3話 恋、三日目
三日目の朝。
剛太は誰よりも早く起き、鏡の前で身支度を整えた。いつもより念入りに髪を整え、心なしか唇にも艶を仕込む。
(今日も健吾さんが来る。あの日の、あの抱きとめられた感触……)
思い出すだけで頬が熱くなる。あれから二日、健吾は毎日社にやって来て、修繕を続けていた。
そのたびに剛太は湯呑みを運び、手拭いを渡し、時には木材を一緒に運びながら、着実に距離を詰めていると、本人は確信していた。
「健吾さん、おはようございます」
剛太が声をかけると、健吾は道具箱を担いだまま笑顔で振り返った。
「おはようございます、巫女様。今日もよろしくお願いします」
挨拶を交わしながら差し出された手を、剛太はふと見つめた。健吾の右手の親指の付け根に、小さな切り傷があった。まだ赤みが残り、少し血が滲んでいる。
「健吾さん、その傷」
「ああ、これですか。昨日、資材を切っているときにちょっと」
「ちょっと、じゃないです。血が出ているじゃないですか」
「大したことないですよ。この程度、いつものことなので」
健吾は笑って手を引こうとした。だが剛太は、思わずその手を掴んでしまった。
「あ」
自分の行動に、剛太自身が一番驚いていた。健吾の手は、思っていたよりも大きく、硬く、そして温かかった。
傷のある親指の付け根を、剛太の指がそっと包み込んでいる。
「巫女様?」
「だ、大したことなくても、放っておいたら悪化するかもしれません。少し診せてください」
剛太は健吾の手を両手で持ち上げ、傷口を覗き込んだ。近づいた分だけ、健吾の顔も近くなる。
二人の距離は、いつの間にか驚くほど狭まっていた。
健吾が、じっとこちらを見下ろしている。剛太もつい、視線を上げてしまった。
その瞬間、時が止まったような静けさが二人の間に流れた。
風が境内の木々をさらさらと揺らし、朝の光が二人の影を長く伸ばす。健吾の瞳の奥に、自分の姿が映っているのが見えた。
剛太の心臓が、痛いくらいに強く跳ねる。
(これは、これは、なんという状況でしょうか)
健吾の視線が、剛太の顔をゆっくりとなぞる。恥ずかしいくらいに真っ直ぐな視線だった。
剛太は逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ちが同時に押し寄せて、身動きが取れなくなる。
「巫女様は、お優しいですね」
「そ、そんなことは、当たり前のことをしているだけです」
剛太の声が、いつもより高くなる。健吾はふっと笑い、それ以上何も言わなかった。
ただ、その笑顔が、これまでのどんな瞬間よりも甘く見えた。
剛太は慌てて懐から絆創膏を取り出した。以前から社に常備していたもので、こんな時のためにあったのかと、今さらながらに感謝したくなる。
「動かさないでくださいね」
「はい」
絆創膏を丁寧に貼る間、健吾は素直に手を差し出したまま、じっと剛太の手先を見つめていた。
剛太の指が傷口の周りをそっと押さえ、絆創膏の端をきゅっと留める。
その一つ一つの動作に、健吾の視線が絡みついているのがわかる。
貼り終えても、しばらく手を離せなかった。
「できました」
「ありがとうございます、巫女様」
健吾がゆっくりと手を引く。剛太の指先に、健吾の手の温度がまだ残っているような気がした。
(尊い、いえ、尊いだけでは済まされない何かが、今、確かにありました)
剛太は頬が熱くなるのを感じながら、そっと目を逸らした。健吾も同じように、少し照れたように視線を逸らしている。
「さ、さあ、お仕事に戻りましょう!今日は縁側の板を全部張り替えるんですよね!」
「あ、はい、そうですね」
二人は同時に、少しぎこちない笑顔を浮かべた。
その様子を、社の陰からゾクヤケシャ様がじーっと見つめていた。
「ほほう、朝から糖分過多じゃのう」
誰にも聞かれぬよう、そう呟いて、にんまりと笑みを浮かべる。
剛太は気づかないまま、まだ胸の高鳴りを抑えられずにいた。
木槌を握る健吾の手の甲に、太い筋が浮いているのを見て、内心でまた小さく歓声を上げる。
(甲筋、手の甲にも筋肉というものがあったとは、新境地です)
筋肉恋愛帳を懐から取り出し、そっと書き加える。
『第一恋 健吾さん。手の甲★★★★★(新発見)。絆創膏を貼る手も震えるほどの緊張。関係、着実に進展中』
その筆致は、恋する乙女、もとい、恋する巫女様の勢いそのものであった。
そんな順風満帆な空気の中、事態は昼過ぎに動く。
「健吾さーん!お昼、届けに来たよー!」
境内の入口から、明るい声が響いた。
剛太が顔を上げると、そこには小さな子供の手を引いた女性が立っていた。
手には大きな重箱。日傘の下から覗く顔は、健吾によく似た、優しい笑みを浮かべている。
「あ、来てくれたのか。ありがとう」
健吾がすっと立ち上がり、女性のところへ歩いていく。子供が「パパー!」と甲高い声で叫び、健吾に駆け寄った。
剛太の時が、一瞬止まった。
「パ……パパ?」
健吾が子供を抱き上げる。慣れた様子で、まるで日常の一部のように。
「巫女様、すみません、家族が来てしまって。うちの妻と息子です」
「お、奥様」
剛太の声が、風に流れて消えていく。
先ほどまでの、あの絆創膏を貼った時の甘い緊張は、あっという間に音を立てて崩れていった。
「はじめまして、巫女様。健吾がお世話になっております」
女性が丁寧にお辞儀をする。健吾は子供を肩に乗せ、幸せそうに笑っていた。
その笑顔は、剛太に向けていたものと何ら変わりのない、あの誠実な笑顔だった。
(既婚、既婚者だった! あの手を握った時間は、いったい何だったんですか!)
剛太の脳内で、何かがガラガラと崩れる音がした。
「すみません、巫女様、少し家族と昼を取ってもよろしいですか?」
「あ……はい、もちろんです……どうぞ、ゆっくり……」
剛太は精一杯の笑顔を作った。だが、その笑顔はどこか虚ろだった。
社の陰から、ふわりと熱気が現れる。
「剛太」
ゾクヤケシャ様が、珍しく静かな声で寄ってきた。
「見てました?」
「見ておった」
「聞いてました?」
「聞いておった」
剛太はへなへなと縁側にへたり込んだ。
「三日でした、三日でこの恋は終わりました、朝の絆創膏の時間まで、私は幸せだったのに」
「三日もったのう」
「もった、じゃないです。散った、です」
剛太は懐から筋肉恋愛帳を取り出し、震える手で新しい一行を書き加える。
『第一恋 健吾さん。腕★★★★★、背筋★★★★★、手の甲★★★★★。既婚。息子あり。絆創膏を貼った手は、もう他人の手。合掌』
「なんじゃその『合掌』」
「他になんと書けばいいんですか。もう天に召された恋なんです」
「まだ生きとるぞ、健吾さん」
「私の恋が死んだんです」
剛太は帳面をぱたんと閉じ、大きく息を吐いた。目の端に、じんわりと涙が浮かんでいる。
少し離れた場所で、健吾が子供を抱っこして笑っている姿が見える。
妻が握った箸で、健吾の口に何かを運んでいる。仲の良い、幸せそうな家族の姿だった。
(あんなに手を握って、あんなに見つめ合って、なんて、私が一人で盛り上がっていただけだったんですね)
「まあ、元気出せ。来世があるじゃろう」
「来世って、今世はダメなんですか。私は本気で」
剛太が言葉を詰まらせたところで、ゾクヤケシャ様がぽん、と肩に手を置いた。
「三日で本気になれるおぬしは、逆にすごいと思うぞ」
「それ、褒めてます?」
「褒めてはおらん。ただの感想じゃ」
二人はしばらく、無言で庭の方を眺めた。健吾の家族の笑い声が、風に乗って聞こえてくる。
その音を聞きながら、剛太はゆっくりと息を整えた。
「いいんです。あの三日間、健吾さんの筋肉を近くで見られたのですから。それだけで、私は十分に幸せでした」
「おぬし、切り替え早いのう」
「切り替えが早いのが私の強みです。次の恋が、私を待っていますから」
剛太はすっと立ち上がり、涙を拭って、いつもの笑顔を取り戻した。
「よし、来世はもっといい男を見つけるのじゃぞ」
「違います。今世でもっとゴリゴリの男性を」
二人が話しているところへ、健吾が戻ってきた。
「巫女様、すみません、家族が急に来てしまって。今日はここまでにしますね。また明日、続きをやりますので」
「はい、ありがとうございます」
剛太は綺麗な笑顔で頭を下げる。健吾たちが山を下りていく姿を、剛太は静かに見送った。
その背中が見えなくなると、剛太はぽつりと呟いた。
「三日でした」
「三日じゃったな」
「短い夢でした」
「うむ。次はもう少し長く続くとよいのう」
夕暮れが二人を包み、山は静かに紅く染まっていく。
剛太の筋肉恋愛帳には、また一つ、新しい記録が刻まれた。
そして、剛太の恋の旅は、まだ始まったばかりであった。




