第2話 青い年金手帳
第2話 青い年金手帳
夜勤明けの休憩室で、祥子は紙コップのコーヒーを飲みながら、離婚した場合の年金について調べていた。午前八時を過ぎても病院の窓は白く曇り、中庭の山茶花には夜露が残っている。机には誰かが置いていった個包装の煎餅が一枚あったが、開ける気になれず、画面に並んだ文字を何度も読み返した。
澄子は、離婚すれば啓司の年金が半分もらえると思っていた。その一方で、半分にしてもらえるほど夫が素直に応じるはずがないとも考え、初めから諦めている。祥子も似たようなものだと思っていたが、調べてみると、婚姻期間中の厚生年金記録について分割を求める制度であり、夫の年金額全体がそのまま半分になるわけではなかった。
何が対象になり、分割後に母の年金がどれほど変わるのかは、実際の記録を確認しなければ分からない。離婚前でも、一人で情報提供を請求できると書いてある。祥子は昼休みになるのを待ち、年金事務所へ電話をかけた。
「離婚を決めたわけではないんですが、母の年金の見込みを知りたいんです」
電話の向こうの職員は、まず本人の記録を確認する必要があると答えた。基礎年金番号が分かるものと、婚姻期間を確認できる書類を用意し、本人が相談へ来るよう説明される。祥子は空いている日時を尋ね、自分の休みに合わせて十日後の予約を取った。
電話を切ったあと、母へ先に相談しなかったことが気にかかった。それでも数字が分かれば、澄子は食べていけないという言葉を使わなくなると思った。祥子は冷めたコーヒーを飲み干し、煎餅を白衣のポケットへ入れて病棟へ戻った。
予約日の朝、澄子は六時から台所に立っていた。紺色のカーディガンへ腕を通し、灰色の割烹着の紐を背中で結んでいる。窓辺の小菊は前夜の風でさらに傾き、流し台の横には泥のついた里芋が笊いっぱいに積まれていた。
澄子は包丁の背で里芋の泥を落とし、一つずつ皮をむいていた。ぬめりで指が滑るたび、古い布巾へ手を押しつける。鍋には昆布と煮干しが水へ浸され、まだ火をつけていないのに、台所には魚の乾いた匂いが広がっていた。
「お母さん、出かけるのは九時半だよ」
祥子が声をかけると、澄子は里芋から目を上げなかった。祥子は薄茶色のセーターに黒いズボンを合わせ、鞄には母の保険証と予約票を入れている。自分が仕事へ行くときより早く支度を済ませていた。
「朝から、お腹の具合がよくないの」
「どんなふうに痛いの。差し込む感じ? 重い感じ?」
「そこまでじゃないのよ」
「熱は?」
「ないと思う」
「具合が悪いなら、病院へ行く?」
澄子は包丁を止め、ようやく祥子の顔を見た。病院という言葉を出されるとは思っていなかったらしい。剝きかけの里芋を水へ落とすと、小さな水滴が割烹着へ飛んだ。
「病院へ行くほどじゃないって言っているでしょう」
「じゃあ、年金事務所へ行こう」
「お父さんのお昼があるから」
台所の時計は、まだ七時を少し過ぎただけだった。啓司は二階で眠っており、起きてくるのは八時半ごろである。昼食まで四時間以上あるのに、澄子は里芋を急いで煮ようとしていた。
「昨日の里芋が冷蔵庫に残っているでしょう。それを出せばいいよ」
「二日続けて同じ煮物は食べないの」
「食べなかったら、パンでも買ってもらえばいいじゃない」
「お父さんは昼にパンを食べないわよ」
「じゃあ、自分で何か作ればいい」
「台所の物がどこにあるか分からないもの」
祥子は、分からなければ尋ねればよいと言いかけた。けれど、啓司は妻が留守の日にも、調味料の場所を覚えようとしなかった。食卓に昼食が出てくることを、ガスや水道と同じように、止まらないものだと思っている。
澄子も、夫が同じ煮物を二日続けて食べないことを、変えられない決まりとして扱っていた。法律で決まっているわけでも、医者に止められているわけでもない。それでも四十七年繰り返された決まりは、年金事務所の予約より重かった。
「お父さんには、今日のことを言っていないんでしょう」
「言ってない。お母さんが言いたくないと思ったから」
「帰りが遅くなったら、何て言うの」
「私と買い物へ行ったでいいんじゃない」
「嘘をつくことになるでしょう」
「離婚するかもしれない妻が、自分の年金を調べるには、夫へ許可を取らないといけないの?」
祥子の声が強くなり、包丁を握る澄子の指が止まった。祥子は息を吐き、病棟で患者へ話すときの声を思い出す。問い詰めるのではなく、母が何を怖がっているのかを確かめなければならなかった。
「行くかどうかは、お母さんが決めていい。嫌なら予約は取り消す」
「あなたが勝手に取ったんでしょう」
「うん。そこは悪かった」
澄子は包丁をまな板へ置いた。むいた里芋は五つあり、皮を残したものは十個以上ある。全部煮るつもりだったのか、自分でも分からなくなったように、笊と鍋を交互に見た。
「話を聞くだけなのよね」
「今日は、何を調べればいいか聞く。それ以上のことは、お母さんが決めない限りしない」
「お父さんに電話が行ったりしない?」
「それも職員さんに、自分で聞いてみよう」
澄子は里芋を水へ浸し、割烹着を脱いだ。紺色のカーディガンには、白い猫の毛が一本ついている。飼っていた猫が死んでから三年たつのに、押入れから出した冬服には、まだ毛が残っていることがあった。
「お昼は、どうするの」
「昨日の里芋を出す」
「嫌だって言ったら?」
「お父さんが考える」
祥子が答えると、澄子は冷蔵庫を開けた。保存容器の中には、煮汁の染みた里芋が三つ残っている。蓋を開け、匂いを確かめてから、食卓へ出しておいた。
啓司が起きてきたとき、澄子は茶色のコートを着ていた。結婚した娘と買い物へ行くと言うと、啓司は新聞から顔を上げず、昼までには帰れと答えた。食卓の保存容器を見つけると、昨日も食べたと眉を寄せた。
「嫌なら、冷蔵庫に卵があります」
澄子が言うと、啓司は新聞を少し下げた。澄子は返事を待たず、玄関へ向かった。祥子は母の背中を見ながら、何も足さずに靴を履いた。
年金事務所の待合室には、暖房が入りすぎていた。壁際の長椅子には厚いコートを着た人たちが並び、番号を呼ぶ機械が一定の間隔で電子音を鳴らしている。窓口の脇には赤いシクラメンの鉢が置かれていたが、葉の一枚が暖房の風で乾き、丸く反っていた。
澄子は古い革鞄から、青い年金手帳を取り出した。表紙の角は白く擦れ、啓司の会社名を書いた小さな紙が挟まっている。祥子は幼いころ、その手帳を銀行の通帳だと思い、触って叱られた記憶があった。
「藤野さん、どうぞ」
呼ばれた澄子は、祥子より半歩遅れて窓口へ向かった。職員は五十代ほどの女性で、灰色の制服の胸元へ小さな椿の飾りをつけている。澄子は椅子へ腰を下ろしても年金手帳を離さず、両手で膝の上へ押さえていた。
「今日は、離婚時の年金分割についてのご相談ですね」
職員の言葉に、澄子は背後を振り返った。知っている人がいないことを確認し、声を落とす。祥子は代わりに話そうと口を開きかけたが、母の手が年金手帳を握り直すのを見て待った。
「まだ、離婚すると決めたわけではないんです。ただ、もし一人になったら、いくらで暮らすことになるのか知りたくて」
「承知しました。まず、年金分割のための情報提供を請求することができます」
「主人の年金を半分もらえるんですか」
「ご主人の年金額全体を、そのまま半分にする制度ではありません。婚姻期間中の厚生年金の記録が対象になります。藤野さんの場合にどうなるかは、記録を確認して見込み額を出してみましょう」
職員は白い紙へ、基礎年金と厚生年金という二つの言葉を書いた。澄子は眼鏡を鞄から出し、紙へ顔を近づける。数字を聞いてすぐ帰るつもりだったが、分からない言葉が出るたび、鉛筆で小さな丸をつけた。
「これを頼んだら、主人に知られますか」
「離婚前に、お一人で情報提供を請求する場合は、請求されたご本人へ情報通知書をお送りします。ご主人へ同じ通知が自動的に送られる扱いではありません」
「電話も行きませんか」
「この情報提供の請求だけで、こちらからご主人へお電話することはありません。ただ、書類の送付先について心配があれば、受付の際に確認しましょう」
澄子は祥子の顔を見ず、もう一度、夫には分からないのですねと尋ねた。職員は急かさず、同じ内容を言葉を変えて説明する。祥子は隣で手を組み、母が質問を終えるまで黙っていた。
申請書には、夫婦の氏名、生年月日、婚姻した日などを書く欄があった。澄子は婚姻日を思い出せず、昭和の年号を指で数える。結婚記念日には毎年すき焼きを作ってきたのに、書類へ書くとなると年が一つずれた。
「お父さんと結婚したの、祥子が生まれる二年前だから」
「私の生まれた年、覚えてる?」
「娘の年くらい覚えているわよ」
澄子は不満そうに答えながら、正しい年を書いた。住所は啓司と同じ家なのに、手が途中で止まる。自分の住所として書くのか、夫婦の家の住所として書くのか、その違いを考えているようだった。
手続きが終わると、職員は情報通知書が届いたあと、年金の見込みを確認する相談予約を取るよう勧めた。今日ここで離婚を決める必要はなく、まず数字を知るための紙を一枚出しただけだと言う。澄子は青い年金手帳を鞄へ戻し、留め金を二度確かめた。
年金事務所を出ると、昼の日差しはあったが、風は朝より冷たくなっていた。街路樹の銀杏は半分ほど葉を落とし、歩道の端へ黄色い葉が重なっている。祥子は母の歩調に合わせ、駅前のスーパーまで何も尋ねずに歩いた。
「お父さん、お昼を食べたかしら」
「お腹が空けば食べるよ」
「里芋、温められたかな」
「電子レンジの釦は一つだよ」
「でも、蓋を取らないと」
祥子は、そこまで母が心配することではないと言いかけた。だが、今日だけで四十七年分の癖が消えるわけではない。母が夫の昼食を気にしたまま歩いても、年金事務所へ行った事実はなくならない。
情報通知書が届いたのは、それから三週間後だった。澄子は封筒を祥子の部屋へ持ち込み、暖房をつける前の冷たい床へ二人で座った。離婚時に年金分割をした場合の見込み額が複数の割合で記され、澄子が想像していた金額とは違っていた。
「これだけなの」
澄子は一度そう言い、眼鏡を外した。祥子は、少ないとも多いとも答えなかった。家賃も医療費も分からないうちに、生活できるかを決めることはできない。
「でも、今の年金よりは増える」
澄子はもう一度眼鏡をかけ、用紙の数字を指でなぞった。夫の年金の半分ではない。けれど、自分には何もないと思っていた紙の上に、自分の名と、自分が受け取る可能性のある金額が並んでいた。
二人は再び年金事務所へ行き、職員から数字の見方を聞いた。澄子は前回より多く質問し、祥子は一度も代わりに答えなかった。帰りには日が傾き、駅前の花屋で白い山茶花の鉢が値下げされていた。
スーパーの鮮魚売り場には、辛口の塩鯖と甘塩の鯖が並んでいた。澄子はいつものように辛口へ手を伸ばし、途中で止める。隣の甘塩を一つ取り、身の厚さと値札を確かめた。
「お父さん、甘塩は食べないでしょう」
「知っているわよ」
「お父さんには、別のものを焼くの?」
澄子は二切れ入りの鯖を買い物籠へ入れた。大根、なめこ、啓司の好きな納豆の間に置き、上から潰れないよう位置を直す。会計を済ませると、鯖の袋だけを取り出し、自分の革鞄へしまった。
「これは私の明日のお昼」
祥子は何も言わず、母から重い買い物袋を一つ受け取った。二人の足元で銀杏の葉が乾いた音を立てる。澄子は鞄の上から鯖の形を一度確かめ、家へ向かって歩き出した。




