第15話 澄子のサステナビリティ
第15話 澄子のサステナビリティ
新しい部屋で迎えた最初の朝、澄子は目覚まし時計が鳴る五分前に目を開けた。生成り色のカーテンの隙間から薄い光が差し、畳の上には荷ほどきをしていない段ボール箱が三つ並んでいる。庭の石蕗には朝露がたまり、黄色いつぼみの先で小さく光っていた。
澄子は小豆色のカーディガンを羽織り、台所へ立った。冷蔵庫には味噌、牛乳、卵、昨日持ってきた大根の葉、それからぬか床しか入っていない。朝食を作ろうとして米びつを開けたところで、米を一粒も持ってきていないことに気づいた。
「冷蔵庫を先に運んで、お米を忘れる人がいるかしら」
誰も返事をしない台所で口にすると、冷蔵庫のモーターが低く唸った。澄子は流しの上へ置いた食パンを一枚焼き、牛乳を小鍋で温めた。トーストへ味噌を薄く塗り、大根の葉を胡麻油で炒めたものを載せると、焦げた味噌の匂いが部屋へ広がった。
椿の茶碗は食器棚の一番手前に二つ並べてあった。その朝は使わなかったが、澄子は赤い花を確かめるように指で触れてから、昨日のぬか漬けの人参を薄く切った。漬かりすぎた人参は塩辛く、温めた牛乳を二口飲んで、ようやく舌の痺れが引いた。
「やっぱり古いものが全部いいわけではないわね」
午前九時になると、祥子が米とやかんを持って訪ねてきた。紺色のパーカーに細身のズボンをはき、肩には布製の買い物袋を二つ掛けている。玄関を開けるなり味噌トーストの匂いを嗅ぎ、祥子は靴を脱ぐ前に眉を寄せた。
「お母さん、何を焼いたの。畳まで味噌の匂いよ」
「パンに味噌を塗ったの。ご飯がなかったから」
「昨日、買っておこうかって聞いたでしょう」
「冷蔵庫へ入れる物ばかり考えていたのよ。お米は冷蔵庫へ入れないから忘れたの」
「夏は入れたほうが虫がつかないわよ」
「この冷蔵庫に米まで入れたら、里芋が入らなくなるでしょう」
祥子が持ってきたのは五キロの米ではなく、二キロの小袋だった。一人暮らしなら、重い袋を無理に運ばず、使い切れる量を買ったほうがいいと言う。澄子は割高になると口を尖らせたが、持ち上げてみると片手でも米びつへ移せたので、それ以上は言わなかった。
二人は段ボール箱を開け、持ってきた物を一つずつ片づけた。中から出てきたのは、冬の下着、裁縫箱、薬の袋、古い料理帳、それから蓋の欠けた保存容器だった。祥子は欠けた蓋をつまみ上げ、捨てる物を入れる袋へ入れようとした。
「それは捨てないで。輪ゴムで留めれば、まだ使えるわ」
「汁が漏れるでしょう」
「汁物を入れなければいいの。干し椎茸や煮干しなら逃げないわよ」
「煮干しが逃げたら怖いわね」
祥子は保存容器を食器棚へ戻し、代わりに底の抜けかけた紙袋を処分した。澄子は紙袋もまだ使えると言いかけたが、持ち手を引いた途端に片方が取れたので、黙ってごみ袋へ入れた。残すことと、持ち続けることは同じではないらしいと考えながら、段ボールの側面を手で平らにした。
「ねえ、お母さん。ここで本当に一人でやっていけそう?」
「まだ一晩しか寝ていないのに分かるわけがないでしょう」
「夜、怖くなかった?」
「冷蔵庫の音を、お父さんのいびきと間違えたわ。それから、トイレへ行くときに箪笥へぶつかった」
「箪笥は置いていないでしょう」
「だから、ぶつからなかったの。四十七年の癖で、そこにあると思ってよけたら、壁へ肩をぶつけたのよ」
澄子がカーディガンをずらすと、右肩に薄い赤い跡がついていた。祥子は湿布を貼ろうとしたが、澄子は腕が上がるから大丈夫だと言い、段ボールを畳み続けた。畳んだ箱は資源回収の日まで縁側へ置き、濡れないよう古い風呂敷をかぶせた。
昼前になると、二人は近所を歩いて回った。澄子は薄茶色の帽子をかぶり、布の買い物袋と、使わなくなった菓子箱を持った。新居から三分の場所に小さな八百屋があり、軒先には泥のついた里芋、曲がった胡瓜、赤い筋の入った林檎が木箱に盛られていた。
「奥さん、その容器は何だい」
八百屋の主人に聞かれ、澄子は菓子箱の蓋を開けた。中には、地域センターから分けてもらった乾燥させた蜜柑の皮が入っている。主人は顔を近づけ、甘くほろ苦い匂いを嗅いでから、蜜柑にはまだ早いと笑った。
「生ごみを減らす工夫よ。細く切って煮物に入れるの」
「だったら、大根の皮も持っていくかい。今朝、漬物用にむいたのがあるよ」
「人がむいた皮まで拾っていたら、私の冷蔵庫が皮だらけになるわ」
「じゃあ、この曲がった胡瓜を持っていきな。三本で百円だ」
「二本で七十円にして。私は一人だから、三本目を腐らせたら三十円損するもの」
主人は計算が合わないと言いながら、胡瓜二本と、形の悪い茄子を一つ袋へ入れた。澄子は七十円を払い、茄子は頼んでいないと戻そうとしたが、主人は開店祝いだと言って受け取らなかった。店先の鉢では赤紫色の千日紅が丸い花をつけ、その間を小さな蜂がせわしなく飛び回っていた。
八百屋の次に、二人は地域の掲示板を見た。資源回収は木曜日、可燃ごみは火曜日と金曜日、小型家電は地域センターでも回収すると書いてある。その横には「暮らしのサステナビリティ講座」という緑色の紙が貼られ、電気の節約、食品ロスの削減、衣類の再利用について学ぶとあった。
「サステナビリティですって。何のこと?」
「無理なく続けられるようにすることかな。物を大切にするとか、環境を守るとか」
「日本語で書けばいいのに。サス……何だった?」
「サステナビリティ」
「舌を噛みそうね。それなら、うちのぬか床はサステナ何とかよ。四十年続いているもの」
祥子は掲示板の案内を指でなぞり、来週の講座へ申し込んでみようかと尋ねた。澄子は講師に何を教わるのか分からないと首をかしげたが、参加費が無料と知ると、連絡先を帳面へ書き写した。帳面の表紙には醤油の染みがあり、角が毛羽立っていた。
「お母さんは、昔から食べ物を捨てなかったものね」
「捨てられなかったのよ。四人分の給料日に、五人分のご飯を作っていたんだから」
「靴下も繕っていたし、広告でごみ箱も作っていた」
「それは節約。横文字にすれば立派になるのね」
「でも、これからは自分まで使い切らないでね」
澄子は返事をせず、帳面を鞄へしまった。掲示板のガラスには、祥子と自分の顔が並んで映っている。風で帽子がずれたため、澄子は顎紐を短くし、先に歩き出した祥子の背中を追った。
新居へ戻ると、祥子は電気と水道の料金表を食卓へ広げた。家賃、光熱費、食費、医療費、電話代を分け、毎月どれくらい必要かを計算するためだった。澄子は老眼鏡をかけ、センターから受け取った三千円の残り六百円を、帳面の収入欄へ書いた。
「六百円まで収入に入れるの?」
「二千四百円を使ったのだから、残ったのは六百円でしょう」
「でも、来月も同じだけ仕事があるとは限らないわ。生活費には年金だけを入れて考えよう」
「では、この六百円は私の別勘定にします。胡瓜を買ったから、残りは五百三十円ね」
澄子は菓子の空き缶を出し、油性ペンで「私の仕事」と書いた紙を貼った。その中へ百円玉を五枚と、十円玉を三枚入れると、金属の音が軽く響いた。祥子は財布を分けるのはいい方法だと言い、自分が使っていない小さながま口を今度持ってくると約束した。
「ところで、お父さんから電話はあった?」
「朝に一度。味噌がどこにあるか聞かれたわ」
「教えたの?」
「冷蔵庫の二段目と言ったけれど、見つからないと言うの。手前にある物しか見ない人だから、牛乳の後ろを探してと言ったわ」
「それで終わった?」
「味噌汁の作り方も聞かれた。でも、お湯に味噌を入れればいいんだろうと言うから、それで作ってみればと答えたわ」
祥子は笑いかけたが、澄子が笑っていないことに気づき、口を閉じた。澄子は四十七年間、煮干しの頭とはらわたを取り、前の晩から水へ浸し、季節ごとに具を替えて味噌汁を作ってきた。啓司にとって、それは鍋の中へ勝手に現れる茶色い汁だったらしい。
「戻って作ってやろうとは思わなかった?」
「思ったわよ。一瞬だけ」
「そうなの?」
「味噌を無駄にされたら、もったいないでしょう。でも、あの味噌はもう置いてきた物だから、私の心配する味噌ではありません」
澄子は買ってきた胡瓜を洗い、まな板の上へ並べた。一本はぬか床へ入れ、もう一本は薄切りにして塩を振る。おまけでもらった茄子は半分を焼き茄子にし、残りは翌日の味噌汁へ入れることにした。
夕方、地域センターの仕事から帰ると、縁側のカーテンが西日を受けて淡い橙色になっていた。澄子は赤いエプロンを洗い、物干し竿へ干した。隣には靴下が二足、布巾が三枚、それから使い終えた出汁パックを破って乾かした茶殻が、古いざるの上に広げてあった。
庭の隅には、割れた植木鉢が一つ置かれていた。澄子はその鉢へ八百屋でもらった葱の根を植え、米の研ぎ汁を少しかけた。石蕗の黄色いつぼみは朝よりふくらみ、一輪だけ、花びらが開き始めていた。
「根っこしかないのに、本当に生えるの?」
仕事帰りに寄った大庭が、縁側から鉢をのぞき込んだ。大庭は濃い緑色のジャンパーを着て、手土産に小さな薩摩芋を三本持ってきていた。澄子は一番細い芋を手に取り、これなら味噌汁に入ると重さを確かめた。
「葱は強いんです。水だけでも伸びます。でも、水ばかりでは細くなるから、土へ植えました」
「澄子さんみたいですね」
「私は水だけでは伸びません。ご飯も魚も食べます」
「そういう意味ではありませんよ。新しい場所でも根を張れるという意味です」
澄子は米の研ぎ汁が入っていたボウルを洗い、伏せて水切り籠へ置いた。大庭の言葉をそのまま受け取るのは気恥ずかしく、薩摩芋の一本が曲がっていると話題を変えた。曲がった芋は輪切りにすると大きさが揃わないため、炊き込みご飯にしたほうがよいと考えた。
二人で夕食を作ることになり、澄子は小さな土鍋へ米を一合入れた。水に浸している間に薩摩芋を角切りにし、昆布と塩を加える。大庭は胡瓜のぬか漬けを取り出そうとしたが、ぬか床の中を探る手つきが浅く、澄子に肘でもっと底から混ぜるよう注意された。
「これ、毎日やるんですか」
「夏は朝晩。今の季節なら一日一度でいいです」
「旅行へ行けませんね」
「冷蔵庫へ入れれば数日は休ませられます。それでも長く留守にするときは、誰かに預けます」
「一人で守っているのに、誰かへ預けてもいいんですね」
「一人で四十年混ぜましたけど、私が入院したときは祥子が混ぜました。続けるためには、人の手も借りるんです」
土鍋の蓋が小さく揺れ、縁から白い湯気が上がった。薩摩芋の甘い匂いと昆布の匂いが部屋へ広がり、大庭の腹が小さく鳴った。澄子は聞こえなかったふりをして火を止め、十分蒸らすからまだ開けてはいけないと告げた。
味噌汁には茄子と油揚げを入れ、乾燥させた蜜柑の皮をほんの少し浮かべた。大庭は最初、味噌汁へ蜜柑を入れることを疑ったが、口へ運ぶと香りが鼻へ抜けると言って、もう一口飲んだ。椿の茶碗には薩摩芋ご飯が盛られ、赤い花の上へ黒胡麻が二粒落ちた。
「この茶碗、二つだけなんですね」
「私と娘の分です。今日は娘の茶碗を貸します」
「では、大切に食べないと」
「茶碗は使うために買ったんです。割ったら、次は大庭さんが買ってください」
大庭が笑うと、澄子も箸を持ったまま笑った。焼き茄子の皮は少し焦げ、剥き残した黒い部分が歯へついたが、その苦みが甘い薩摩芋ご飯によく合った。ぬか漬けの胡瓜は漬かり方が浅く、澄子は明日はもう半日早く入れようと帳面の余白へ書いた。
食後、大庭が帰ったあと、澄子は一人で食器を洗った。二人分なら洗い桶はすぐに空になり、湯を流し続けなくても、ためた水で十分すすげた。澄子は蛇口を閉め、濡れた手を赤い椿の布巾で拭いた。
空になった土鍋の底には、薩摩芋の焦げが少しついていた。水へ浸せば翌朝には取れるので、澄子は無理にこすらず、そのまま流しへ置いた。急いですべてをきれいにしなくても、明日の自分が続きからやればいい。
寝る前、澄子は収支の帳面を開いた。三千円の謝礼、茶碗二千四百円、胡瓜七十円と書かれた下へ、八百屋でもらった茄子と、大庭にもらった薩摩芋も小さく記した。金額のない食べ物も、誰かの手を通って自分の食卓へ届いたものだった。
「サステナビリティ」
澄子は覚えたばかりの言葉を声に出した。舌は噛まなかったが、やはり自分には少し長すぎると思った。帳面の余白へ「無理をせず、明日も続けられること」と書き、その下へ「困ったら祥子か大庭さんに頼む」と付け加えた。
四十七年間、澄子は家族の暮らしを続けるために、残り物を別の料理へ変え、破れた衣類を繕い、足りない金を献立で埋めてきた。しかし、その仕組みの中では、澄子だけが休むことも、取り替えることもできなかった。澄子は帳面を閉じると、明日の朝食用に残した薩摩芋ご飯を冷蔵庫へ入れた。
縁側の向こうでは、石蕗の花が暗がりの中で一輪咲いていた。澄子はカーテンを閉め、薬を水で飲み、目覚まし時計を六時半に合わせた。明日も続けられる暮らしの中には、自分も一人分として数えなければならなかった。




