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第7話 三人分ではなく、三人の好物

第7話 三人分ではなく、三人の好物


平屋の内見から帰った翌日、澄子は食卓へ家計表を広げた。十二月に入ったばかりで、庭の山茶花には赤い花が三つ残り、台所の曇りガラスを通して白い光が差していた。石油ストーブの上では薬缶が鳴り始めていたが、澄子は火を弱めるのを忘れ、食費の欄に書いた三万五千円を鉛筆の先で何度もなぞっていた。


夜勤明けの祥子は、紺色のダウンコートを椅子の背へ掛け、コンビニで買った鮭のおにぎりを頬張りながら家計表をのぞいた。冷蔵庫には卵が二個、しなびた白菜が四分の一、啓司が毎朝飲む牛乳が一本入っている。米や味噌、醤油まで含めて二人で三万五千円なら、一日千二百円にもならず、母はまた自分の昼食を食事の数から外しているのだと分かった。


「三万五千円では足りないよ」


「外で食べなければ、何とかなるわ。お父さんのお酒も買わなくていいし」


「お父さんのお酒を抜いただけじゃないでしょう。お母さん、自分の魚も果物も抜いているよ」


「私は残り物でいいの。朝のお味噌汁へご飯を入れれば、お昼になるもの」


祥子はおにぎりの包みを小さく畳み、家計表の横へ置いた。病院では、栄養が足りない高齢者へ肉や魚を食べるよう説明しているのに、家では母が漬物と冷や飯で済ませていたことを何年も見過ごしてきた。澄子の作る弁当には卵焼きも鶏の照り焼きも入っていたが、母自身の昼食を見た記憶はほとんどなかった。


「二人分の食費は、最初は六万円で考えよう。余ったら翌月へ回せばいい」


「六万円も使ったら、あなたに申し訳ないわ」


「私の食べる分も入っているんだから、全部お母さんへ使うお金じゃないよ。それに、夜勤の日はお弁当を買うこともある」


「お弁当なら、私が作るわよ」


「夜勤明けに合わせて起きない約束を、もう忘れたの?」


澄子は口をつぐみ、家計表の三万五千円へ一本の線を引いた。消しゴムを使わなかったので、元の数字は薄く残っている。その隣へ六万円と書いた字は、最後の丸だけが小さくなっていた。


「六万円、全部使わなくてもいいのよね」


「使わなくてもいい。でも、食べたいものを我慢して残すお金でもないよ」


「食べたいものなんて、急に聞かれても出てこないわ」


「じゃあ、買い物へ行こう。売り場を見れば思い出すかもしれない」


二人は厚手の靴下をはき、歩いて十分ほどのスーパーへ向かった。澄子は灰色のウールコートに古い葡萄色のマフラーを巻き、祥子は夜勤でむくんだ足を運動靴へ押し込んだ。商店街では焼き芋の甘い匂いが漂い、花屋の店先には白と薄桃色のシクラメンが並んでいたが、澄子はいつもの癖で値札だけを見て通り過ぎた。


スーパーへ入ると、澄子の足は迷わず啓司の好きな品へ向かった。辛口の塩鮭、粒の大きな納豆、脂身の少ない豚肉、甘くない食パンを籠へ入れていく。祥子が何も言わずについて歩いていると、澄子は豆腐売り場の前でようやく振り返った。


「お父さん、今夜は湯豆腐でいいかしら」


「今から、お父さんの夕飯を買うの?」


「食べる人がいるんだから、買うでしょう」


「それはいいよ。でも今日は、お父さんのものだけで終わらせないで」


澄子は買い物籠の中を見た。四十七年間、食卓へ出すものを選ぶときには、啓司が食べるかどうかを最初に考えてきた。子どもたちが好んだ甘い卵焼きも、啓司が酒に合わないと言ってから砂糖を減らし、澄子が好きだった牡蠣も、台所が臭くなると言われて買わなくなっていた。


「祥子は、何が好きだったかしら」


「ひどいなあ。娘の好物を忘れたの?」


「子どものころは、かぼちゃの煮物でしょう。それから、鶏の唐揚げと、苺のショートケーキ」


「それは小学生のころ。今は牡蠣フライが好き」


「牡蠣はお父さんが食べないわよ」


「お父さんが食べなくても、私たちは食べるよ」


鮮魚売り場には、加熱用の牡蠣が透明な袋へ詰められていた。澄子は袋を持ち上げ、値段を見て一度戻しかけたが、祥子が黙っているので、もう一度手に取った。丸々とした牡蠣は冷たい水の中で重なり、磯の匂いが袋越しにも感じられた。


「二人では多くない?」


「残ったら翌日、牡蠣ご飯にしよう」


「私、牡蠣ご飯は好きよ。生姜をたくさん入れるの」


「知ってる。私も好き」


澄子は牡蠣を籠へ入れたあと、指先についた水滴をコートの裾で拭いた。啓司が食べないものを夕食用に買うのは、結婚してから初めてだった。籠の中で牡蠣の袋が辛口の塩鮭に重なっているのを見て、置き場所を直そうとしたが、そのままにした。


「お母さんは、ほかに何が食べたい?」


「私は何でもいいわ」


「それは禁止。何でもいいと言った人には、私が苦手なセロリを選びます」


「あなた、セロリは今も駄目なの?」


「匂いを嗅ぐと、給食のマヨネーズ和えを思い出す」


「あれはおいしくなかったわね。あなた、口に入れたまま泣いて帰ってきたのよ」


「学校から家まで、ずっと口に入れていたわけないでしょう」


澄子は久しぶりに声を立て、口元を手袋で隠した。笑った拍子に眼鏡が少し下がり、鼻の上へ指で戻す。祥子は母が自分の好物を答えるまで待つつもりで、林檎の袋を一つずつ持ち上げては重さを比べた。


「甘塩の鯖」


やがて澄子が小さく言った。鮮魚売り場には辛口の塩鯖と甘塩の鯖が別々の棚へ置かれ、青い皮が蛍光灯の下で光っている。澄子は二切れ入りを選び、値引きの札がないことを確かめてから籠へ入れた。


「それから?」


「まだ買うの?」


「六万円の予算ですから」


「そうねえ。ラ・フランスが食べたいわ。昔、一度だけいただいたのがおいしかったの」


「どこで?」


「あなたが小学校へ上がった年よ。お父さんの会社からお歳暮で届いたの。でも、お父さんが柔らかすぎると言って、一口しか食べなかったから、残りは私が台所で食べたの」


果物売り場の隅に、黄色くなりかけたラ・フランスが一個ずつ紙の網をかぶって並んでいた。澄子は食べ頃の日付を読み、二個を袋へ入れた。その横に小粒の蜜柑も積まれていたので、祥子は一袋を籠へ加えた。


「蜜柑は予定にないでしょう」


「私の好物。夜勤の休憩室で食べるの」


「白衣へ汁を飛ばさないようにね。あなたは昔から、蜜柑をむくのが乱暴だから」


「お母さんは、白い筋を全部取るまで食べないものね」


「だって、口に残るでしょう」


二人は肉売り場で鶏もも肉を選び、乳製品の棚で祥子の好きなカマンベールチーズを買った。澄子は小さな箱の値段を見て眉を動かしたが、籠から出せとは言わなかった。代わりに半額になった生クリームを見つけ、家に林檎が一個残っているから簡単なケーキを焼こうと言った。


「お父さんは、焼いた林檎を食べないよ」


「では、私たちで食べましょう」


「本当に?」


「あなたが食べたいものを選べと言ったんでしょう」


レジへ並ぶころには、籠の中が三人の好物でいっぱいになっていた。啓司の辛口の塩鮭と納豆、澄子の甘塩の鯖とラ・フランス、祥子の牡蠣とチーズが、同じ籠の中で押し合っている。澄子は会計の金額を見て唇を結んだが、財布から自分の生活費を出し、レシートを折らずに受け取った。


家へ戻ると、啓司はこたつで新聞を読んでいた。卓上には朝から使った湯呑みが残り、底に濃い茶渋が輪を作っている。買い物袋から牡蠣が出てくると、啓司は新聞を半分だけ下げた。


「俺は牡蠣を食わないぞ」


「知っています」


「それなら、なぜ買った」


「祥子と私が食べるからです」


澄子は牡蠣を冷蔵庫へ入れ、辛口の鮭を啓司の棚へ置いた。以前なら夫の声が少し低くなっただけで、買ったものを近所へ配るか、見えないところで自分だけ食べていただろう。今日は冷蔵庫の扉を閉め、買い物袋からラ・フランスを二個取り出して籠へ並べた。


「夕飯は湯豆腐ではないのか」


「湯豆腐も作ります。牡蠣フライも揚げます」


「そんなに何品も要らん」


「牡蠣フライは、あなたの分ではありません」


啓司は新聞を畳み、買い物袋をのぞいた。自分の辛口の鮭と納豆が入っているのを見つけると、何も言わずに新聞を開き直した。澄子はその横顔を確かめてから台所へ立ち、牡蠣へ薄く小麦粉をまぶした。


油が温まると、パン粉をまとった牡蠣が鍋の中で細かい音を立てた。祥子はキャベツを刻み、少し太くなった部分をつまみ食いする。澄子は一個目の牡蠣フライを網へ載せると、揚げたてを小皿へ置き、祥子へ差し出した。


「熱いから気をつけて」


「お母さんも食べなよ」


「私は全部揚げてからでいいわ」


「また冷めたものを食べるつもりでしょう」


祥子は牡蠣フライを半分に割った。湯気と磯の匂いが上がり、衣の内側から乳白色の身がのぞく。片方を澄子の小皿へ載せると、母は箸を取り、口へ運ぶ前に何度も息を吹きかけた。


「おいしい?」


「熱くて、まだ分からない」


「じゃあ、もう一個食べないとね」


「それでは、味見だけでなくなるでしょう」


澄子はそう言いながら、二個目を鍋へ入れた。食卓には啓司の湯豆腐と辛口の鮭が並び、その隣には二人の牡蠣フライと千切りキャベツが置かれた。三人が同じものを食べなくても、一つの食卓は作れるのだと、白い皿の数が教えていた。


食後、澄子は林檎を薄く切り、生クリームと一緒に小さなケーキを焼いた。啓司は甘いものは要らないと言って居間へ移り、祥子は紅茶を二杯いれた。窓の外では日が落ち、山茶花の赤い花が台所の明かりを受けて浮かんでいた。


「六万円、使い切ってしまうかもしれないわね」


「いいんじゃない。食べるための予算なんだから」


「来月は、もう少し上手に買うわ」


「安くすることばかり考えないでね」


澄子は家計表へその日の金額を書き、品名の欄に、辛口鮭、甘塩鯖、牡蠣、チーズ、ラ・フランスと並べた。以前の家計簿には、魚、肉、果物としか書かなかったが、その日は誰の好物か分かる名前を一つずつ残した。最後に林檎のケーキと書き加え、祥子の皿へ少し大きいほうを載せた。


「次は何を買いたい?」


「急には思いつかないわ」


「決まってからでいいよ」


「そうね。売り場を歩きながら決めるわ」


澄子は温かいケーキを一口食べ、フォークについた林檎を皿の縁で拾った。夫が食べないものも、娘が好きなものも、自分が食べたかったものも、もう買い物籠から戻さなくてよい。家計表の六万円という数字の横には、消しきらなかった三万五千円が、細い鉛筆の線の下でまだ見えていた。


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