5話 犬神様と迷子
翌朝、剛太は首輪を懐に入れて、社の前に立っていた。
「本当に行くのか、樹海の入口まで」
「行きます。この首輪の子、きっとまだ迷っているはずです」
剛太はきっぱりと言い切った。ゾクヤケシャ様は少し渋い顔をしたが、結局は隣についてくることにした。
「あそこは『入ったら出られない』と噂される場所じゃぞ。奥まで行くつもりはないのじゃろうな」
「入口の周りを見て回るだけです。無理はしません」
二人は連れ立って山道を下り、樹海の入口へと向かった。
樹海は、武ノ山神社とは反対方向の武ノ山の麓にある。
遠目には普通の森のように見えるが近づくにつれ、木々の密度が異様に高くなり、光がほとんど地面まで届かなくなっていく。
空気もどこか湿り、ひやりとした重さを帯びていた。
「うう……なんだか、いつもより空気が重いです」
「気のせいではないと思うぞ。ワシもさっきから、なんとなく肌がぞわぞわする」
剛太は首輪をぎゅっと握り、樹海の縁を歩き始めた。
「わんちゃーん! どこにいますか!」
声を張って呼びかけてみるが、返ってくるのは風が木々を鳴らす音だけだった。
「真木さんが見かけたのは、確かこの辺りだったはずですが……」
剛太が周囲を見回しながら進んでいくと、木の根元に小さな足跡を見つけた。
犬のものと思われる、小さく丸い足跡が、樹海の奥へと続いている。
「見つけました! この足跡です!」
「おお、なかなかの目利きじゃな」
二人は足跡をたどって、樹海の縁をゆっくりと進んでいった。木漏れ日がまばらに落ちる中、足跡は蛇行しながら奥へと続いている。
しばらく進むと、ふと剛太の背筋に、ぞくりとした感覚が走った。
(誰か、見ています?)
振り返っても、そこには木々が並んでいるだけだった。
だが、確かに視線を感じる。無言で、じっと、こちらを見つめてくるような気配。
「ゾクヤケシャ様、今、何か……」
「うむ。ワシも今、気づいた。何かが、こっちを見ておる」
ゾクヤケシャ様の声が、いつもの軽さを失っている。剛太は思わず一歩、後ろに下がった。
そのとき、木の陰から、小さな影が飛び出してきた。
「わっ!」
白い毛並みの小さな犬が、剛太たちの目の前をすり抜け、また別の木の陰へ隠れてしまう。
「あ、今の子です!」
剛太は追いかけようとしたが、犬は用心深く、なかなか近づかせてくれない。
何度か呼びかけ、根気強く距離を詰めていくと、ようやく犬は木の根元でうずくまるように止まった。
「怖がらせてごめんね。この首輪、あなたのでしょう?」
剛太がしゃがみ込み、そっと首輪を差し出す。
犬はしばらく剛太の顔を見つめ、それからゆっくりと近づいてきた。
「よかった無事で」
剛太が首輪を巻いてやると、犬は小さく尾を振った。丸い目が、剛太をじっと見上げている。
「この犬、なんだか普通の犬とは違う気がするのう」
ゾクヤケシャ様がしゃがみ込んで、犬をじっと観察する。
剛太もよく見ると、犬の目の奥に、獣とは思えない、妙に澄んだ知性のようなものが浮かんでいる気がした。
「まさか、この子が、神託の『犬』なんでしょうか」
「わからんが、この樹海で普通の犬が生き延びるのは、そう簡単なことではないぞ」
犬は剛太の手の甲を、そっと舐めた。その瞬間、剛太の耳の奥に、また例の低い声が響いた。
『武ノ山が、泣いている』
剛太は思わず息を止めた。
(また、この声この子が来てから、余計に強く聞こえます)
「剛太?」
「い、いえ、なんでもありません」
剛太は動揺を隠しながら、犬をそっと抱き上げた。
ずいぶんと軽く、温かい。普通の犬と何が違うのか、うまく言葉にできないが、確かに何かが違う、そんな感覚が拭えなかった。
そのとき、樹海の奥の方から、微かに何かがざわめく音がした。
葉が擦れる音でも、風の音でもない。もっと重く、地を這うような音だった。
「長居をしすぎたのう。戻るか。」
ゾクヤケシャ様が警戒するように珍しく真剣な声で言った。
剛太も無言で頷き、犬を抱いたまま、来た道を早足で戻り始める。
樹海の縁を離れ、山道に出た瞬間、二人はほっと息をついた。
「もう、なんだったんでしょう、あの気配」
「わからんが、ワシは長く生きておるが、あの樹海がこんな風に『見てくる』のは初めてじゃ」
剛太は抱いた犬を見下ろした。
犬はすっかり安心したように、剛太の腕の中でくうくうと眠っている。
「この子、飼い主が見つかるまで、社で預かろうと思います」
「賢明な判断じゃな。それに」
ゾクヤケシャ様が犬をじっと見つめる。
「この犬、なんとなく、山の匂いがする」
「山の匂い、ですか?」
「うむ。武ノ山のな。普通の犬とは、ちと違う気がする」
剛太はもう一度、犬をよく見た。真っ白な毛並み、丸い黒い目、そして首元の毛の下に、うっすらと見える不思議な文様のようなもの。
(これは、ただの迷い犬、ではないのかもしれません)
社へ戻る道中、剛太の懐で首輪の鈴が、ちりんと小さく鳴った。
その音に応えるように、遠く武ノ山の方角から、また風が低く鳴った。
まるで、山そのものが、何かを呼びかけているような、そんな気がしてならなかった。
剛太はまだ知らない。
この小さな犬が、これから始まる大きな物語の、最初の欠片であることを。




