第12話 コピー機の白い光
第12話 コピー機の白い光
弁護士相談の日、澄子は朝から三度も服を着替えた。最初に選んだ薄茶色のカーディガンは袖口に毛玉があり、鏡の前へ立つと、いつもの買い物へ行く服にしか見えなかった。二着目の藤色のワンピースは祥子の結婚式に着たもので、胸元の真珠飾りが一つ取れかけていた。
「地味すぎたら、何をされても黙っている女に見えるでしょう。でも派手な服を着たら、離婚を楽しみにしていると思われるかもしれないわ」澄子はワンピースを脱ぎ、畳んだばかりの服を押入れへ戻した。防虫剤の匂いが寝室へ広がり、下段に積んだ座布団から赤い房が一本飛び出していた。
「弁護士さんは、服で離婚の本気度を決めないよ」祥子は襖にもたれ、湯気の立つコーヒーを飲んでいた。今日は夜勤のない日なので、白いシャツと黒いズボンを着ている。母の代わりに何もかも決めないと約束したばかりだが、三度目の着替えを始めた背中を見ると、つい口が動いた。
「弁護士さんが決めなくても、私は気になるの。女は何を着ても、何か言われるものよ」
「それなら、紺色のブラウスはどう? 灰色のスカートと合うと思う」
「それでは地味すぎない?」
「胸を張って着れば大丈夫。服より、持っていく書類のほうが大事でしょう」
澄子は紺色のブラウスへ腕を通した。襟には白い糸で小さな葉が刺繡され、灰色のスカートは膝が隠れる長さだった。鏡を見ながら自分で折れた襟を直し、薄い口紅を引いてから、ティッシュで一度押さえた。
台所の食卓には、古い革鞄と透明なファイルが置かれていた。革鞄は啓司が定年を迎えた年、町内会の旅行へ持っていくために買ったものだが、それ以来、押入れへしまわれていた。表面には細かな傷があり、金具を閉めるには両手で強く押さえる必要があった。
ファイルには、通帳の写し、固定資産税の封筒、保険会社から届いた通知、年金事務所でもらった書類を入れた。啓司が書いた口座一覧も加えたが、残高と通帳の数字が合わないところには、黄色い付箋を貼ってある。大学ノートはファイルに入らなかったので、革鞄の底へ横にして収めた。
「そのノートも持っていくの?」祥子は表紙の角が丸くなった大学ノートを持ち上げた。青い罫線の間には澄子の小さな字が並び、ところどころに醤油や油の染みがついていた。
「結婚して三年目からつけているの。毎月、生活費をいくら渡されたか書いてあるわ」
「家計簿なら、買ったものを書くんじゃないの?」
「お父さんに、先月より五百円多いと言われたのよ。それで、何に使ったか答えられるように書き始めたの」
ノートの最初のほうには、米十キロ、牛乳、紙おむつ、洗剤、町内会費、啓司の煙草まで一円単位で記されていた。自分のブラウスや靴を買った月には、金額の下へ赤い線が引かれている。その赤だけは何十年たっても薄くならず、澄子は自分のために使った金を、悪い点数のように残していた。
「この三千九百円は何?」祥子は昭和六十二年四月の頁を開き、赤い線を指した。日付の横には、白ブラウスとだけ書かれていた。
「あなたの入学式に着たものよ。新しい服は要らないとお父さんに言われたけれど、古いブラウスは襟が黄ばんでいたから」
「私のためだったのに、自分の出費として赤い線を引いたの?」
「自分の服を買ったことに変わりはないもの」
「お母さん、今も同じことをしてるよ。自分のものを買うときだけ、誰かのためだと言わないと買えないんだね」
澄子はノートを閉じ、革鞄へ入れた。反論しようとしたが、先日買ったラ・フランスも、祥子と分けて食べるからという理由をつけていた。自分一人で食べたいから買ったと言えるものは、甘塩の鯖くらいしか思い浮かばなかった。
家を出る前、澄子は冷蔵庫にある昼食を確かめた。啓司には辛口の鮭と納豆、冷凍ご飯があり、電子レンジの横には使い方を書いた紙も置いてある。以前なら帰宅時間まで書き残したが、今日は何も言わず、黒いパンプスを履いた。
「どこへ行く」居間で新聞を読んでいた啓司が、経済面から顔を上げた。座卓には自分で入れた茶と、袋を開けたままの醤油煎餅が置かれている。
「弁護士さんのところです。財産と年金について相談してきます」
「俺が口座の一覧を渡しただろう。それでは足りないのか」
「分からないところがあります。家の名義や保険についても確認します」
「弁護士は話を大きくして金を取るぞ」
「相談料は三十分で五千五百円です。金額を確かめて予約しました」
啓司は新聞を畳まず、鼻の下を指でこすった。澄子は夫の許可を待たずに玄関を出た。冬の風が頬へ当たり、向かいの家の庭では、黄色い蝋梅が透き通るような花をつけていた。
弁護士事務所は駅前の古いビルの四階にあった。廊下には暖房が効きすぎ、壁へ掛けられた造花の百合には薄く埃が積もっていた。受付の女性から番号札を渡された澄子は、革鞄を膝へ載せ、金具が閉まっているか三度確かめた。
担当した宮原弁護士は、五十代ほどの女性だった。黒い上着の袖を少しまくり、机へ方眼紙のノートと赤いボールペンを置いている。机の隅には飲みかけのほうじ茶と、袋を半分開けた胡麻煎餅があり、澄子は弁護士も仕事中に煎餅を食べるのだと知って、肩の力を少し抜いた。
「今日は、離婚するかどうかを決める日ではありません。澄子さんがご自分で判断するために、分かっていることと、まだ分からないことを分けましょう」宮原は方眼紙の中央へ一本の線を引いた。左側へ確認済み、右側へ要確認と書き、紙を澄子の前へ向けた。
「離婚しないと決めたら、今日の相談は無駄になりますか」
「なりません。財産や年金について知ることと、離婚することは別です」
「夫に知られずに調べられますか」
「調べる方法によります。夫の暗証番号を無断で使って預金を動かすようなことは避けてください。ただし、ご自宅にある夫婦の生活や財産に関係する書類を確認し、存在や内容を記録することには意味があります」
祥子は隣の椅子に座り、膝の上で両手を組んでいた。年金分割も財産分与も自分なりに調べてきたので、補足したいことはいくつもあった。しかし今日は母が自分で質問する日だと思い、宮原の説明へうなずくだけにした。
宮原は、婚姻中に夫婦の協力で築いた財産について説明した。預金や不動産が啓司名義でも、名義だけで財産分与の対象外になるとは限らない。ただし、婚姻前から持っていた財産や相続した財産などは扱いが異なるため、取得した時期や資金の出所を確認する必要があった。
「家は夫の名義です。私は住宅ローンを一円も払っていません」澄子は固定資産税の封筒を出し、机へ置いた。封筒の角には、啓司が赤鉛筆で書いた数字が残っている。
「住宅ローンを払っている間、食事や洗濯、子育てをしていたのはどなたですか」
「私です。でも、それは妻ならすることでしょう」
「その家事によって、夫が働き、家計から住宅ローンを払えたという見方もできます。家の取得時期や支払いの状況を確認してから判断しましょう」
「妻の仕事も、お金の計算へ入るのですか」
「値札をつけるという意味ではありません。ただ、夫婦で築いた財産を、収入を得た人だけのものとは考えないということです」
澄子は革鞄の持ち手を両手で握った。啓司が会社へ行っている間に、三人の子どもを育て、義母を病院へ連れていき、毎日食事を作った時間には、通帳へ数字が残っていない。それでも、なかった時間として扱わなくてよいのだと、初めて聞いた。
年金分割についても、夫の年金をそのまま半分受け取る制度ではないと説明された。婚姻期間中の厚生年金の記録が対象になるので、年金事務所から情報通知書を取り寄せ、具体的な数字を確認する必要がある。澄子がすでに請求の手続きをしていると話すと、宮原は方眼紙へ確認中と書いた。
「別居している間の生活費は、娘が出すことになりますか」
「婚姻中であれば、夫婦には生活を支え合う義務があります。双方の収入や生活状況をもとに婚姻費用を話し合い、まとまらなければ家庭裁判所へ申し立てる方法があります」
「夫は、勝手に出るなら一円も出さないと言っています」
「言われた日と、言葉を記録しておいてください。実際に支払いがなければ、その事実も残しましょう」
「私は、夫を訴えたいわけではありません」
「請求することと、罰を与えることは別です。澄子さんが生活を続けるための条件を整える手続きです」
澄子は、自分の生活のために金を求めることを、仕返しのように感じていた。生活費を渡されるたびに頭を下げ、使い道を聞かれれば大学ノートを開いた年月が、口の中へ古い油の味を残していた。それでも宮原が手続きという言葉を使うと、啓司の財布から金を奪う話ではなく、自分の暮らしを数字にする作業だと思えた。
「その大学ノートを見せていただけますか」宮原は革鞄から出されたノートを受け取り、頁を一枚ずつめくった。紙の間から乾いた葱の皮が落ち、澄子は慌てて指で拾った。
「台所で書いていたので、いろいろ挟まっているんです」
「それも、そこで暮らしていた記録ですね」
「汚れていて、申し訳ありません」
「きれいな帳簿だけが、生活を示すわけではありません」
宮原は、毎月渡された金額と支出の記録を確認した。米、洗剤、通院費、学校の教材、町内会費まで細かく書かれ、残った金額も記されている。赤い線の意味を尋ねられると、澄子は自分の服や化粧品を買った月だと答えた。
「なぜ、自分の出費だけ赤い線を引いたのですか」
「夫に聞かれたとき、すぐに説明できるようにです」
「赤い線を引いたことで、叱られずに済みましたか」
「いいえ。必要だったのかとは、毎回聞かれました」
「その質問に、どう答えたのですか」
「子どもの入学式だったとか、葬式へ着ていく服がなかったとか、理由を説明しました」
「自分が欲しかったからでは、買えなかったのですね」
澄子は紺色のブラウスの袖を見た。今日の服も、弁護士へ弱く見られないために選んだもので、自分が着たいから選んだわけではなかった。好きな色を聞かれたら、すぐには答えられなかった。
「このノートがあれば、離婚できますか」
「一冊の帳面だけで結論が決まるものではありません。ただ、夫婦がどのように家計を管理し、澄子さんがどのように暮らしてきたかを示す記録にはなります。捨てずに保管してください」
宮原は次回までに確認する資料を一覧にした。預金口座の履歴、生命保険の契約内容、家の登記事項証明書、退職金の支給額と残高、年金分割の情報通知書、別居後の家計見込みが必要だった。すべてを一度にそろえられなくても、分からないものは分からないと伝えればよいと言われた。
「書類が足りなかったら、叱られませんか」
「叱りません。私は澄子さんの先生ではありませんから」
「では、何をする人ですか」
「澄子さんが選ぶために、法律上の道と、その道にある段差を説明する人です。どの道を歩くかは、澄子さんが決めます」
相談を終えると、外は午後の日差しで少し暖かくなっていた。二人は駅前のコンビニへ入り、通帳と保険の通知をコピーすることにした。入口では肉まんの匂いが漂い、雑誌棚の横には赤や白のポインセチアが、小さな鉢に入って並んでいた。
コピー機の前で、祥子は財布から小銭を出した。操作画面には、白黒、カラー、倍率、用紙の大きさなどが並び、澄子は眼鏡を鞄から取り出した。後ろには宅配便の伝票を持った若い男性が待っており、澄子は先に使ってもらおうと横へよけた。
「急がなくていいよ。後ろの人はコピーを待っているんじゃないみたい」祥子は母の手から通帳を受け取ろうとした。病院のコピー機なら毎日使っているので、数分で終わらせられると思った。
「私がします」
「頁を開いて置くだけだよ」
「だから、自分でしてみます」
澄子は説明画面を一行ずつ読んだ。通帳をどちら向きに置けばよいのか分からず、最初の一枚は数字が上下逆さまになった。祥子が直そうと手を伸ばすと、澄子はもう一枚十円を入れ、通帳の向きを変えた。
「一枚、無駄になったね」
「裏を買い物メモに使います」
「それなら無駄じゃないか」
「あなたは黙って見ていて。私が分からなくなったら聞くから」
澄子が緑色の釦を押すと、機械の中で白い光が走った。通帳の頁が一瞬明るくなり、低い音とともに紙が出てきた。夫名義でしかなかった数字が、澄子の手元にも残った。
保険の通知、固定資産税の書類、口座一覧も一枚ずつ複写した。白い光が紙の下を往復するたびに、澄子は原本と写しを見比べた。最後の一枚を革鞄へ入れると、肩から長く息が抜けた。
「コーヒーでも飲んで帰る?」祥子は飲料棚を指した。夜勤前によく買う甘いカフェオレが並び、その隣には澄子が好きなほうじ茶ラテもあった。
「肉まんが食べたいわ」
「お昼を食べたばかりでしょう」
「相談したら、おなかがすいたの」
「では、私はあんまんにする」
二人は店の外にあるベンチへ座った。澄子は肉まんを半分に割り、熱い湯気へ何度も息を吹きかけた。柔らかな皮に肉汁が染み、玉葱と胡椒の匂いが冬の空気へ混ざった。
「弁護士さん、怖くなかったね」祥子はあんまんの端からはみ出した餡を指で押し戻した。熱いと言いながら食べ急ぎ、上顎を少しやけどしたらしい。
「胡麻煎餅を食べる人だったわ」
「そこを覚えていたの?」
「立派な人も、おなかがすくのね。そう思ったら、話しやすくなったの」
家へ戻ると、澄子はコピーした書類を自分の革鞄へ入れ、原本を啓司の机へ戻した。通帳は重ねた順番もそろえたつもりだったが、青い通帳と茶色い通帳が逆になっていた。夕方、囲碁の記録を取り出そうとした啓司は、その違いへすぐに気づいた。
「俺の机を触ったのか」啓司は青い通帳を持って台所へ来た。今日は自分で洗濯した白いシャツを着ていたが、襟が内側へ折れたままだった。
澄子は夕食の皿を洗っていた。献立は鶏肉と蕪の煮物、春菊の胡麻和え、豆腐の味噌汁だった。啓司が残した春菊は小皿の上で冷え、黒い胡麻が一粒、食卓へ落ちていた。
「私が見ました。私のこれからの生活に関係するからです」澄子は蛇口を閉め、啓司の顔を見た。指先には洗剤の泡が残り、柚子の香りがしていた。
「俺が口座の一覧を渡しただろう。それなのに、勝手に引き出しを開けたのか」
「一覧と通帳の数字が違うところがありました。弁護士さんへ見せるために、写しを取りました」
「弁護士に通帳まで見せたのか」
「はい」
「夫婦のことを、他人へ言いふらすな」
「相談するために話しました。言いふらしたのではありません」
祥子が居間から台所へ入ってきた。父と母の間へ立とうとしたが、澄子は濡れた手を上げて止めた。祥子は流し台の端へ寄り、拳を握ったまま黙った。
「誰が食わせてやったと思っている!」啓司は通帳を食卓へ置き、大きな声を出した。食卓の湯呑みが揺れ、底に残っていた茶がビニールクロスへこぼれた。
澄子はすぐに答えなかった。水切り籠から皿を一枚取り、林檎模様の布巾で端から拭いた。白い皿には細かな傷があり、子どもたちが幼いころから使っているものだった。
二枚目は青い縁の皿だった。啓司が魚を食べるときに使い、少しでも欠ければ客用の皿へ替えろと言っていた。三枚目は澄子の小皿で、牡蠣の煮汁が薄く残っていた。
「だから、いくらで食べさせてもらったのか調べています」澄子は小皿を拭き終え、食器棚へ戻した。布巾を畳み直し、次の茶碗を手に取った。
「何だと?」
「毎月、いくら渡され、私は何に使ったのか。あなたの食事にいくらかかり、子どもたちにいくらかかり、私が自分のためにいくら使えたのか。四十七年分を調べています」
「家族を養った金を、返せと言うのか」
「返す話ではありません。あなた一人が私たちを食べさせたのか、それとも私もこの家を支えていたのか、確かめる話です」
「俺が働かなければ、この家はなかった」
「私が家事と子育てをしなければ、あなたは同じように働けましたか」
啓司は通帳へ手を置いたまま答えなかった。台所の時計が八時を知らせ、外では風に揺れた物干し竿が金属音を立てた。洗濯ばさみに挟まれた啓司の靴下が一足、まだ庭へ干されたままだった。
「弁護士は何と言った」啓司はしばらくして尋ねた。先ほどまでの声より小さく、語尾が食器を拭く音に紛れた。
「名義だけで、すべてあなたのものとは決まらないそうです。退職金も保険も家も、資料を見て確認します」
「俺の退職金だ」
「会社からあなたへ支払われたお金です。でも、その年月を私もこの家で暮らしました」
「家にいただけだろう」
澄子の手が止まった。茶碗の縁へ当てていた布巾が、水を含んで濃い色になった。祥子が一歩前へ出たが、澄子は首を横へ振った。
「では、明日から一週間、家にいるだけで暮らしてみてください。食材は買わず、洗濯も掃除もせず、味噌汁も作らず、町内会の回覧板も回さないでください」
「それでは暮らせないだろう」
「私がしてきたことを、今ご自分でおっしゃいました」
啓司は通帳をつかみ、居間へ戻ろうとした。しかし、食卓へこぼした茶が袖へつき、白いシャツに薄い染みを作った。澄子は布巾を差し出さず、啓司は自分で台所の手拭いを取った。
「コピーは返せ」啓司は袖を押さえながら言った。手拭いへ茶色い染みが移った。
「原本は返しました。コピーは私が持ちます」
「俺の通帳だぞ」
「私の暮らしにも関係する通帳です」
「隠すつもりはない」
「それなら、私が写しを持っていても困りませんね」
啓司は何も言わず、通帳を胸へ抱えるようにして居間へ戻った。襖は強く閉められたが、以前のように澄子の肩は上がらなかった。残っていた茶碗を拭き、食器棚へ一つずつ収めた。
「お母さん、大丈夫?」祥子はようやく口を開いた。台所の隅には、昼に使った肉まんの紙袋が小さく折り畳まれていた。
「手がふやけたわ。お湯を使いすぎたみたい」
「そうじゃなくて」
「分かっている。でも今は、手のことを話したいの」
祥子は黙ってハンドクリームを取りに行った。柚子の香りがするクリームを澄子の前へ置き、自分で塗ろうとはしなかった。澄子は濡れた手をよく拭いてから、指の節へ少しずつ塗り込んだ。
「コピー機、自分で使えたね」祥子は食卓へ座り、母の革鞄を見た。金具はきちんと閉まり、中には夫名義の数字が一枚ずつ収められている。
「一枚、逆さまになったけれどね」
「次は間違えないよ」
「間違えても、十円でもう一度できるわ」
「お母さん、変わったね」
「機械の使い方を一つ覚えただけよ」
澄子はそう答え、革鞄を自分の寝室へ運んだ。押入れへ隠さず、枕元の小さな机へ置いた。四十七年間、啓司の机にしかなかった数字が、コピー用紙になって自分の部屋にもあった。
白黒の紙には、通帳の青も茶色も写っていなかった。そこにあるのは、日付と金額と、入ってきた金、出ていった金だけだった。澄子は大学ノートを隣へ置き、赤い線の引かれた三千九百円の頁を、今度は閉じずに残した。




