第9話 箸一本、動かさない人
第9話 箸一本、動かさない人
手巻き寿司を食べた翌朝、澄子は五時半に目を覚ました。まだ外は暗く、雨戸の隙間から入る冷気が、敷布団の端を冷たくしていた。隣では啓司が口を開けて眠り、枕元には昨夜脱いだ靴下が裏返しのまま落ちている。
澄子は音を立てないように布団を抜け、灰色の毛糸の上着を羽織った。台所では、昨夜洗った飯台が水切り籠へ斜めに立てかけられ、乾いた酢と木の匂いを残していた。手巻き寿司に使った海苔の缶も食卓にあり、蓋の上には祥子が落とした酢飯が一粒、硬くなって張りついていた。
冷蔵庫には、残った酢飯とサーモンの切れ端が入っていた。澄子はそれを卵と一緒に炒め、青じそを刻んで加えた。いつもなら啓司の朝食には白いご飯を炊き直すが、今日は三人とも同じ炒めご飯を食べればよいと思った。
フライパンから酢飯を炒める甘酸っぱい匂いが立ち、卵の黄色へサーモンの桃色が混ざった。澄子は味見をし、塩を足さずに火を止めた。昨夜の梅干しが残っているので、塩気はそれで十分だった。
「朝から妙な匂いがするな」啓司は寝間着の上へ半纏を着ただけの姿で台所へ来た。椅子へ座ると、自分の前に箸がないことに気づき、食卓を二度見回した。
「箸がないぞ。新聞も来ていない。お茶も入っていないじゃないか」啓司は空の湯呑みを指で押し、澄子のほうへ滑らせた。湯呑みの底がビニールクロスに引っかかり、低い音を立てた。
「箸は食器棚の二段目です。新聞は玄関の郵便受けです。お茶は薬缶のお湯で入れられます」澄子は自分の茶碗へ炒めご飯をよそった。祥子は夜勤がない日なので、まだ六畳間で眠っていた。
「そんなことは分かっている。いつものように用意すればいいだろう」啓司は椅子へ座ったまま、足を組み直した。食器棚までは三歩、薬缶までは二歩しかなかったが、腰を上げる気配はなかった。
澄子は啓司の前へ炒めご飯の皿を置き、自分の箸だけを持って食卓へ座った。昨夜までなら、夫の声が一段低くなったところで急いで箸を出していただろう。今日は青じその一片を箸でつまみ、口へ入れてから、ゆっくりかんだ。
「昨日の残り物か」啓司は皿をのぞき込み、サーモンの切れ端を見つけると眉を寄せた。食べてもいないうちから、口の横には深いしわができていた。
「酢飯が残っていたので、炒めました。卵も入っています。食べたくなければ、食パンがあります」
「朝から鮭の刺身の残りなど食えるか。焼き魚はないのか」
「ありません」
「納豆は?」
「昨日、手巻き寿司で使いました」
「買い置きくらいしておけ」
啓司は文句を重ねながらも、自分で箸を取りに行こうとはしなかった。澄子は炒めご飯をもう一口食べ、冷めないうちに味噌汁も飲んだ。大根と油揚げを入れた味噌汁は少し薄かったが、湯を足してさらに薄くする必要はなかった。
「箸を出せと言っているんだ」啓司は空の湯呑みをもう一度押した。今度は力が入り、湯呑みが食卓の端まで滑った。澄子は落ちる前に手で止めたが、夫の前へ戻さず、流し台へ置いた。
「お父さん、箸くらい自分で取ったら?」寝室の襖が開き、祥子が髪をかき上げながら出てきた。生成りの寝巻きの裾が片方だけ膝まで上がり、右の頬には枕の跡がついている。
「おまえには関係ない。妻が夫の食事を整えるのは当たり前だ」啓司は祥子を見ず、新聞のない食卓へ両肘をついた。読むものがないので、醤油差しのラベルを眺めていた。
「お母さんも、今から食べるところでしょう。自分で動けば、温かいうちに食べられるよ」
「娘が母親を怠けさせてどうする。最近、この家は何もかもおかしくなった」
祥子は言い返そうとして口を開いたが、澄子が箸を置いたので黙った。箸の先には卵が小さく残り、茶碗から上っていた湯気はもう見えなくなっていた。澄子は膝の上で手を組み、親指の爪をゆっくりこすった。
「啓司さん、私は四十七年間、あなたの箸を出してきました」澄子は夫の顔を見て言った。名前で呼ぶと、啓司は醤油差しから目を上げた。
「急に何だ。そんなことを数えているのか」
「数えていません。朝と昼と夜で一日三回なら、五万回を超えていると思っただけです」
「夫婦なら普通のことだろう」
「私は、あなたに箸を出してもらったことが一度でもありましたか」
啓司は答えず、椅子の背にもたれた。雨戸の向こうでは、ごみ収集車が角を曲がる音がした。台所の時計は六時二十分を指し、秒針だけが乾いた音を立てていた。
朝食のあと、澄子は買い物用の布袋を持って近所のスーパーへ出かけた。外はよく晴れていたが、北風が強く、紺色のコートの裾が歩くたびに膝へまとわりついた。街路樹の銀杏は葉をほとんど落とし、歩道の端には黄色い葉とコンビニのレシートが固まっていた。
入口で買い物籠を取ると、澄子はいつもの順番で店内を回った。最初に啓司の牛乳、辛口の鮭、粒納豆を入れ、それから自分の甘塩の鯖と祥子の好きなヨーグルトを入れた。以前より籠が重くなったが、誰のために買ったものなのか、一つずつ分かる重さだった。
鮮魚売り場では、啓司の好きな鯛の刺身に三割引きの札が貼られていた。澄子はパックを手に取り、消費期限と値段を確かめた。しかし朝の食卓で、炒めご飯に箸さえつけず、焼き魚がないと文句を言った顔を思い出し、そのパックを棚へ戻した。
代わりに、小ぶりの牡蠣と鶏もも肉を籠へ入れた。祥子は鶏の唐揚げが好きで、澄子は牡蠣を生姜と醤油で煮たものが好きだった。啓司が食べられないものではなかったが、好んで食べるものでもなかった。
「今日は鯛がお安いですよ」顔見知りの鮮魚係が、棚へパックを並べながら声をかけた。澄子が毎週、啓司のために鯛かマグロを買うことを覚えているのだ。
「今日はいいんです。家に、ほかに食べたい人がいますから」澄子はそう答え、牡蠣のパックを布袋へ入れた。自分もその「食べたい人」に含まれていることが、まだ少しくすぐったかった。
家へ戻ると、啓司はこたつへ座り、新聞を広げていた。朝の炒めご飯は手をつけられないまま食卓に残り、表面の卵が乾いていた。食器棚の扉だけが開いており、箸箱から一本も取り出されていなかった。
「昼は何だ」啓司は新聞から目を上げずに尋ねた。澄子は布袋を台所へ置き、冷えた手へ息を吹きかけた。
「朝の炒めご飯があります」
「食べていないのを見れば、嫌いだと分かるだろう」
「では、ご自分で好きなものを作ってください」
「何だ、その言い方は」
澄子は返事をせず、買ってきた品を冷蔵庫へ入れ始めた。牛乳は扉の下段、納豆は啓司が見つけやすい上段へ置いた。ヨーグルトは祥子の名前を書かず、誰でも食べてよい場所へ入れた。
「俺は料理などしたことがない。できるわけがないだろう」啓司は新聞を畳み、こたつの上へ置いた。畳んだ端がずれたため、何度も手のひらで押さえて整えた。
「お湯を沸かせば、カップ麺は作れます。パンを焼くこともできます。納豆の蓋も開けられるでしょう」
「妻がいるのに、なぜ俺がそんなものを食べなければならない」
「妻なら、夫の命令を何でも聞くと思っているからですか」
「食事を作ることを命令などと言うな。家のことは、おまえの仕事だっただろう」
澄子は牛乳を持ったまま、冷蔵庫の前で立ち止まった。冷気が割烹着の袖へ当たり、腕の産毛が立った。四十七年分の朝食と弁当と夕食を「仕事」と呼ばれたのは初めてだったが、給料も休日もなく、退職する日さえ自分で決められない仕事だった。
「仕事なら、今日で辞めます」澄子は牛乳を冷蔵庫へ入れ、扉を閉めた。磁石で留めたごみ収集表が揺れ、月曜日の欄へ貼っていた赤い丸が少し傾いた。
「馬鹿なことを言うな。家事をしないで、おまえに何ができる」
「自分の食事を作ります。自分の服を洗います。自分が暮らす部屋を掃除します」
「俺のものはどうする」
「ご自分でしてください」
啓司はこたつを出て、台所へ来た。歩くたびに紺色のジャージの裾が畳をこすり、昨夜から履いている灰色の靴下には小さな米粒がついていた。澄子の前へ立つと、買い物袋の中をのぞき、鯛の刺身がないことを確かめた。
「俺の食べるものは買ってきたのか」
「牛乳と辛口の鮭と納豆を買いました」
「それだけか。夕飯はどうする」
「私は牡蠣を煮ます。祥子には鶏の唐揚げを作ります。あなたも食べたければ、食べてください」
「また俺の好みを無視するのか」
その言葉を聞いた途端、澄子の手から布袋が落ちた。底に残っていた長葱が床へ転がり、白い根に付いた土が台所の床へ散った。澄子はすぐに拾おうとしたが、腰を曲げたまま動けなくなった。
四十七年間、啓司の好みを無視したことなどなかった。魚の塩加減、味噌汁の濃さ、卵焼きの甘さ、肉の脂身、葱を切る幅まで覚えてきた。祥子が甘口のカレーを食べたがっても啓司に合わせて辛口を作り、自分が牡蠣を食べたくても、臭いと言われれば売り場を通り過ぎた。
澄子は長葱を拾い、流し台へ置いた。根から落ちた土を濡れ布巾で拭き、布巾をすすいでから、まっすぐ立った。啓司はまだ同じ場所におり、自分の夕食が決まるのを待っていた。
「自分では箸一本動かさない。食材の買い出しにも行かない。文句ばかり言っているあなたに、うんざりです」澄子は濡れた手を割烹着で拭かず、そのまま体の横へ下ろした。指先から落ちた水が、台所の床へ小さな丸を作った。
「誰に向かって、そんな口を利いている」
「夫にです。四十七年間、一緒に暮らした夫に言っています」
「祥子に何を吹き込まれた」
「今話しているのは、私です」
啓司の顔が赤くなり、鼻の横の毛穴まで目立った。澄子はいつ怒鳴り声が落ちてくるか知っていたので、肩に力を入れた。しかし以前のように、先回りして謝る言葉は出てこなかった。
「俺が働いた金で、これまで食わせてやったんだぞ」啓司は食卓を手のひらで叩いた。朝の炒めご飯が載った皿が跳ね、米粒が一つ、ビニールクロスへ落ちた。
「そのお金で、私は食材を買いました。献立を考え、料理をして、あなたの食べ残しを片づけました。あなたの服を洗い、家を掃除し、三人の子どもを育てました」
「そんなことは、どこの妻でもしている」
「だから、何を言ってもいいのですか」
「誰のおかげで暮らせたと思っている」
「あなたも、誰のおかげで毎朝、箸が出てきたと思っているのですか」
台所の入口で音がした。祥子が寝室から出てきて、柱へ手をかけていた。灰色のセーターへ着替えていたが、左の靴下をまだはいておらず、裸足の指が冷たい床の上で丸まっていた。
「お母さん、私も一緒に話そうか」祥子は啓司を見ず、澄子へ尋ねた。病院で患者の家族へ声をかけるときよりも、低くゆっくりした口調だった。
「今は大丈夫。自分で言うから、そこで聞いていて」澄子は娘へ答え、もう一度啓司を見た。祥子が後ろにいるから言えるのかもしれなかったが、それでも言葉を選んで口にしているのは自分だった。
「私は、この家を出ます。祥子と暮らす家も探しました。離婚についても、相談を始めています」
啓司の口が半分開いたまま止まった。外では、宅配便の車が隣家の前へ停まり、引き戸を閉める音が聞こえた。いつもと同じ昼前の住宅街で、洗濯物を干す家もあれば、大根を煮ている家もある時間だった。
「勝手なことをするな。俺は何も聞いていないぞ」
「言えば、あなたは許さなかったでしょう」
「当たり前だ。離婚など認めない」
「あなたの許可をもらうために、相談しているのではありません」
啓司は自分の椅子へ戻り、座ろうとして一度膝を食卓へぶつけた。醤油差しが倒れ、蓋の隙間から黒い液が流れた。澄子の手が反射的に布巾へ伸びたが、途中で止まった。
啓司は倒れた醤油差しを見ていた。澄子が拭くのを待っているのだと分かった。祥子も動かず、母の手元だけを見ていた。
黒い染みは、花柄のビニールクロスの上でゆっくり広がった。啓司はしばらく待ったあと、自分で布巾を取った。拭き方が分からないのか、染みの外から内へ寄せず、手前へ引いたため、醤油は食卓の端から床へこぼれた。
「雑巾はどこだ」啓司は低い声で尋ねた。澄子は流し台の下だと答え、それ以上は動かなかった。
啓司は流し台の扉を開け、洗剤の瓶や古新聞を動かした。目の前にある青い雑巾を見つけるまで、三度も澄子を振り返った。ようやく取り出すと、腰を曲げて床の醤油を拭いた。
その背中を見ても、澄子の口から褒める言葉は出なかった。箸を取ることも、こぼしたものを拭くことも、大人なら自分でできる。四十七年間できなかったのではなく、しなくても誰かが動いてくれたのだ。
昼になると、澄子は朝の炒めご飯を電子レンジで温めた。自分と祥子の分だけを二つの茶碗へ分け、青じそを新しく刻んで載せた。啓司の分は皿へ残っていたが、温め直さなかった。
「お母さん、これ、おいしいよ」祥子は一口食べ、サーモンと卵が合うと言った。朝から何も食べていなかったため、二口目は急ぎすぎて喉につかえ、茶を飲んで胸を叩いた。
「ゆっくり食べなさい。病院でも患者さんに言っているでしょう」
「家では看護師じゃないから」
「それなら、私は今日から食事係ではありません」
二人は向かい合って炒めご飯を食べた。啓司は居間のこたつへ座り、テレビの音を大きくしていた。昼の料理番組では、若い男が包丁で白菜を切り、鍋へ入れていた。
食べ終えると、祥子は二人分の茶碗を流し台へ運んだ。澄子は洗おうとしたが、祥子が今日は自分の番だと言って蛇口を開いた。洗剤の柚子の香りが広がり、窓の外では山茶花の赤い花びらが一枚、庭へ落ちた。
「本当に、家を出ると言ったね」祥子は茶碗を洗いながら尋ねた。水の音が大きかったので、澄子は聞こえなかったふりをすることもできた。
「言ってしまったわね」
「後悔してる?」
「言うのが四十七年遅かったとは思っている」
「今からでも遅くないよ」
「そうやって、すぐ正しい答えを言わないで。今日の私は、少し座りたいの」
祥子は蛇口を閉め、分かったと答えた。澄子へ申込書を出すよう急かさず、弁護士へ電話するようにも言わなかった。水切り籠へ二つの茶碗を伏せ、自分は洗い物の残る台所から離れた。
澄子は椅子へ座り、食卓に残った朝の皿を見た。啓司の炒めご飯はすっかり冷え、サーモンの脂が白く固まっていた。捨てるのはもったいないと思ったが、自分が代わりに食べる気にはならなかった。
午後三時になると、啓司が台所へ来た。冷蔵庫を開け、牛乳と納豆を見つけたあと、食器棚から自分で茶碗と箸を取り出した。炊飯器にはご飯がなかったため、食パンを一枚焼き、納豆を載せようとして祥子に止められた。
「それは、あまり合わないと思うよ」
「食べられればいい」
「マヨネーズを少し塗ると、まだ合うかも」
「おまえも食べたことがないんだろう」
「ない。だから責任は持たない」
啓司は結局、納豆を別の茶碗へ入れ、焼いた食パンと一緒に食べた。妙な組み合わせだったが、誰も笑わなかった。澄子は裁縫箱から取れかけたコートの釦を出し、自分の釦だけを縫い直していた。
夕方、澄子は牡蠣を生姜と醤油で煮た。隣の鍋では鶏の唐揚げを揚げ、祥子が千切りにしたキャベツと、薄い輪切りの柚子を皿へ添えた。啓司の席にも同じ料理を置いたが、箸と湯呑みは置かなかった。
啓司は食卓へ来ると、何も言わずに食器棚から箸を取った。急須へ自分で湯を注ぎ、湯呑みへ茶を入れた。それだけのことに時間がかかり、食事を始めるころには唐揚げの湯気が少なくなっていた。
「牡蠣は食わない」啓司は皿を遠ざけた。澄子は返事をせず、その皿を自分の前へ引き寄せた。
「唐揚げは、味が薄い」
「レモンか醤油を使ってください」
「味噌汁はないのか」
「今日は作っていません」
啓司は箸を止めたが、食卓を叩かなかった。澄子は牡蠣を一粒口へ入れ、生姜の辛味と濃い煮汁を味わった。祥子は揚げたての唐揚げへ柚子を搾り、皮まで食べようとして苦いと顔をしかめた。
「最近、食事が楽しいと言ったばかりなのに、今日は静かだね」祥子は小声で言った。澄子は夫の顔を見ず、牡蠣の煮汁を白いご飯へ少しかけた。
「毎日、楽しくなくてもいいのよ」
「そうだね」
「でも、冷めるまで待って食べるのは、もうやめるわ」
澄子は温かいご飯を口へ運んだ。啓司が何を残すかを見張らず、自分の皿の牡蠣を先に食べた。翌朝の味噌汁を作るかどうかは、まだ決めていなかった。




