6話 鍛冶屋の恋
樹海から連れ帰った犬は、「シロ」と名付けられ、社の縁側にちょこんと座るのが日課になった。
「シロ、お客さんが来たらすぐに教えてくださいね」
「わふ」
賢そうに鳴くシロの頭を撫でながら、剛太は縁側で伸びをした。今日は珍しく相談者もなく、のんびりとした時間が流れている。
「今日もムキムキ筋肉さんが来てくれるでしょうか」
朝の掃き掃除をしながら、剛太はうきうきと呟いた。シロが縁側から、こてん、と首をかしげてこちらを見ている。
「シロ、変な意味じゃないんです。これは私の生業に近い研究なんです」
「わふ」
シロが訳が分からないという顔で鳴いた。
そこへ、境内の入口から、じゃきん、と重い足音が響いてきた。
「すみません、こちらは武ノ山神社でしょうか」
現れたのは、背は高くないが、肩幅が異様に広い男だった。
上半身には作業用の前掛け、腕は太く、肘から手首にかけて筋の入り方がはっきりと見て取れる。
両手で、何やら大きな布包みを大事そうに抱えていた。
「私、麓で鍛冶屋をしている者です。近くまで来たので、ご挨拶をと思って」
(腕、この腕の筋の入り方、まるで彫刻のようです)
剛太の目が、瞬時にその腕へ吸い寄せられる。掃除の手が思わず止まった。
「ようこそいらっしゃいました! 鍛冶屋さんですか、すごいですね!」
「いえ、大したことないですよ。今日は、実はこれをお渡ししたくて」
男の名は源治と名乗ったが布を解くと、中から現れたのは、両手でようやく抱えられるほどの大きさの、見事な本坪鈴だった。
表面には精緻な唐草模様が打ち出され、鈍く光る金属の重厚感が、ずしりとした存在感を放っている。
「わあ……こんなに立派な本坪鈴、初めて見ました!」
「社の鈴が古くなっていたのを見かけて、これなら参拝の方にも喜んでもらえるかと思い、打たせてもらいました」
「ありがとうございます! こんな大きな鈴、どこに取り付ければ……」
「社殿の前に鈴紐を垂らして、そこに結び付けるのが一般的ですね。もしよければ、私が取り付けまでお手伝いします」
「本当ですか! 助かります!」
剛太は満面の笑みで頷いた。もちろん本音は「筋肉を見学できる」という喜びが大きい。
源治は早速、道具箱から太い鈴紐を取り出した。社殿の軒先に、脚立を立てかけて登っていく。
いよいよ本坪鈴の取り付け作業が始まる。源治が脚立に上り、軒先の金具に鈴紐を通す。
だが、本坪鈴自体の重さがかなりのもので、一人で持ち上げながら結び付けるのは容易ではなかった。
「巫女様、すみませんが、下から鈴を支えていただけますか。私が上から紐を結びますので」
「はい、任せてください!」
剛太は両手で本坪鈴を抱え、脚立の下でしっかりと支えた。源治が紐を通しながら、少しずつ鈴を引き上げていく。
「もう少し、そのまま持ち上げてもらえますか」
「こ、こうですか」
剛太は爪先立ちになりながら、両腕を目一杯伸ばして鈴を支えた。
ずしりと重い金属の感触が、腕にじんと伝わってくる。源治も脚立の上で身を乗り出し、紐を結ぶために腕を伸ばしていた。
その瞬間だった。
「あっ――」
脚立の脚が、地面のわずかな凹凸に取られてぐらりと揺れた。
「危ない!」
源治が咄嗟に脚立から飛び降り、剛太を抱えるようにして本坪鈴もろとも体を支える。
しかし勢い余って、二人はそのまま縁側の方向へ倒れ込んでしまった。
「きゃっ……!」
どすん、と鈍い音。
剛太は仰向けに倒れ込み、その上に源治が覆いかぶさるような体勢になっていた。
間には本坪鈴が挟まらないよう、源治が咄嗟に横へ転がしていたので、幸い怪我はない。
だが
「だ、大丈夫ですか、巫女様」
源治の顔が、思いのほか近くにあった。
額には汗が浮かび、荒い息が剛太の頬にかかる。
両腕が剛太の体の両脇について、上から見下ろす格好になっていた。
作業着の胸元から覗く筋肉が、間近で見るとより一層、迫力を増している。
(こ、これは……これはまさに、押し倒されるという状況では……!)
剛太の心臓が、これまでにないほど激しく高鳴った。
「す、すみません、勢いで……」
「い、いえ……」
剛太はとっさに何と返せばいいか分からず、ただ源治の顔を見上げていた。
日に焼けた肌、太い眉、そして間近で見る瞳の奥に、心配そうな色が浮かんでいる。
どちらからともなく、二人の間に妙な沈黙が流れた。風が境内の木々を揺らし、遠くで本坪鈴が、地面に転がったまま小さく鳴っている。
二人は見つめ合ったまま動けないでいた。
(これは……もしかして……)
剛太の瞼が、無意識のうちに、ゆっくりと閉じていく。
源治の顔が、少しずつ、剛太の顔へと近づいていった。
「で、どうじゃった?愛と筋肉の進展は?」
突然、頭上から場違いに明るい声が降ってきた。
「ゾクヤケシャ様!!」
剛太は勢いよく飛び起きた。源治も驚いて体を離し、慌てて立ち上がる。
社の屋根の上に、いつの間にかゾクヤケシャ様がちょこんと座り、ニヤニヤとした笑みでこちらを見下ろしていた。
「タイミング悪すぎです!!」
「いやいや、実にいいタイミングじゃったと思うがのう。もう少しで、続きが見られそうじゃったのに」
「見なくていいです!」
剛太は真っ赤な顔で怒鳴った。
源治は気まずそうに、二人を交互に見ている。
「あ、あの、大丈夫ですか、巫女様。脚立が倒れて、申し訳ありませんでした」
「だ、大丈夫です! お怪我はありませんでしたか?」
「私は平気です。本坪鈴の方も、無事のようですね」
地面に転がった本坪鈴を拾い上げ、源治は苦笑した。剛太は必死に平静を装いながら、内心では嵐のような動揺が渦巻いていた。
(あと少しであと少しで、何かが起きるところでした、いえ、いけません。落ち着くのです、私!)
気を取り直した二人は、改めて慎重に本坪鈴を取り付けることにした。
今度は源治が脚立にしっかりと固定具を使い、剛太は少し離れた場所から見守る形にする。
「よし、これで完成です」
源治が紐を固く結び、脚立を下りてくる。試しに紐を引くと、大きく澄んだ音が境内に響き渡った。
「わあ、とても綺麗な音ですね」
「これなら、参拝の方にも喜んでもらえると思います」
剛太は満足げに頷きながら、心の中ではまだ先ほどの余韻を引きずっていた。
「あの、もう一つお伺いしても、お仕事の御守り、必要ではないでしょうか? 力仕事の安全を祈願する御守りなど」
「それはぜひお願いしたいです」
「では、お作りしますので、少しお待ちください」
剛太は社の奥へ向かい、御守りを見繕いながら、少しだけ心を弾ませていた。
(御守りを渡すときに、また手が触れる機会が生まれます、作戦は順調です。)
御守りを手に戻ると、源治がちょうど携帯電話を取り出して、誰かと話しているところだった。
「うん、うん。今日、社の修理の手伝いに来たんだ。え、明日の式場の下見? うん、分かった、時間作るよ」
「式場ですか?」
剛太が思わず口を挟むと、源治は少し照れたように笑った。
「実は来月、結婚するんです。今は式場の準備で忙しくて。今日はその前に、日頃お世話になっているこの辺りの神社に、お礼がしたくて寄らせてもらいました」
「結婚」
剛太の手から、御守りがぽろりと落ちた。
「あ、すみません、大丈夫ですか」
「い、いえ、大丈夫です。手が滑ってしまいました」
剛太はぎこちない笑顔を浮かべながら、御守りを拾い上げた。
(婚約者いえ、もう結婚間近、鍛冶で鍛えられたあの筋肉は、もう誰かのものだったんですね。さっきのあの体勢は、期待しちゃったじゃないですか)
「これ、御守りです。お仕事の安全と、それから」
剛太は少し言葉を切って、微笑んだ。
「幸せな結婚生活を、心よりお祈りいたします」
「ありがとうございます、巫女様」
源治は嬉しそうに御守りを受け取り、新しく取り付けられた本坪鈴を見上げて、満足げに笑った。
「この鈴、末永く大事にしてください」
「はい、必ず」
源治が頭を下げて山を下りていくのを、剛太は静かに見送った。
その背中が見えなくなると、剛太はへなへなと縁側に座り込んだ。
「婚約者持ちでした」
「今回は既婚一歩手前じゃったな。それに、なかなか良い雰囲気にもなっておったではないか」
「あれは事故です! 脚立が倒れただけです!」
「事故にしては、随分と目を閉じておったのう」
「見てないでください!」
剛太は顔を真っ赤にして抗議した。ゾクヤケシャ様は屋根の上から下りてきて、にやにやと笑いながら剛太の隣に座る。
「まあまあ、今回は本坪鈴という良い置き土産もあったではないか」
「それはそうですが」
剛太は帳面を取り出し、震える手で書き加える。
『第三恋 源治さん。腕★★★★★。来月結婚予定。脚立が倒れた際、危うく何かが起こりかけたが未遂に終わる。健吾さんに続き、二連続で幸せな家庭を持つ男性に恋をしてしまった。研究対象の選定方法を見直すべきかもしれない』
「見直すのか」
「見直しません。次もきっと、同じように恋をします」
「変わらんのう、おぬしは」
夕暮れの中、新しく取り付けられた本坪鈴が、風に揺れて澄んだ音を立てた。その音を聞きながら、剛太は静かに息を吐いた。
「まあ、いいんです。今日もいい腕に出会えましたし、あんな体勢まで経験できましたから」
「その切り替えの早さ、いつか賞状をあげたいくらいじゃな」
「賞状より、次の恋を紹介してくれる方がありがたいです」
「注文が多いのう」
二人の笑い声が、夕暮れの山に響いていく。
シロが縁側でくうくうと鳴きながら、その様子を眺めていた。




