第三夜 すずのね
かがり焚き 鈴の音秘めて 息を詰め
み柱立てよ 無きをやり過げ
十八時三十分。
木造の舞殿の舞台袖で、佐々木凛は裾の長い白衣と緋袴の重みにうんざりしながら、耳元の片耳イヤホンを押し込んだ。
夕暮れ時だというのに湿気と熱気が肌にまとわりつく。普段なら着古したオーバーサイズのTシャツとショートパンツで、クーラーの利いた自宅のDTM作業机にかじりついている時間だ。
右手に持った真鍮製の神楽鈴はずしりと冷たく、掌の汗で滑りそうだった。
「……たくみ。聞こえてる? これ、マジでいつまで着てればいいのさ。汗で張り付いて最悪なんだけど」
マイク付きのインカムコードを指先で弾きながらぼやくと、一瞬遅れて拓海の声が返ってきた。
『悪い、ほんとごめん、凛。ドタキャンしたバイトの子のパートはあと三十分で終わりだから。商店街のおじさんたちも、舞殿に本物の巫女装束が立った方が、マッピングの映えが全然違うって喜んでるんだよ』
「……私は舞台音響であって、コスプレ代行要員じゃないんだけど。外で暑くても音響のフェーダー触るほうが百倍マシ」
『音のオートメーションは俺のPCから走らせてるから大丈夫。凛が作ったアンビエントのループ、境内の音響に良く馴染んでるよ。太鼓の音と混ざって、めちゃくちゃエモい空間になってる』
「そうじゃなくって」
二人の会話に割り込むように、無機質な合成音声が流れた。
『周囲騒音レベル、74デシベル。太鼓の基底周波数を基準同期信号としてロックしました。アンビエント音源のサイドチェーン圧縮を有効化しました』
これは、拓海が嬉々として導入した自動議事録兼リアルタイム音響調整アプリの音声だ。
文系学生のくせに、AIが生成したコードと海外のフォーラムの知識だけで百台のLiDAR端末をメッシュに組み上げたらしい。
杉の木々に吊り下げられたそれらが、いま参道を歩く人々の位置をスキャンして、凛の作った音楽と連動して青白い光の波紋を地面に落としている。
「……なんかさ」
凛は舞殿の朱塗りの欄干から、薄暗くなり始めた境内を見下ろした。
「太鼓の音、小さくなってない?」
『え? いや、音量メーターは規定値のままだよ。気のせいじゃない?』
「そうじゃなくて……。蝉。カナカナ、全然しなくない?」
『あー、それじいちゃんも言ってた。今日は未だ暑いからだろ。涼しくなったら鳴きだすって。それより凛、もうすぐ奉納舞の本番パート入るから頼むよ。位置について』
通話が一方的に切れた。
凛は小さくため息をつき、金色の神楽鈴を持ち直した。
拓海の祖父、泰三から教えられた手順が頭をよぎる。
——舞殿の中央に立ち、東、南、西、北の順に四方を向き、太鼓の拍子に合わせて三度ずつ鈴を振り鳴らす。
『鈴の音は、飾りの伴奏じゃない。鈴の音が鳴ることで神社の境内を人間側の世界として繋ぎ止められるんだ。だから、絶対に拍子を崩すな』
泰三はそう言って、バイトがドタキャンしたと知ってから何度も練習させられた。
「……オカルト爺め」
凛は悪態をつきながら、舞台の中央へと進み出た。
提灯の灯りと、拓海が仕掛けた淡い青色のLEDプロジェクションが、檜の舞台を水底のように青く染め上げている。確かに綺麗だ。よくこんな空間を学生が創ったものだ。
参道に集まった観光客や地元の人々が、物珍しそうに舞殿を見上げ、スマホのカメラを一斉に向けた。
「……貸しだからね、拓海」
十八時四十二分。
境内のスピーカーから、凛自身が組み上げた浮遊感のあるシンセサイザーの和音の音が大きくなってきた。
高周波のうねりが、和太鼓のドンドンという乾いた打音の隙間を埋めていく。
凛は扇を広げてゆっくりと舞い始めた。
右手の神楽鈴を掲げ、東を向く。
シャラン、シャラン、シャラン。
澄んだ鈴の音が夜気に響く。
ところが。二方位目の南を向いた時、凛の耳元のインカムから流れるBGMのリズムに、嫌な引っかかりを感じた。四分音符の裏拍に、自分が打ち込んだ覚えのない余分な低音が混ざっている。
ドッ、という心臓の鼓動のような重いノイズ。
(なにこれ……? 拓海がエフェクト足した?)
シャラン、シャラン、シャラン。
意識が耳元の音に引っ張られた。
扇を返すタイミングが遅れる。西を向くべき足の運びがもつれ、慌てて鈴を振った。
シャラン——
鳴らした瞬間、スピーカーの重低音が不自然に大きくなって、鈴の高音をすっぽりと飲み込んだ。
音が、消えた。
鈴の音の高音だけが、まるで真空の部屋の中に閉じ込められたように聞こえない。凛の耳元にすら届かない。
『舞殿エリアの音響ログ。神楽鈴の拍子に微細な遅延を検出。設定シーケンスとの不一致、1.42秒』
イヤホンから、AIの無機質な声が告げてきた。
『警告。舞殿マイクの入力波形に位相の反転を検出。音響が相殺されています』
空気が凍りついたように感じた。
境内のざわめきが、太鼓の音が、遠くの出店の笑い声が、まるで水中に潜った時のように輪郭を失っていく。
凛の背筋に、氷水を流し込んだような悪寒が走った。
「え?」
「止めろォッ!!」
その静寂を裂いて、舞殿の階段を駆け上がってくる足音が響いた。
白衣と袴を乱した泰三だった。
七十を過ぎたとは思えない勢いで舞台に駆け上がった泰三は、鬼気迫る形相で凛の手首を掴んだ。
「鈴を止めろ! 手順を違えたな! 音の隙間が出来た……彼らに、気づかれたぞ!」
「痛っ……! な、何するのよ、離して!」
泰三の怒声と凛の悲鳴に、観客席からどよめきが起きた。
参道の端から、タブレットを抱えた拓海が血相を変えて走ってくるのが見えた。
「じいちゃん! 何やってんだよ、本番中だぞ!」
「拓海、見えんのか! 社殿の裏を見ろ! もうそこまで来てるぞ!」
泰三が震える指で、暗闇に沈む本殿の裏手を指差した。
そこは拓海が指定したジオフェンスによって、光が一切届かない。
ところが、風もないのに杉の枝が不自然に揺れている。
次の瞬間、拓海の耳元のインカムが、けたたましいアラート音を鳴らした。
『近接センサー反応。ジオフェンス境界の内側から外側へ、光を吸収する輪郭が移動しています。推定速度:徒歩』
『LiDARアレイ041番、障害。空間の吸光率が100%に達しました』
「なんだよ、これ。プログラムのミスか……?」
拓海が画面を見つめて立ちすくむ。
泰三は腕を伸ばして、拓海の肩を掴んだ。
「儂が引き受ける。三人だ……昔からそう決まっている。だが拓海、お前は絶対にその機械の——」
泰三の言葉が、ふっと途切れた。
声が小さくなったのではない。声を出していた泰三が、急にその場からいなくなったようだった。
泰三の輪郭が、舞台を照らす青いプロジェクションの光に透け始め、泰三の体が希薄になっていく。
「え?……じいちゃん?」
拓海が手を伸ばしたが、その指先は泰三の白袴をすり抜け、何の手応えも掴めなかった。
泰三は何かを叫ぼうと口を大きく開いたが、そこからは何も聞こえない。
次の瞬間。泰三の姿は、最初からそこに誰も立っていなかったかのように、光に溶けて消えた。
舞殿の上には、凛と拓海だけが取り残された。
観客たちは何事もなかったかのように舞殿を見つめ、青い光の波紋にスマホを向けている。人間が一人、目の前で消えたというのに、驚く者も、騒ぎ立てる者も一人もいない。
皆、この異常を認識していない。ただ「美しい光のショー」として楽しんでいた。
「……たくみ」
凛の声が震えた。
「今の……なに? おじいちゃん、どこ行ったの……?」
「わ、分かんない……。カメラの残像か? いや、でも……」
拓海が青ざめた顔でタブレットを操作しようとしたその時、舞台の下から陽気な足音とともに、缶ビールを片手にした山田がひょっこりと顔を出した。
「いやあ、拓海くん! 大成功じゃない! 光のグラデーション、めちゃくちゃ幻想的だよ!」
山田は満面の笑みで、舞台の縁に手をかけて身を乗り出してきた。
これまで見せていた斜に構えた態度はどこへやら、興奮で紅潮した顔をして拓海の肩を親しげに叩く。
「SNSでも『幻想的すぎる』『青梅の山奥に映えスポット』ってすごい勢いで動画が回ってるよ。いやあ、俺もさ、娘のために自然豊かな環境で生活しようって引っ越してきたけどさ、こういう地域の熱気って良いよね!良いね!俺も本気で手伝うよ。次の展開、俺に任せておきなさい!」
拓海は呆然としたまま、山田の顔を見つめた。
無意識に言葉がこぼれ落ちる。
「……山田さん。娘さんはどうしたんですか?」
山田は一瞬、きょとんとした顔をした。
そして次の瞬間、ハッハッと声を上げて笑った。
「何を言ってるんだよ、いるさ! さっきまで下で綿あめ食ってた結依が……」
山田はそう言って、参道のほうを振り返った。そこで、山田の軽薄な言葉がピタリと止まった。
山田の視線の先は、色鮮やかなスーパーボールすくいや唐揚げの屋台と、屋台に群がる親子連れがいる。だが、水色の浴衣を着た少女の姿は、どこにもない。
「……結依? あれ、結依って、誰だ?」
山田は首をひねりながら、手元の缶ビールをぎゅっと握りつぶした。
その山田の瞳の奥から、急速に「何か」が抜け落ちていくのを、凛は間近で見た。
「ひっ……」
凛の喉から、小さな悲鳴が漏れた。
消えている。おじいちゃんだけじゃない。
さっきまでそこにいたはずの、あの小さな女の子の存在も、父親の記憶からすら消えようとしている。
山田の表情から焦りが消え、薄気味悪いほど平べったい笑みが戻ってくる。
「山田さん、……娘さんは?」
拓海はもう一度尋ねた。凛は、その回答が分かってしまった。
「おいおい、拓海くん。俺は離婚調停中だけど、娘なんかいないぞ」
「……」
「……まあいいや。それより拓海くん、これを行政の観光課にどう売り込むかだけどさ……」
山田はもう、娘の名前を呼ぼうとしなかった。
探そうともせず、何事もなかったかのようにビジネスの話を続けている。
インカムの中で、AIがログを読み上げた。
『話者ID更新:[泰三] ➔ [不明話者01]』
『登録話者[泰三]の音声プロファイルが参照できません。未登録ノイズとして処理を完了しました』
凛は拓海の腕を掴んで叫んだ。
「拓海、もうやめよう! この祭り、おかしいよ! 早く、音も光も止めようよ!」
拓海は虚ろな目でタブレットの画面を見つめたまま、動かない。
「……止められないよ」
「え……?」
「今止めたら……全部失敗になる。俺の卒論も、就活も……それに、システムは自動で動いてるんだ。親機のプログラムを強制終了したら何が起きるかわからないんだ。制御出来ないメッシュネットワークが暴走するとか……」
「あんた、何言ってんの!? 人が消えてるんだよ!?」
凛は叫んだ。
腹の底から、ありったけの力で叫んだはずだった。
その声は、自分の耳にすら届かなかった。
口は開いている。喉は激しく振動している。
だけど、吐き出された声は、唇を越えた瞬間に何処かへと吸い込まれ、全く空気を振動させなかった。
観客たちは誰も舞殿の異変に気づかない。誰も壇上を指差さない。
舞台の上でどれだけ必死に動いても、周囲の目にはただ「舞殿の上が光で揺らめいている」という光景に映っている。
拓海は凛の顔を見ているが、その視線は凛ではなく、凛の後ろの闇を見つめているようだった。
「……凛?」
拓海が呟く。その声は、ひどく遠くから聞こえた。
「凛、どこ行った? おい、インカム外したのか?」
目の前にいる。
ここにいる。
拓海の腕を掴んでいる。
それなのに、掴んでいるはずの自分の手のひらに、体温がない。感触がない。
舞殿の床を照らす青い光が、凛の緋袴を、白い足袋を、静かに透過して板目を照らし出していた。
境内のスピーカーから流れるシンセサイザーの音が歪んで聞こえる。
凛が右手に握りしめていた神楽鈴が、指の間からすり抜けて、硬い床板へと落ちていった。




