第13話 母の三千円
第13話 母の三千円
九月の終わり、澄子は薄い小豆色のカーディガンを羽織り、地域センターの調理室に立っていた。窓の外では、花壇の秋明菊が細い茎を風に揺らし、その向こうを黄色い帽子の園児たちが二列になって歩いている。澄子は借りた白いエプロンの紐を結び直し、洗ったばかりの手を前掛けで拭きそうになって、慌てて止めた。
「澄子さん、お皿を二十四枚、お願いします。今日は二人お休みです」
職員の大庭に言われ、澄子は戸棚から白い皿を一枚ずつ取り出した。皿同士が触れるたび、かちり、かちりと乾いた音が調理室に響き、炊飯器からは新米の甘い湯気が上がっている。家では啓司の箸を出す位置まで決められていたのに、ここでは誰がどの席へ座るのかも知らず、そのことがかえって澄子の肩を軽くした。
「二十四枚ですね。割ったら、お給料から引かれますか」
「今日はボランティアですから、お給料そのものがありませんよ。それに、一枚くらい割っても怒りません」
「一枚くらいって言う人ほど、三枚割ったら怒るでしょう」
大庭は味噌汁の鍋をかき回しながら笑い、隣で里芋の皮をむいていた女性も包丁を止めて笑った。澄子は何をおかしがられたのか分からず、皿の数をもう一度、指先で確かめた。二十四枚の縁がきれいに重なっているのを見ると、家の食器棚で、欠けた茶碗を啓司に見つからないよう奥へ押し込んだ日のことを思い出した。
昼食の献立は、鶏肉と里芋の煮物、小松菜の胡麻和え、豆腐としめじの味噌汁だった。里芋の鍋から上がる醤油の匂いを嗅いだ澄子は、お玉で煮汁を少しすくい、小皿へ落として舐めた。舌の端に塩気が残り、里芋へ味が染み込むころには濃くなると分かったので、澄子は流しの横に置かれた計量カップへ手を伸ばした。
「お水を百五十ほど足してもいいですか。これ、冷めると少し塩辛くなります」
「でも、薄くなりませんか」
調理担当の本間が鍋をのぞき込むと、澄子は冷蔵庫から生姜を取り出した。皮の乾いたところだけを薄く削り、細い千切りにすると、指先へ青く鋭い匂いが移った。澄子は水を足してから生姜を半分だけ入れ、蓋を少しずらして弱火にした。
「薄い味と、味がないのは違います。生姜を入れると、舌が塩を探さなくてすむんです。柚子の皮があれば、そちらでもいいんですけど」
「それ、どこで習ったんですか」
「習ったことなんてありません。姑が血圧を気にしていたから、三十年くらい作っただけです」
口にしてから、澄子は鍋の蓋についた水滴を布巾で拭いた。三十年という数字が、濡れた蓋の上で急に大きく見えた気がしたが、誰も「嫁なら当然」とは言わなかった。本間は味見をして目を丸くし、もう一度、小皿へ煮汁を取った。
「本当だ。薄いのに、ちゃんとおいしい。澄子さん、これ、来月の献立にも使わせてもらっていいですか」
「私に聞くようなことですか。生姜なんて、誰でも入れますよ」
「誰でも知っていることと、二十四人分をおいしく作れることは別です。里芋が煮崩れない火加減も、私は知りませんでした」
澄子は返事の代わりに、鍋の中の里芋をお玉の背でそっと押した。やわらかくなっているが、角はまだ残っており、鶏肉の脂が煮汁の表面で小さな輪になって光っている。家で同じものを出しても、啓司が言うのは「今日は鶏か」か「味が薄い」のどちらかだったので、おいしいと言われたあとの顔を、澄子はうまく作れなかった。
配膳が始まると、食堂には杖をつく音や椅子を引く音が重なった。紺色のベストを着た老人が小松菜を一口食べてから、胡麻が歯に挟まったと隣の女性へ訴え、その女性は自分の歯ではないのだから知らないと笑っていた。澄子が煮物の皿を置くと、老人は湯気の向こうから鼻を動かした。
「今日はいい匂いだね。柚子かい」
「生姜です。柚子はまだ高いですから」
「そうか。柚子は冬至まで待つか。うちの庭にあった木は、去年、息子が邪魔だって切っちまったよ」
「実がなる木を切るなんて、もったいない。柚子の種は化粧水にもできるのに」
話しているうちに、澄子の後ろでは味噌汁の列が長くなった。大庭に「澄子さん、昔話は食べ終わってから」と呼ばれ、澄子は老人と顔を見合わせて小さく笑った。盆の端へこぼれた味噌汁を台布巾で拭くと、しめじの香りと消毒液の匂いが混ざり、調理室にいたころよりも腹が減った。
片づけのあと、余った煮物を前にして、本間が保存容器をいくつも並べた。まだ温かいうちに蓋を閉めようとしたため、澄子は蓋を持つ手を止め、浅いバットへ煮物を移した。里芋は冷めにくく、鍋の中へ置いたままでは中心の熱が逃げないので、澄子は団扇で湯気を追いながら壁の時計を見た。
「蓋は冷めてからです。温かいまま閉めると、水滴が落ちて傷みやすくなります」
「澄子さんがいると、料理教室みたいですね」
「教室なら月謝を取らないと損です。私は今日もただ働きなんですから」
冗談のつもりではなかったが、また皆が笑った。澄子も少し遅れて口元を緩め、団扇を本間へ渡した。団扇には去年の盆踊りの日付と、近所の電器店の電話番号が印刷されており、持ち手のところだけ手垢で黒くなっていた。
翌週、澄子がセンターへ行くと、大庭が事務室へ来るよう手招きした。澄子は自分が何か間違えたのかと思い、薄緑色のブラウスの袖口についた小麦粉を指で払いながら、廊下を歩いた。掲示板には赤い彼岸花の折り紙と、来月の健康体操の日程が貼られ、画鋲が一つだけ斜めになっていた。
「澄子さん、週に二回、こちらの昼食づくりを手伝っていただけませんか。十時から一時までです」
「お皿を並べるだけですか」
「調理もお願いします。献立は栄養士が決めますが、下ごしらえや味つけをお願いしたいんです。わずかですが、謝礼も出ます」
大庭が机の上へ申込書を置くと、澄子は椅子へ座らず、紙の文字を上から下まで読んだ。「有償調理補助」という欄の横に、自分で氏名を書く場所がある。澄子は鞄から祥子にもらった黒いボールペンを出したが、芯を二度出し入れしてから、大庭を見た。
「私、調理師の免許はありませんよ。家族のご飯しか作ったことがありません」
「衛生管理はこちらで教えます。澄子さんにお願いしたいのは、毎日食べても飽きない家庭の味です」
「毎日食べていた人は、一度も褒めませんでしたけど」
「では、ここで食べる人たちに褒めてもらってください。ときどき文句も言われますが、それも仕事のうちです」
澄子はようやく椅子へ腰を下ろし、申込書に住所と生年月日を書いた。自分の名前を書くのは病院の問診票か、啓司に言われて保険の書類へ署名するときくらいだったが、その日は最後の一画をいつもよりゆっくり引いた。窓枠には小さな蜘蛛の巣があり、風が入るたび、銀色の糸に細かな埃が揺れていた。
仕事を始めて二週間後、澄子は大庭から白い封筒を渡された。表には青いインクで「木村澄子様」と書かれ、裏には地域センターの丸い判が押されている。澄子は事務室を出る前に一度、靴を履き替える前にもう一度、封筒の口を開いた。
中には千円札が三枚入っていた。新品ではなく、一枚には中央に折り目があり、もう一枚の端は少し毛羽立っている。それでも三枚とも澄子の働いた時間と引き換えに、澄子の名前が書かれた封筒へ入れられた金だった。
「少なくて申し訳ありません。今月は六時間分です」
「少なくありません。私がもらっていいお金なんですね」
「もちろんです。受領書にも、澄子さんのお名前を書いてください」
澄子は受領書へ署名してから、封筒を鞄へしまった。しかし玄関を出ると、金木犀の匂いが流れてきたところで立ち止まり、もう一度、封筒を取り出した。自分の名前を親指でなぞり、三千円があることを確かめると、今度は鞄の内ポケットのファスナーをきちんと閉めた。
その日の午後、祥子と駅前の商店街で待ち合わせた。祥子は紺色のシャツに生成りのズボンを合わせ、片手にスーパーの袋を提げていた。袋から長ねぎの青い先と、特売品らしい食パンの赤い包装がのぞいている。
「お母さん、待った? ごめん、卵が百九十八円だったから並んじゃった」
「十分しか待ってないわ。卵は割れてないの」
「大丈夫。今日は一パックまでだったから、後ろのおばさんが孫まで並ばせていたわよ」
祥子はそう言ってから、母の鞄が胸の前で大切そうに抱えられていることに気づいた。澄子が白い封筒を差し出したので、祥子は中をのぞき、三枚の千円札を見た。三千円では一か月分の食費にもならず、家賃にも電気代にも届かないという計算が頭に浮かびかけたが、祥子はスーパーの袋を持ち直して、その数字を追い払った。
「初めてのお給料ね」
「謝礼だそうよ。給料とは違うんですって」
「働いてもらったなら、お給料でいいのよ。何に使うの?」
「まだ決めてない。祥子はすぐ使い道を決めたがるわね」
「決めてないなら、それでいいわ。お母さんが決めるまで持っていればいいのよ」
二人は商店街をゆっくり歩き、古い瀬戸物屋の前で足を止めた。店先には秋刀魚を載せる細長い皿や、葡萄の絵が描かれた湯呑みが積まれ、奥からはラジオの相撲中継が聞こえていた。澄子は籠に入った小ぶりな茶碗を一つずつ持ち上げ、糸底のざらつきを親指で確かめた。
「これ、椿かしら。山茶花にも見えるわね」
「札には椿って書いてある。白いところがきれいね」
「真っ白じゃないのがいいのよ。ご飯粒を一つ残しても、見つけやすいから」
澄子が選んだのは、白地に赤い椿が一輪ずつ描かれた小さな茶碗だった。形は同じだが、片方の花は少し右へ傾き、もう片方は赤い絵の具が花びらの外へわずかにはみ出している。澄子は二つを並べてしばらく見比べ、右へ傾いた椿の茶碗を祥子の前へ置いた。
「こっちが祥子。食べながらよくしゃべるから、花まで傾いて聞いているでしょう」
「お母さんのは、絵の具がはみ出しているわよ」
「いいのよ。私だって、決められたところから少しくらいはみ出したいもの」
店主が新聞を畳んで近づき、二つで二千四百円だと告げた。澄子は封筒から千円札を三枚すべて出し、六百円のお釣りを受け取った。紙袋へ茶碗を入れる音を聞きながら、祥子は母が初めての給料のほとんどを使ってしまったことにも、残りを貯金したほうがいいとも言わなかった。
商店街を抜けたところで、祥子は紙袋をのぞいた。夕方の風が少し冷たくなり、八百屋の店先では梨の隣に早生みかんが並び始めていた。澄子は六百円を小銭入れへ移し、空になった封筒を折らずに鞄へ戻した。
「二つとも、うちで使うの?」
「そうよ。一つは私で、一つは祥子」
「離婚するから買ったの?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、どうして二つなの」
澄子はすぐには答えず、道端の鉢植えから飛び出した紫蘇の穂を見た。葉を摘まれたあとも花だけは残り、小さな白い花が夕日の中で揺れている。澄子は紙袋の持ち手を握り直し、祥子の顔をまっすぐ見た。
「私のお金だから、二つにしたかったの」
帰宅すると、啓司は居間で新聞を広げ、テレビの相撲中継を見ていた。卓上には朝の湯呑みが置かれたままで、底に残った茶が茶色い輪を作り、灰皿には短くなった爪楊枝が一本入っている。澄子は何も言わず、台所で米を研ぎ、秋鮭へ薄く塩を振った。
「今日の味噌汁は何だ」
「なめこと豆腐。三つ葉も入れます」
「三つ葉なんか買ったのか。ねぎでいいだろう」
「三つ葉が一束五十円だったの。私が食べたかったから買いました」
啓司は新聞をめくり、それ以上は何も言わなかった。澄子は味噌汁の湯気に三つ葉の青い匂いが混ざるのを確かめてから、紙袋を開いた。二つの茶碗をぬるま湯で洗い、布巾で水気を拭くと、白い地肌の上で赤い椿が台所の蛍光灯を受けた。
食器棚の奥には、引き出物でもらったまま使っていない夫婦茶碗があった。大きな紺色の茶碗と、小さな桃色の茶碗が一組になっており、澄子はいつも自分の茶碗を割るたび、同じような桃色のものを選んできた。けれど、その日は古い桃色の茶碗を奥へ下げ、椿の茶碗二つを普段使う棚の一番手前へ置いた。
「茶碗を買ったのか」
テレビから目を離さないまま、啓司が尋ねた。誰の茶碗かとは聞かなかったので、澄子は炊飯器の蓋を開け、しゃもじで炊きたての米を返した。湯気が眼鏡を白く曇らせ、澄子は眼鏡を外してエプロンの裾で拭いた。
「ええ。二つ買いました」
「そうか。俺のは大きいほうにしてくれ」
澄子は返事をせず、秋鮭を裏返した。皮が焼ける香ばしい匂いが狭い台所へ広がり、魚焼きグリルの奥で脂がぱちぱちとはぜている。椿の茶碗はどちらも同じ大きさで、啓司のために買ったものではなかったが、啓司はそんなことを考えもしないらしかった。
夕食には、これまで使っていた茶碗を三つ並べた。啓司は自分の紺色の茶碗で飯を食べ、三つ葉が多いと一度だけ言い、鮭の皮を皿の端へ残した。澄子は古い桃色の茶碗を使いながら、食器棚のガラス戸に映る二輪の椿を何度も見た。
翌朝、祥子が届け物を持って訪ねてくることになっていた。澄子は寝る前に米を二合研ぎ、炊飯器の予約ボタンを押したあと、椿の茶碗を棚から二つ取り出した。片方を自分の席へ置き、花が少し傾いたほうを、祥子が座る席へ置いた。
啓司の紺色の茶碗は、いつもの場所に一つだけ置いた。三つの茶碗は、もう夫婦茶碗と、その余りではなかった。澄子は空になった給料袋を台所の小さな帳面へ挟み、食卓の上の椿を見ながら、明日の味噌汁には残った三つ葉と油揚げを入れようと決めた。




