第10話 四十七年間、変わらなかった会社
第10話 四十七年間、変わらなかった会社
翌朝、澄子は味噌汁を作らなかった。炊飯器には三人分の米を入れたが、冷蔵庫から出したのは卵と昨日の牡蠣の煮物、それから自分の甘塩の鯖だけだった。台所の窓には白い結露がつき、庭の山茶花は夜露で濡れた花びらを一枚ずつ落としていた。
澄子は黄色い卵焼きを三切れ作り、祥子の弁当箱へ詰めた。隙間には茹でたブロッコリーと鶏の唐揚げを入れ、赤い梅干しを白いご飯の中央へ置いた。以前なら啓司の昼食を用意してから娘の弁当を作っていたが、今日は夜勤へ出る祥子の分だけだった。
「お父さんのお昼はどうするの?」祥子は灰色のセーターに白い靴下をはき、洗面所で髪をまとめながら尋ねた。昨夜の食器は啓司が自分で洗ったらしく、水切り籠には茶碗が伏せられていたが、縁には納豆の欠片が残っていた。
「冷蔵庫に納豆も卵もあります。食パンもあります。七十五歳の大人なら、お昼くらい自分で考えられるでしょう」澄子は弁当箱の蓋を閉め、紺色の布で包んだ。結び目が曲がったので一度ほどき、今度は左右の長さをそろえた。
「お母さん、無理をして急に全部変えなくてもいいんだよ」
「急ではないわ。変えたいと思いながら、変えなかった時間が長かっただけよ」
「お母さんが決めたなら、それでいい。でも、困ったら言ってね」
「困る前から全部助けようとしないで。それでは、お父さんと同じになるわよ」
祥子は口を閉じ、弁当を受け取った。すぐに謝る代わりに、食卓へ置かれていた蜜柑を一個、自分の鞄へ入れた。もう一個を澄子の前へ転がし、昼に食べてと言ってから玄関へ向かった。
啓司が寝室から出てきたのは、祥子が靴を履いているときだった。紺色のジャージの上へ茶色い半纏を重ね、片方の靴下だけ踵がずれている。台所をのぞいて味噌汁の鍋がないことに気づくと、何も言わずに椅子へ座った。
「行ってきます」祥子が声をかけると、啓司は新聞から顔を上げず、短く鼻を鳴らした。澄子は玄関まで娘を送り、襟から出ていた髪を指で直した。
「お母さん、今日、相談員さんが来るんでしょう?」
「午後二時よ。あなたは仕事へ行きなさい」
「途中で帰ってこなくていい?」
「帰ってこなくていいわ。私とお父さんの話だから」
祥子が出ていくと、玄関の曇りガラスに朝日が差し込んだ。澄子は鍵を掛け、台所へ戻った。啓司は自分で食器棚から箸を取り、炊飯器からご飯をよそっていた。
「鯖は一切れだけか」啓司は焼き網の上にある甘塩の鯖を見た。皮には薄く焦げ目がつき、脂が小さな泡を作っていた。
「私の分です。冷凍庫に辛口の鮭があります」
「凍っているじゃないか」
「電子レンジで解凍できます」
「朝から面倒なことをさせるな」
「食べたければ、することです」
啓司は炊飯器の蓋を強く閉めた。以前ならその音だけで澄子は立ち上がり、鮭を解凍して焼いていただろう。今日は焼き上がった鯖を自分の皿へ載せ、大根おろしを添えて席へ座った。
「昨日から、ずいぶん偉くなったものだな」啓司は卵を冷蔵庫から取り出したが、生のままでは食べたくないらしく、手の中で転がしていた。
「偉くなったのではありません。あなたより下にいるのをやめただけです」
「夫婦に上も下もないだろう」
「では、なぜ私だけが、あなたの箸を出すのですか」
「またその話か」
「あなたには昨日始まった話でも、私には四十七年続いてきた話です」
啓司は卵を冷蔵庫へ戻し、納豆を一パック取り出した。蓋を開けると透明な膜がうまく剥がれず、豆が二粒、指へついた。舌打ちをしながら流し台で手を洗い、たれの袋を切ろうとして鋏の場所を尋ねた。
「引き出しの二段目です」澄子は鯖の身を箸でほぐしながら答えた。大根おろしへ醤油を数滴落とし、熱いうちに一口食べた。
「どの引き出しだ」
「流し台の右側です」
「そんなところに鋏を入れるな。分かりにくい」
「三十年以上、同じ場所です」
啓司は引き出しを開け、菜箸や缶切りをかき分けた。目の前に赤い柄の鋏があるのに見つけられず、澄子が指さすまで二度も引き出しを閉めた。ようやくたれを入れたときには、炊きたてだったご飯から湯気が消えかけていた。
「毎朝こんな面倒なことをしていたのか」啓司は納豆をかき混ぜながら言った。感謝ではなく、作業の多さへ腹を立てている口調だった。
「それだけではありません。味噌汁を作り、魚を焼き、お茶を入れ、あなたを起こし、着替えを出し、新聞を取っていました」
「頼んだ覚えはない」
「しなければ怒ったでしょう」
「今のように、わざと何もしなければ言うに決まっている」
「それを、頼んでいたというのです」
午前中、澄子は押入れから取り出した書類をもう一度確かめた。年金分割の情報通知書、通帳の写し、固定資産税の封筒、保険会社から届いた契約内容のお知らせを、透明なファイルへ一枚ずつ入れた。紙の間には古い防虫剤の匂いが残り、結婚式の献立表まで紛れ込んでいたので、澄子はそれだけ別の紙袋へ戻した。
啓司は居間でテレビを見ていた。昼になると食パンを焼き、冷蔵庫の卵を茹でずに目玉焼きにしようとしたが、油を引かなかったためフライパンへ白身が張りついた。焦げた匂いが台所へ広がり、火災報知器が短く鳴った。
「何だ、これは。安物のフライパンだから焦げるんだ」啓司はフライ返しで卵を削りながら言った。黄身は破れ、白身の端は黒くなっている。
「油を引きましたか」
「油くらい、先に出しておけ」
「使う人が出してください」
「俺が台所に立つことなど、今までなかっただろう」
「だから、今から覚えるのです」
啓司は焦げた目玉焼きを食パンへ載せ、醤油をかけて食べた。最初の一口で顔をしかめたが、捨てずに最後まで口へ入れた。澄子は手を出さず、窓辺に干した洗濯物を取り込んだ。
洗濯籠には澄子の肌着と祥子の靴下だけが入っていた。啓司のシャツと下着は脱衣籠へ残し、洗濯機の使い方を書いた紙を蓋へ置いてある。啓司はそれを見つけると、夫婦なのに洗濯まで別にするのかと言った。
「昨日、申し上げました。私は自分のものを洗います。あなたのものは、あなたが洗ってください」
「水道代が二倍になるだろう」
「一緒に洗いたいなら、ご自分で三人分を洗ってください」
「なぜ俺が、おまえたちの下着を洗うんだ」
「私は四十七年間、あなたの下着を洗いました」
啓司は鼻を鳴らし、脱衣籠を足で端へ寄せた。澄子はそれを元へ戻さず、取り込んだ洗濯物を畳み始めた。祥子の靴下は左右がそろわず、片方だけが洗濯機の裏へ落ちていたので、物差しを使って引き出した。
午後二時、地域の相談窓口から紹介された女性相談員の森下が訪ねてきた。五十代ほどの女性で、黒いパンツスーツの上へ薄茶色のコートを着ていた。玄関で靴をそろえ、持参した書類鞄を膝へ置くと、話し合いの目的はどちらかを説得することではなく、澄子の意思と今後の安全を確認することだと説明した。
澄子は急須へ茶を入れ、三人分の湯呑みを用意した。自分で決めて客へ出す茶は、啓司の世話とは違った。茶菓子には昨日買った小さな羊羹を切り、白い皿へ三切れ並べた。
「離婚など、妻が勝手に言い出しているだけです」啓司は森下へ向かって言った。よそ行きの灰色のセーターへ着替え、髪にも櫛を通していたが、靴下には午前中についた卵の白身が小さく固まっていた。
「私は妻へ暴力を振るったこともない。酒に酔って暴れたこともない。四十七年間働いて、家族を養ってきました」
「はい。その点については、澄子さんも否定していません」森下は膝の上で手帳を開いた。啓司の言葉を途中で遮らず、何度かうなずいてから澄子へ顔を向けた。
「澄子さんは、何が一番つらかったのですか」
澄子は膝の上で両手を重ねた。食事への文句、生活費を受け取るたびに頭を下げたこと、子どもが熱を出しても啓司は会社を休まず、澄子が一人で病院へ連れていったことが順番もなく頭へ浮かんだ。どれも一つだけなら、小さなことだと言われそうだった。
「私のすることが、何も数に入らなかったことです」澄子は羊羹の皿を見ながら答えた。黒い羊羹の切り口には、小豆の皮が一つ残っていた。
「食事も、洗濯も、子育ても、介護も、私がして当然でした。嫌だと言えば我慢が足りないと言われ、具合が悪くても夕飯はどうすると聞かれました」
「夫婦なら支え合うものです」啓司はすぐに口を挟んだ。湯呑みの茶にはまだ口をつけず、澄子が入れ直すのを待つように冷めていく茶を眺めていた。
「俺は外で働き、妻は家を守る。それで四十七年間うまくやってきたんです。今になって、不満だったと言われても困ります」
「うまくいっていたのは、私が黙っていたからです」
「黙っていたなら、分かるはずがないだろう」
「言っても、聞かなかったでしょう」
「それは、おまえの言い方が悪かったんだ」
澄子は湯呑みへ手を伸ばし、冷めかけた茶を一口飲んだ。啓司は会社員だったころ、会議で部下の意見を聞かない上司を何度も批判していた。退職後も新聞の経済面を読み、古い経営を続ける会社は潰れて当然だと、朝食の席で話していた。
「一つだけ質問します」澄子は湯呑みを置き、啓司の目を見た。森下は口を挟まず、手帳の上へ置いたペンから指を離した。
「企業が四十七年間、まったく変化しないで、ワンマン経営だったら存続すると思いますか?」
啓司は質問の意味が分からないまま、新聞の経済記事を読むときと同じ顔をした。腕を組み、少し考えるふりをしてから、鼻で短く息を吐いた。
「無理だろう。そんなもの」
「だから、私たちも無理なんです」
啓司の腕がゆっくりほどけた。森下は視線を下げ、手帳へ何かを書いた。台所からは時計の音が聞こえ、ストーブの上の薬缶が小さく鳴り始めた。
「夫婦と会社を一緒にするな」啓司はしばらくして言った。声は先ほどより低く、語尾だけが強くなっていた。
「会社なら、社員が辞めれば困るから待遇を変えるでしょう。商品が売れなければ、作り方を変えるでしょう。でもあなたは、私が辞めないと思っていたから、何も変えなかった」
「辞めるとは何だ。結婚は仕事ではない」
「先ほど、ご自分で役割だとおっしゃいました」
「言葉尻を取るな」
「私は言葉尻ではなく、四十七年分を話しています」
啓司は森下へ助けを求めるように顔を向けた。しかし森下は、澄子が話し終えるまで待つと告げた。啓司の湯呑みからは、もう湯気が上っていなかった。
「俺に、今から料理や洗濯をしろと言うのか」啓司は両膝へ手を置いた。午前中に焦がしたフライパンが、流し台へ水につけたまま残っている。
「それだけではありません。私が話したときに、反論する前に聞いてほしかった。私の食べたいものや、行きたい場所を、くだらないと言わないでほしかった。娘の仕事を、女のする仕事だと軽く扱わないでほしかった」
「今から気をつければいいだろう」
「何を気をつけるのですか」
「文句を減らす。自分の箸くらいは出す。それでいいんだろう」
澄子は目の前の羊羹を見た。啓司は四十七年続いた暮らしを、箸一本で修繕できると思っている。それでも昨日までの自分なら、その一本に期待し、もう少し様子を見ようと考えたかもしれなかった。
「箸は入り口です。そこだけ直せばよいのではありません」
「では、どうしろと言うんだ」
「それを私に考えさせることから、やめてください」
森下は、夫婦関係を続けるかどうかを今日決める必要はないと説明した。まず一定期間別居し、生活費や住まいについて整理したうえで、今後のことを考える方法もある。啓司が離婚へ同意しなくても、家庭裁判所の調停を利用できることも伝えた。
「別居するなら、勝手に出ていけばいい。生活費は出さんぞ」啓司は羊羹へ手をつけないまま立ち上がった。椅子の脚が畳をこすり、細い毛羽が一本立った。
「婚姻中の生活費については、法律上の取り決めがあります。金額は双方の収入を確認して話し合います」森下は落ち着いた声で答えた。啓司は弁護士でもない人間が口を出すなと言い、居間の襖を強く閉めた。
茶の表面が振動で揺れた。澄子は立ち上がって襖を開けようとしたが、森下が急がなくてよいと声をかけた。澄子はもう一度座り、冷めた茶を自分で急須へ戻さず、そのまま飲んだ。
「怖くありませんでしたか」森下は手帳を閉じて尋ねた。澄子は胸元のカーディガンを握り、第二ボタンが外れかけていることに気づいた。
「怖かったです。でも、昨日よりは口が動きました」
「別居の申し込みは、いつ出しますか」
「今日、出します」
「娘さんへ相談してからでなくて大丈夫ですか」
「私が住む家ですから、私が先に決めます。祥子には、帰ってきてから伝えます」
森下が帰ったあと、澄子は食卓を片づけた。啓司の羊羹は手をつけられていなかったので、自分の皿へ移し、夕方のお茶に食べることにした。三つの湯呑みを洗い、流し台に残っていた焦げたフライパンだけは、そのままにした。
澄子は紺色のコートを着て、葡萄色のマフラーを巻いた。机の引き出しから平屋の賃貸住宅の申込書を取り出し、同居人の欄にある自分の名前を指でなぞった。鞄には年金の書類と印鑑、それから膝の薬を入れた。
玄関で靴を履いていると、居間の襖が少し開いた。啓司は中から澄子を見ていたが、どこへ行くのかとは尋ねなかった。代わりに、夕飯までには戻るのかと聞いた。
「戻ります。今夜は牡蠣の煮物の残りと、鶏の唐揚げです」
「味噌汁は作るのか」
「作りません」
「明日は?」
「明日になってから、私が決めます」
澄子は玄関を出た。冬の空気が頬へ当たり、近所の家から大根を煮る醤油の匂いが漂っていた。門の脇では、咲き残った山茶花が一輪だけ風に揺れていた。
不動産店へ着くと、澄子は申込書を受付の女性へ渡した。署名欄の文字は途中で少し震えていたが、書き直さなかった。四十七年間続いた会社を辞めるのに、きれいな字である必要はなかった。




