を救うことになるかもしれん」

「山を救う?」

「今は、それだけ覚えておけばよい」


 祖父はそれ以上何も語らず、屋敷の奥へと戻っていった。剛太はしばらく、その後ろ姿を見つめたまま、動けずにいた。


「結局、何も分かりませんでしたね」

「まあ、そう焦るな。中峯があそこまで言うということは、遠くない未来に、何かが動き出すということじゃろう」


 二人は重い気持ちを抱えたまま、麓への道を戻った。

 しかし、いつまでも塞ぎ込んでいては、日々の仕事にも支障が出る。剛太は途中で気持ちを切り替えるように、大きく伸びをした。


「よし、悩んでいても仕方ありません。今日も社の仕事、頑張ります」

「その切り替えの早さ、本当に大したものじゃな」

「これしか取り柄がありませんから」


 二人が社に戻ると、シロが縁側で待っていて、剛太の顔を見るなり嬉しそうに尻尾を振った。


「シロ、ただいまです」

「わふ!」





 そんな日常を取り戻した数日後のことである。

 境内の入口から、潮の香りをまとった声が響いてきた。


「すいませーん、こちら、お告げをいただける神社ですかい?」


 現れたのは、日に焼けた肌に、まるで岩のように分厚い胸板を持つ男だった。作業用の上着の前をはだけ気味に着ており、胸元から覗く筋肉の隆起は、まさに寄せては返す波のように、大きく力強い。


(この胸板まるで海そのものです、荒々しく、それでいて包み込むような)


「私、この先の港で漁師をしております、波吉と申します」


 波吉と名乗った男は、太い腕を組んで、豪快に笑った。口元から白い歯がキラリと光る。


「ようこそいらっしゃいました! ぜひお告げを差し上げます!」


 剛太は満面の笑みで応じた。ゾクヤケシャ様が社の陰から、興味津々に顔を覗かせる。


「今日はまた、逞しいのが来たのう」

「静かにしてください、これから接客です」


 剛太は表情を整え、波吉を境内に招き入れた。


「実は最近、漁の調子が悪くてね。船を新しくするか、今の船を直して使い続けるか、迷ってるんでさ」

「なるほど、それは神託を仰ぐべき悩みですね」


 剛太は正座し、鈴を取り出した。舞い始める前に、ちらりと波吉の様子を窺う。

 腕を組んだまま、真剣な表情でこちらを見つめている。

 その姿勢だけで、胸の筋肉が盛り上がり、上着の合わせがさらに開く。


(尊い荒波を相手にしてきた者だけが持つ、この分厚さ)


 剛太は雑念を振り払い、鈴を鳴らした。空気が変わり、社に静かな緊張が満ちる。


 舞を始めると、長い袖が風のように揺れ、黒髪が瀧のように流れた。波吉は言葉を失い、じっと見入っている。


「神意を伝えます『古きものを大切にする心に、新しき道が開かれる』」


 舞い終えると、波吉は深く頷いた。


「なるほど、今の船を直して、もう少し頑張ってみますよ」

「それは良い決断だと思います」


 波吉は嬉しそうに笑い、剛太に向かって頭を下げた。

 その拍子に、上着がさらにはだけて、鍛え抜かれた腹筋がちらりと覗く。


(ここにも波が六つに割れた腹筋の、この陰影

 !)


 剛太は懐から、素早く筋肉恋愛帳を取り出した。


『第四恋 波吉さん。胸板★★★★★、腹筋★★★★★。海の男の逞しさ、これまでにない規格』


 その後、波吉は境内の掃除まで手伝ってくれることになった。重い石を軽々と運び、境内の隅々まで整えていく様子に、剛太はまたしても目を奪われる。


 作業の合間、波吉は懐から古ぼけた写真を一枚取り出した。


「実はこれ、俺の相棒でしてね」


 差し出された写真には、波吉が誇らしげに寄りかかる、一艘の古い漁船が写っていた。


「船、ですか」

「ええ。もう十五年も一緒に海に出てる、俺の人生そのものみたいな船なんです。嫁さんも子供もいませんが、この船と一緒なら、それで十分幸せなんです」


 波吉は写真を愛おしそうに見つめた。その眼差しには、確かに深い愛情が滲んでいる。


(既婚ではない、そして、これほどまでに大切なものを、これほど丁寧に扱える人)


 剛太の中で、何かがふつふつと燃え上がった。


(船をここまで大切にできる人なら、きっと、人を愛する時も同じように、大切にしてくれるはずです!)

「あの、波吉さん」

「なんでしょう」

「船をそこまで大切にできる方は、きっと、人のことも同じくらい大切にできるのではないでしょうか」


 剛太は思い切って、波吉に一歩近づいた。


「私、波吉さんのような方になら」

「巫女様」


 波吉が、静かに、しかしはっきりと言葉を遮った。その声には、これまでの豪快さとは違う、穏やかな優しさが滲んでいた。


「気持ちは、嬉しいです。ですが、俺の暮らしは、海の上のものです。潮風に晒され、塩水に手も顔も荒れる。冬は凍えるような寒さの中、網を引く毎日です」

「それくらい、私は構いません」

「巫女様のその白くて綺麗な手を、俺の暮らしの中で、塩水に荒らしてしまうのは、忍びないんです」


 波吉は、剛太の手にちらりと視線を落とした。日々の巫女装束の下、丁寧に保たれてきた白い手。波吉の日に焼けた大きな手とは、あまりに対照的だった。


「巫女様には、この社で、その美しさのまま、多くの人に安らぎを与えていてほしい。俺の隣で、それを潮風に晒すことは、俺にはできません」

「……」


 剛太は、言葉を失った。断られたはずなのに、そこには拒絶というよりも、不器用なほど深い思いやりがあった。


「これは、俺なりの、精一杯の答えです。分かってもらえますかね」

「はい。分かりました」


 剛太は静かに頷いた。悔しさよりも、なぜか温かいものが胸に広がっていく。


(この人は、船だけでなく、私のことまで、大切に考えてくれたんですね)

「波吉さん、ありがとうございます。そんな風に言っていただけて、私は幸せです」

「巫女様」

「またぜひ、お告げが必要な時は、いらしてください」


 剛太は精一杯の笑顔で、波吉を見送った。

 潮の香りを残しながら、波吉は山を下りていく。その背中が見えなくなると、剛太はゆっくりと縁側に座り込んだ。


「まさかの、優しさで振られました」

「潔く諦めた顔をしておるな」

「振られ方にも、色々あるんだと知りました。今回のは、悪くない振られ方でした」


 剛太は帳面を取り出し、静かに書き加えた。


『第四恋 波吉さん。胸板★★★★★、腹筋★★★★★。この手を荒らしたくないという理由で、丁重にお断りされる。優しさゆえの失恋。記録として、最上級の敬意を表す』


「その敬意の表し方、毎回変わっておるのう」

「相手に合わせて、敬意の形も変わるものです」


 夕暮れの中、シロが縁側に上ってきて、剛太の膝に頭を乗せた。

 剛太はその温かさに、小さく笑みをこぼす。


「今日もまた、一つ恋が終わりました。でも、悪くない一日でした」

「次はどんな筋肉が来るかのう」

「楽しみにしています」


 二人の笑い声が、静かに暮れていく武ノ山の麓に響いた。

 だが、剛太の心の隅には、祖父の言葉と、あの夜に聞いた声が、まだ静かに残り続けていた。


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