第6話 空いている六畳
第6話 空いている六畳
十二月の終わり、祥子は夜勤明けの病院を出る前に、不動産店から届いたメールを開いた。空はまだ白み始めたばかりで、正面玄関の植え込みには霜をかぶった葉牡丹が並んでいる。鞄には病院の売店で買った卵サンドが入っていたが、食べる時間を逃し、パンの端が少し硬くなっていた。
紹介された物件は、駅から歩いて十八分の平屋だった。築四十二年、六畳の和室が二つ、小さな台所と浴室があり、家賃は家計表に書いた上限より三千円安い。一階で、病院へ通うバス停も近く、二人入居については相談できると書かれていた。
祥子は母へ見せる前に、通勤時間を調べた。最寄り駅から病院まで二十三分、夜勤明けでも乗り換えは一回だけである。スーパー、内科、整形外科、歯科の場所も地図へ印をつけ、これなら暮らせると思った。
そこで指が止まった。母へ見せる前に、また自分一人で答えを出そうとしている。祥子は地図を閉じ、見学の予約を取らずに家へ帰った。
玄関を開けると、醬油と砂糖で煮た金柑の匂いがした。澄子は灰色の割烹着を着て、鍋の中を木べらで混ぜている。窓辺には皮へ切れ目を入れた金柑が笊に並び、外の植木鉢では小菊の枯れた茎が朝の風に揺れていた。
「ただいま」
「お帰り。卵サンド、食べなかったの?」
「どうして分かったの」
「鞄からパンの匂いがするもの」
澄子は鍋の火を弱め、湯を沸かした。夜勤明けの祥子にはコーヒーではなく、胃に優しいからとほうじ茶を出す。卓上には啓司が食べ残した目玉焼きの白身と、冷えたトーストの耳が皿に載ったまま残っていた。
「物件のメールが来たんだけど、見る?」
祥子が携帯電話の画面を向けると、澄子は老眼鏡を取りに居間へ行った。以前なら、祥子が条件を読み上げ、よい物件だから見に行こうと先に決めていた。今日は母が画面を指で送り、写真を一枚ずつ確かめるのを待った。
「古いわね」
「築四十二年」
「お風呂の床が、冷たそう」
「そこが気になる?」
「冬は毎日使うところでしょう」
澄子は台所の写真を拡大した。流し台の横には、冷蔵庫を置くための空間がある。幅を測らなければ分からないが、第4話で見た団地よりは広そうだった。
「ぬか床は入りそうね」
「そこは譲らないんだ」
「あなたの牛乳も、横に入るわよ」
「牛乳より先にぬか床なんだね」
「牛乳は飲めば減るけど、ぬか床は減らないもの」
澄子は写真をもう一度最初へ戻した。庭の端には枯れた紫陽花があり、その下に緑色の葉が少し見える。青じそに似ていると言ったが、十二月にも残っているなら別の草かもしれなかった。
「見に行くだけなら」
澄子は画面を祥子へ返した。住むとも離婚するとも言わない。祥子はそれ以上確認せず、不動産店へ電話をかけた。
見学の日、啓司は高校時代の友人と忘年会へ出かけた。紺色のジャケットを着て、鏡の前で何度も髪を撫でつけ、夕食はいらないと言い残した。澄子は夫が履いていく靴の埃を布で拭き、玄関の扉が閉まるまで見送った。
「お父さんの靴まで磨く必要ある?」
祥子が尋ねると、澄子は布を折り畳んだ。四十七年続けてきたことを、家を見に行く日だけやめるのは不自然だと言う。祥子は何のために不自然でないふりをするのか聞きたかったが、玄関の時計が予約時刻に近づいていた。
澄子は焦げ茶色のコートに、臙脂色のマフラーを巻いた。鞄には医療費の封筒と家計表、まだ記帳できていない古い通帳が入っている。祥子は黒いダウンコートを着て、内見の間取り図だけを透明なファイルへ挟んだ。
駅から住宅までの道には、古い商店が並んでいた。八百屋の店先には白菜、大根、泥つきの長葱が積まれ、惣菜店からは揚げたコロッケの匂いが流れてくる。澄子は大根の値札を見て、今の家の近所より二十円安いと言った。
「通院は、あのバス停から」
祥子が指さすと、澄子は時刻表へ顔を近づけた。一時間に三本あり、午前中の診察には間に合う。帰りの便まで自分で確かめ、時刻を手帳へ書いた。
「スーパーは少し遠いね」
「商店街で足りるんじゃない?」
「夜勤明けには閉まってるよ」
「あなたは帰る前に、駅前で買えるでしょう」
「お母さん一人のときは?」
「私だって、昼なら買い物に行けるわよ」
祥子は、重い物は自分が買うと言いかけた。母がすべて一人でできるとは限らない。けれど、できることまで先に取り上げないよう、口を閉じた。
住宅は細い路地の突き当たりにあった。薄い灰色の外壁には雨の跡が残り、玄関脇の郵便受けは赤い塗装が剝がれている。庭には枯れた紫陽花と山茶花が一本ずつあり、山茶花は白い花を二輪だけ咲かせていた。
不動産店の女性が鍵を開けると、閉め切られていた部屋の冷たい空気が流れ出した。古い畳、木材、かすかな防虫剤の匂いがする。祥子は玄関の段差を見て、母がつまずかないかと足元を確かめた。
「この段差、少し高いですね」
「踏み台を置くことはできます。手すりについては、大家さんへ確認が必要です」
「手すりがあったほうがいいよね」
祥子が振り返ると、澄子は自分で上がり框へ足を載せていた。壁へ手をつかず、ゆっくり体を持ち上げる。上がってから玄関を振り返り、毎日なら慣れると思うと答えた。
六畳の和室は南向きで、縁側から冬の日が差していた。畳の一部は薄く焼け、前の住人が置いていた箪笥の跡が四角く残っている。天井には古い照明器具があり、紐の先へ小さな木の玉がついていた。
「この部屋なら、お母さんの寝室にできるよ」
「あなたは夜勤から帰ったら、どこで眠るの」
「隣の六畳」
「夜中に私が転んだら、あなたは眠れないわね」
「転ばないように手すりをつければいい。寝室に呼び出しのベルも――」
「そうやって、また仕事を増やすの?」
祥子は縁側の前で動きを止めた。病棟なら、転倒を防ぐために何を置き、どこへ手すりをつけ、何時間ごとに様子を見るかを考える。母をこの部屋へ住まわせることまで、患者を退院させる計画のように扱い始めていた。
「心配だから」
「私が夜中に転ぶかもしれないから、あなたは眠らないの?」
「そういう意味じゃないよ」
「今の家でも、私は転ぶかもしれないわ。お父さんは気づかずに寝ているでしょうけど」
澄子は畳へ座り、膝を両手で包んだ。階段がないため、前に見た団地より膝は楽だった。それでも立ち上がるときには畳へ片手をつき、足へ力が入るまで少し待った。
「手すりは、私が必要になったら頼む。それでは駄目?」
「駄目じゃない」
「夜中に具合が悪くなったら、起こしていいかも、そのとき聞く」
「それは聞かずに起こしてよ」
「そこは決めていいのね」
二人は顔を見合わせた。すべてをその都度相談するのも、かえって暮らしにくい。命に関わることは迷わず呼ぶ、食事や外出については互いに先回りしないと、祥子は家計表の裏へ書いた。
隣の六畳には、古い木枠の窓があった。線路から離れているため電車の音は聞こえないが、壁の向こうから規則正しい時計の音がする。隣家の柱時計らしく、静かになると、こち、こち、と部屋へ届いた。
「夜も聞こえるかな」
祥子は耳を澄ませた。夜勤明けに眠るには気になるかもしれない。澄子も畳へ座り、しばらく何も話さず音を確かめた。
「あなた、時計の音で眠れないでしょう」
「このくらいなら大丈夫かもしれない」
「かもしれないで借りるの?」
「お母さんは気にならない?」
「私は、お父さんのいびきより小さければ眠れるわ」
澄子が言うと、祥子は笑いかけ、すぐに口を結んだ。笑ってよい話なのか迷ったからだった。澄子は気にせず押入れを開け、奥行きと棚の高さを測っている。
押入れには布団二組と、小さな衣装箱なら入る。四十年混ぜたぬか床は台所、重い裁縫箱は和室の隅、欠けた湯呑みは食器棚へ持ってくるという。祥子は、夫しか使わない土鍋まで持ち出すのかと尋ねた。
「お父さんは、あの鍋で湯豆腐を食べるでしょう」
「じゃあ、置いていけばいいじゃない」
「でも、買ったのは私なのよ」
「持ってきても、お父さんはいないよ」
「分かっているわ」
澄子は押入れの棚へ手を置いた。夫のために買った物を持っていくことと、夫の世話を続けることは同じではない。四十七年間、自分が選び、洗い、欠けたところを直してきた物まで、夫の所有物になるわけではなかった。
台所の流し台は、今の家より指三本分ほど高かった。澄子が前へ立つと、腰を曲げずに蛇口へ手が届く。冷蔵庫を置く場所には、家計表で考えた大きさのものも入りそうだった。
古い浴室には深い浴槽があり、跨ぐには膝を高く上げなければならない。床のタイルは水色で、目地の一部が黒く変色していた。祥子は滑り止めと浴槽の手すりが必要だと思ったが、母へ尋ねてから、不動産店の女性に設置できるか確認した。
「大家さんへ相談してみます。退去時に元へ戻す条件になるかもしれません」
「費用は、どちらが払うんですか」
澄子が自分で尋ねた。祥子ではなく、これから住むかもしれない本人として質問する。不動産店の女性は、大家との話し合いになるため、申込み前に確認事項として書きましょうと答えた。
縁側へ出ると、冬の日が背中へ当たった。物干し竿を掛ける金具は低く、澄子にも届く。庭の土は乾き、紫陽花の根元には、枯れずに残った青じその葉が数枚あった。
「十二月なのに、まだある」
澄子は縁側から庭へ下りた。青じその葉を一枚だけ指でこすると、夏の薬味の匂いがかすかに残っている。誰も住んでいない家で、種がこぼれ、自分で芽を出したものらしい。
「来年も生えるかな」
「種が落ちていれば」
「素麺に使えるわね」
「住むならね」
祥子が答えると、澄子は青じそから指を離した。住むと決めてはいない。けれど、来年の夏に縁側で素麺を食べる自分を、ほんの少し考えたようだった。
内見を終え、不動産店へ戻ると、申込書を渡された。契約者の欄には祥子の名前を入れる予定だったが、まだ空白のままにする。同居人の欄を見た澄子は、鞄から眼鏡を出した。
「書いても、まだ提出しないでおけますか」
「はい。お申込みの意思が決まってから、ご提出ください。ただ、その間に別の方から申込みが入る可能性はあります」
澄子は少し考え、同居人の欄へ「藤野澄子」と書いた。四文字を書いたあと、印鑑は押さない。祥子も契約者欄には何も書かず、用紙を透明なファイルへ戻した。
帰り道、二人は商店街の蕎麦屋へ入った。温かいきつね蕎麦を一杯ずつ頼み、澄子は刻み葱を半分、祥子の椀へ入れる。甘辛く煮た油揚げから出た汁が、熱いだしへ広がった。
「もし一緒に住んだら、食事はどうする?」
祥子が尋ねると、澄子は蕎麦を箸で持ち上げた。湯気で眼鏡が曇り、外して食卓へ置く。先に決めることが多すぎると、家に住む前から家事に追われているようだった。
「私が作れる日は作る」
「毎日じゃなくていいよ」
「あなたが夜勤の日は?」
「病院で食べるか、自分で買う」
「帰る時間を連絡する?」
「急に残業になることもあるから、待たないで寝ていて」
「あなたも、私が出かけたときに何度も電話をしないで」
「一度くらいはいいでしょう」
「用事があるならね」
二人は、家計表の裏へもう一度書き足した。できる者が家事をする、できない日は買う、頼まれていない食事を作って待たない。薬を飲んだか毎日確認せず、手伝ってほしいときは本人から頼む。
「家族なのに、規則ばかりね」
澄子が言うと、祥子は蕎麦のつゆを飲んだ。家族だから言わなくても分かると思い、四十七年かけて一人だけが我慢する家ができた。二人には、言葉にする練習が必要だった。
「あとから変えてもいい規則にしよう」
「誰が変えるの?」
「二人で」
「あなた一人で決めない?」
祥子は返事をする前に、澄子の顔を見た。すぐに約束すれば、また正しい答えを渡すことになる。油揚げの端を噛み、飲み込んでから答えた。
「一人で決めていたら、言って」
「怒らない?」
「たぶん怒る。でも、あとで謝る」
「最初から怒らないとは言わないのね」
「できない約束はしないことにしたの」
澄子は曇りの取れた眼鏡をかけ直し、残った蕎麦を食べた。店の入口には小さな赤い実をつけた千両が飾られ、暖簾の隙間から冷たい風が入ってくる。外へ出るころには、空は薄い灰色になっていた。
二人はまだ申込書を提出していない。啓司に離婚の話もしていない。透明なファイルの中には契約者の空欄と、同居人の欄へ書かれた澄子の名前だけがあった。
帰り際、澄子は平屋の庭から移った青じその匂いを、もう一度指先に探した。夏まで残るはずのない香りは、わずかに皮膚へついていた。
「ここなら、夏に素麺を食べられるわね」
祥子は「住むならね」とは繰り返さなかった。母と同じ歩幅で、家までの道を歩いた。




