第17話 母はまだ苗字を決めていない
第17話 母はまだ苗字を決めていない
十二月の初め、弁護士事務所の窓から見える銀杏並木は、半分ほど葉を落としていた。歩道の隅には黄色い葉が雨に濡れて重なり、通る車のタイヤが水を跳ねるたび、黒い筋ができた。澄子は薄紫色のブラウスに灰色のカーディガンを重ね、膝の上で布の鞄を両手で抱えていた。
机の向こうには、啓司側から届いた回答書が置かれていた。預貯金はほとんど残っていない、家の維持費を負担してきたのは啓司である、別居は澄子の一方的な意思によるものだと書かれている。担当の宮原弁護士が一枚ずつ説明する間、澄子は鞄の持ち手についた毛玉を親指でむしった。
「先生、本当にお金がないのなら、調べても出てこないでしょう」
「ないと書いてあることと、ないことは同じではありません。まず、資料を開示してもらいます」
「啓司さんは通帳を見せないと思います。私にも、給与明細を触るなと言っていましたから」
「見せたくないと言えば済むものではありません。婚姻中に築いた財産を確認するため、預金口座や保険、不動産に関する資料を求めます」
祥子は隣の椅子で手帳を開き、必要な資料を書き留めていた。夜勤明けらしく、紺色のコートの襟には髪が一本張りつき、目の下には薄い影がある。澄子は娘の横顔を見ると、話の途中にもかかわらず、鞄から蜜柑を一つ取り出した。
「祥子、これを食べなさい。朝から何も食べていないでしょう」
「今は打ち合わせ中よ」
「蜜柑くらい、音はしないわよ」
「皮の匂いが部屋中に広がるでしょう。あとで食べるから、しまって」
澄子は蜜柑を鞄へ戻し、宮原に頭を下げた。宮原は気にせず、今後の生活費を決めるため、年金額とセンターでの収入も確認したいと言った。澄子は年金の通知書と、三千円の謝礼が記された紙を透明な袋から取り出した。
「仕事は毎月同じ額ではありません。先月は六千円で、今月は九千円になるそうです」
「少しずつ増えていますね」
「生姜を入れた煮物が評判になったんです。それから、余った大根の皮できんぴらを作りました」
「お母さん、今は献立の話じゃないでしょう」
「収入が増えた理由を説明しているのよ」
宮原は口元を緩め、九千円も大切な収入だと書類へ記した。けれど、それだけで家賃も光熱費も賄えない。年金、仕事の収入、預貯金、財産分与、将来必要になる医療費まで、いくつもの数字を並べなければ、澄子が一人で暮らし続けられるかは分からなかった。
その日の帰り、澄子は駅前の喫茶店へ祥子を連れていった。店の窓には白い綿と金色の星でクリスマスの飾りが作られ、入口の鉢には赤いシクラメンが並んでいた。澄子は小倉トーストと薄いコーヒーを頼み、祥子は温かい卵サンドを両手で包んだ。
「もう帰ったほうが楽なのかしら」
澄子がバターの染みたパンをちぎると、餡が指へついた。祥子はすぐには答えず、紙ナプキンを一枚取って母の前へ置いた。店内では古い洋楽が流れ、厨房から食器の触れ合う音が聞こえていた。
「楽だと思うの?」
「朝ご飯も夕飯も、今までどおり作ればいいだけよ。弁護士さんのところへ来なくてもいいし、通帳の数字を何度も見なくてすむわ」
「お父さんの言うとおりに戻れば、話し合いは終わるかもしれない。でも、前の暮らしがまた始まるのよ」
「前は四十七年も続けられたでしょう」
「続けられたことと、続けたいことは違うって、お母さんが言ったんじゃない」
澄子は指についた餡を紙ナプキンで拭い、小倉トーストをもう一口食べた。甘い餡のあとにコーヒーを飲むと、焦げたような苦みが強くなった。窓の外では、銀杏の葉を踏んだ若い母親が、滑りそうになった子どもの腕を引いていた。
「私は欲張りになったのかしら。啓司さんの家で暮らしていたころは、家賃の心配なんてしなかったもの」
「欲張りじゃない。暮らす場所を自分で選ぶには、お金が必要なの」
「お金を欲しがると、悪い妻だと言われそうで嫌なのよ」
「誰に?」
「啓司さんに。近所の人にも」
「それはお母さんには変えられないことでしょう」
エピクテトスの本で読んだことを娘に返され、澄子はコーヒーカップの取っ手へ指をかけたまま黙った。祥子は卵サンドの端からはみ出した胡瓜を落とし、皿の上で箸を探してから、喫茶店に箸がないことへ気づいた。二人は顔を見合わせ、澄子が先に笑った。
交渉は年を越しても続いた。啓司は預金口座の一つを開示せず、生命保険は自分の金で払ったものだと主張した。家については澄子に権利がないと言いながら、固定資産税と修繕費の半分を負担するよう求めてきた。
「権利はないけれど、支払いだけ半分なの?」
一月の打ち合わせで、澄子は回答書を持ったまま宮原へ尋ねた。外では椿の花が冷たい風に揺れ、事務所の暖房は乾いた音を立てていた。テーブルには宮原の助手が出した緑茶があり、表面に細かな茶柱が一本浮いていた。
「先方の主張には矛盾があります。こちらは、家の評価額と住宅ローンの有無、取得時の資金を整理して回答します」
「難しい話ね。半分なら、いいものも悪いものも半分にすればいいのに」
「そのために資料が必要なんです」
「資料を出さない人と、どうやって半分にするの?」
「出してもらうための手続きを進めます。時間はかかりますが、一つずつ確認しましょう」
澄子は何度も息を吐き、鞄から小さな飴を出した。蜜柑味の飴は個包装の端がうまく切れず、祥子が横から手を伸ばして開けた。澄子は子ども扱いしないよう文句を言ったが、飴を口へ入れると、乾いていた喉に酸味のある甘さが広がった。
年金事務所へも足を運んだ。婚姻期間中の年金記録を確認し、離婚後の年金分割について説明を受けると、澄子は聞き慣れない言葉を帳面へ何度も書いた。記録の一覧には四十七年という年月が数字で並び、啓司が働いていた時期も、澄子が子どもを育て、姑を病院へ連れていっていた時期も、同じ細い行の中へ収められていた。
「私が家にいた年月は、ここには書かれていないのね」
「婚姻期間として確認されます。制度の扱いはこちらの資料で説明しますね」
窓口の職員は青いパンフレットを開き、指で該当する箇所を示した。澄子は理解できないところへ付箋を貼り、説明をもう一度頼んだ。後ろの待合席では赤ん坊が泣き、その母親が林檎味の赤ちゃんせんべいを渡してあやしていた。
「何度も聞いて、すみません」
「大丈夫ですよ。大切な手続きですから、分かるまで聞いてください」
「昔は、役所の人に二度聞くと怒られると思っていたの」
「今日は怒りません。三度でも四度でも聞いてください」
澄子は三度目の説明を聞き、ようやく自分の言葉で帳面へ書き直した。祥子が代わりに理解してくれても手続きはできたが、自分のこれからの年金なので、自分でも分かっておきたかった。帳面には先月の煮物の分量も書かれており、年金の計算の横へ「里芋二十四人分、だし千二百」と並んでいた。
祥子との暮らしも、いつも穏やかに進んだわけではなかった。ある朝、夜勤を終えた祥子が澄子の部屋へ来ると、台所から焦げたパンの匂いが漂っていた。時計は七時半を過ぎ、澄子は水色の割烹着を着たまま、目玉焼きとサラダを二人分並べていた。
「お母さん、寝てないの?」
「少しは寝たわよ。祥子が八時ごろ来ると思ったから、六時に起きたの」
「夜勤明けの日は待たなくていいって言ったでしょう」
「食べるかと思ったの」
「食べるかどうかは、私が決めるの。私のために起きていたら、お父さんのときと同じじゃない」
澄子の手が止まり、フライ返しが皿の縁へ当たった。黄身の端が破れ、黄色い汁が白身の上へ細く流れた。澄子はフライ返しを流しへ置き、焼きすぎて黒くなったトーストを見つめた。
「あなたは、お父さんとは違う」
「違うよ。でも、お母さんにとっては、同じになることがあるんだよ」
「私は好きで作ったの。命令されたわけではないわ」
「私が喜ぶと思って、眠らずに待っていたんでしょう。それで私が食べなかったら、せっかく作ったのにって言うでしょう」
「そんなこと、言いません」
「顔には出るよ。お母さん、焼いた魚を残されると、皿を洗う音が大きくなるもの」
祥子の声が強くなり、澄子は唇を結んだ。外では風が吹き、縁側に干した布巾が窓ガラスを二度叩いた。食卓には二人分の朝食が並んでいたが、祥子は上着も脱がず、澄子も椅子に座らなかった。
「では、もう何も作りません。祥子は自分で好きなものを食べればいいでしょう」
「そうやって、全部かゼロかにしないでよ。頼んだときは作ってほしいし、一緒に食べる約束をした日は待っていてほしい。でも、頼んでいない日は、自分のために寝て」
「あなたは、私のためを思って言っているのでしょう」
「そうだよ」
「啓司さんも、私のためだと言って、外で働くなと言ったわ」
祥子は反論しようとして口を開き、何も言わずに閉じた。母の健康を守りたいという自分の正しさが、母の起きる時間や食事を作る相手まで決めようとしていた。祥子は紺色の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
「ごめん。私も、お母さんの行動を決めようとしていた」
「私も、祥子が喜ぶはずだと決めていたわ」
「トースト、食べてもいい?」
「焦げているわよ」
「それは見れば分かる。でも、お腹は空いている」
二人は椅子へ座り、焦げたトーストの黒いところをバターナイフで削った。削りかすが新聞紙の上へぱらぱらと落ち、香ばしさを通り越した苦い匂いが鼻へ届いた。目玉焼きの黄身は固まりかけていたが、醤油を少しかけると、祥子は二口で半分を食べた。
食後、二人は広告の裏へ新しい暮らしの決まりを書いた。頼まれていない食事を相手のために作らないこと、帰宅時刻を監視しないこと、一人でいたい日は理由を尋ねないこと。けれど、冷蔵庫の中で傷みそうな豆腐があるときは知らせることと、洗濯物を取り込めないときは頼んでもよいことも付け加えた。
「この決まり、破ったらどうする?」
「罰金にする?」
「家族で罰金は嫌よ。啓司さんみたい」
「じゃあ、破ったほうが相手にコーヒーを淹れる」
「私が破ったら、祥子が得をするじゃない」
「罰じゃなくて、やり直す合図でいいのよ」
澄子は鉛筆で「やり直しのコーヒー」と書き、冷蔵庫へ磁石で留めた。磁石は地域センターでもらった赤い達磨の形で、紙の端から片目だけがのぞいている。その日のトーストは二人で食べ切ったが、焦げを削った新聞紙だけは、夕方まで食卓の隅に残っていた。
春が近づくころ、啓司側からようやく財産の資料が開示された。預貯金と保険、不動産の評価を確認し、双方の主張を調整すると、最初に想定していた金額より少なくなった。澄子は数字の並んだ合意案を見て、老眼鏡を外した。
「これで終わりにしたら、私は負けたことになりますか」
「勝ち負けではありません。澄子さんが納得できるかどうかです」
宮原は湯気の消えた茶へ手をつけず、澄子の返事を待った。祥子も口を挟まず、膝の上で両手を組んでいる。窓辺の鉢には桃色のヒヤシンスが咲き、濃い香りが暖房の風に乗って部屋へ広がっていた。
「望んだ分を全部もらえたわけではないのですね」
「はい。ただし、預貯金の分与、住まいに関する清算、年金分割を含めれば、今の生活を続けられる見通しは立ちます」
「仕事を休んだら?」
「その場合も想定して計算しています。家計は余裕が大きいとは言えませんが、すぐに暮らせなくなる数字ではありません」
「では、終わらせます。足りない分まで啓司さんと争って、私の時間を全部使うほうがもったいないわ」
澄子は合意案の最後まで読み、自分の名前を書く場所を指で確かめた。四十七年の結婚生活が数枚の紙で終わるわけではないが、法律上の関係を終わらせるには、この紙へ署名する必要がある。澄子はボールペンの芯を一度出し入れしてから、ゆっくりと署名した。
離婚届を提出する朝、雨は夜のうちに上がっていた。庭では石蕗に代わって沈丁花のつぼみが膨らみ、縁側には洗ったばかりの白いブラウスが干されていた。澄子は濃紺のスーツに薄桃色のシャツを合わせ、鏡の前で襟を二度直した。
食卓には離婚届と戸籍に関する書類が置かれていた。現在の姓を使い続けるか、結婚前の森川へ戻るかを決めるための説明を読み、澄子は何度も同じ箇所へ目を通した。祥子は黒いジャケットを着て、母の向かいで冷めた紅茶を飲んでいた。
「お母さん、旧姓へ戻るの?」
「藤野のままでも、結婚前の森川へ戻っても、私が四十七年生きた事実は変わらないわね」
「仕事先では藤野さんで通っているものね。でも、森川澄子も悪くないと思う」
「森川に戻ったら、若いころの私まで戻ってくるのかしら」
「苗字だけで二十歳に戻れたら、役所に長い列ができるわよ」
澄子は笑い、離婚届の端を揃えた。藤野という姓には、子どもを育て、姑を見送り、地域で暮らした年月がついていた。森川という姓には、母が縫った紺色のワンピースを着て働きに出た朝や、父と喧嘩して納屋へ隠れた記憶がついていた。
「どちらにするの?」
「まだ決めていない」
「今日、決めなくてもいいの?」
「決めなきゃいけないことだけ、今日決めるわ」
役所で手続きを終え、新居へ戻ったのは昼前だった。澄子は濃紺の上着を脱いで椅子の背へ掛け、椿の茶碗を二つ食卓へ置いた。祥子が飯を炊くのかと尋ねると、澄子は茶碗へ淹れたてのコーヒーを注いだ。
「それ、ご飯の茶碗よ」
「割らずに使えれば、何を入れてもいいの」
「コーヒーの匂いがつくでしょう」
「私の茶碗だから、ついてもいいのよ」
冷蔵庫には、澄子が自分で選んだ甘塩の鯖が二切れ入っていた。朝には似合わないと祥子に言いながらグリルへ入れると、皮から脂が落ち、狭い台所へ香ばしい煙が広がった。換気扇を回しても匂いは消えず、干していた白いブラウスまで鯖の匂いになった。
「離婚した日の昼ご飯が鯖なの?」
「お祝いに尾頭つきの鯛でも買えばよかった?」
「鯖でいい。コーヒーとは合わないけど」
「それぞれ好きなものを並べれば、合わない日もあるわよ」
二人は鯖を半分ずつ食べ、コーヒーを飲んだ。皮はぱりぱりに焼け、身にはほどよく脂が乗っていた。味噌汁は作らず、冷蔵庫に残っていた蕪の甘酢漬けを小皿へ盛った。
翌週の朝、澄子はいつもより明るい山吹色のブラウスを着た。鏡の前で灰色の髪を櫛で整え、口元へ薄く紅を引いたが、右側だけ濃くなったため、ティッシュで押さえた。玄関では黒い革靴の踵を指で直し、布の鞄を肩へ掛けた。
鞄には、初めて三千円を受け取ったときの古い封筒と、自分名義になった通帳が入っていた。封筒の角は曲がり、表に書かれた名前の青いインクも少し薄くなっている。澄子は中に一万円札を一枚入れ、ファスナーを閉めた。
「今日は夕飯、いらないから」
台所でコーヒーカップを洗っていた祥子が、濡れた手を布巾で拭きながら玄関へ来た。祥子は休日で、灰色のスウェットに赤い靴下を履いている。片方の靴下だけ踵がねじれ、横へ回っていた。
「センターの仕事?」
「違う」
「誰かと会うの?」
澄子は答えず、靴の踵へ指を入れて足を収めた。祥子は、何時に帰るのか、どこで食べるのか、薬は持ったのかと続けそうになった。冷蔵庫に貼られた「やり直しのコーヒー」という紙が目に入り、開きかけた口を閉じた。
「戸締まりだけ気をつけてね」
「子どもじゃないわ」
「分かってる。私も出かけるかもしれないから言っただけ」
「そう。祥子も、夕飯はいらないの?」
「まだ決めてない」
澄子は玄関の戸へ手をかけた。庭では白い水仙が咲き、冷たい風に細い葉を揺らしている。縁側には洗った布巾が三枚並び、台所の流しには二人分のコーヒーカップが伏せてあった。
「どこへ行くの」
祥子は最後に一度だけ尋ねた。澄子は戸を半分開け、外の明るさに目を細めた。角を右へ曲がれば駅、左へ行けば商店街、そのまま進めば川沿いの遊歩道へ出る。
「まだ決めてない。外へ出てから考える」
澄子は一人で門を出た。祥子は戸口に立ち、山吹色の背中が角を曲がるまで見送ったが、あとを追わなかった。母がどの苗字を選ぶのか、今夜どこで夕飯を食べるのか、祥子はまだ知らなかった。
それでも、祥子は米を研がず、味噌汁のだしも取らなかった。自分の昼食には、昨日の残りの食パンを焼き、林檎を半分だけ切った。母が帰るまで食卓を整えて待つ代わりに、自分のためのコーヒーを一杯だけ淹れた。




