第3話 押入れの紙袋
第3話 押入れの紙袋
年金の見込み額を確認してから三日後、澄子は昼食に甘塩の鯖を焼いた。啓司は町内会の囲碁へ出かけ、祥子は夜勤明けで二階の部屋にいる。台所の窓辺では黄色い小菊が最後の花を残し、焼き網から上がる脂の匂いが、十一月の冷たい空気へ流れていた。
澄子は二切れ入りだった鯖の一切れを冷凍し、残りを白い皿へ載せた。大根おろしには醬油をかけず、冷蔵庫に残っていた白菜の浅漬けと、なめこの味噌汁を添える。啓司のいない食卓なのに、澄子はいつものように皮が焦げていないか確かめ、味噌汁を一口飲んでから椀を置いた。
「お母さん、一人で先に食べてよかったのに」
祥子が階段を下りてきた。洗っただけの髪は肩で跳ね、灰色のスウェットの袖からは、腕時計を外した白い跡が見えている。夜勤から帰って二時間しか眠っていないため、目の下には薄い影があった。
「起こした?」
「鯖の匂いで起きた」
「ごめんね。換気扇を回したんだけど」
「いい匂いって意味。甘塩、ちゃんと自分で食べたんだね」
澄子は返事をせず、鯖の身を箸で細かくほぐした。辛口に慣れた舌には物足りないかと思っていたが、脂の甘さがよく分かった。皮も柔らかく、焦げたところを娘や夫へ渡して、自分は食べられるところだけ拾う必要がなかった。
「もう一切れは、冷凍したの」
「お父さんが見つけたら食べるかもよ」
「袋に名前を書いたわ」
冷凍庫の中には、油性ペンで「澄子」と書かれた透明な袋が入っていた。自分の名前を食べ物へ書いたのは、祥子が学校へ持っていった弁当箱以来だった。祥子は冷凍庫を開けてその文字を確かめたが、褒めれば母が袋を裏返しそうに思えたため、何も言わずに閉めた。
二人で食卓へ座ると、祥子は病院の売店で買ったクリームパンを袋から出した。表面が少し潰れ、白い粉砂糖が透明な袋へついている。澄子はご飯をよそおうかと尋ねたが、祥子は夜勤明けには甘いものが食べたいと言い、袋のままパンをかじった。
「ねえ、お母さん。家にいくらあるか知ってる?」
澄子の箸が、鯖の小骨をつまんだまま止まった。祥子は質問の仕方が急だったと思ったが、別の言葉へ置き換えられなかった。年金の数字が分かっても、預金や住まいが分からなければ、離婚後の生活は計算できない。
「今月の生活費なら、あと四万くらい」
「それじゃなくて、家全体のお金。預金とか、お父さんの退職金がどれくらい残っているとか」
「知らないわよ」
「保険は?」
「お父さんが入っていると思う」
「家の名義は、本当にお父さん一人なの?」
澄子は、前にも父の名義だと言ったでしょうと眉を寄せた。しかし、登記の書類を見たことがあるかと尋ねられると、味噌汁の椀へ目を落とす。家を買ったとき、契約や銀行との話はすべて啓司が進め、澄子は印鑑を押すよう言われた場所へ押しただけだった。
「たぶん、お父さんよ。ローンもお父さんが払っていたんだから」
「たぶんじゃなくて、確認したほうがいい。お母さんが押した書類もあるんでしょう」
「昔のことよ。覚えてないわ」
「固定資産税の封筒は、どこに来てる?」
「お父さんの机か、押入れじゃないかしら」
澄子は味噌汁をすすり、少し濃いと思った。啓司の血圧を考えて薄くしていたころには、この味を自分が濃いと感じるとは思わなかった。湯を足そうと立ちかけたが、そのままもう一口飲んだ。
昼食を片づけたあと、二人は夫婦の寝室にある押入れを開けた。上段には客用布団が二組、下段には古い紙袋と衣装箱が詰め込まれている。戸を動かすと敷居へたまった埃が舞い、防虫剤と古い畳の匂いが広がった。
祥子が一つ目の紙袋を引き出すと、底が抜けかけていた。中から電気炊飯器の保証書、壊れて処分した掃除機の説明書、昭和の日付が入った電気代の領収書が出てくる。澄子は捨ててもよいと言いながら、保証書の住所を一枚ずつ読み、結局は別の袋へ移した。
「この炊飯器、もうないよね」
「最初のじゃないわよ。あなたが高校へ入ったときに買ったもの」
「それでも三十年前でしょう」
「あのころは、朝に五合炊いたの。あなたがお弁当に二段分持っていったから」
「そんなに食べてないよ」
「食べたわよ。唐揚げが少ないと帰ってから文句を言ったもの」
祥子には覚えがなかった。父と同じようなことを、自分も母へ言っていたのかもしれない。クリームパンの袋を食卓へ置いたままだったことを思い出したが、今は階下へ戻らず、保証書の束を整えた。
二つ目の紙袋からは、祥子の小学校の通知表が出てきた。「忘れ物が多いので、持ち物を一緒に確認してください」と担任の丸い字で書かれている。折り畳んだ給食の献立表や、遠足で拾った赤茶色の落ち葉まで挟まっていた。
「こんなもの、まだ持ってたの」
「あなたが捨てないでって言ったのよ」
「いつ?」
「九つのとき」
祥子は四十六歳になった自分の顔を、通知表の透明な覆いにぼんやり映した。九歳の自分との約束を母が守り続けていたことも、母が何を捨てて何を残してきたのかも、考えたことがなかった。
奥から出てきた小さな箱には、祥子の結婚式の写真が入っていた。白無垢姿の祥子と元夫が並び、澄子は二人の後ろで薄桃色の留袖を着ている。離婚したとき、祥子は自分の家にあった写真をすべて処分したが、母の押入れには一枚だけ残っていた。
「捨ててもいいよ」
祥子が言うと、澄子は写真の表面を布で拭った。元夫の顔を見ているのか、隣に立つ娘を見ているのか分からない。しばらくして写真を箱へ戻し、蓋を閉めた。
「今は、まだここでいいわ」
「私が離婚したとき、お母さん、本当はどう思った?」
「帰ってこられる家があってよかったと思った」
「みっともないと思わなかった?」
「思うわけないでしょう」
「じゃあ、お母さんが家を出ても、みっともなくないよ」
澄子は箱を押入れへ戻した。娘の離婚と自分の離婚は違うと言いかけたように唇を動かしたが、言葉にはしなかった。祥子には看護師の仕事があり、自分には何もないという線を、また二人の間へ引こうとしているのが分かった。
三つ目の紙袋から、結婚式の献立表が出てきた。鯛の尾頭つき、海老の艶煮、紅白なます、蛤の吸い物と、筆文字で料理が並んでいる。澄子は、蛤が砂を吐ききっておらず、啓司の叔母がいつまでも文句を言っていたと話した。
「お母さん、四十七年前の味まで覚えているのに、家の名義は知らないんだね」
「女が口を出すことじゃないって、お父さんに言われたから」
「お母さんは、それでよかったの?」
「そういうものだと思っていたのよ」
澄子は献立表を膝の上で折り直した。角をそろえるため、爪の先で何度も紙をなぞる。結婚式で出された料理はすべて覚えているのに、その日に始まった暮らしの金が、どこから来てどこへ残ったのかは知らなかった。
押入れの一番奥には、取っ手の切れた茶色い紙袋があった。引き出すと、中から古い預金通帳と、内職の納品書が何枚も出てきた。澄子が子どもの寝たあとに、造花の葉を針金へ巻きつけていたころのものだった。
「これ、お母さんの通帳?」
表紙には旧姓ではなく、藤野澄子と書かれている。最後に記帳されたのは三十八年前で、残高は三万七千円だった。その後の頁は白いまま残っている。
「あなたが熱を出して、内職をやめたの。あのころは一袋作っても百円にもならなかった」
「このお金は?」
「知らないわ。もう口座があるかどうかも」
「お父さんに渡したの?」
「たぶん、家の何かに使ったんじゃないかしら」
澄子は通帳の残高を指でなぞった。覚えていないというより、覚えておく必要がないと思わされてきたのかもしれない。金を使った理由も、誰へ渡したかも、夫が必要だと言えばそれで話は終わっていた。
祥子は固定資産税の通知や保険の封筒を探そうと言った。澄子は押入れではなく、啓司の机に入っているかもしれないと答える。寝室の窓際には黒い木の机があり、三つの引き出しには小さな鍵がついていた。
「鍵はどこ?」
「お父さんの鍵よ。触ったら駄目」
「でも、家や保険の書類が入っているかもしれない」
「泥棒みたいなことはしたくない」
澄子は机から離れ、古い通帳を胸元へ抱えた。結婚したとき、家計は自分が管理すると啓司に言われ、それ以来、机の引き出しを開けたことは一度もなかった。掃除をするときも書類へ触れず、埃だけを布で払ってきた。
「鍵を壊したり、隠してある物を持ち出したりしようって言ってるんじゃないよ」
「同じ家に住んでいたって、お父さんの物はお父さんの物でしょう」
「お母さんが暮らしてきた家のことを、知ろうとしているだけだよ」
「でも、お父さんのお金でしょう」
「お母さんが四十七年、食事を作って洗濯してきた間に増えたものでもある」
澄子は通帳の端を両手で挟んだ。紙の角が親指へ食い込み、白く跡を残す。祥子はそれ以上机を開けようとは言わず、畳へ並べた書類を種類ごとに分け始めた。
二人だけで書類の意味を決めず、専門家へ相談することになった。家の名義は公の記録で確認し、啓司宛ての封書を勝手に開けることはしない。澄子が普通に目にできる固定資産税の通知、保険会社から届いた案内、自分名義の通帳は、日付と内容が分かるよう控えを取ることにした。
祥子は家庭用の複合機を二階から運び、床へ置いた。機械が動くたび、白い光が古い通帳の下を往復する。澄子は音が廊下まで聞こえないか気にし、複合機へ座布団をかぶせようとした。
「それじゃ熱がこもるよ」
「音が大きいでしょう」
「お父さんは囲碁に行ってる」
「いつ帰ってくるか分からないもの」
祥子は時計を見た。啓司が帰るまでには一時間以上ある。急げば終わると言わず、母が一枚ずつ原本を確認するのを待った。
控えを取った書類は、紺色のファイルへ入れた。ファイルは祥子の部屋で保管し、原本は入っていた紙袋へ戻す。澄子は通帳だけを戻さず、自分の鞄へ入れた。
夕方、啓司は予定より早く帰ってきた。玄関には囲碁仲間からもらった柿が入った紙袋を置き、手を洗う前に寝室へ入る。押入れの戸が指一本分だけ開いているのを見つけ、澄子を呼んだ。
「押入れを開けたのか」
澄子は台所で、白菜と豚肉を鍋へ重ねていた。鍋の底から昆布の匂いが上がり、換気扇の下には昼に食べた甘塩鯖の焼き網が乾かしてある。呼ばれた声を聞くと、白菜を押さえていた手を布巾で何度も拭った。
「何か探していたのか」
「古いコートを出そうと思って」
「コートなら手前の箱だろう。紙袋まで動いているぞ」
「どこに入れたか、忘れたのよ」
啓司は押入れの戸を閉め、敷居からはみ出した布団の端を足で押し込んだ。書類がなくなっていないかまでは確かめず、夕飯は何時かと尋ねる。澄子は六時半と答え、台所へ戻った。
その夜の鍋には、啓司の好きな豚肉が多めに入っていた。澄子は自分の椀へ白菜の芯ばかりを取り、祥子は何も言わずに豆腐を一切れ追加した。食卓の下では、澄子の鞄の中に古い通帳が入ったままになっていた。
翌朝、澄子は押入れから出した焦げ茶色のコートを着た。肩が少し窮屈で、裏地から防虫剤の匂いがする。啓司にどこへ行くのかと尋ねられると、澄子は玄関で靴紐を結び直し、振り向かずに答えた。
「このコートを着て、少し歩いてきます」
嘘にしないための外出だった。けれど鞄には、三十八年前から記帳されていない通帳が入っている。澄子は銀行の場所を確かめてみようと思い、十一月の冷たい道へ一人で出た。




