第11話 一流の夫は、妻を引き止めない
第11話 一流の夫は、妻を引き止めない
賃貸住宅の審査が通ったのは、申込書を出してから五日後だった。朝の九時を過ぎたころ、不動産店から澄子の家へ電話があり、翌週には鍵を渡せると伝えられた。受話器を置いた澄子は、食卓に広げていた新聞の折り込み広告へ、青いボールペンで十二月十九日と書いた。
台所では、昨夜作った大根と鶏肉の煮物が鍋に半分残っていた。表面には薄い脂が白く固まり、蓋を開けると生姜と醤油の匂いがした。澄子は一人分だけ小鍋へ移し、弱火にかけてから、祥子が干していった白衣を縁側へ取り込んだ。
啓司の洗濯物は、脱衣籠へ入ったままだった。下着と靴下が四日分になり、籠の縁から水色のシャツが垂れている。洗濯機の蓋には、澄子が書いた使い方の紙が置かれていたが、角が少しめくれただけで、動かした形跡はなかった。
「洗濯物がたまっている」啓司は居間から出てくると、脱衣籠を顎で示した。灰色のセーターには昨日食べたカレーの染みがつき、襟から白い肌着がのぞいている。
「そうですね」澄子は祥子の白衣をハンガーから外し、袖をそろえて畳んだ。胸ポケットにはボールペンの青い線がついており、漂白剤を使っても完全には落ちなかった。
「いつまで、こんなことを続けるつもりだ」
「私は、もう続けません」
「離婚すると決まったわけではないだろう」
「来週、家を出ます。平屋の審査が通りました」
啓司は脱衣籠の前で動かなくなった。洗面所の蛇口から水が一滴ずつ落ち、琺瑯の洗面器へ小さな音を立てていた。澄子は白衣を畳み終えると、祥子の部屋へ運んだ。
「勝手に契約したのか」啓司は廊下までついてきた。祥子の部屋には夜勤前に読んでいた医療雑誌が開いたまま置かれ、空になったヨーグルトの容器と、片方だけの靴下が机の下へ落ちていた。
「私が住む家ですから」
「俺の話を聞かずに決めたのか」
「私は四十七年間、あなたが決めた家で暮らしました。今度は、自分で決めました」
「保証人はどうした」
「祥子が契約者です。私も年金から家賃の一部を出します」
「娘に養われるのか」
「二人で暮らすのです。養う人と養われる人に分けません」
啓司は口を開きかけたが、玄関の呼び鈴が鳴った。訪ねてきたのは、啓司が勤めていた会社の元部下である田島だった。退職後も年に二度ほど囲碁を打ちに来る男で、今日は借りていた碁の本を返しに来たという。
田島は七十歳を過ぎても背筋が伸び、焦げ茶色のコートの襟には枯れた銀杏の葉が一枚ついていた。手には紙袋を提げ、中には妻が焼いたという小さな林檎のケーキが入っていた。玄関で澄子へ紙袋を渡すと、甘いものが苦手な啓司には煎餅も持ってきたと笑った。
「上がっていけ。ちょうど時間がある」啓司は田島を居間へ通した。澄子が茶を入れると思って待っていたが、台所から食器の音がしないので、自分で急須を出した。
茶筒の蓋が固く、啓司は両手で何度もひねった。湯呑みの場所は覚えたものの、茶葉を量る匙が見つからず、仕方なく缶から直接入れたため、畳へ細かな茶葉がこぼれた。田島はその様子を見ながら、黙って座布団を二枚並べた。
「珍しいですね。部長がお茶を入れてくださるなんて」田島は湯呑みを受け取り、浮いた茶葉へ息を吹きかけた。かつての役職で呼ぶ癖が、退職後も抜けていなかった。
「妻が意地を張っているんだ。家事を全部、俺にさせようとしている」
「全部というと、料理も洗濯も掃除もですか」
「自分のことを自分でしろと言う。四十七年も夫婦をやってきたのに、今さらだぞ」
「四十七年ですか。それは、今さらと言うには長すぎますね」
田島は林檎のケーキを切るため、台所へ包丁を借りに来た。澄子は小さな果物ナイフと皿を渡し、自分は昼食にすると言って煮物の鍋を火から下ろした。二人の話を盗み聞きするつもりはなかったが、古い家の襖では居間の声を遮ることができなかった。
「澄子は、何でも俺のせいだと言うんだ」啓司は浮いた茶葉を箸で取り除きながら言った。自分で出した箸なので、先端が左右で違っていることには気づかなかった。
「部長は、何とお答えになったんですか」
「俺だけが悪いわけではないと言った。黙っていた澄子にも責任はあるだろう」
「それを聞いて、奥さんは考え直しましたか」
「来週、家を出るそうだ」
田島は煎餅の袋を開ける手を止めた。袋の端をきれいに折り、座卓の隅へ置いた。庭からは、風に押された山茶花の枝が雨戸へ触れる音が聞こえていた。
「三流の夫は、妻に責任を押しつけるそうですよ」田島は煎餅を割り、半分を啓司の皿へ置いた。会社で部下だったころには使わなかった口調だった。
「俺を三流だと言いたいのか」
「まだ続きがあります。二流の夫は、『私の責任だ』と言うそうです」
「それなら、俺が悪かったと言えばいいのか」
「部長は、それで何をなさるんです?」
啓司は答えず、煎餅を口へ入れた。醤油味が濃かったのか、冷めた茶を一口飲んだ。湯呑みの底にたまった茶葉が唇へつき、指で何度も払った。
「では、一流は何と言うんだ」啓司は座卓へ身を乗り出した。仕事の研修で答えを求めるような顔になっていた。
「何と言うかではありません。自分の責任で生じたことを、自分の手で直します。直しても元へ戻らないものがあると知ったうえで、相手へ許しを要求しない人でしょう」
「夫婦の問題は、会社の失敗とは違う」
「先日、奥さんに同じことを言われたそうですね」
「誰から聞いた」
「祥子さんではありません。昨日、部長から電話をいただいたときに、ご自分でお話しになりました」
啓司は目をそらし、座卓の上に落ちた煎餅の粉を人差し指で集めた。田島へ電話をかけ、妻が急に家事を放棄して出ていくと言ったことを思い出したのだろう。自分の正しさを確かめたかったのに、昔の部下からも同意を得られなかった。
「四十七年分を、今から直せというのか」
「全部は直せないでしょう。だからといって、今日の洗濯物まで奥さんへ押しつけてよい理由にはなりません」
「俺は洗濯機の使い方を知らん」
「説明書を読めばよろしいのでは?」
「おまえは妻が先に死んだら、どうするつもりだ」
「妻が入院したときに覚えました。洗濯物の分け方も、味噌汁の作り方も教わりましたよ」
「教えてくれる妻だからできたんだ」
「部長の洗濯機には、使い方を書いた紙が置いてありました」
啓司は黙り込み、居間の襖へ目を向けた。澄子は聞こえていないふりをして、大根の煮物を茶碗へよそった。鶏肉には煮汁が染み、大根の中心まで薄い茶色になっていた。
田島が帰ったあと、啓司はしばらくこたつへ座っていた。テレビはついていたが、旅番組の温泉も郷土料理も見ていなかった。やがて立ち上がると、脱衣籠を持って洗面所へ入った。
洗濯機の蓋へ置かれた紙を読み、シャツと色物を分けようとしたが、どれが色落ちするのか分からなかった。洗剤の容器には目盛りがあり、水量によって量を変えるよう書かれている。啓司は何度も説明書と操作盤を見比べ、三十分近くかけて電源を入れた。
「おい、これでいいのか」啓司は洗面所から澄子を呼んだ。澄子は箸を置かず、大根を一つ口へ入れてから答えた。
「何を入れましたか」
「シャツと下着と靴下だ」
「洗剤は?」
「入れた」
「水道の栓は?」
啓司は返事をしなかった。しばらくして蛇口をひねる音がし、洗濯機が低く動き始めた。洗面所から戻った啓司は、食卓に座る澄子を見たが、できたぞとは言わなかった。
「さっきの話を聞いていたのか」啓司は空いている椅子へ座った。澄子の昼食は大根の煮物と白いご飯だけで、味噌汁はなかった。
「この家では、聞かないほうが難しいです」
「田島は、俺が三流だと言った」
「田島さんではありません。あなたの行いが示したのでしょう」
「俺にも責任があった」
「二流の言葉を使うのですか」
啓司は唇を結び、洗濯機が回る音を聞いた。水が布を持ち上げて落とすたび、洗面所の床まで小さく震えた。四十七年間、同じ音が毎朝していたはずだが、啓司が動いている洗濯機を見守るのは初めてだった。
「俺が全部悪かった。それで、家を出るのをやめられないか」啓司は両手を膝へ置いた。謝罪の形を取っていたが、最後には自分の望む答えがついていた。
「それでは、私が出ていかないために謝っているだけです」
「謝っても駄目なら、何をすればいい」
「私が決めることを、邪魔しないでください」
「それが一流だと言うのか」
「一流かどうかは知りません。私は、妻を採点する夫と暮らすのをやめたいだけです」
洗濯機が止まり、短い電子音が鳴った。啓司は音の意味が分からず、洗面所のほうを見た。澄子は昼食を続け、立とうとしなかった。
「終わったのか」
「見てくれば分かります」
啓司は洗面所へ戻り、蓋を開けた。濡れたシャツと下着が洗濯槽の壁へ張りついている。取り出して干さなければならないことに気づき、縁側からハンガーを三本持ってきた。
靴下は左右をそろえず、シャツの袖も伸ばさないまま竿へ掛けた。下着を庭から見える場所へ干し、風に飛ばされないよう洗濯ばさみを一つだけつけた。澄子は直したくなったが、膝の上で手を組んで見送った。
午後、啓司は台所の食卓へ古い大学ノートを持ってきた。表紙には退職後の囲碁の記録が書かれ、最初の数頁には田島との対局の手順が残っていた。空いている頁を開くと、洗濯、朝食、昼食、ごみ出しと書いた。
「これは何ですか」
「俺が自分でやることだ」
「私へ見せるためですか」
「そうではない。忘れないためだ」
啓司はそう答えたが、ノートを澄子の正面へ置いたままだった。褒めてほしいことが手の位置で分かった。澄子は何も言わず、引っ越し用の段ボールへ自分の本を詰め始めた。
夕方、祥子が病院から帰ってきた。白い息を吐きながら玄関へ入り、縁側に干された啓司の洗濯物を見ると、シャツの袖が裏返っていることへ気づいた。直そうとして手を伸ばしたが、澄子が首を横へ振ったので、そのままにした。
「お母さん、審査はどうだった?」祥子は台所で手を洗い、指先へハンドクリームを塗った。柚子の香りが、夕食の煮物の匂いに混ざった。
「通ったわ。十九日に鍵を受け取れます」
「そう。じゃあ、段ボールをもらってこないとね」
「押入れに、昔の引っ越しで使ったものがあるわよ」
「三十年前の段ボールは、底が抜けるよ」
啓司は居間から二人の話を聞いていた。以前なら、誰が引っ越しを許したと怒鳴っただろう。今日は新聞を畳んで台所へ来ると、食卓の上に一枚の紙を置いた。
「この家の名義や預金について、弁護士へ聞くなら、俺も同席する」啓司は澄子を見ず、紙の端をそろえた。紙には、預金口座と保険会社の名前が、啓司の字で書かれていた。
「隠していた口座もありますか」
「隠していたわけではない。おまえが聞かなかっただけだ」
啓司はそこまで言ってから、口を閉じた。紙を取り戻さず、椅子へ座った。指先で食卓を二度たたき、しばらくして言い直した。
「俺が知らせなかった口座もある。退職金の残りと、定期預金だ」
「全部ですか」
「通帳を確認してくれ。足りなければ言ってくれではなく、俺も一緒に確認する」
祥子は口を挟まず、冷蔵庫から麦茶を出した。澄子もすぐには紙へ手を伸ばさなかった。啓司が初めて差し出した情報だったが、それで四十七年が消えるわけではなかった。
「分かりました。弁護士さんと一緒に確認します」澄子は紙を透明なファイルへ入れた。啓司の顔には、これで家を出ないと言ってもらえるのではないかという色が残っていた。
「それでも、出ていくのか」
「出ていきます」
「俺が変わってもか」
「あなたが変わることと、私が戻ることは交換条件ではありません」
啓司は膝の上へ目を落とした。洗濯物を一度干し、口座の一覧を一枚作っても、澄子から褒美として結婚生活を返してもらうことはできない。変わるなら、妻に選ばれるためではなく、自分が箸一本動かさない人間のままで終わらないために変わるしかなかった。
夕食には、昨日の牡蠣の煮物と、大根の葉を混ぜた卵焼きが並んだ。啓司は自分で箸を取り、三人分の茶を入れた。澄子の湯呑みへ先に注いだが、恩を売るように顔を見なかった。
「少し濃いね」祥子が茶を飲み、舌を出した。啓司は茶葉の量がまだ分からないと答え、次は減らすと言った。
「次があるんだ」
「一度で分かるわけがないだろう」
「そうだね。お母さんも、四十七年かけて覚えたんだものね」
啓司は卵焼きを一切れ食べ、味が薄いと言いかけてやめた。食卓の中央にある醤油差しを自分で取り、小皿へ二滴落とした。澄子はその手元を見たが、何も言わず、牡蠣を一粒口へ入れた。
食後、啓司は自分の皿を流し台へ運んだ。洗わずに置こうとしてから戻り、蛇口を開けた。スポンジへ洗剤を出しすぎ、泡だらけになった皿を何度もすすいだ。
三流の夫は妻へ責任を押しつける。二流の夫は自分の責任だと言い、その一言で許されようとする。一流の夫が何をするのか、啓司にはまだ分かっていなかった。
ただ、澄子が出ていくために詰めている段ボールを、隠したり捨てたりしなかった。洗い終わった自分の皿を水切り籠へ置き、そこに残った一人分の場所を、黙って見ていた。




