第1話 冷めた鯖
第1話 冷めた鯖
十一月の夕方、台所のすり硝子は、五時を過ぎるとすぐに黒くなった。窓の外では黄色い小菊が風に揺れ、細い花びらが植木鉢の土へ落ちている。澄子は紺色のカーディガンの袖を肘までまくり、焼き網の上の塩鯖を菜箸で裏返した。
魚の脂が落ち、青い火が一瞬だけ大きくなった。白い煙と焦げた皮の匂いが立ち、古い換気扇が戸棚まで震わせながら回っている。澄子は咳を一つして窓を開けたが、左の脇腹へ手を当て、煙が消える前に椅子へ腰を下ろした。
「お母さん、また痛むの?」
夜勤へ出る支度をしていた祥子が、廊下から台所へ入ってきた。紺色のズボンに白いセーターを着て、肩までの髪を後ろで一つにまとめている。看護師用の白い靴下が食卓の椅子に掛かり、洗ったばかりの石鹸の匂いを残していた。
「もう何ともないわよ。ちょっと煙を吸っただけ」
「脇腹を押さえていたでしょう」
「傷が引きつったの。寒いからよ」
「退院して、まだ一か月なんだから」
祥子が焼き網へ手を伸ばすと、澄子は大丈夫だと言って先に菜箸を取った。腹部の手術は小さなものだったが、三日間入院し、退院後もしばらく重い鍋を持たないよう言われている。手術の痕より、何かをしていない時間のほうが澄子には落ち着かなかった。
「私が焼くよ」
「夜勤前に服へ匂いがつくでしょう」
「家から制服を着ていくわけじゃないよ」
「病院で髪から魚の匂いがしたら、患者さんが嫌がるわよ」
澄子は鯖を持ち上げた。片方は皮が薄いきつね色で、もう片方は尾に近い部分が黒く焦げている。きれいなほうを啓司の皿へ置きかけ、身の厚さを見比べてから、少し大きい焦げたほうを載せた。
食卓には、大根と油揚げの味噌汁、前夜の残りのひじき、白菜の浅漬けが並んでいた。ひじきは三つの小鉢へ分けたが、最初に盛った澄子の分だけ、表面が乾き始めている。啓司の箸は先が少し欠けていたため、澄子は食器棚から別の一膳を出した。
「ご飯ですよ」
居間では相撲中継が流れ、力士の背中が大きく映っていた。啓司は茶色い半纏を着て新聞を広げ、呼ばれても顔を上げない。行司の声と観客の拍手が止むまで、澄子は台所と居間の境に立って待った。
「今、いいところなんだ」
「味噌汁が冷めるよ」
「冷めたら温め直せばいいだろう」
啓司は勝負が終わってから新聞を畳み、食卓へ来た。洗面所で血圧の薬を飲み、湯呑みを置いたまま戻ってくる。澄子はその音を聞いて、薬を出す必要がなかったことを確かめた。
啓司は鯖の皮を箸でつついた。焦げた部分が粉になり、白い皿へ落ちる。一口も食べないまま、皿を少し前へ押した。
「何だ、これは。焦げているじゃないか」
「脂が火へ落ちて、急に燃えたの」
「焼いている間、見ていなかったのか」
「見ていたけど」
「毎日やっているのに、魚一枚まともに焼けないのか」
澄子は返事をせず、啓司の皿を自分の前へ引いた。代わりに、皮のきれいな自分の鯖を置く。啓司は礼を言わず、新しい鯖の身をほぐし始めた。
祥子は母の皿を見た。黒くなった皮は縮み、端の身まで硬くなっている。澄子が箸を入れると、白い身が細かく崩れた。
「お母さん、それ、私のと替えようか」
「いいの。焦げた皮を取れば食べられるから」
「お父さんだって食べられたでしょう」
「夜勤前に焦げたものを食べたら、胃にもたれるわよ」
「私じゃなくて、お父さんの話」
澄子の箸が止まった。啓司は聞こえなかったように、ご飯へひじきを載せている。祥子は父の前にある鯖と、母の前にある鯖を見比べたが、皿を取り替えることはしなかった。
啓司は味噌汁を一口飲み、椀を食卓へ置いた。木の底が当たり、乾いた音を立てる。油揚げが一枚、汁の上でゆっくり回っていた。
「味噌汁も薄い」
「血圧が高いから、少し薄くしたの」
「薄ければ体にいいというものじゃない。こんなのは味噌汁じゃなくて湯だ」
「味噌を足すね」
澄子はまだ食べていない鯖を置き、台所へ立った。小鍋へ味噌を足して火にかける。啓司の分だけ温め直し、自分の椀にはポットの湯を注いだ。
「そんなに熱くしなくていい」
啓司の声が食卓から飛んできた。澄子は火を止め、味噌汁を椀へ戻した。自分の椀には大根も油揚げも残っておらず、薄い汁へ刻み葱だけが浮いていた。
祥子は、母が入院していた三日間を思い出した。啓司は見舞いへ一度だけ来た。病室の丸椅子へ座り、新聞を膝へ置いたまま、手術については何も尋ねなかった。
「いつ退院できる。外の弁当は味が濃くて食えない」
啓司が母へ最初に言った言葉だった。澄子は腹へ管をつけたまま、明後日には帰れると思うと答えた。啓司は、それなら洗濯物もたまっていると、着替えの入った紙袋をベッド脇へ置いた。
祥子は、その袋を父へ持ち帰らせた。病院の廊下で声を上げ、母は患者なのだから洗濯などできないと言った。啓司は、家族の物を洗うくらい構わないだろうと首を傾げた。
退院した夜、澄子は荷物を片づけるより先に台所へ立った。冷蔵庫には啓司が買った総菜の空き容器が積まれ、流し台には三日分の湯呑みと皿が残っていた。澄子は病院から帰った服のまま、何も言わずに洗い始めた。
「お父さん」
祥子が声をかけると、澄子の箸が止まった。母の指は細い小骨をつまみ、皿の上で動かなくなっている。祥子は鯖の焦げについて言うつもりだったが、別の言葉が出た。
「お母さんが入院していたとき、お父さんが最初に聞いたこと、覚えてる?」
「何の話だ」
「いつから夕飯を作れるかって聞いたでしょう」
「そんな言い方はしていない。退院の予定を聞いただけだ」
「病名も傷の痛みも聞かなかった。家に戻ったら、洗濯物を渡した」
「夫婦なら、それくらい頼むだろう」
「手術したばかりの人に?」
啓司は箸を置き、顔をしかめた。済んだことをいつまでも蒸し返すなと言い、漬物を一切れ口へ入れる。澄子は二人の間へ入るように、薄い味噌汁の椀を持ち上げた。
「お父さんは、食べることに困っていただけよ」
「お母さんは、困ってなかったの?」
祥子が尋ねると、澄子は汁をすすった。味噌の香りはほとんどせず、油揚げの脂だけが舌へ残る。椀を置いたあと、口元を指で拭い、冷めた鯖へ箸を伸ばした。
「病院には祥子がいたでしょう。何かあったら、お医者さんも看護師さんもいるし」
「だから、お父さんは心配しなくてもいいの?」
「心配したって、治るわけじゃないもの」
「じゃあ、お母さんが帰ってこなかったら、お父さんはどうしてたの」
「何だ、その縁起でもない話は」
啓司は椅子を引き、立ち上がった。食事は半分ほど残っている。鯖の血合いと大根の端を皿の片側へ寄せ、食後の茶を出すようにも言わず、居間へ戻った。
テレビの音量が一つ上がった。土俵では次の力士が塩をまき、白い粒が画面いっぱいに飛んでいる。澄子は啓司の食器へ手を伸ばしたが、祥子が先に皿を重ねた。
「私が洗う」
「夜勤前でしょう」
「まだ時間あるから」
「食べ終わったら、すぐ洗ったほうが落ちやすいのよ」
「じゃあ、私が今洗う」
祥子が皿を持って立つと、澄子も立ち上がった。二人の肩がぶつかり、啓司の椀から残った汁が少しこぼれる。食卓へ味噌色の丸い染みができ、澄子はすぐに布巾を取りに行った。
「お母さんは、座って食べて」
「もういらないわ」
「ほとんど食べてないでしょう」
「焦げた鯖なんて、食べたくないもの」
澄子は言ってから、布巾を持ったまま動きを止めた。焦げたものでも食べられると言ったばかりだった。祥子も何も言わず、こぼれた味噌汁を一緒に拭いた。
啓司が居間へ移ったあと、台所には換気扇の低い音だけが残った。窓から入る風で黄色い小菊が揺れ、植木鉢の縁へ細い茎が当たっている。澄子は三人分の皿を流し台へ運び、啓司の残した鯖を小さな保存容器へ入れた。
「明日、お父さんのお昼に出すの?」
「同じ魚を二日続けて出したら、食べないわよ」
「じゃあ、誰が食べるの」
「私が食べればいいでしょう」
「お母さんは、今日も食べたくなかったんでしょう」
澄子は保存容器の蓋を押した。四隅の一つがうまく閉まらず、何度押しても浮き上がる。最後には輪ゴムをかけ、冷蔵庫の奥へしまった。
祥子は夜勤用の鞄を食卓の脇へ置き、椅子へ座り直した。あと三十分で家を出なければならない。母へ離婚を勧める言葉なら、病院の相談員からも本からも覚えられるが、母自身の言葉は、まだ何も聞けていなかった。
「お母さん、もう、お父さんと暮らしたくないんじゃないの」
澄子の手から、洗った箸が一本滑った。流し台の中へ落ち、茶碗の縁へ当たる。居間のテレビへ目を向け、啓司に聞こえなかったことを確かめてから、蛇口の水を細くした。
「急に何を言うの」
「急じゃないよ。入院したとき、お母さん、私に言ったでしょう」
「何を?」
「家へ帰りたくないって」
澄子は覚えていないふりをするように、スポンジへ洗剤を足した。手術の翌朝、病室の窓から見える銀杏を眺めながら、一度だけ口にした言葉だった。祥子は母の背中を見つめたが、答えを急かさなかった。
「薬が効いていて、変なことを言ったのよ」
「そうかもしれない。でも、今は?」
「離婚したって、年金だけじゃ食べていけないから」
「離婚したいかを聞いたんだよ。できるかどうかじゃなくて」
「同じことでしょう」
「同じじゃない」
祥子の声が強くなり、澄子の肩がわずかに上がった。祥子は膝の上で両手を組み、病室で患者の話を聞くときのように息を整える。母を父から救い出すのではなく、母が何を望んでいるかを待たなければならなかった。
「私の給料がある。二人なら暮らせるよ」
「あなたのお荷物になるくらいなら、お父さんの世話をしていたほうがましよ」
「荷物だなんて思わない」
「今はね」
「私は離婚して、この家へ戻ってきた。お母さんは、私を荷物だと思った?」
澄子は洗った椀を布巾の上へ伏せた。祥子が戻ってきた日、玄関には段ボール箱が六つ積まれ、元夫から持たされた古い電子レンジまで置かれていた。澄子は何も尋ねず、娘が高校時代に使っていた二階の部屋へ布団を敷いた。
「思うわけないでしょう。あなたは娘だもの」
「お母さんも、私のお母さんだよ」
「親は、子どもの世話になるものじゃないの」
「じゃあ、お父さんの世話をするのはいいの?」
澄子は返事をしなかった。冷めた自分の味噌汁へ、ポットの湯を足す。鍋の縁についていた大根を箸で落としたが、椀の汁はさらに薄くなった。
祥子は、離婚したいかという質問を繰り返すのをやめた。それも、答えを決めて母へ渡すことになる。代わりに、澄子の椀を見ながら尋ねた。
「明日の朝も、お父さんの味噌汁を作りたい?」
澄子は椀へ口をつけたまま止まった。流し台の蛇口から水滴が落ち、金属の底へ一定の音を響かせる。窓の外では風が強くなり、倒れかけた小菊の茎が鉢の縁へ何度も当たっていた。
「朝は、なめこの味噌汁にするつもり。お父さん、豆腐よりなめこのほうが好きだから」
「そうじゃなくて、お母さんは作りたいの?」
「朝ご飯なんだから、作るでしょう」
「作らなかったら?」
澄子は答えず、食卓へ落ちていた鯖の小骨を一本つまんだ。新聞広告を四つに折り、その中へ骨を置いて包む。開きかけた紙の端を指で何度も押さえてから、ごみ箱へ入れた。
壁の時計は、祥子が家を出る時間を示していた。祥子は椅子から立ち、紺色のコートを着る。玄関で白い運動靴を履いていると、澄子が灰色のマフラーを持って追いかけてきた。
「明日の朝、冷えるって」
澄子は四十六歳の娘の首へマフラーを巻いた。端の長さが違うのを直し、コートの襟へ押し込む。その手は洗い物の水で冷たかった。
「病院へ着いたら、何か温かいものを飲みなさい」
「お母さんもね」
「私は家にいるから」
「家にいたって、寒いよ」
祥子は母の手へ触れようとしたが、澄子は先に玄関の鍵を開けた。外から冷たい風が入り、台所に残る鯖の匂いを揺らす。祥子は行ってきますと言い、門を出た。
澄子は娘が角を曲がるまで玄関に立っていた。家へ戻ると、居間から啓司の咳とテレビの音が聞こえる。いつもなら湯呑みを下げる時刻だったが、すぐには動かなかった。
台所の流し台には、澄子が食べなかった鯖が半分残っていた。焦げた皮は冷えて硬くなり、白い脂が皿へ張りついている。澄子は皿を持ち上げたものの、食べることも捨てることもできず、蛇口の横へ戻した。
冷蔵庫には、なめこの袋が入っている。明日の朝になれば、それを使って味噌汁を作るつもりだった。作りたいかと尋ねられたのは、四十七年で初めてだった。




