10話 漁師の恋
剛太は約束通り、ゾクヤケシャ様と共に、再び東の峰の実家を訪れていた。
「お祖父さま、この前の夜のことなんですが」
縁側で茶を出してくれた祖父に向かって、剛太は思い切って切り出した。
「山から聞こえる声のことです。すすり泣くような声で、『くるしい』『たすけて』と最後には、私の名前まで呼ばれました」
祖父は湯呑みを傾けたまま、しばらく黙っていた。皺の刻まれた顔に、いつもの穏やかさとは違う、何かを堪えるような色が浮かんでいる。
「お祖父さま知っているんですよね。何か」
「……剛太」
祖父は静かに湯呑みを置いた。
「その声のことは、儂の口からは、まだ話せぬ」
「なぜですか」
「時期が来ておらぬからじゃ」
「時期とはいつのことですか。声はもう何度も聞こえています。今夜にでも、また何か起こるかもしれません」
剛太が珍しく強い口調で詰め寄ると、祖父はふっと目を伏せた。
「儂とて、何もかも隠しておるわけではない。ただ、お前がまだ知るべきでないことが、この山にはある。それを話すことで、お前に危険が及ぶこともあるやもしれん」
「危険ですか」
「うむ。すべては、然るべき時に、お前自身の目で確かめるべきことじゃ。今、儂が中途半端に語れば、かえってお前を惑わせることになる」
剛太は納得できないまま、なおも食い下がろうとしたが、隣に座っていたゾクヤケシャ様がそっと肩に手を置いた。
「剛太、中峯がそこまで言うんじゃ。今はいったん、引くのも手じゃぞ」
「ですが」
「案ずるな。何かが起きる前に、ワシも目を光らせておく。中峯それでよろしいかのう」
「うむ、頼む」
祖父はそう言って、静かに頭を下げた。
その仕草には、これまで見たことのない、深い重みが感じられた。
「一つだけ、言っておこう」
祖父が、去り際にぽつりと言葉を継いだ。
「剛太お前が今、麓で積み重ねておる日々、誰かに恋をし、時に失恋し、それでも笑って生きておるその姿は、決して無駄なものではない。いずれ、その心の強さが、この山を救うことになるかもしれん」
「山を救う?」
「今は、それだけ覚えておけばよい」
祖父はそれ以上何も語らず、屋敷の奥へと戻っていった。剛太はしばらく、その後ろ姿を見つめたまま、動けずにいた。
「結局、何も分かりませんでしたね」
「まあ、そう焦るな。中峯があそこまで言うということは、遠くない未来に、何かが動き出すということじゃろう」
二人は重い気持ちを抱えたまま、麓への道を戻った。
しかし、いつまでも塞ぎ込んでいては、日々の仕事にも支障が出る。剛太は途中で気持ちを切り替えるように、大きく伸びをした。
「よし、悩んでいても仕方ありません。今日も社の仕事、頑張ります」
「その切り替えの早さ、本当に大したものじゃな」
「これしか取り柄がありませんから」
二人が社に戻ると、シロが縁側で待っていて、剛太の顔を見るなり嬉しそうに尻尾を振った。
「シロ、ただいまです」
「わふ!」
そんな日常を取り戻した数日後のことである。
境内の入口から、潮の香りをまとった声が響いてきた。
「すいませーん、こちら、お告げをいただける神社ですかい?」
現れたのは、日に焼けた肌に、まるで岩のように分厚い胸板を持つ男だった。作業用の上着の前をはだけ気味に着ており、胸元から覗く筋肉の隆起は、まさに寄せては返す波のように、大きく力強い。
(この胸板まるで海そのものです、荒々しく、それでいて包み込むような)
「私、この先の港で漁師をしております、波吉と申します」
波吉と名乗った男は、太い腕を組んで、豪快に笑った。口元から白い歯がキラリと光る。
「ようこそいらっしゃいました! ぜひお告げを差し上げます!」
剛太は満面の笑みで応じた。ゾクヤケシャ様が社の陰から、興味津々に顔を覗かせる。
「今日はまた、逞しいのが来たのう」
「静かにしてください、これから接客です」
剛太は表情を整え、波吉を境内に招き入れた。
「実は最近、漁の調子が悪くてね。船を新しくするか、今の船を直して使い続けるか、迷ってるんでさ」
「なるほど、それは神託を仰ぐべき悩みですね」
剛太は正座し、鈴を取り出した。舞い始める前に、ちらりと波吉の様子を窺う。
腕を組んだまま、真剣な表情でこちらを見つめている。
その姿勢だけで、胸の筋肉が盛り上がり、上着の合わせがさらに開く。
(尊い荒波を相手にしてきた者だけが持つ、この分厚さ)
剛太は雑念を振り払い、鈴を鳴らした。空気が変わり、社に静かな緊張が満ちる。
舞を始めると、長い袖が風のように揺れ、黒髪が瀧のように流れた。波吉は言葉を失い、じっと見入っている。
「神意を伝えます『古きものを大切にする心に、新しき道が開かれる』」
舞い終えると、波吉は深く頷いた。
「なるほど、今の船を直して、もう少し頑張ってみますよ」
「それは良い決断だと思います」
波吉は嬉しそうに笑い、剛太に向かって頭を下げた。
その拍子に、上着がさらにはだけて、鍛え抜かれた腹筋がちらりと覗く。
(ここにも波が六つに割れた腹筋の、この陰影
!)
剛太は懐から、素早く筋肉恋愛帳を取り出した。
『第四恋 波吉さん。胸板★★★★★、腹筋★★★★★。海の男の逞しさ、これまでにない規格』
その後、波吉は境内の掃除まで手伝ってくれることになった。重い石を軽々と運び、境内の隅々まで整えていく様子に、剛太はまたしても目を奪われる。
作業の合間、波吉は懐から古ぼけた写真を一枚取り出した。
「実はこれ、俺の相棒でしてね」
差し出された写真には、波吉が誇らしげに寄りかかる、一艘の古い漁船が写っていた。
「船、ですか」
「ええ。もう十五年も一緒に海に出てる、俺の人生そのものみたいな船なんです。嫁さんも子供もいませんが、この船と一緒なら、それで十分幸せなんです」
波吉は写真を愛おしそうに見つめた。その眼差しには、確かに深い愛情が滲んでいる。
(既婚ではない、そして、これほどまでに大切なものを、これほど丁寧に扱える人)
剛太の中で、何かがふつふつと燃え上がった。
(船をここまで大切にできる人なら、きっと、人を愛する時も同じように、大切にしてくれるはずです!)
「あの、波吉さん」
「なんでしょう」
「船をそこまで大切にできる方は、きっと、人のことも同じくらい大切にできるのではないでしょうか」
剛太は思い切って、波吉に一歩近づいた。
「私、波吉さんのような方になら」
「巫女様」
波吉が、静かに、しかしはっきりと言葉を遮った。その声には、これまでの豪快さとは違う、穏やかな優しさが滲んでいた。
「気持ちは、嬉しいです。ですが、俺の暮らしは、海の上のものです。潮風に晒され、塩水に手も顔も荒れる。冬は凍えるような寒さの中、網を引く毎日です」
「それくらい、私は構いません」
「巫女様のその白くて綺麗な手を、俺の暮らしの中で、塩水に荒らしてしまうのは、忍びないんです」
波吉は、剛太の手にちらりと視線を落とした。日々の巫女装束の下、丁寧に保たれてきた白い手。波吉の日に焼けた大きな手とは、あまりに対照的だった。
「巫女様には、この社で、その美しさのまま、多くの人に安らぎを与えていてほしい。俺の隣で、それを潮風に晒すことは、俺にはできません」
「……」
剛太は、言葉を失った。断られたはずなのに、そこには拒絶というよりも、不器用なほど深い思いやりがあった。
「これは、俺なりの、精一杯の答えです。分かってもらえますかね」
「はい。分かりました」
剛太は静かに頷いた。悔しさよりも、なぜか温かいものが胸に広がっていく。
(この人は、船だけでなく、私のことまで、大切に考えてくれたんですね)
「波吉さん、ありがとうございます。そんな風に言っていただけて、私は幸せです」
「巫女様」
「またぜひ、お告げが必要な時は、いらしてください」
剛太は精一杯の笑顔で、波吉を見送った。
潮の香りを残しながら、波吉は山を下りていく。その背中が見えなくなると、剛太はゆっくりと縁側に座り込んだ。
「まさかの、優しさで振られました」
「潔く諦めた顔をしておるな」
「振られ方にも、色々あるんだと知りました。今回のは、悪くない振られ方でした」
剛太は帳面を取り出し、静かに書き加えた。
『第四恋 波吉さん。胸板★★★★★、腹筋★★★★★。この手を荒らしたくないという理由で、丁重にお断りされる。優しさゆえの失恋。記録として、最上級の敬意を表す』
「その敬意の表し方、毎回変わっておるのう」
「相手に合わせて、敬意の形も変わるものです」
夕暮れの中、シロが縁側に上ってきて、剛太の膝に頭を乗せた。
剛太はその温かさに、小さく笑みをこぼす。
「今日もまた、一つ恋が終わりました。でも、悪くない一日でした」
「次はどんな筋肉が来るかのう」
「楽しみにしています」
二人の笑い声が、静かに暮れていく武ノ山の麓に響いた。
だが、剛太の心の隅には、祖父の言葉と、あの夜に聞いた声が、まだ静かに残り続けていた。




