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目下捜索中でございます。  作者: ユタカ
目下捜索中でございます

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契約書は風に乗って

不動産営業マン、**田所健介(28)**は、今日も今日とて戦っていた。

対戦相手は、自分自身の「握力」と「注意力の欠如」である。

「いいか田所、これはただの紙じゃない。一億円の重みがある契約書だ。一文字でも汚したり、一秒でも目を離したりしてみろ。お前の人生が『事故物件』になるぞ」

佐藤課長の言葉を背中に受け、田所は鼻息荒く現地へと向かった。

今日の契約会場は、顧客である白鳥夫人のリクエストにより、見晴らしの良いオープンカフェのテラス席である。

田所はカバンを抱きしめた。中には、完璧に整えられた契約書。

「大丈夫だ。今日は絶対に、何も失くさない」

其の一:余裕と重量感の紛失

初夏の風が心地よい昼下がり。白鳥夫人は優雅にハーブティーを啜りながら、田所の持参した契約書に目を通していた。

「素敵な物件ね。主人も喜ぶわ」

「ありがとうございます! 私も自分の家のように思い入れのある物件でして!」

田所は調子に乗った。調子に乗ると、人間は手が疎かになる。

彼はカバンから高級な万年筆を取り出そうとした、その時。

不意に、テラスを強烈な突風が吹き抜けた。

「あっ」

田所の指先から、一億円の重みがあるはずの紙束が、驚くほど軽やかに宙を舞った。

それはまるで自由を知った鳥のように、テラスの柵を越え、都会の空へと羽ばたいていった。

「あ、あ、あああ……! 待って! 戻ってきて僕のキャリア!!」

田所は椅子をなぎ倒し、柵から身を乗り出して、空高く舞い上がる「白い紙」を指差した。

其の二:威厳と現在地の紛失

「あそこだ! あのビルの間を飛んでるやつだ!!」

田所が必死に指を差したその紙の正体は、実は契約書ではなく、別の場所から飛んできた**『スーパーの特売チラシ』だった。

そこには真っ赤なデカ文字で『タイムセール! タマゴ1パック10円!』**と書かれている。

「えっ、10円!?」「あのお兄さんが指してるやつ、チラシじゃない!?」「10円よー! 追いかけなさい!」

通りかかった主婦たちが一斉にざわつき、田所の指先を「聖地」のごとく仰ぎ見て走り出す。

田所が契約書(だと思い込んでいるチラシ)を追って店を飛び出した時には、既に特売情報を掴もうとする群衆で歩道はパニック状態。

「どいてください! 僕はタマゴじゃなくて一億円を追ってるんです!」

人混みに揉まれ、看板に激突し、気がつけば彼は見たこともない路地裏の神社に迷い込んでいた。スマホを取り出そうとして、ポケットに触れたのは**「いつか使おうと思っていた、半分に折れた割り箸」**だった。

其の三:確信と重要書類の紛失

半べそで境内を彷徨っていると、高い木の枝に白い紙が引っかかっているのが見えた。

「あった! 奇跡だ!」

田所は必死に木を登った。スーツのズボンが股下から嫌な音を立てて裂けたが、背に腹は代えられない。

泥だらけになりながら、彼はついにその紙を掴み取った。

「捕まえたぞ、僕の一億円!」

勝利を確信し、彼は紙を広げた。

しかし、そこに書かれていたのは「売買契約書」でも「タマゴ10円」でもなく、達筆な筆文字で書かれた**『今週の標語:無くして気づく、物の価値』**という言葉だった。

「……神様、煽りスキルのレベルが高すぎませんか」

その時、背後から「何をやっているんだ、お前は」という氷のような声がした。

振り向くと、そこにはなぜか、お守りを買いに来ていた佐藤課長が立っていた。

其の四:平穏と生存戦略の紛失

「課長……! 助けてください、契約書が、契約書が空へ……!」

「……落ち着け。お前が指差して追いかけていたのは、さっきの風で飛んできたスーパーのチラシだ。白鳥夫人の契約書なら、風が吹いた瞬間に夫人がティーカップのソーサーでしっかり押さえてくれた」

「えっ」

「夫人は『面白い営業さんね。必死に特売を教えてくれるなんて、生活感があって信頼できるわ』と笑いながら、予備の契約書にサインをして帰られたよ。……ただ、お前が投げ捨てていったカバンは、別の風に煽られて噴水の中に沈んだがな」

夕暮れの神社。

田所は、課長から渡された「ずぶ濡れのカバン(中身は全滅)」を抱え、裂けたズボンを隠しながらトボトボと歩いた。

「……課長、すみません。でも、結果的に信頼を得られたなら、オーライですよね?」

「お前、さっきから手に持ってるその『標語』、どこで手に入れた」

「あ、これですか? 木の上に……」

「それは俺がさっき書いた、神社の奉納用の直筆サインだ。返せ。それからお前の明日のシフト、全部『大掃除』に変えておいたからな。もちろん、雑巾の場所を失くすなよ」

田所は空を仰いだ。

そこには、さっきまであったはずの「今日という日の平穏」が、影も形もなく消え去っていた。

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