11 話 温泉と男湯
「剛太、たまには息抜きも必要じゃぞ」
ある日の昼下がり、ゾクヤケシャ様がそう言って、剛太の肩をぽんと叩いた。
「息抜き、ですか」
「うむ。ここのところ、色々とあったからのう。今日は温泉にでも行くとしよう」
「温泉いいですね、行きます」
剛太は二つ返事で頷いた。
シロを社の留守番に任せ、二人は山の中腹にある湯治場へと向かった。
武ノ山の地熱を利用した古くからの温泉で、地元の者たちからは「山の恵み」として親しまれている場所だ。
「ここの湯は、疲れた体にも心にも効くんじゃ」
「お祖父さまのこと、まだ引きずっていたのが分かりますか」
「顔に出ておったぞ、ずっとな」
剛太は苦笑しながら、湯治場の暖簾をくぐった。
脱衣所で装束を解きながら、剛太は小さく息を吸い、指先に淡い力を込めた。
天狗に伝わる幻影の術、男の体を、女のものへと見せかける、剛太にとっては巫女業に欠かせない技である。
(よし、これで大丈夫です)
鏡に映る自分の姿が、するりと変化する。地元でも評判の、あの美しい巫女の体つきへ。
長年かけて磨いた術のおかげで、見た目だけならどこから見ても、完璧な女性の体である。
もっとも、その正体を知っているのは、この山ではゾクヤケシャ様と家族くらいのものだった。
「毎回、器用に使いおるのう、その術」
「女湯に入るためには、これくらいの努力は必要です」
「それより堂々と男湯に入って、筋肉を拝んだ方が早くないか」
「それは職務放棄です。私は巫女として、女性として、この温泉を利用します」
剛太はきっぱりと言い切って、湯殿へと向かった。長い黒髪を一つに束ね、幻影で整えられた白い体を湯気の向こうに沈めると、じんわりとした熱が体の芯まで染み渡っていく。
「はあ……生き返ります」
「じゃろう。ここの湯は格別じゃ」
ゾクヤケシャ様も隣の湯船に入り、満足げに息を吐いた。燃えるような赤い髪が、湯気に濡れてしっとりと肩に張り付いている。
しばらく無言で湯を楽しんでいたが、やがてゾクヤケシャ様がにやりと笑った。
「さて、剛太。恋愛談義といこうかのう」
「来ましたね、この流れ」
「温泉といえば、これじゃろう。まずは、この前の波吉のことじゃ。あれは、なかなかいい振られ方じゃったのう」
「ええ、正直、あんな風に断られるとは思っていませんでした。手を荒らしたくないから、なんて」
「潔い男じゃったな。ああいう不器用な優しさ、ワシは嫌いじゃないぞ」
「私も、悪くないと思いました。振られたのに、なぜか温かい気持ちになれたのは、初めてかもしれません」
剛太は湯の水面に映る自分の顔を見つめながら、静かに呟いた。
「今まで、失恋するたびに『合掌』なんて書いて、笑い飛ばしてきましたが、今回だけは、少し違う気持ちで帳面に書きました」
「ほう、成長したのう、剛太」
「成長というか、相手の気持ちを、初めてちゃんと想像できた気がします」
「その調子じゃ。恋は数をこなすだけでは磨かれん。一つ一つの出会いから、何かを学ぶことが大事なんじゃぞ」
「ゾクヤケシャ様も、そうやって学んできたんですか」
「当然じゃ。ワシの人生、恋も料理もエロも、すべて経験の積み重ねじゃからな」
剛太は思わず噴き出した。
「最後だけ台無しです」
「本音を隠すのも面倒じゃろう。ワシは正直に生きておるだけじゃ」
二人はしばらく、湯に浸かりながら他愛のない話を続けた。
これまでの恋の記録を、ゾクヤケシャ様は面白がって振り返る。
「しかし、おぬしもよく懲りずに恋を続けるのう。三連続で、相手に別の大切な存在がおったというのに」
「懲りていないわけではありません。でも、恋をすることそのものが、私にとっては生きている実感なんです」
「実感、か」
「筋肉を見て、心臓が跳ねて、失恋して、泣いて、また次の日には別の筋肉に恋をする。滑稽かもしれませんが、それが私の生き方です」
剛太が真剣な顔で言うので、ゾクヤケシャ様は少し驚いたように目を見開いた。
「おぬし、たまにそうやって、妙に達観したことを言うのう」
「たまには真面目にもなります」
「まあ、それがおぬしの魅力でもあるがな」
湯気の向こうから、ふと別の湯治客の話し声が聞こえてきた。男湯の方から、賑やかな笑い声が響いてくる。
「今日は男湯の方も賑わっておるようじゃな」
「地元の力仕事の方々が、よく利用されるみたいです」
剛太の耳が、思わずぴくりと動いた。
(男湯そこには、きっと様々な筋肉が)
「これこれ、剛太。今、良からぬことを考えておったじゃろう」
「い、いえ、そんなことは」
「顔に出ておるぞ。『覗きたい』と書いてある」
「書いてありません! 思っていただけです!」
「同じことじゃ」
ゾクヤケシャ様が呆れたように笑うと、剛太も観念したように肩を落とした。
「わかっています。覗くようなことはしません。それは、巫女としての矜持に反します」
「殊勝なことじゃな」
「それに、勝手に覗くよりも、正々堂々と出会う方が、私の性分に合っています」
「まあ、それはそれで、おぬしらしいのう」
二人は湯からゆっくりと上がり、休憩処で冷たい水を飲みながら涼んだ。
窓の外には、武ノ山の緑が広がっている。
「そういえば、ゾクヤケシャ様には、これまで恋をしたことはないんですか」
剛太がふと尋ねると、ゾクヤケシャ様は少し遠い目をした。
「あるにはあるさ。もう随分と昔の話じゃがな」
「聞いてもいいですか」
「今日はやめておこう。その話は、また今度、湯にでも浸かりながらな」
どこか含みのある言い方に、剛太は少し気になったが、それ以上は追及しなかった。
「わかりました。楽しみにしています」
夕方近くになり、二人は湯治場を後にした。
山道を下りながら、剛太はすっかり軽くなった心地で、大きく伸びをした。
「ああ、すっきりしました。今日は本当にありがとうございます、ゾクヤケシャ様」
「たまにはこういう日も必要じゃ。おぬし、根を詰めすぎるところがあるからのう」
「気をつけます」
夕暮れの空を見上げると、武ノ山の稜線が、今日はいつもより穏やかに見えた。
あの夜の不穏な気配は、今のところ、鳴りを潜めているようだった。
「今日くらいは、何も起こらなければいいですね」
「そうじゃな」
二人は並んで、静かな山道を下っていった。
湯上がりの肌に、夕風が心地よく吹き抜けていく。
束の間の、穏やかな一日だった。




