↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/17

第14話 味噌汁のない夜

第14話 味噌汁のない夜


十月の半ば、祥子から電話がかかってきたとき、澄子は台所で銀杏の殻を割っていた。金槌を使うと音で啓司に気づかれるため、布巾に包んだ銀杏をペンチで一つずつ挟んでいると、薄い殻が小さく鳴って割れた。窓の外では隣家の金木犀が盛りを過ぎ、橙色の花が物干し竿の下へ細かな砂糖菓子のように散っていた。


「お母さん、新しい部屋の契約日、二十一日に決まったわ。午前十時に不動産屋さんへ行ける?」


「二十一日は火曜日ね。午後からセンターだから、赤いエプロンを持っていかないと」


「契約の日まで仕事へ行くつもりなの?」


「契約書に名前を書くだけでしょう。里芋は待ってくれないもの」


澄子は電話を肩と頬で挟み、割れた殻の中から薄緑色の実を取り出した。祥子が電話の向こうで息をつき、必要な書類をもう一度確認し始めたので、澄子は広告の裏へ鉛筆で書きつけた。身分証明書、印鑑、住民票、年金額の分かる書類と並べているうちに、銀杏を十粒むいたはずが九粒しかなくなり、足元を見ると一粒が冷蔵庫の下へ転がっていた。


「お母さん、通帳は持ち出せた?」


「私の年金が入る通帳は鞄の底に入れたわ。判子も朱肉もあるし、薬は一週間分を別の袋にした」


「保険証と、お薬手帳は?」


「祥子は同じことを三回聞くわね。自分の卵の安売りは忘れないくせに」


「卵と保険証を一緒にしないでよ。お父さんに見つかって、取り上げられたら困るでしょう」


澄子は冷蔵庫の下から銀杏を拾い、濡れ布巾で埃を拭った。台所と居間を仕切る襖の向こうでは、啓司が昼のニュースを見ながら煎餅を噛んでいる。袋へ手を入れるがさがさという音までいつもどおりで、澄子は鉛筆を置くと、声を低くした。


「見つからないようにするのは、ずいぶん疲れるのね。悪いことをしているみたいだわ」


「悪いことじゃない。自分の物を、自分が暮らす場所へ移しているだけよ」


「分かっているわ。でも、靴下を三足隠すだけで、胸のところが狭くなるの」


「少しずつでいいの。重い物は私が運ぶから、お母さんは薬と書類を先にして」


その週、祥子は買い物へ行くふりをして、澄子と何度も家を出た。最初の日には冬用の下着と黒いズボンを二本、次の日には血圧の薬と診察券、それから年金関係の書類を運び出した。澄子は青い花柄の風呂敷へ衣類を包んだが、結び目が大きすぎていかにも荷物に見えたため、祥子がスーパーの紙袋へ入れ直した。


「この毛糸のベストも持っていく?」


「それは置いていくわ。首のところがちくちくするから、三年も着ていないもの」


「じゃあ、処分する?」


「置いていくと言っただけで、捨てるとは言ってないでしょう。あれはあんたが高校生のときに編んだのよ」


「袖を編むのが面倒で、ベストにしたやつね。まだ持っていたの」


二人は押入れの前で顔を見合わせ、声を立てないように笑った。祥子が編んだベストは、前身頃と後ろ身頃で灰色の濃さが違い、肩の縫い目も片方だけ盛り上がっている。澄子はそれを箪笥の二段目へ戻し、代わりに小豆色のカーディガンと厚手の靴下を紙袋へ入れた。


新しい部屋は、古い平屋の一階にある六畳と四畳半の二間だった。南側には半間ほどの縁側があり、その先の小さな庭には、前の住人が植えたらしい石蕗が黄色いつぼみをつけていた。畳には新しい井草の青い匂いが残り、柱には柱時計を掛けていた跡が丸く白く残っている。


「柱の傷は最初からあったって、写真に撮っておこう。退去するときに請求されたら困るから」


祥子が携帯電話を向けると、澄子は傷の横に立って大きさを示した。けれど、祥子が写真を確認して吹き出したため、澄子は自分の灰色の髪を手で押さえた。朝から帽子をかぶっていたせいで、頭のてっぺんがきれいに平らになっていた。


「傷だけ写せばいいでしょう。私は要らないわよ」


「お母さんが立っているほうが、大きさが分かるもの」


「不動産屋さんに、こんな頭まで見せるの?」


「頭は請求の対象にならないから大丈夫よ」


契約を済ませた翌日、中古で買った二ドアの冷蔵庫が届いた。澄子は配達員が帰るとすぐ扉を開け、中に何も入っていないことを確かめてから、祥子に笑われた。冷蔵庫なのだから空なのは当たり前だったが、棚も製氷皿も自分が好きな場所へ置けると思うと、澄子は透明な棚を外しては戻し、最後には最初と同じ位置へ収めた。


「この冷蔵庫、啓司さんのビールを入れなくていいのね」


「そのために小さい冷蔵庫にしたんでしょう」


「違うわよ。一人なら、この大きさで十分だからよ」


「そういうことにしておく。最初に何を入れる?」


「味噌と、ぬか床。それから牛乳。大庭さんが、牛乳へきな粉を入れると腹持ちがいいって言っていたわ」


布団も届き、祥子が洗った生成り色のカーテンを縁側へ干した。洗剤の石鹸の匂いが畳まで流れ込み、風を受けた布が膨らむたび、庭の石蕗が見えたり隠れたりした。澄子はカーテンの裾から落ちる雫を雑巾で拭きながら、まだ食器のない流し台を見た。


「茶碗は明日持ってくるわ。椿の茶碗を二つ」


「一つはお母さんの家に置いて、一つは私の家に持って帰ってもいいのよ」


「二つ並べて使うために買ったの。祥子が来たときは、あれで食べなさい」


「私、そんなにしょっちゅう来られないわよ」


「しょっちゅう来いとは言ってないわ。来たときに使えばいいと言っているの」


祥子はカーテンの皺を伸ばし、それ以上は何も言わなかった。縁側の隅には前の住人が置いていった小さな釘が一本落ちており、澄子は拾って窓枠の上へ載せた。捨ててもよかったが、何かを掛けるときに使えるかもしれないと思い、そう考えた自分に少し笑った。


別居を告げる前日の夕方、澄子はいつもの家の台所に立った。白地に細い茶色の格子が入った割烹着を着て、啓司の好む辛口の塩鮭を魚焼きグリルへ入れた。里芋は面取りをして昆布だしで煮て、胡瓜は薄く切り、塩を振ってから両手で水気を絞った。


流しの横には、大根の葉を刻んだものが小皿に残っていた。翌朝、油揚げと一緒に味噌汁へ入れるつもりで取っておいたものだったが、澄子は小皿へラップをかけ、冷蔵庫の一番上へ置いた。鍋を火にかけず、だしも取らず、味噌の容器にも触れなかった。


「今日は魚か。焦がすなよ」


居間から啓司の声がした。澄子はグリルの窓をのぞき、鮭の皮に小さな泡が浮いているのを確かめた。四十七年間、熱を出した夜も、子どもを産んだあとも、澄子は何かしらの汁物を食卓へ置いてきた。


「焦がしていません。まだ焼いているところです」


「里芋はやわらかくしろ。昨日の大根は硬かった」


「昨日の大根は、あなたが漬物用を煮ろと言ったから硬かったのよ」


「大根なんて、煮れば同じだろう」


澄子は返事をせず、酢の物へ細く刻んだ生姜を混ぜた。酢の匂いが鼻の奥へつんと入り、目元に水がにじんだため、袖ではなく手の甲で押さえた。棚の中には椿の茶碗が二つ並んでいたが、その夜は古い桃色の茶碗を出した。


七時になると、啓司はテレビの前から食卓へ移った。紺色の部屋着の膝は片方だけ白く擦れ、靴下には畳の藺草が一本ついている。澄子は塩鮭と里芋の煮物、胡瓜の酢の物、炊きたての飯を並べ、箸を二膳置いた。


啓司は箸を取らず、食卓の上を右から左まで見た。いつもなら湯気を立てる椀が置かれる場所には、醤油差ししかない。啓司は醤油差しを少し脇へ動かし、その下に何もないことを確かめた。


「汁物はないのか」


「今日はありません」


「作り忘れたのか」


「作らなかったの」


啓司は澄子の顔を見たが、澄子は里芋を一つ箸で割った。中まで味が染み、白かった芋が薄い飴色になっている。啓司は鼻を鳴らして飯を一口食べたものの、味噌汁が出てくるのを待つように、台所のほうを何度も見た。


「どうして作らなかった」


「明日、家を出ます。ここではないところで暮らします」


「どこへ買い物に行くんだ」


「買い物ではありません。家を出ると言ったの」


澄子は箸を置き、膝の上で両手を重ねた。祥子は隣の部屋で待っており、話が始まってから食卓へ来る約束になっていた。襖が静かに開き、祥子が茶色いジャケットのポケットから小さな録音機を取り出した。


「お父さん、今夜の話は録音します。お母さんは明日の朝、ここを出ます」


「なんだ、お前まで来ていたのか。祥子、お前がそそのかしたんだな」


「違います。お母さんが決めました」


「こいつが自分で部屋なんか借りられるわけがない。金のことも契約のことも何も知らないんだぞ」


澄子は、録音機の赤いランプを見た。点滅するたび、自分の息遣いまで機械の中へ入っていく気がしたが、祥子の袖をつかむことはしなかった。塩鮭の脂は冷え始め、皿の上で白く固まりかけていた。


「祥子に手伝ってもらいました。でも、借りると決めたのは私です」


「何が不満なんだ。食う物も家もあるだろう。今さら一人で何ができる」


「できるかどうかを、これから確かめます」


「俺の年金では暮らせないぞ。お前の分がなくなったら、こっちが困るだろう」


啓司は思いついた言葉をつかむように、指を一本ずつ折り始めた。水道代も固定資産税も払えない、この家は渡さない、家具を勝手に持ち出すなと、声を大きくして並べていく。箸が肘に当たって床へ落ちたが、啓司は拾わず、靴下を履いた足で遠くへ押した。


「通帳を持ち出したのか。夫婦の金だぞ。勝手なことをしたら警察を呼ぶからな」


「母名義の通帳と、母の持ち物だけです。財産については記録を残してあります」


「女二人で俺から家を取るつもりか。絶対に渡さないぞ。出ていったら、帰ってきても入れないからな」


「財産や離婚については、これから弁護士を通して話します。今日は、別居することだけを伝えに来ました」


祥子が答えると、啓司は掌で食卓を叩いた。醤油差しが倒れ、黒い醤油が食卓の木目に沿って流れ、胡瓜の皿の縁まで届いた。澄子は立ち上がって台布巾を取り、倒れた醤油差しを元へ戻した。


「そんなことより、こいつは一人じゃ暮らせない。薬だって飲み忘れるし、重い物も持てない。三日で泣いて帰ってくるぞ」


「そうかもしれません」


澄子は醤油を拭いた布巾を流しですすぎ、茶色く濁った水が排水口へ吸い込まれるのを見た。蛇口を閉めると、冷蔵庫の低い音とテレビの笑い声が、妙にはっきり聞こえた。澄子は布巾を絞り、いつもの釘へ掛けた。


「あなたがいなくても暮らせるかは、まだ分かりません」


「だったら、出ていくな」


「分からないから、確かめに行くの」


啓司は口を開けたまま澄子を見た。澄子が言い返すことも、答えを出さないまま動くことも、啓司の知っている妻の中にはなかった。祥子は何も足さず、録音機の隣へ自分の両手を置いた。


「夕飯はどうするんだ。お前が出ていったら、明日から誰が作る」


「お米の炊き方は、炊飯器に書いてあります。お惣菜は商店街にもスーパーにも売っています」


「そういう話じゃない。四十七年も一緒にいた夫を放り出すのか」


「四十七年、あなたのご飯を作りました。明日からは、作りません」


「祥子、お前のところへ行くんだろう。それなら連れ戻しに行くからな」


「私の家ではありません。住所は今夜、伝えません」


「親に隠すような場所へ母親を連れていくのか」


「押しかけると言う人には教えられません。連絡は弁護士を通してください」


澄子は椅子へ戻り、冷えた里芋を口へ運んだ。だしの味より醤油が強く感じられ、いつもと同じ分量で作ったはずなのに、舌へ残る味が違った。味噌汁がないため喉につかえそうになり、湯呑みの冷めた番茶を少しずつ飲んだ。


啓司は鮭を半分だけ食べ、茶碗に飯を残した。自分で落とした箸を拾わず、予備の箸を棚から出せと澄子へ言ったが、澄子は食事を続けた。祥子が箸立てを指さしても、啓司は立ち上がろうとしなかった。


「そこにあるでしょう。自分で取ってください」


「お前は最後の夜まで、夫に箸も出さないのか」


「最初の夜から、自分で取れる人でした。私が先に取っていただけです」


澄子は最後の胡瓜を噛んだ。ぱりりとした音のあと、酢と生姜の匂いが口の中へ広がった。食べ終えると、自分の茶碗と皿と湯呑みだけを盆へ載せ、両手で持ち上げた。


「俺の分も下げろ」


「まだ食べているでしょう」


「もう食わない」


「それなら、ご自分で流しへ運んでください」


澄子は祥子の後ろへ回らず、食卓の横をまっすぐ通った。流しへ自分の茶碗を置くと、陶器がステンレスへ触れて硬い音を立てた。振り返っても、啓司は箸のない食卓の前に座ったままで、昨夜から同じ場所に置かれた新聞の端を指で折っていた。


その夜、澄子は押入れから来客用の布団を出し、祥子と並んで眠った。二人分の布団を敷くと六畳間はほとんど埋まり、足元には運び出さない衣類の入った箪笥が黒い影を作った。祥子は寝る前に録音を確認し、弁護士へ送るためのデータを保存した。


「お母さん、眠れそう?」


「分からない。でも、明日の朝は七時に起こして。ぬか床を最後に持っていくから」


「重いでしょう。私が持つわよ」


「駄目。あれは私が四十年混ぜてきたの。こぼしたら、祥子を新しい部屋へ入れないわよ」


襖の向こうで、啓司が冷蔵庫を開ける音がした。しばらくして戸棚を乱暴に閉める音が続き、やがてテレビの音量が大きくなった。澄子は掛け布団の縁を顎まで引き上げ、畳に染み込んだ古い防虫剤の匂いを嗅ぎながら目を閉じた。


翌朝、祥子に起こされる前に、澄子は六時二十分に目を覚ました。薄青い光の中で着替え、生成り色のブラウスに茶色のズボンを合わせ、小豆色のカーディガンを羽織った。台所へ行くと、食卓には昨夜の塩鮭が一切れ残り、脂の固まった皿の横へ、空のカップ麺の容器が置かれていた。


流しには啓司の茶碗と皿が重なり、醤油のついた胡瓜が一枚、排水口の受け皿へ張りついていた。澄子はそれらを洗わず、冷蔵庫から自分の味噌と薬味を取り出した。大根の葉は小皿に残っていたが、持っていけばいいものか迷い、結局、ラップをかけたまま棚へ戻した。


味噌汁の鍋はなかった。昨夜の残りがないのではなく、初めから作っていないので、洗う鍋も、温め直す汁もなかった。澄子はガス台の空いた五徳を布巾で一度拭き、布巾をすすいで、いつもの釘へ掛けた。


祥子が起きてくると、二人は冷蔵庫の奥から四角いぬか床の容器を取り出した。蓋を開けると、発酵した糠の酸っぱい匂いと、昆布や赤唐辛子の匂いが立ち上った。澄子は手を洗い、底から大きくかき混ぜると、漬けたまま忘れていた小さな人参が一本出てきた。


「これ、いつの人参?」


「まだ食べられるわよ。薄く切れば、お茶漬けにちょうどいいわ」


「新しい家で最初に食べるのが、古い人参なの?」


「四十年もののぬか床が漬けた人参よ。古いのは悪いことばかりじゃないでしょう」


澄子は蓋をしっかり閉め、容器ごと大きな風呂敷で包んだ。祥子が持とうとすると、澄子は首を振り、両腕で胸の前へ抱えた。ずしりとした重みが肘へかかり、糠の匂いが風呂敷を通して鼻へ届いた。


「本当に持てる?」


「玄関までお願いするかもしれない。でも、門を出るときは私が持つわ」


「どうして門からなのよ」


「私にも分からない。そうしたいの」


二人は荷物を持ち、玄関へ向かった。居間の襖は閉まったままで、テレビもついていなかった。啓司が起きているのか眠っているのか、澄子には分からなかった。


澄子は履き慣れた黒い靴へ足を入れた。靴箱の上には啓司が使った爪切りと、期限の切れた商店街の福引券が置かれ、壁の一輪挿しでは、澄子が数日前に挿した秋桜が一輪だけ首を垂れていた。水を替えようかと思ったが、手にはぬか床があり、澄子はそのまま玄関の戸へ手をかけた。


「行ってきます、と言わなくていいの?」


祥子が小声で尋ねると、澄子は閉じた襖を一度見た。啓司は玄関まで来ず、名を呼ぶことも、戸を開ける音に何か言うこともなかった。澄子はぬか床を抱き直し、すり減った敷居をまたいだ。


「行ってきますではないもの。行きます、でいいのよ」


外には朝露の匂いがあり、隣家の金木犀から最後の花が散っていた。澄子は門の前で祥子からぬか床を受け取り、自分の両腕でしっかり抱えた。家の中には塩鮭が一切れ残り、台所には味噌汁の鍋だけが初めから置かれていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。