第16話 変えられるのは、自分の選び方
第16話 変えられるのは、自分の選び方
十一月に入った朝、澄子は庭の石蕗が三輪に増えていることに気づいた。黄色い花びらには昨夜の雨粒が残り、縁側へ出ると、湿った土と洗濯石鹸の匂いが混ざって鼻へ届いた。澄子は灰色の毛糸の上着を羽織り、物干し竿へ赤いエプロンと厚手の靴下を干した。
朝食は、残りご飯へ刻んだ大根の葉と卵を混ぜた焼き飯だった。昨夜の茄子の味噌汁を小鍋で温め直したが、煮詰まって塩辛くなっていたため、澄子は湯を足した。椿の茶碗へ焼き飯を盛っていると、食卓に置いた電話が鳴った。
「もしもし、木村です」
「いつまで遊んでいるつもりだ。もう十分だろう」
啓司の声が聞こえた途端、澄子の右手が止まった。しゃもじの先から焼き飯が一粒落ち、食卓の上に転がった。澄子はそれを指で拾い、口へ入れてから椅子に座った。
「遊んでいるのではありません。ここで暮らしています」
「近所には、娘のところへ行っていると言ってある。早く戻らないと、みっともないだろう」
「私は祥子の家にはいません」
「そんなことはどうでもいい。今夜、帰ってこい。洗濯物がたまっているし、風呂場の排水も詰まった」
澄子は電話を左手へ持ち替え、右手で冷めかけた味噌汁の椀を包んだ。掌へ伝わるぬるい温度を確かめながら、啓司の言葉を聞いた。以前なら、排水口にたまった髪の毛と石鹸かすを思い浮かべ、割り箸と古い歯ブラシを持って戻る支度を始めていた。
「排水口の蓋を外して、中を掃除してください」
「俺にそんなことをさせるのか」
「あなたの家の風呂でしょう」
「お前の家でもある。妻が掃除するのが当たり前だ」
「今は別々に暮らしています。弁護士から手紙が届いているはずです」
啓司は手紙なら読まずに置いてあると言い、澄子が勝手に出ていったのだから、弁護士へ返事をする必要もないと続けた。洗濯機の使い方が分からない、近所の人に妻はどうしたと聞かれた、里芋を煮たら鍋を焦がしたと、声を高くして並べていく。澄子は一つずつ答えそうになり、食卓の端へ置いた帳面を見た。
帳面には、前の晩に書いた買い物の記録が残っていた。味噌二百九十八円、豆腐七十八円、鯖二切れ二百五十円と並び、その下に「明日は石蕗の枯れた葉を切る」とある。澄子は鉛筆を持ち、「排水口は啓司の問題」と書き足した。
「あなたが困っていることは分かりました。でも、私が戻って片づけることはできません」
「できないんじゃない。したくないだけだろう」
「はい。もう、したくありません」
電話の向こうが静かになった。澄子は味噌汁を一口飲み、やはり少し濃いと思った。啓司は息を吸い込む音を立ててから、妻なのに冷たい、四十七年も食わせてやった、祥子に洗脳されたのだと、同じ言葉を形を変えて繰り返した。
「お前は変わった。前はそんな女じゃなかった」
「変わりました」
「開き直るな。元に戻れと言っているんだ」
「元に戻るために出てきたのではありません」
啓司は今夜までに考え直せと言い、澄子の返事を待たずに電話を切った。受話器から短い音が何度も聞こえたため、澄子は終了ボタンを押し、食卓へ戻した。焼き飯は冷え、卵の表面が少し硬くなっていた。
食べ終えたあと、澄子は流しに立って椀を洗った。腹の奥に硬いものが残り、スポンジで同じ場所を何度もこすっていたため、椿の花の上ばかり泡が集まった。水を止めると、隣の庭で落ち葉を掃く竹箒の音が聞こえた。
「変われと言ったり、元に戻れと言ったり、忙しい人ね」
口にしてみても、硬いものは消えなかった。澄子は洗った椀を布巾で拭き、食器棚へ置いた。庭へ出て石蕗の枯れ葉を切ろうとしたが、鋏を持つ指に力が入りすぎ、元気な茎まで一本傷つけてしまった。
その日の午後、澄子は地域センターの小さな図書室へ寄った。仕事が終わったばかりで、白いブラウスの袖には里芋の煮汁が一滴つき、茶色い染みになっていた。窓際の机では老人が新聞を広げ、その隣では赤いランドセルの男の子が図鑑を枕にして眠っていた。
「何かお探しですか」
受付にいた大庭が、返却された本を棚へ戻しながら尋ねた。澄子は哲学の棚を見ていたが、本の背表紙には長い片仮名の名前が並び、どれを選べばよいのか分からなかった。啓司に電話で言われた「お前は変わった」という言葉が、朝から耳の奥に残っていた。
「人を変える方法が書いてある本はありますか」
「ずいぶん難しい本をお探しですね。どなたを変えたいんです?」
「言うことを聞かない人です」
「澄子さんの言うことを聞かないなら、相当な人ですね」
大庭は冗談を言いながら、一冊の薄い本を棚から抜いた。表紙には髭を生やした男の横顔と、「エピクテトス」という名前が印刷されている。澄子は声に出して読み、二度目に「エピテクトス」と順番を間違えた。
「この人、何をした人ですか」
「昔の哲学者です。奴隷だった人だそうですよ」
「人を変える方法を知っていたの?」
「たぶん、反対です。自分に変えられるものと、変えられないものを分けて考えた人です」
「反対なら役に立たないでしょう。私は啓司さんに、洗濯機と排水口の掃除を覚えてほしいの」
大庭は本を開き、目次を指でたどった。自分で決められるものと、自分では決められないものを分けること。他人の考えや行動は自分のものではないが、自分が何を選ぶかは自分のものだという説明が、短い章に分けて書かれていた。
「啓司さんが掃除を覚えるかどうかは、澄子さんには決められません。でも、掃除をしに戻るかどうかは決められます」
「そんなの、ずるいわね」
「誰がですか」
「哲学者よ。人を変える方法はないって、最初に言ってしまうんだから」
澄子は本を借り、布の買い物袋へ入れた。帰りに八百屋へ寄ると、白菜が一玉百八十円で積まれていた。一人では食べ切れないため半分にしてほしいと頼むと、主人は包丁を入れながら、外側の葉は硬いから捨てると言った。
「捨てないで。細く切って油で炒めます」
「澄子さんは何でも食べるなあ」
「何でもではありません。腐ったものと、啓司さんの言い分は食べません」
「旦那さん、食べ物になったのかい」
主人が声を上げて笑い、澄子も白菜を受け取りながら口元を緩めた。袋には白菜のほかに、見切り品の厚揚げと、形の崩れた柿が二つ入った。柿は熟して指が沈むほど柔らかく、歩くたび袋の底で揺れた。
家へ戻ると、澄子は白菜の外葉を細切りにし、胡麻油で炒めた。厚揚げと内側の葉は鍋に入れ、鶏団子、春雨、茸も加えた。昆布だしが煮立つと白菜の甘い匂いが湯気に混ざり、曇った窓の向こうで石蕗の黄色がぼんやりと滲んだ。
鍋を煮ている間、澄子は食卓で借りた本を開いた。けれど、知らない言葉が多く、同じ行を三度読んでも意味が頭へ入ってこない。老眼鏡を外して目頭を押さえていると、玄関の戸が二度鳴った。
「お母さん、いる?」
祥子が紙袋を抱えて入ってきた。臙脂色のセーターに黒いスカートを合わせ、首には細かな水玉模様のスカーフを巻いている。紙袋の中には、使っていないがま口と、林檎が三つ、それから母宛てに転送されてきた郵便物が入っていた。
「いい匂い。今日は鍋?」
「白菜が安かったの。でも一人分の鍋は、具を一種類ずつ入れても多くなるわね」
「私が来ると思って作ったんじゃないの?」
「来るとは聞いていません。余ったら明日のうどんにするつもりでした」
「じゃあ、私は明日のうどんを食べてしまうのね」
澄子は取り皿を二枚出し、椿の茶碗へ飯を盛った。祥子は食卓の本に気づき、表紙の名前を声に出した。澄子が「人を変える方法は書いていなかった」と言うと、祥子は鶏団子を取りかけた箸を止めた。
「お父さんから電話があったのね」
「洗濯物と排水口を何とかしろって。里芋の鍋も焦がしたそうよ」
「それで、帰らないわよね」
「帰りません。でも、帰らないと決めるたびに、いちいち力が要るのよ」
「四十七年続けたことをやめるんだから、すぐ楽にはならないでしょうね」
祥子は鍋から白菜を取り、ふうふうと息を吹きかけて口へ入れた。熱かったらしく、頬を膨らませたまま水を飲み、澄子に笑われた。窓ガラスは湯気で白く曇り、外の冷たい風が窓枠の隙間から細く入り込んでいた。
「この人ね、他人が何をするかは、自分には決められないと言うの」
「そうね。お父さんを変えるのは難しいと思う」
「難しいではなくて、私の仕事ではないらしいわ」
「ずいぶん進歩したじゃない」
「まだ納得はしてないの。人は話せば分かるって、学校で習ったでしょう」
「話して分かる人もいる。でも、分かっても変えない人もいるわ」
祥子は、家を出る前の啓司の言葉がすべて録音されていたことを話した。弁護士はその内容を確認し、直接の連絡を控えるよう、もう一度書面を送るという。澄子は鍋へ春雨を足そうとしたが、祥子に多すぎると止められ、袋の口を輪ゴムで閉じた。
「お父さんは、弁護士の手紙を読まないって言っていたわ」
「読むかどうかは、お父さんが決めることよ。こちらは送った記録を残せばいいの」
「大庭さんと同じことを言うのね。二人で打ち合わせたの?」
「してないわよ。それが普通なの」
「私の周りは、いつから哲学者だらけになったのかしら」
食後、二人は熟しすぎた柿をスプーンですくって食べた。果肉は蜜のように柔らかく、橙色の汁が器の底へたまった。祥子は甘すぎると言い、澄子は安かったのだから文句を言わないよう注意した。
食器を洗い終えるころ、電話がまた鳴った。表示された番号は啓司のものだった。澄子の手には洗剤の泡がつき、祥子は取らなくていいと首を振った。
呼び出し音は十回で止まり、すぐにまた鳴り始めた。澄子は布巾で手を拭き、受話器を取った。祥子が録音機を出そうとすると、澄子は片手で制した。
「もしもし」
「昼間は電話を切りやがって。弁護士からまた手紙が来たぞ。こんなものを送らせるな」
「送るかどうかは、弁護士と相談して決めます」
「俺を悪者にするつもりか。近所には、お前が勝手に男を作って出ていったと言うからな」
澄子の指が、受話器のコードを強くつかんだ。四十七年間暮らした町で、買い物をし、子どもを育て、町内会の掃除にも出てきた。その人たちが啓司の言葉を信じ、自分を指さすところを思い浮かべると、鍋の湯気で温まっていた背中が急に冷えた。
「言わないでください」
「困るなら帰ってくればいい。明日までに帰れば、今回のことはなかったことにしてやる」
「あなたが何を言うかは、私には止められないのですね」
「当たり前だ。俺の口だぞ」
「そうですね。あなたの口です」
啓司は澄子が言い返さなかったため、勝ったと思ったらしかった。明日の夕方に迎えに行くから荷物をまとめておけと言い、以前より落ち着いた声になった。澄子は窓辺の石蕗を見ながら、受話器を握り直した。
「でも、私が帰るかどうかは、私が決めます。帰りません」
「近所中に言ってもいいんだな」
「それを決めるのはあなたです。私が事実を説明するかどうかは、私が決めます」
「四十七年も夫婦だったのに、そんな冷たい言い方ができるのか」
「四十七年夫婦だったから、あなたがどんな言い方をすれば私が戻ると思っているか、よく分かります」
澄子は、今後の連絡は弁護士を通すよう、ゆっくり伝えた。啓司がまだ何か言っている途中で電話を切ると、手の中に受話器の角が食い込んだ跡が残っていた。祥子は何も言わず、冷めた番茶を新しいものへ替えた。
「電話、切れたわ」
「うん。自分で切ったわね」
「人が話している途中で切ったのは、初めてよ」
「どうだった?」
「行儀が悪いわ。でも、便利ね」
澄子は温かい番茶を飲み、両手で湯呑みを包んだ。焙じ茶の香りが鼻へ抜け、指先へ少しずつ温度が戻った。祥子は笑いながら、母の空いた器へ残りの柿を一匙入れた。
翌朝、澄子はいつもどおり六時半に起きた。風は冷たかったが空は晴れ、縁側に干した靴下が左右違う方向へ揺れていた。澄子は黄土色のセーターに黒いズボンをはき、庭へ出て、前日に傷つけた石蕗の茎へ細い支柱を添えた。
傷は元に戻らず、茎をまっすぐにすることもできなかった。それでも紐を緩く結べば、風で折れるのを防ぐことはできる。澄子は枯れ葉だけを選んで鋏で切り、元気な葉には触れなかった。
朝食には、昨夜の鍋へうどんを半玉入れた。白菜はさらに柔らかくなり、春雨は汁を吸って太くなっていた。澄子は椿の茶碗へうどんをよそい、蜜柑の皮と刻み葱を載せた。
食後、帳面を開き、昨日書いた「排水口は啓司の問題」の下に、新しい言葉を加えた。啓司が何を言うか、何を覚えるか、誰に何を話すかは、自分には変えられない。その下へ線を引き、自分が電話を取るか、帰るか、今日をどう使うかは、自分で選べると書いた。
「エピクテトスさん、これでいいですか」
返事はなかった。澄子は本を閉じ、センターへ持っていく赤いエプロンを布袋へ入れた。哲学者が何も答えないことも澄子には変えられなかったが、返却日までにもう一度読むことは、自分で決められた。




