第4話 二人分の冷蔵庫
第4話 二人分の冷蔵庫
十二月に入った朝、祥子は台所の食卓へノートパソコンを置いた。窓の外では、霜をかぶった小菊が茶色くうつむき、軒下の物干し竿には啓司の厚い靴下が三足並んでいる。食卓には朝食で残った卵焼きと、澄子が二度温め直した大根の味噌汁があり、パソコンから出る乾いた熱に押されて、味噌と油揚げの匂いが少しずつ薄くなっていた。
啓司は図書館へ新聞を読みに行っている。昼までは戻らないと聞き、祥子は母と二人で暮らした場合の家計表を作ることにした。縦に家賃、電気、ガス、水道、食費、医療費と並べ、横には祥子の給料と澄子の年金見込み額を入れた。
「お母さん、毎月の食費って、いくらくらい?」
「三人で六万くらい」
「お父さんの酒代も入ってる?」
「食費から出しているわよ」
「じゃあ、二人なら四万で足りるかな」
「あなたは夜勤の帰りに、コンビニでいろいろ買うでしょう」
祥子はキーボードを打つ手を止めた。夜勤明けに買うクリームパン、紙パックのカフェオレ、食べずに冷蔵庫へ入れたサンドイッチを思い出す。自分一人の支出は自分で分かっているつもりだったが、母にはすべて見られていた。
「それは私のお小遣いから出す」
「でも、冷蔵庫の場所は取るわね」
「今は冷蔵庫の話じゃなくて、生活費の話」
「同じでしょう。住むなら冷蔵庫がいるもの」
澄子は味噌汁の小鍋へ蓋をし、冷蔵庫の扉を開けた。上段には啓司の缶ビールと瓶入りの辛子明太子、中段には夕食の材料、下段には澄子が作った煮物の容器が詰まっている。祥子が夜勤帰りに買ったプリンは奥へ押し込まれ、賞味期限が二日過ぎていた。
「二人なら、これより小さくてもいいね」
祥子が言うと、澄子は首を横へ振った。ドアポケットの味噌、梅干しの瓶、使いかけの柚子胡椒を一つずつ指さす。冷凍庫には祥子の名を書いた甘塩鯖と、夏に茹でた枝豆、正月用に買った餅まで入っている。
「味噌と梅干しは持っていくでしょう。ぬか床もあるし」
「離婚する話をしているのに、ぬか床なの?」
「毎日混ぜないと駄目になるもの」
「新しい家で作り直せばいいじゃない」
「四十年混ぜたものを、簡単に捨てられると思う?」
澄子は流し台の下から、茶色い陶器の容器を出した。蓋を開けると、炒った米ぬか、昆布、唐辛子の入り混じった酸っぱい匂いが広がる。表面を手で返すと、中から胡瓜が一本と、半分に切った蕪が現れた。
「これ、結婚したころからあるの?」
「最初のぬかは何度も足しているから、同じものかは分からないわよ。でも全部捨てたことはないの」
「私が離婚して戻ってきたときも?」
「あなた、しばらく何も食べなかったでしょう。これなら食べるかと思って、毎朝胡瓜を漬けたのよ」
祥子は覚えていた。離婚届を出したあと、茶碗一杯のご飯へ細く切った胡瓜のぬか漬けを載せ、それだけを食べた。誰が漬けたのかを考えたことはなかった。
「じゃあ、それも入る冷蔵庫にしよう」
「野菜室が広いほうがいいわね」
「お母さん、来るつもりになったの?」
「冷蔵庫の話をしているだけよ」
澄子はぬか床へ胡瓜を戻し、表面を掌で平らにならした。祥子は家計表へ「冷蔵庫」と書きかけ、毎月の支出ではないことに気づいて別の欄を作る。洗濯機、電子レンジ、布団、カーテンと入力すると、引っ越しただけで暮らしが始まるわけではないことが数字になった。
看護師としての給料があれば、母一人を養うことはできる。祥子はそう考えていた。けれど、夜勤を減らした場合や、自分が病気になった場合、母の膝が悪くなって介護の費用がかかる場合まで入れると、表の余白は狭くなった。
「私が夜勤を続ければ、これくらい残る」
「いつまで続けられるの?」
「まだ四十六歳だよ」
「お母さんが七十二歳なんだから、二十六年後にはあなたも七十二歳よ」
「そんな先まで一度に考えられない」
「食べていけるって、さっきまで先の計算をしていたでしょう」
祥子は画面を見つめた。母を安心させるために作った家計表なのに、数字を入れるほど約束できないことが増えていく。自分がずっと働けることも、母がずっと元気でいることも、二人がこの先も同居を望むことも決まっていなかった。
「何があっても私が面倒を見るって言えば、お母さんは安心する?」
「安心より先に、息が詰まるわ」
「どうして」
「あなたは仕事で人の世話をして、家へ帰っても私の世話をするの?」
「お父さんの世話をさせておくよりいいでしょう」
祥子の声が高くなった。澄子は冷蔵庫から白菜を取り出し、外側の葉を一枚ずつ剝がした。土のついた部分を流しで洗い、昼のうどんへ入れるため細く切る。
「私が離婚したとき、お母さんは何も聞かずに置いてくれたでしょう。今度は私がする番だよ」
「置いてあげたなんて思っていないわ。ここは、あなたが育った家だもの」
「じゃあ、二人で住む家も、お母さんの家にすればいい」
澄子は包丁を止めた。娘の家へ置いてもらうのではなく、自分の家にする。その違いを確かめるように、濡れた白菜をまな板の上へ並べ直した。
午後、二人は駅前の不動産店へ向かった。祥子は黒いコートに白い運動靴、澄子は前日に銀行へ着ていった焦げ茶色のコートを身につけている。防虫剤の匂いは薄くなったが、古い裏地が歩くたびにかさかさ鳴った。
店先のプランターには赤いシクラメンが植えられていた。ガラス扉を開けると、暖房と新しい紙の匂いが流れてくる。壁には明るい部屋の写真が何十枚も貼られ、どの台所にも物が一つも置かれていなかった。
「母と二人で住める部屋を探しています」
祥子が言うと、担当者はパソコンへ希望条件を入力した。家賃、間取り、駅からの距離、保証人、階段の有無を順に尋ねる。祥子は家賃を答えたあと、契約は自分の名義にしたいと伝えた。
「お母様は、どのようなお部屋をご希望ですか」
担当者に尋ねられ、澄子は祥子の顔を見た。娘が答えると思ったようだった。祥子は口を開かず、卓上の間取り図へ視線を落とした。
「台所が、あまり低くないところがいいです」
澄子は自分で答えた。四十七年使った家の流し台は低く、長く立つと腰が痛んだ。日当たりより駅の近さより、最初に口から出たのは台所の高さだった。
「それから、大きめの冷蔵庫が置けるところを」
「お二人なら、それほど大きくなくても足りると思いますが」
「ぬか床があるんです」
担当者は一度目を丸くし、設置場所の幅も確認しましょうと間取り図へ書き込んだ。祥子は笑いそうになったが、澄子が真剣な顔をしているため、唇を結んだ。
紹介されたのは、築三十五年の団地だった。駅から歩いて十五分、六畳の和室が二つと、小さな台所がある。建物の前には枯れた紫陽花が並び、枝の先に茶色い花が残っていた。
部屋は二階にあり、エレベーターはない。澄子は最初の踊り場で手すりを握り、二階へ着くと膝へ掌を置いた。大丈夫だと言ったが、息が少し速くなっている。
「毎日、この階段だよ」
「二階くらい上がれるわよ」
「今はね。買い物袋を持っていたら?」
「少しずつ運べばいいでしょう」
「無理しなくていい。ここに決める必要はないんだから」
祥子が腕を取ろうとすると、澄子は自分で立ち上がった。心配されるたび、できないことを先に数えられているように感じる。祥子は伸ばした手を引き、母より一段後ろを歩いた。
部屋の台所には、古い一口のガス台と、小さな流しがあった。冷蔵庫を置く場所は狭く、二人用の大きさでは食器棚が入らない。澄子は流し台の前へ立ち、蛇口をひねり、窓から隣の建物までの距離を見た。
「洗濯物は、ここ?」
「南向きのベランダです」
「祥子の夜勤明けに、隣の掃除機が聞こえるかしら」
「団地ですから、生活音は多少ございます」
澄子は和室の畳へ座った。日なたの匂いに古い畳の青臭さが混じり、空の部屋では遠くの車の音まで響く。押入れを開けると奥行きはあったが、ぬか床を置く場所はやはり冷蔵庫しかなかった。
「どうだった?」
内見を終えて外へ出ると、祥子が尋ねた。澄子は悪くないと言ったあと、膝をさすった。担当者には検討すると伝え、申込書を受け取らずに店を出た。
帰り道、二人は駅前の喫茶店へ入った。店内には焙煎したコーヒーと、焼いたバターの匂いが満ちている。窓際の鉢には白いポインセチアが飾られ、曇った窓の向こうでは、買い物客が冬のコートを着て行き交っていた。
祥子はコーヒーと厚切りトーストを頼み、澄子は紅茶にした。運ばれてきたトーストには、四角いバターと苺ジャムが添えられている。澄子は半分へジャムを塗り、もう半分は何もつけずに食べた。
「さっきの部屋、階段が駄目だね」
「まだ上がれるわよ」
「上がれるかどうかじゃなくて、毎日上がりたいかで決めよう」
澄子は返事をせず、家計表を鞄から取り出した。祥子が印刷した紙には、鉛筆で何度も数字を直した跡がある。食費の四万円という欄へ目を留め、店の紙ナプキンで指についた苺ジャムを拭った。
「食費、三万五千円でもできると思う」
「無理に減らさなくていいよ」
「無理じゃないわ。旬のものを買って、作り置きをすればいいもの」
「お母さんに、また毎日料理をさせるつもりはない」
「私がしたい日はする。したくない日は、あなたが買ってくればいい」
澄子は食費の数字を消し、三万五千円と書き直した。その下へ、小さな字で味噌、ぬか床、梅干しと書く。祥子は、母が節約によって自分の価値を示そうとしているのではないかと考えたが、その言葉をすぐに否定しなかった。
「梅干しは買わなくていいわ。私が漬けるから」
「梅の季節まで一緒に住んでる計算?」
「家計表でしょう。先のことを書くものじゃないの」
澄子は紅茶を一口飲んだ。少し渋くなっていたが、湯を足して薄めず、そのまま飲み込む。祥子もトーストの焦げた端を残さず食べた。
二人はまだ、住む部屋を決めていない。離婚する日も、冷蔵庫の大きさも決まっていない。それでも家計表の食費欄には、祥子の数字だけでなく、澄子の字で書かれた三万五千円が残った。
店を出ると、夕方の風がコートの裾へ入った。澄子は鞄の中の家計表が折れないよう、両手で位置を直す。帰宅したらぬか床を混ぜなければならないと思いながら、祥子と並んで家へ向かった。




