第5話 病院の領収書
第5話 病院の領収書
十二月の半ば、澄子は腹部手術後の診察を受けるため、朝から病院へ出かける支度をしていた。窓の外では山茶花が赤い花を開き、霜の残った葉が朝日を受けて光っている。食卓には啓司へ出した焼き鮭の皮と、大根の味噌汁が半分残され、冷めた汁の表面には油揚げの脂が小さく固まっていた。
澄子は灰色のセーターへ焦げ茶色のコートを重ね、診察券を探して革の財布を開いた。小銭入れの奥には、病院や薬局でもらった領収書が二つ折りにされ、輪ゴムで束ねられている。輪ゴムは古くなって茶色く変色し、指で引くと小さな音を立てて切れた。
「お母さん、そんなところに全部入れてるの?」
祥子は夜勤へ行く前に、台所で水筒へほうじ茶を入れていた。紺色の制服用鞄からは、洗った白い靴下と個包装のチョコレートがのぞいている。母の前へしゃがみ、床へ散らばった領収書を拾い集めた。
「あとで家計簿につけようと思って、そのままになっていたのよ」
「三年前の歯医者の領収書もあるよ」
「それは、まだ治療が終わっていないから」
「三年前から?」
「痛くなくなったから、途中で行かなくなったの」
祥子は領収書の日付を見た。膝の整形外科、血圧の薬をもらう内科、歯科、先月の入院費、退院後の薬局。金額は一枚ずつなら大きくないが、澄子自身も合計を知らなかった。
「毎月、医療費はいくらかかってるの?」
「一万円まではいかないと思う」
「この前の入院は?」
「お父さんが払ったから知らない」
「退院するとき、お母さんも会計にいたでしょう」
「カードで払っていたから、金額までは見てないのよ」
澄子は領収書を財布へ戻そうとした。祥子が種類ごとに分けてからにしようと止めると、澄子の指が紙の束を強く挟んだ。財布の中を調べられることまで、自分の暮らしを管理されるように感じているらしい。
「離婚したら、病院へも通えなくなるわね」
澄子は領収書を見たまま言った。啓司の口座から医療費を出せなくなれば、膝の薬も血圧の薬も自分の年金で払わなければならない。次に入院したとき、何十万円必要になるか分からないことが、金額そのものより大きかった。
「離婚したからって、病院にかかれなくなるわけじゃないよ」
「でも、保険も別になるんでしょう」
「今の保険の入り方と、離婚後の所得を確認しないと分からない。医療費の負担を抑える制度もあるし、ひと月の支払いが高くなった場合には――」
祥子は看護師として覚えている言葉を並べ始めた。保険料、自己負担、高額療養費、所得区分、限度額。澄子は最初の二つまでは聞いていたが、三つ目で顔を窓へ向けた。
「難しい顔をしないで。順番に確認すれば大丈夫だから」
「あなたには分かるでしょうけど、私は分からないもの」
「分からないから説明してるんだよ」
「結局、足りなかったらあなたが払うっていう話でしょう」
「そうじゃない。使える制度を使えば、お母さんの負担を――」
「私は患者じゃないの。あなたのお母さんなの」
祥子の口が止まった。水筒へ入れたほうじ茶から、炒った茶葉の匂いが上がっている。蓋を閉め忘れたまま、祥子は母の前へしゃがんでいた。
「分かってるよ」
「分かってない。病院の人みたいな話し方をしないで」
澄子は床へ落ちていた最後の領収書を拾った。紙の角をそろえ、切れた輪ゴムの代わりに、裁縫箱から出した赤い糸で束ねる。祥子が入院患者へ渡す説明書と同じ形に整えようとすると、澄子はその手を避けた。
「お母さんが困らないように言ってるの」
「困る前から、全部あなたが決めるの?」
「決めてないでしょう」
「この前も、年金事務所の予約を先に取ったじゃない」
祥子は返す言葉を探した。年金の数字が分かったことも、母が自分のために甘塩鯖を買ったことも、結果としてはよかったと思っている。それでも、母へ相談する前に予約を取ったことまで正しかったとは言えなかった。
「ごめん。私、また急いだ」
「あなたは仕事があるから、急ぐのよ。次の人が待っているんでしょう」
「今日は次の人はいないよ」
「夜勤へ行く時間があるじゃない」
壁の時計は、祥子が家を出るまで十五分しかないことを示していた。今から母の話を聞くと言っても、途中で切り上げることになる。祥子は領収書に触れず、開いたままのパソコンも閉じた。
「今日は説明しない。お母さんが聞きたいと思ったとき、一緒に聞きに行こう」
「どこへ?」
「病院じゃないところ。役所の相談窓口でもいい」
「あなたは来るの?」
「来てほしいなら行く。自分で行きたいなら、ついていかない」
澄子は赤い糸で結んだ領収書を財布へ入れた。返事の代わりに、祥子の水筒の蓋を閉める。食卓の端へ置かれていた個包装のチョコレートも鞄へ入れ、夜中にお腹が空いたら食べるように言った。
診察では、手術の傷が順調に治っていると告げられた。澄子は医師へ、重い鍋を持ってよいか、階段を上ってよいかと尋ねた。離婚して別の家へ移るかもしれないとは言わず、団地の二階を見に行ったことも黙っていた。
会計を済ませると、澄子は新しい領収書を財布へ入れなかった。病院の封筒を一枚もらい、診察代と薬代を分けて入れる。封筒の表へ日付を書いた字は小さかったが、金額は何度も見直した。
三日後、澄子は自分から祥子へ相談窓口の場所を尋ねた。啓司には、膝の診察について聞きたいことがあると伝えた。嘘ではないが、すべてを話してもいなかった。
地域の相談窓口は、区民センターの一階にあった。入口には白と桃色の葉牡丹が並び、暖房の効いた室内には古い紙と石油ストーブの匂いが残っている。相談机の端には飴の入った硝子瓶が置かれ、澄子は勧められても手を伸ばさなかった。
担当した女性は、澄子より少し若く見えた。祥子が看護師だと知ると、一度娘へ顔を向けたが、質問はすべて澄子へした。離婚後の年金見込み、現在加入している保険、毎月の通院先、薬の種類を一つずつ紙へ書いていく。
「離婚したら、保険がなくなるんですか」
澄子は鞄の上で両手を組み、職員へ尋ねた。祥子は答えを知っていたが、口を挟まなかった。母が自分で質問を終えるまで、膝の上の番号札を裏返して待った。
「保険に入れなくなるわけではありません。ただし、離婚後の住まいや世帯、所得によって手続きや保険料が変わります。今の段階で、一律にいくらとは言えないんです」
「病院代が高くなったら?」
「年齢や所得、ひと月に支払った額などによって確認する制度があります。まずは今の医療費を月ごとに整理して、離婚後の見込みと比べてみましょう」
「娘の給料も一緒に見られるんですか」
「同居するか、どの制度を使うかでも変わります。そこも決めつけず、一つずつ確認しましょう」
職員は、分からない欄を空白のままにした。今日すべてを決める必要はなく、確認できたものから埋めればよいと言う。澄子は空白のある紙を眺め、初めて飴の瓶から薄荷味を一つ取った。
帰り道、祥子は母へ何も説明しなかった。駅前では焼き芋の車が止まり、甘い匂いと白い湯気を出している。澄子が一本買うと言い、二人で半分ずつ食べた。
「あなた、さっき何も言わなかったわね」
「言わないほうがいいと思ったから」
「間違っていたら、教えてくれてもよかったのに」
「どっちなの」
祥子が笑うと、澄子も口元を少し緩めた。焼き芋の黄色い中身は熱く、指で割ったところから湯気が上がる。二人は駅前のベンチに座り、冷たい風へ背中を向けて食べた。
「次は、分からなくなったら聞くわ」
「うん」
「でも、私の代わりには答えないで」
「分かった」
「黙ったまま先に帰るのも駄目よ」
「注文が多いなあ」
澄子は最後の一口を食べ、焼き芋の皮を小さく畳んだ。娘に任せることと、娘に決められることの間には、まだ名前のつかない幅がある。二人はそこを踏み外さないよう、同じ速さで家へ帰った。
その夜、澄子は食卓へ白い封筒を十枚並べた。十二月、十一月、十月と書き、財布に入っていた領収書を月ごとに分ける。薬局の紙からは薬の匂い、歯科の領収書からは古い財布の革の匂いがした。
一枚だけ、小さな青い診察券が混じっていた。今はなくなった子ども歯科の名前と、鉛筆で書かれた祥子の旧姓が残っている。祥子が小学生だったころのものだった。
「こんなものまで取ってあったの」
「あなたが八歳のとき、初めて一人で治療の椅子へ座ったのよ」
「私、泣いた?」
「泣かなかった。お母さんのほうが怖かった」
澄子は診察券を指で挟み、歯科の封筒へ入れようとした。祥子は処分していいと言ったが、澄子は手を止める。古い診察券の裏には、当時の予約日が三つ、澄子の字で書かれていた。
「お母さん、待合室にいた?」
「いたわよ。扉の向こうで機械の音がするたび、お母さんの歯まで痛くなった」
「覚えてない」
「覚えていなくていいの。あなたは治療を受けるほうだったんだから」
祥子は、母が自分を守ってくれなかったと思っていた。父の声が大きくなると黙り、娘が離婚して戻ってきたときにも理由を深く尋ねなかった。けれど、その過去の隅には、歯科の待合室で診察券を握りしめていた母もいた。
「これは、医療費の封筒には入らないね」
「じゃあ、どこへ入れる?」
「捨てないものの封筒」
澄子は新しい封筒を一枚取り、「まだ決めない」と書いた。診察券を入れ、口を糊づけせずに閉じる。祥子はその文字を見ながら、冷めたほうじ茶を一口飲んだ。
食卓には、月ごとに分けられた病院の領収書が並んでいた。金額の分からなかった通院は、足し算のできる数字へ変わっている。澄子は電卓を自分の前へ引き寄せ、一枚目の金額を自分の指で押した。




