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第8話 好きなものを、自分で巻く

第8話 好きなものを、自分で巻く


十二月の二度目の日曜日、澄子は朝から台所の棚を開けたり閉めたりしていた。昨夜洗った林檎模様の布巾は、窓辺の竿でまだ半乾きになっており、石油ストーブの風を受けるたびにゆっくり揺れている。庭では赤い山茶花が三つ咲き、濡れた土の上へ、雀が落とした柿の種が転がっていた。


冷蔵庫には、前日に買ったマグロの赤身とサーモンが入っていた。野菜室にはかいわれ大根と青じそがあり、冷蔵庫の扉には、夏に澄子が漬けた梅干しの瓶が置かれている。啓司の好物だけを買わなかった日の食材が、いつもの冷蔵庫を少し狭くしていた。


澄子は小花模様の割烹着を着て、炊き上がった米を飯台へ移した。酢と砂糖と塩を合わせたものを回しかけると、白い湯気と一緒に甘酸っぱい匂いが台所へ広がった。うちわを使おうとして棚を探したが、夏の終わりにどこへしまったのか思い出せず、菓子箱の蓋で代用することにした。


「何を作っているんだ」居間から来た啓司は、茶色いカーディガンの腹をかきながら飯台をのぞいた。起きてから二時間たつのに寝癖が残り、左手には読みかけの新聞を持っている。食卓には朝に使った湯呑みと、剥いた蜜柑の白い筋が載った小皿が残されていた。


「お昼は手巻き寿司にします」澄子は酢飯を切るように混ぜながら答えた。声を出したあとで手が止まりかけたが、米粒が潰れると思い、しゃもじをもう一度動かした。


「寿司なら、店で食べればいい。家で海苔へ巻いたものは、子どもの食べ物だろう」啓司は冷蔵庫を開け、牛乳の紙パックを直接持ち上げかけた。澄子がコップを使ってくださいと言うと、面倒そうに食器棚から湯呑みを取った。


「今日は家で食べます。祥子も手巻き寿司が好きでしたから」澄子は新聞紙に包んでいた青じそを取り出した。葉を一枚ずつ水で洗うと、指先に青い香りが残った。


「祥子は子どもじゃない。四十六にもなって、手巻き寿司で喜ぶのか」啓司は牛乳を飲み、空になった湯呑みを流し台へ置いた。洗うつもりはないらしく、水も流さずに居間へ戻っていった。


入れ替わるように、夜勤を終えた祥子が玄関の戸を開けた。紺色のダウンコートの肩には白い糸くずが付き、まとめていた髪は半分ほどほどけている。靴を脱いだ祥子は、台所から漂う酢の匂いを吸い込み、眠そうだった目を少し大きくした。


「お母さん、今日は何の日?」祥子は手を洗いながら尋ねた。病院の乾燥した空気にさらされた手は荒れ、右の親指には絆創膏が巻かれている。昨夜、点滴の固定具を外すときに爪の横を切ったのだという。


「何の日でもないわ。何でもない日に食べてはいけないものでもないでしょう」澄子は冷蔵庫から刺身を出し、値引きの赤い札を剥がした。マグロの赤身は濃い紅色で、隣のサーモンには白い脂の筋が細く入っていた。


「手巻き寿司は誕生日に食べるものだと思っていた」祥子はコートを椅子の背へ掛け、食卓の端へ腰を下ろした。子どものころ、誕生日には手巻き寿司と決まっており、兄弟でマグロの枚数を数えて喧嘩したことを覚えている。最後の一枚を取った兄の皿へ、澄子が自分のマグロを黙って移していたことも思い出した。


「あのころは、お刺身が高かったからね。海苔も一人三枚までだったわ」澄子はまな板へマグロを載せ、細長く切り分けた。昔と同じように人数で割ろうとしてから、今日は食べたい人が食べればよいのだと気づき、同じ皿へそのまま並べた。


「これ、マグロだけじゃないね。サーモンも買ったの?」祥子は冷蔵庫から出された皿を見て、割烹着姿の母を振り返った。啓司は脂っぽい魚を嫌い、刺身ならマグロの赤身か鯛しか食べなかったため、この家の食卓へサーモンが出ることはほとんどなかった。


「あなた、サーモンが好きでしょう。病院の帰りに回転寿司へ寄ると、いつも食べると言っていたから」澄子は包丁を布巾で拭き、サーモンを厚めに切った。薄く切ろうとすると身が崩れたので、二切れだけ不格好な三角形になった。


「見ていたの?」


「前に一緒に行ったでしょう。あなた、サーモンと炙りサーモンと、またサーモンを頼んでいたわよ」


「お母さんは玉子しか食べなかったね」


「あのときは、お昼を食べてから来たと言ったでしょう」


祥子は冷蔵庫の扉を開け、奥にあった朝の残りの味噌汁を見た。豆腐とわかめが入った小鍋には、澄子が一人で食べた形跡がない。母はあの日も、店へ行く前に食べたのではなく、自分の分の会計を増やしたくなかったのだと分かった。


「本当に食べてきたの?」祥子が尋ねると、澄子は梅干しの瓶を開ける手を止めた。酸っぱい匂いが広がり、赤じそに染まった梅が瓶の底で重なっている。


「昔の話でしょう。今日はちゃんと食べるわよ」澄子は大きな梅干しを二個取り出し、種を除いて包丁の背でつぶした。皮と果肉が混ざって赤い練り物のようになると、小さな白い器へ移した。


「梅干しも巻くの?」


「青じそと一緒に巻くとおいしいのよ。お刺身ばかりでは、途中で口が重くなるでしょう」


「知らなかった。お母さんが好きなの?」


「好きだったと思うわ。ずいぶん食べていないから、今も好きかは分からないけれど」


その言葉を聞き、祥子は手伝うと言って割烹着を探した。澄子のものしかなかったため、白いシャツの袖を肘までまくり、かいわれ大根の根元を切った。細い茎を水へ放すと、緑の双葉がボウルの中でほどけ、冬の日差しを受けて揺れた。


ひきわり納豆は、付属のたれを入れてから小鉢の中でよく混ぜた。祥子が百回混ぜると言い出し、三十回を過ぎたところで数が分からなくなったので、初めから数え直した。澄子は数などどうでもよいと笑ったが、祥子は看護記録なら数え直しになると言い、結局八十七回で諦めた。


「納豆を寿司へ入れるのか」食卓へ戻ってきた啓司は、小鉢から伸びる糸を見て眉を寄せた。新聞を脇へ挟み、いつもの自分の席に座ると、刺身の皿を手元へ寄せた。


「ひきわり納豆は、海苔に巻くとおいしいですよ」澄子は海苔を四つ切りにし、竹籠へ重ねていった。海苔の乾いた音がするたび、磯の匂いがふわりと立った。


「俺は普通のマグロだけでいい。サーモンと納豆は要らん。梅干しを寿司へ入れるのもおかしい」啓司はそう言い、マグロの皿から形のよい切り身を二枚、自分の取り皿へ移した。


「分かりました。好きなものを巻いてください」澄子は啓司の前へ海苔と酢飯を置いた。それ以上は説明せず、サーモンの皿を祥子との間へ置いた。


三人分の食器がそろうと、食卓はいつもより狭くなった。酢飯を入れた飯台、マグロとサーモンの皿、ひきわり納豆、かいわれ大根、青じそ、つぶした梅干しが、花柄のビニールクロスの上へ並んでいる。端には啓司が朝に残した蜜柑の皮がまだあったので、澄子は広告紙へ包み、流し台のごみ入れへ捨てた。


祥子は海苔へ酢飯を広げ、サーモンと青じそを載せた。欲張ってかいわれ大根まで加えると、巻いた端から酢飯がこぼれ、指へ納豆の糸まで付いた。口へ運ぶ前に形が崩れ、サーモンだけが小皿へ落ちた。


「欲張るからよ。ご飯は少しでいいの」澄子は自分の海苔へ酢飯を薄く載せ、青じそと梅干しを細く置いた。端を内側へ折り、指で押さえると、小さな三角形の手巻き寿司ができた。


「お母さん、上手だね」


「何年、ご飯を作ってきたと思っているの」


「でも、お父さんのために作った回数は数えられても、自分のために作った回数は少ないでしょう」


澄子は口を開きかけたが、先に手巻き寿司をかじった。梅干しの酸味が酢飯と重なり、青じその香りが鼻へ抜ける。塩が少し強かったので、次は梅を半分にしようと思いながら、残った一口も食べた。


「どう?」祥子は海苔についた酢飯を指で拾い、母の顔を見た。病院なら患者の返事を急がせないよう視線を外すところだったが、今は味の感想が聞きたくて待った。


「やっぱり好きだわ。今度は胡瓜も入れたいわね。梅干しには白ごまを混ぜてもいいかもしれない」


「次もやるつもりなんだ」


「海苔がまだ半分残っているもの。湿気る前に食べないと、もったいないでしょう」


啓司は二本目のマグロ巻きを作りながら、梅干しは塩分が多いと口を挟んだ。澄子は、つけすぎなければ大丈夫だと答え、自分の小皿へサーモンを一切れ取った。脂のある刺身は苦手だと思い込んでいたが、それは啓司が口にするたび脂っぽいと言っていたからかもしれなかった。


澄子はサーモンへかいわれ大根を添え、海苔で巻いた。一口かじると、やわらかな身の脂と、かいわれ大根の辛味が舌の上で混ざった。マグロより味が濃く、青じそを入れてもよさそうだった。


「サーモンも、おいしいわね」澄子が言うと、啓司は自分は嫌いだと答えた。以前なら、その一言だけで次から買わなくなっていただろう。けれど澄子はサーモンの皿を遠ざけず、もう一切れを半分に切った。


「お父さんは食べなくていいのよ。私が食べますから」


「無駄遣いするなと言っているんだ」


「食べるものを買ったのですから、無駄にはなりません」


啓司の指が、マグロをつまんだまま止まった。食卓の上で納豆の糸が細く伸び、祥子は息を吸ったが、母の代わりに言い返すことはしなかった。澄子は自分の海苔へ酢飯を載せ、今度はサーモンと青じそを一緒に巻いた。


「このマグロは筋があるな」啓司は口の中のものを飲み込み、切り身を箸で裏返した。澄子は謝りかけたが、マグロを選んだのは自分でも祥子でもなく、啓司が皿から取ったのだと思い出した。


「次は、別の切り身を取ってください」


「普通は、筋のないところを夫へ出すものだろう」


「今日は手巻き寿司です。自分で選んで、自分で巻く食事ですから」


啓司は何か言いかけたが、祥子がひきわり納豆を載せすぎ、海苔の下から全部こぼした。納豆が白いシャツの袖へ落ち、糸が肘近くまで伸びたので、澄子はたまらず笑った。啓司も新聞を汚すなと言いながら、口元を少し緩めた。


「看護師さんは、手巻き寿司も上手に巻けないの?」澄子は濡らした布巾を祥子へ渡した。祥子は袖についた納豆を拭きながら、病院では海苔を巻く仕事がないと答えた。


「じゃあ、お母さんが教えてよ」


「酢飯を欲張らないこと。具も二つまで。青じそは縦に置くと巻きやすいわよ」


「三つ入れたいときは?」


「二本に分けて食べなさい」


「それでは、おなかがいっぱいになるでしょう」


「食事なんだから、それでいいのよ」


澄子は言ったあと、自分の言葉を確かめるように箸を置いた。食事は啓司の機嫌を損ねないための仕事でも、残り物を片づける時間でもない。自分の腹を満たし、食べたい味を選び、ときには海苔から具をこぼすための時間でもあった。


飯台の酢飯が半分ほどになったころ、澄子はひきわり納豆と梅干しを一緒に巻いた。祥子は合わないのではないかと疑ったが、食べてみると納豆の丸い味へ梅の酸味が加わり、かいわれ大根まで入れたくなった。二人は新しい組み合わせを一つずつ試し、どちらがおいしいかを言い合った。


「マグロと梅と青じそはどう?」


「梅が強すぎるわ。マグロがどこかへ行ってしまうもの」


「じゃあ、サーモンと納豆」


「それは別々に食べたいわね」


「お母さん、さっきから注文が多くない?」


「食べたいものを選べと言ったのは、あなたでしょう」


啓司は先に食べ終え、湯呑みへ茶を入れるよう澄子へ言いかけた。ところが、澄子は海苔の上へ酢飯を広げており、祥子もサーモンを半分に切っている。しばらく二人を見たあと、啓司は自分で急須を取り、台所へ湯を注ぎに行った。


薬缶の蓋が鳴り、湯気が曇りガラスをさらに白くした。啓司が茶を入れているあいだも、澄子は立たなかった。長いあいだ、夫が席を動けば自分も腰を上げる癖がついていたため、膝へ力が入ったが、両手で海苔を持ってそのまま座っていた。


「お茶は要るか」啓司が台所から尋ねた。澄子は驚いて振り返り、梅干しの酸味が残った口を閉じた。湯呑みを運ぶ啓司の足元では、朝から履いている灰色の靴下が少しずれていた。


「私はいただきます。祥子も飲む?」


「飲む。濃くしないでね」


「注文が多いな」


「自分で選んで、自分で頼む食事だから」


啓司は返事をしなかったが、三人分の湯呑みを食卓へ運んだ。澄子のものには欠けた白い湯呑みを使い、祥子には昔から使っている猫柄の湯呑みを置いた。啓司が家族の器を間違えずに覚えていたことを、澄子は初めて意識した。


食後、飯台には酢飯が茶碗一杯ほど残り、刺身の皿には形の崩れたサーモンが一切れだけ残った。祥子はもう食べられないと言って畳へ横になり、澄子は明日の昼にちらし寿司へすると決めた。残ったかいわれ大根は水を張った器へ戻し、梅干しは蓋をして冷蔵庫の扉へ入れた。


「食費を六万円にした途端、ずいぶん豪勢だな」啓司は爪楊枝を使いながら言った。澄子は家計表を思い出し、今日のレシートを割烹着のポケットから取り出した。


「三人分で二千四百八十六円です。全部を外で食べるより安いでしょう。残ったものは、明日も食べます」


「昔は、もっと少ない金でやっていた」


「私が昼を食べなかった日もありましたから」


啓司の手から、使い終わった爪楊枝が小皿へ落ちた。祥子は起き上がりかけたが、澄子がレシートを伸ばしているのを見て、もう一度畳へ背中を下ろした。母が自分で口にした言葉を、娘が補う必要はなかった。


「食費を減らして、病院代を増やすような暮らしは、もうやめます」澄子はレシートのしわを指でならした。膝の薬、血圧の薬、歯科の支払いを分けた封筒が、戸棚の引き出しへ入っている。食べないことで浮かせた金より、具合を悪くして払った金のほうが多かった月もあった。


「ぜいたくを覚えると、元へ戻れなくなるぞ」


「元へ戻るつもりはありません」


「六万円を毎月使い切るのか」


「必要なら使います。余ったら残します。でも、私と祥子の食べる分を、最初からなかったことにはしません」


啓司は新聞を持って居間へ戻った。襖が閉まる音はいつもより小さく、食卓には三人分の湯呑みが残った。澄子は自分の湯呑みへ少し冷めた茶を足し、両手で包んだ。


祥子は畳から起き上がり、残った海苔を缶へしまった。缶の底には、以前の海苔についていた乾燥剤が三つも残っている。母は捨てるのが惜しくてためていたらしいが、一つは袋が破れかけていたので、二人で相談して処分した。


「次は何を巻こうか」祥子は海苔の缶を戸棚へ戻しながら尋ねた。澄子は流し台に積まれた皿を眺め、洗い物の多さに一度だけ鼻を鳴らした。


「卵焼きもいいわね。胡瓜と蟹かまも入れたいし、鶏の照り焼きなら生ものがなくてもできるわ。あなたが休みの日に、またしましょう」


「今日、楽しかった?」


澄子はすぐに答えず、飯台へ残った酢飯を保存容器へ移した。しゃもじについた米粒を一つずつ指で外し、自分の口へ入れる。甘酸っぱい米が舌へ触れると、青じそと梅干しの味がもう一度よみがえった。


「最近、食事が楽しいわ」澄子は空になった飯台を流し台へ運びながら言った。声は水道の音に半分消えたが、祥子には聞こえていた。


「前は楽しくなかったの?」


「お父さんが何を食べるか、残さないか、機嫌を悪くしないか、そればかり見ていたからね。自分が何を食べたか、夜になると思い出せない日もあったのよ」


「これからは覚えていられるね」


「今日の一番は、梅干しと青じそ。サーモンも悪くなかったわ」


祥子は一番はサーモンと青じそだと言い、二人でまた意見が分かれた。澄子は皿を洗い、祥子は布巾で拭いたが、どちらが正しいと決める必要はなかった。好きなものが違っても、同じ食卓へ皿を並べられることを、二人はもう知っていた。


片づけが終わると、澄子は家計表へ今日の食費を書き込んだ。二千四百八十六円の横へ、手巻き寿司と小さく記し、その下に「三人で食べた」と付け加えた。食費六万円の数字には、まだ見慣れない丸が四つ並んでいたが、もう線を引いて減らそうとは思わなかった。


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