第二夜 うつせみ
ひぐらし 鳴きやみゃ 宵が来る
太鼓を 叩けや 手を鳴らせ
音を 絶やせば すきまから
黒きお方が 手を招く
うつせみ一つ 隠して呑みて
三つ 祀りて 夜が明ける
四つ目数えりゃ みな消える
十八時三十分。
境内の参道は、昼間の熱気を閉じ込めたまま、屋台のソースの匂いと子どもたちの高い歓声に包まれていた。
「お兄ちゃん、これ、なぁに?」
父親の横で、結依は首を傾げて愛らしく笑ってみせた。
「……神様を呼ぶための、光の道しるべだよ」
「ふうん、いっぱい来ると良いね」
お父さんは結依の返事に満足すると、缶ビールを口にする。
その姿を見届けてから、結依はすっと笑顔を消した。口の中に、苦い味が広がっていく。
お父さんが自分を東京から連れてきた理由を、七歳の結依は全部知っている。お母さんとの裁判で「いい父親」に見せるためだ。それに。大人の前で嘘の笑顔を作らされて、変なポーズを取らされて、お金稼ぎをさせられる。自分はお父さんのアクセサリーなんだ。
『結依。meetの準備だ。パパの言う通りに笑って、元気なフリをするんだぞ』
お父さんがカメラを向ける。その時、お父さんは声が高くなる。誰かになりきったような笑顔。
通話が終わると同時に、お父さんは低く汚い音で舌打ちをして、またお酒を飲む。
お母さんは、『特別だよ』ってハンバーグを食べさせてくれた。お母さんはお腹を触りながら『貴方のためだから。新しいパパと一緒なら幸せになれるよ。今のパパからは離れて』って言っていた。お母さんはずっとお腹を優しく擦っていた。あの店で食べたハンバーグは、お母さんが家で作ってくれたものよりずっと味が濃くて、変な味がした。
どっちも、嘘つきだ。
「早く終わらないかな。……こんなの全部、なくなっちゃえばいいのに」
誰にも聞こえない声で呟きながら、結依は立ち入り禁止の黄色いテープをくぐり、暗い社殿の裏へと歩き出した。
「そうたー! 待ってよー!」
「れん、あっち! 射的の裏、なんか光ってる!」
七歳の蒼は、下駄の鼻緒で痛む親指の付け根を気にしながら、走っていく友達の背中を追った。
いつもの地元の神社なのに、今夜はまるで別の場所のようだった。杉の木の幹に巻き付けられた黒い小さな箱から、青や紫の光が生き物みたいに参道へこぼれ落ちて、歩くたびに足元で丸い波紋がふわふわと広がる。
「うわ、踏んだら色が変わった!」
「ゆあちゃん見て! 水たまりみたい!」
浴衣を着た子どもたちが、光の波紋を追いかけて飛び跳ねる。
大人はみんなスマホ越しに撮影をして「すごいね」「綺麗だね」と画面ばかり見つめていた。太鼓のドンドンという音に混ざって、どこかのスピーカーから、水の中にいるようなフワフワした音楽がずっと流れている。
「ねえ、結依ちゃんは?」
綿あめを持った芽依が、足を止めて振り返った。
「さっき、あっちの暗い方に行くの見たよ」
「えー、あっち行っちゃダメってお母さん言ってたよ。お化け出るって」
結依ちゃんは、東京から引っ越してきた女の子だ。
父親はいつも昼間からプラプラしていて、母親は家を出て行って、りこんちょうていちゅうだって、近所の大人が噂していた。
『無職の父親じゃ親権は厳しい』『子供をタレントにして稼ごうとしている』ってお母さんたちが話しているのを、蒼は聞いていた。
そんな噂は気にしないと、地域に馴染んでいるアピールをするために、結依ちゃんに水色の浴衣を着せて祭りに参加させようとしていた。
結依ちゃんは蒼と同じピンクの浴衣を着たがっていた。「こんなの着たくない」と半べそをかいて嫌がっていたのを、蒼は覚えていた。
蒼は、光が届いていない社殿の裏手を見つめた。
そこは、大学生のお兄ちゃんたちが「入っちゃダメ」と黄色いテープを張っていた場所だった。昼間でも薄暗くて、じめじめした苔の匂いがする神社の奥。
十八時四十二分。
舞殿の方から、シャラン、と澄んだ鈴の音が響いた。
その音がふっと途切れて、境内の空気が急にヒヤリと冷たくなった。
蒼は立ち止まり、首をすくめた。
さっきまでうるさく鳴いていたヒグラシの声が聞こえない。太鼓の音も、友達のはしゃぐ声も、まるで厚いガラスの向こう側に行ってしまったみたいに、急に遠く感じられた。
「……あ」
蒼は、社殿の黒い屋根の影を指差した。
立ち入り禁止のロープの向こう側、濃い闇の中に、ぽつんと誰かが立っていた。
水色の浴衣を着た女の子——結依ちゃんだった。
結依ちゃんは買ってもらったばかりの綿あめを地面に落としたまま、じっと社殿の奥の闇を見上げていた。
「結依ちゃーん! 何してんのー!」
蒼が駆け寄ろうとすると、結依ちゃんがふっと嬉しそうに笑った。
結依ちゃんの視線の先、杉の木の陰から、すっと細長い「影」が染み出すように現れていた。
黒いスーツのような服を着て、頭にツバの広い帽子をかぶった背の高い男。
顔のところだけが、周りの光を吸い込んだみたいに真っ黒で、目も、鼻も、口も見えない。それなのに、なぜかとても優しそうに、結依ちゃんを見下ろしているように見えた。
「おじちゃん!」
結依ちゃんが無邪気な声を上げて、その影に駆け寄った。
結依は怖くなかった。むしろ、その冷たくて静かな暗闇が、父親の生ぬるい息や騒々しい祭りの中にいるよりも、ずっと気楽な気分になれた。
「おじちゃん、いつもはすぐ帰っちゃうのに、今日は長〜いね!」
結依は努めて明るく口にした。そして、小さな手を伸ばして、影の黒い服に触れた。
その瞬間、パチッ、と静電気が弾けるような乾いた音が境内に響いた。
『LiDARアレイ041番、障害。……ジオフェンス境界線・社殿裏エリアに未定義の反射波を感知。……新しい話者が検出されました』
遠くの木に固定された黒い機械から、お姉さんのような機械の声が小さく漏れた。
影は結依の頭に、手袋をしたような黒い手をそっと乗せた。
(もう、疲れたよ。どこかへ連れていってよ)
帽子の下から、カナカナカナ……という、さっき消えたはずのヒグラシの鳴き声に似た、かすかな掠れ声が漏れ聞こえる。
「……い い こ だ」
影の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
ただの平らな黒い影だったものが、子どもの声に応えるように、肉や骨の厚みを持ち始め、確かな「人の形」として立ち上がっていく。
それに合わせて、結依の水色の浴衣が、その黒い指先からじわじわと色を失って、青から灰色へ、そして透明な空気へと透けていく。
「結依ちゃん……?」
蒼が息を呑んだ時、参道の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「おい、結依! 結依ーっ!」
缶ビールを片手に持ったおじさんが、息を切らしながら走ってきた。
首に巻いたタオルは汗でぐっしょり濡れ、顔を真っ赤にして参道を見回している。
「おい、お前ら! うちの結依を見なかったか? 水色の浴衣着て、綿あめ持った……」
おじさんは蒼たちの前で膝に手をつき、荒い息を吐いた。とってもお酒臭い。結依ちゃんが嫌いな息だ。
このおじさんは結依ちゃんのお父さんだ。お母さんは出ていったって結依ちゃんが言っていた。お父さんよりお母さんと一緒の方が美味しいご飯を食べれるって、もうすぐ新しいお父さんとお母さんの家に行くって言っていた。
でも、このおじさんは、結依ちゃんを探している。そんなに大事なら手を繋いでいればよかったのに。目が赤くて怖い。……あれ?結依ちゃんって誰だっけ。
蒼はおじさんを見上げて聞いてみた。
「……おじさん、誰のこと?」
「誰って……結依だよ! 山田結依! お前、結依の友達だろ。さっきまでお前らと一緒に走ってただろ!」
おじさんの声が早口で怖い。
でも、隣にいた蓮も、そうたも、きょとんとした顔で首をかしげた。
「ゆいちゃん……? そんな子、学校にいたっけ?」
「いないよ。うちのクラスにはいない」
「ふざけるな!」
おじさんは怒鳴り散らして、自分のポケットからスマホを取り出した。
「写真見せてやるよ! ほら、今日ここに来る前、神社の鳥居の前で撮った……」
おじさんは震える指で画面をスワイプした。そこには、娘を芸能事務所に所属させる為に撮った写真が山ほど収納されている。
だけど。写真フォルダを開いたおじさんの指が、ピタリと止まった。
写真スタジオで撮ったもの、映えるスポットで撮ったもの。何処かのレストランと思われるところで撮ったもの。山ほど収納された写真は、そのどれもに肝心の人物が写っていない。
山田が子供たちに見せようと思っていた画面に映っていたのは、鮮やかな朱色の鳥居と、夏の青空だけだった。
中央には誰も写ってない。鳥居の真ん中に不自然な空間だけがぽっかりと空いている。
「あれ……? なんだこれ……スマホの故障か……?」
おじさんの喉から、ひゅう、と空気が抜けたような音が漏れた。
ふと見ると、おじさんの右手の指先には、小さな水色のサンダルが片方だけ引っかかっていた。鼻緒にビーズのついた、女の子用のサンダル。
「あ、これ結依のサンダルだ! ほら、やっぱりいるじゃないか! 俺はあいつを引き取らなきゃいけないんだよ!」
おじさんはすがるようにそのサンダルを蒼たちの前に突き出した。
でも、突き出したものを見ようと寄ってみて、蒼たちは、ますます首を傾げた。
「おじさん、……何か持ってるの?」
「何って、サンダル……」
おじさんが自分の右手に視線を落とした。
すると、握りしめていたはずの水色のサンダルは、まるで最初から存在しなかった映像のように、サラサラと輪郭を崩し始めた。
重みが消える。
色が抜ける。
触れていた合皮の感触も、ビニールの匂いも、夏の夜風に溶けるようにフッと消え去り、おじさんの手のひらには何も残っていなかった。
「あ……」
おじさんの口が、ぽかんと開いた。
瞳の奥に灯っていた焦燥と恐怖が、急速に萎んで、平べったい色に塗りつぶされていく。
おじさんは、空っぽになった自分の右手をじっと見つめ、それから頭をポリポリと掻いた。
「……あれ? 俺、なんでこんなところで突っ立ってたんだっけ」
「おじさん、迷子?」
「いや……違う。なんか、勘違いをしてたみたいだ」
おじさんは力なく笑い、足元に落ちていた缶ビールを拾い上げた。
「そうだ、拓海くんだ。このプロジェクションマッピング、もっと行政に売り込めるぞ。あんな若いやつに任せられんだろ。俺がプロデュースして、でかい案件にするんだ。……あれ?プロデュースするのは娘で。そうすれば娘のことだって……いや娘じゃなくて、あの女を見返して。……いや、なんだっけ?何をプロデュースするんだっけ。……とにかく!俺がプロデュースして……」
おじさんはもう、誰の名前も呼ばなかった。後ろを振り返らず、鼻歌交じりに歩いていく。舞殿の明るい方へと千鳥足で戻っていった。
『登録話者[結依]の音声プロファイルが参照できません。未登録ノイズとして処理を完了しました』
木の上から、無機質な合成音声が小さく響いた。
十八時五十分。
蒼がふと社殿の奥へ視線を戻すと、そこにはもう、水色の浴衣を着た女の子の姿はなかった。
ただ、黒い帽子をかぶった長身の男だけが、木漏れ日のような青い光の端に立ち、境内を埋め尽くす人々を静かに、静かに見つめていた。




