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家次さんと、  作者: 斗彫
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訪問者。1

喧嘩はしちゃ駄目だと思います。

何時だって日常というものは、特段普段と変わらない、ただ過ぎ去っていくだけの一日だと、稔はそう思っていた。

梅雨が明けて数週間、少し前までは下ろしたてで硬さの有った学校指定の半そでのワイシャツが、数回の洗濯を経て今では少しこなれてきた。そんな少しの変化を伴いながら、蒸し暑さから、ばかりカラリとした暑さに変わる空気の質感が、本格的な夏の始まりを告げている。そして今日は週末の金曜であり、来週からはテスト前の全部活動停止の一週間を挟んで、その翌週には一学期末の締めくくりとなる学期末テストが控えている。そんな少し重要そうでいて、その実テストに向けての予定を立てる者を尻目に、テスト中の午後の休みを利用して遊びの予定を立てる者や、結果が出ていないのに親に怒られると愚痴を零しながらも勉強する気が無い物等、皆が皆それぞれに思い馳せ、色々な思考が混じった教室の空気は、なんだかとても統一感の無い感情で埋め尽くされていた。かといって稔もその思考から離れているかと言えば決してそういうわけではない。勉強は勿論していることは前提になってしまうが、夏休みに入って直ぐに、母と二人で北の大地に旅行に行こうという話が家の中で持ち上がっているのだ。

皆が休みを取りがちなお盆を避け、先に固まった休みを貰って親子で二泊三日の海鮮食べ放題旅行計画を、母は稔に内緒で起てていたらしい。思春期になればきっと反抗期が始まるから、今だけ一緒に遊んで欲しいな、と、控えめにパンフレットを差し出してきた母親に、稔が最初にした心配と言えばお金の事だ。親子二人、決して裕福ではない、寧ろ貧困層ともいえるだろう生活状況に働き詰めの母の身体を思うと、とてもじゃないが手放しで喜んでなど居られない。それなら旅行じゃなくて近くのショッピングモールでもと思うが、稔も言ってももうただの少年ではない。そこで母親と一緒に過ごす様を誰か知り合いに見られたら恥ずかしいのではないか、誰かにからかわれたりするのではないだろうかと、母も母なりに息子の事を考えての事らしい。嫌々でも母の我儘に付き合わされている体でもいいからと、知り合いの居ない地域に、思い出を作りに行きたいのだと、どうかな?と数か所耳を折られたパンフレットを、自らの子供相手に控えめに差し出してきた母親の優しさに、稔はなんと言葉を紡げばいいか分からないが、ギュウッ・・・・と、唇を噛み眉間に皺を寄せながら、ただ無言でウンウンと、強く首を縦に振った。そんな少しばかり歪でも決まった予定の輪郭に、テストに向けての稔自身のモチベーションも固まった。予習復習に余念はない、首尾は上々といった所か。ここで良い点を取って、母の気分も勿論、自分の評価も上げて夏休みを迎えられるのであれば、これ以上に越したことは無い。ホタテを食べて、イクラを食べて、新鮮なお刺身に煮つけにフライに白いご飯。そんな豪華ディナー付きのホテル宿泊プランに、胸が躍らないわけがない。普段できない贅沢をこれでもかと二泊三日で楽しむのだと、稔の心も下手をしたらクラスの中でも上位にランクインしていたかもしれない位には、それはもう浮足立っていた。そんなだからなのか、そうでないのか、稔は何時も通る御勝手 の手前、まるで木々の陰に隠れる様に身を潜めていた細身の男に気が付いていなかったのだ。


「・・・・ちょっとすみませ~ん。ぼうや、君此処の家の子かい?」

「・・・・・・え、・・・・・ぁ・・・・・、」


御勝手に手を掛けようと腕を伸ばした稔のすく傍に、突然音も無く姿を現した男は、するりと戸と稔の間に体を差し込んで、目の前に顔を突き出す様にして声を掛けてきた。


「っぃ、い、いいえ!僕はこの家の子じゃなくて、で、でも」

「ここのお家の子じゃないんだねぇ~。じゃあ勝手に余所様の家に入ったらいけないと思わないかい?普通は玄関から入るよね?玄関の場所が分からないのかな?それとも実は勝手に通ってて、通学道のショートカットにしてるとか?それは駄目なんじゃないかなぁ?不法侵入になっちゃうし、下手したら訴えられたり・・・・、此処の住人さん気難しい所があってねぇ、親御さんに迷惑になるよ?」


ダークグレーの張りの有るスーツに、後ろに撫でつける様に固められた髪。上から下まで、全身を隙無く纏まらせた細身の長身の男は、初対面にもかかわらず自らの意見のみを早口でまくし立てては、何処かバカにしたような眼をして、稔の言葉を遮った。常識の在るお兄さんがいて良かったね、ここは危ない所なんだよと続け様に言い募る男は、まるで止めてやった自分に感謝をしろとばかりに稔が如何に世間知らずで愚かなことをしていたのかを、聞いてもいないのに得々と説教宜しく口にし続ける。


「待って!待ってください!僕はこの家の人から許可を得ています!」

「ここの家の人から?・・・・・ハッ!君、ここの家の人の事知らないのかい?」

「知ってます!優しい人で、僕は入っていいって言われてます!」

「優しい?この家の人が??君馬鹿なんじゃないのかい?その言い分だと会ったことないの丸分かりだよ!!嘘を吐くならもっとちゃんと付いたらどうだい?せめて家主の名前くらい知ってるのが普通だろ。これだから常識の無いガキは。」


そう言い切った男に、稔は少しの恐怖と葛藤を抱えながらも、決して家次の名前を口にはしなかった。この際自分の事はどうでも良いが、どこぞの誰とも知らない相手にいくら知り合いだと言えども、勝手に名前を出すのは違う、それは家次に対してあまりにも失礼であり、そしてそこからなにか不用意に相手に有利になり得る情報を渡すことになりかねないと思ったからだ。自分はどれだけ馬鹿にされても、貶されても構わないが、一人きりで母の帰りを待つ、そこにしか居場所の無かった稔に安心できる居場所をくれた家次は、かけがえのない大きな存在だ。いくら重度のシスコンで、回り物と煙草好きで、自転車暴走族で、真面に働いていないとしても、この場所を、此処を、稔の居場所にしてくれた家次の優しさなら、稔はチカの次位には重々理解していると、そう思っているからだ。


「もういいよぼうや、虚勢は止めておこう。今ならお兄さんが一緒に行って、家主さんに謝ってあげるから。ね?」

「結構です!僕はちゃんと知り合いで、許可を貰っています!それでも謝らないといけないなら、僕一人で謝りに行きます。」

「ま~た、君も懲りないねぇ。そんなこと言って、どうせ逃げる気だろ?大人が一緒に謝ってあげるって言ってるんだから、《おねがいします》って言えばいいんだよ。折角のご厚意なんだから素直に受け取りなよ。」


威圧的に屈めていた体を伸ばし、今度は見下すような視線を向ける不躾な男に、稔は今にも恐怖で泣き出してしまいそうになりながらも、声の震えを隠す様に、きっちりと啖呵を切り返す。ここで自分が謝れば事は簡単に収まるのかもしれない。だがそれでは、間違ったことを間違ったままで正解だと、そう自らが認めてしまうことになる。自分は何も間違ったことはしていない、ならばどれだけ馬鹿にされようとも、きっちりと意見を通す事こそが正解だ。気持ちで負けてはいけない、後ろ暗い事が何もないのであれば尚更だ、このまま行くしか道は無いのだ。緊張に乾いた口でそれでも生唾を飲み込んで、自分の事は自分で何とかしなければと、稔の知らず両の手の平を、固く握りしめ、向かい合う相手に怯むなと、自らを鼓舞した、その時だった。


「・・・・・・おっそいと思っとったら、そういう事か・・・・・。」

「ぃえ・・・・ッ、なんでいるの!?」

「あっ、これはこれは功刃さま!こんにちは!お留守かと思っておりました。」


ぬっ、と、御勝手の隙間から此方を観察するように、鋭い眼光が稔の前に立つ男よりも、さらに上から降り注ぐ。そしてその声と視線に気付くや否や、男はすかさず扉の前から体を横へと場所をずれると、先程までの態度とは一変、張り付けたような笑顔をその顔と声に乗せながらそれはもう深々と、家次に対してのみ頭を下げてみせた。ゆっくりと開かれた御勝手の向こうから姿を現したのは、稔の良く知った人物であり、そしてその機嫌は火を見るよりも明らかだ。不快感を前面に押し出した、大変煩わしいと怒気を隠さぬ、【不機嫌】が正に体を成したような、そんな風体をしていた。


「・・・・・おい坊、お前コイツと知り合いか?」

「知り合いというか、不法侵入をしようとしたのを見て、私が止めに入ったんですよ。」

「知らない!入ろうとしたら急に止められて不法侵入って!僕何もしてないよ!」

「坊は知らんのやな・・・・。せやったらお前、誰の許可貰って他人の敷地入ってんねん。」


ゆっくりと、威圧感を増して視線を投げかけてくる家次に、形勢の不利を悟った男の喉が、キュウッ、と一つ、声にならない情けない音を立てる。眼光の鋭さだけではない、体格も相まって怒りに染まった家次の覇気は、同じ空間に居るだけでも辺り一帯の空気が張り詰め、全ての物を威圧する。起死回生の大逆転、思わず助けに入ってくれたこの場最大の戦力に感謝こそあれど、助けられたはずの稔でさへ、思わず足が竦み、呼吸までもが浅くなる、それ程の迫力を伴っていた。


「コイツはワシが許可出して、こっから入れるヤツやけどな、お前なんや、どっから来た?今日一日中、30分置きにずうっと家の呼鈴鳴らしとったんお前か?」

「いぃ~・・・・、いらっしゃたん、ですねぇ~!てっきりご不在で・・・・、いやっ、そこでこの子が無断で入ろうとしてると思っててっきり~、駄目だぞ~って・・・・、」

「そんで子供相手に恫喝紛いの言いがかりつけて、なんかかんか言うて人の家上がり込もうてことか。しょーもない奴やな、人のせいにしな真面に言い訳も出来んのんか、クズが。」

「はッ!!?いくら何でもそれはちょっと言い過ぎなんじゃないですかね!?流石に初対面でそれは無いでしょう!!」


図星を付かれたか、家次の言葉に先程まで張り付けていた気持ちの悪い笑顔は何処へやら、一気に目を見開いて声を荒げたスーツの男に、家次の視線は変わらず水を打ったように静かなままだ。それどころか、目の前に対峙する顔を赤くして逆に自分が被害者であるとばかりに喚きだした男の様に恥ずかしいものでも見るかのように憐れみを滲ませると共に、同時に侮蔑するかのような、軽蔑の眼差しをただひたすらに向け続けていた。


「お前はワシの名前知ってるんやろ、やからワシはお前に聞いた、誰やって。」

「だったら最初から玄関から出てくればいいじゃないですかッ!こっちがどれだけアンタが出てくるの待ったと思ってんだ!!オレだって暇じゃねーんだよオッサン!!」

「これはアカンな、話にならん。」


どれだけ仕立ての良いスーツを身に纏おうが、髪を整えようが、靴を手に入れようが、面子も保てずに醜態を晒す大人の姿の、高圧的であり、なんとも哀れで目も当てられない。この男の素性を稔は全くと言っていい程知りはしないが、目をひん剥いて唾を飛ばさんばかりの口調で反論をする姿を見るだけでも、十分にこの相手が真面でないことは、子供の目から見ても明らかだ。そしてその姿を安全だと思える家次の背後から見るからこそ、この状況が、この男の異質さが、稔の目には常軌を逸した姿に見えた。


「・・・・お前、此処どこか分かるか?」

「あ゛?ンだよ話逸らしてんじゃねーぞオッサン!!」

「・・・・・ここはワシの土地や、そんでワシはお前を入れるなんか許可してない。不法侵入や。せやろ?お前さっきコイツに自分から言うとったもんなぁ、分かるな?」

「はぁあ!?意味分かんねぇし!勘違いだったとはいえ、なんでワザワザ注意してやったオレが文句言われなきゃいけないんですかぁ!?」

「まず何よりもワシは頼んでない、お前の事なんかま全く知らん。せやのに勝手にワシん敷地に入ってきたんはどっちや、お前ちゃうんか?」

「だから勘違いだって言ってんでしょオッサンの方が話聞かないなぁ!!それで居留守してた言い訳ですか!大人になっても玄関どころかインターホンも出ないで居留守使うとかとか恥ずかしッ!よくもまあ子供の前で恥ずかしげもなく言えますねぇ!!」


この状況下で、一体誰が、どの口が何を言っているのか。御勝手に辿り着くまでの木々含め、稔が家次の土地に入ったその瞬間から男が後ろにいたとしても、男の言うことはどう転んでも状況的におかしいとしか言いようが無い。違う視点に立てばどうにか稔を悪として自身を正当化出来ると思っているのだろうか、支離滅裂且つ取り入ろうとしていた家主である家次に対しての言葉も、今や暴言のラインに触れている筈なのに、それでも自身は悪くないと正当化を図ろうとして止めない。このままでは先程稔にしたのと同様に、訴える等の言葉が出てきてもおかしくはない。一体どうしよう、どうすればいいんだと、家次の背後からこの状況を何とか打開しなければと一人焦り、頭の中で少ない知識を掻き集め出した、その時だった。


「家主の勝手や、お前に言われたところでなんとも思わんわ。クソガキ。」


家次の大きな体が一歩前に踏み込むと同時に、風切り音を伴って長い腕が下からグン、と振り上げられたかと思ったら、次の瞬間、その伸ばされた手の先が、目の前に立った細身のスーツ男の首の後ろ襟を、ぐッ、と力強く握りしめていた。


「へ??・・・・は・・・・・・?」

「お前は不法侵入や、家主の権限で出てってもらう。ついでに外まで送ったるわ。」

「ひグゥッ・・・・・!!?まっ、まっで・・・・、・・・・まッ!!?」


家次の背中越しに、ひょん、と飛び出す様に現れた男の頭に、思考の追いつかない稔の口から、なんとも間の抜けた、情けの無い声が漏れる。現在この場で一番高身長の家次とほぼ同等、否それよりも高く上がったスーツ姿の男の頭に、よく見ればその首根っこに伸びているのは、よく目にしている鍛え上げられた家次の腕だ。大の大人の男を持ち上げている、しかも片腕で、相手の首の後ろの服を掴んで、男を宙に浮かせている。これが【首根っこを摑まえる】という言葉の体現なのだろう。そう瞬間的に現状を結論付けた稔の頭は、そうか、これが最善策の解決方なんだ、と、極度の緊張下、なんとも通常ではあり得ないだろう状況を、何とか飲み込もうとした結果なのだろう。現状、望まれる最善手は、敵対相手の強制的排除に他ならない。目の前の相手を持ち上げて強制的にこの場からの排除を執行する、それこそが最善策。そっか、そうだったんだ。と悩まずとも問題の解決方法は意外と身近に在ったのだなと、これ以上の情報の処理を拒んだ思考に、稔はただただ目の前、家次か持ち上げた自身の脅威との決着に、ふわっ、とまるで目の前の男と同じように、活路を見出したと錯覚した稔の頭は、それに比例するように少し気持ちが軽くなった様な、そんな気まで起こさせていた。


「坊悪いけど待っとってくれ、コイツ外ほってくるわ。」

「ま゛・・・・っ、ま゛っで・・・・ッ!!ごめん、なさ・・・・っ!!」

「待ってそれって帰って来ちゃうんじゃないかな!?僕じゃ戦えないよっ!!」

「なんでお前まだ戦う気ぃやねん。どうせ車で来とるやろからな、そこまで持ってくだけや。」

「あ、じゃあ大丈夫かな・・・・?・・・・んん?・・・・・とりあえず僕待ってるね・・・・?」

「おう、すぐ戻る。」

「ごめっ、ごめ、な、ざ・・・・っ!おろし、おろして、くだ・・・・・っ!!」

「あんま喋んな、のど詰まんぞ。」


男を片手にのそり、のそり、といつもと変わらずに歩き出した家次の背中を見送って数秒、そろそろ公道に家次が姿を見せただろう頃合に、稔の頭がやけに晴れ、そして先程の家次の姿が、とてつもなく異様なものであったことに気が付くと同時に、一連の事のあらましは何一つとして見えていない事に気が付いた。というよりもいくら鍛えているからと言って大の大人を軽々しく持ち上げる家次の事を、どうして自分は不思議に思わなかったのか、その疑問がただひたすらに、ぐるぐると稔の頭の中を回って止まない。家次なら出来るか出来ないかと言われれば、それは間違いなく《出来る》だろうが、出来る出来ない以前にやっても良い事なのか否かが分からない。そもそも相手は誰だったのか、何の用事があってあの場に現れ、自分に声を掛けてきたのか、何一つとして解決していない。今までの一連のやり取りは一体何だったんだ、どうして起こった、どういう事だったんだ。溢れ出す疑問は際限を知らず、稔の頭に疑問の種だけを撒き散らすだけで、正解の一つも教えてはくれない。なんで、どうして、そう思ってやまない稔の思考が届いたのか、ざりざりと音を立てて近づいて来る雪駄を履いた人影に、感謝や恐怖の感情を述べるよりも先に稔の口を付いて出たのは、ただ答えが欲しいとばかりの質問の言葉だった。


「家次さん!あの人なんだったの!!?」

「ん?あぁ、あれか?・・・・・アイツはなぁ、地上げ屋や・・・・・。」

「・・・・地上げ、屋・・・・・・?」

「せや。・・・・・ンまに面倒くさい、やらん言うとるやろが、阿呆共が・・・・。」


イヤ絶対嘘じゃん、それ・・・・。家次からの返答に、稔の頭の中に瞬時に沸き上がった心の声は、間違いなく嘘だと家次の返答に意を唱えたが、当の本人は全く動じる事も無く、寧ろもう既に何度かこのやり取りをしたと言わんばかりの態度を示している。面倒くさいって何だろう、スーツ男も確かに細身ではあったが、まず最初に首根っこを掴んだとしても、大の大人をあんな簡単に持ち上げる事は可能なのだろうか。イヤ確かに今目の前で見たからこそ可能なのであろうが、それは家次だから出来たという、そういう事ではないのか?もし稔自身、あの男相手に出来るかと問われれば勿論否、無理である。何だ、一体何が起こってどうなったらこうなるのか、一体何が正解なのか、何が正しいのか、もう稔には訳が分からなかった。


「おい坊、行くぞ~。それとももう帰るか~?」

「っ!?おじゃまする!僕も一緒に入れて!!」

「ほな早よ来い。」


ぐるぐる回る思考は止まる事を知らないが、それでも家次の声に、稔はあわあわと少し慌てながらも、いつもよりも身を寄せる様にして、御勝手の傍ら、戸を手に佇む家次の下へと一目散に駆け寄った。


*


母屋に着き玄関から中へと招き入れられ、いつもと変わらない帰宅時ルーティーンをこなし、いつもと同じ場所に腰を下ろして少し、稔の前には綺麗に透き通ったガラス製のコップに、家次によって冷蔵庫から取り出されたプラスチック製のボトルから、冷えた麦茶が注がれた。


「ワシは電話してくるから、お前はコレ飲んで、一旦落ち着け。」

「うぅ、う、ん・・・・いただきます・・・・・。」

「ちゃんとコップ持てよ、落とすなや。」


稔がコップの縁に口を付けたのを確認してから、ドスドスと足を踏み鳴らす様にして蟹股に去っていく背中を見ながら、先程の事はもう終わったのだと思うと同時に、変わらないよく知った背中とここが家次の家の中という、此処が【安全な場所である】と、稔の脳がやっと理解をしたようで、それに呼応するように、一気に体の力が抜けて、そして痛い程に、心臓が脈打ち始めた。バッ!バッ!バッ!・・・・、回数を重ねる程に感じる胸の振動は激しく、耳の奥深くで感じる脈動が、確かに激しく鼓膜を揺らし、その衝撃を音を含めて稔自身に伝えてくる。一体どれ程に張り詰めていたのだろうか、終わらない鼓動に、頭の中は先程までの状況を鮮明に思い出しては、稔の身体に、精神に、一体どれ程の負荷が掛ったのかを、今になって教えようと、落ち着こうとする稔の意思とは相反し、理解させようと必死なようだ。

銜えたコップの縁が歯を打ち鳴らし、そこでやっと自分が震えていると理解した稔は、割れてしまっては危ないと急いで口を離したが、揺れていたのは頭や口だけではなかったらしい。不作法にも机の上に肘を置き、安全を保とうとしたはずの両の腕もまた、握った手のひらの中にある、減った筈のコップの中身に不規則な波紋を幾つも浮かべ作り出す程に、自分でも抑えられない震えが、全身に行き渡らされていた。


「戻ったぞ~・・・・、おい稔、コップ放せるか?」

「分かっ、わかん、ない・・・・!これ、ぼく怖かった、のかな・・・・!?」

「その様子やとそうやろうな。・・・・ホラ、手ぇ放せ。」


武骨な家次の手が、稔の持つカップの縁を支える様に摘み上げる。先程までは大の男を捕まえて持ち上げていたというのに、対象が変わるとこんなにも違うものなのか、ガラスカップを上から持ち上げようと縁に掛けられた二本の指は、まるで稔の震えから儚く脆い薄造りのカップを守る様な大人しく、そして優しいものだ。


「なんか僕、今になって震えてて・・・・、ッもしかしてちゃんと怖かったのかな!?」

「まあ多分怖かったんやろけど、お前ちゃんと戦っとったやんけ。十分良うやっとたぞ。」

「でもやっぱなんか勝手に思い出して怖くって・・・・、やっぱり怖かったよッ!!」

「ホンマか、せやったらワシが出てくるまでよう頑張ったなぁ。それにしても稔、やっぱしお前は根性があるなぁ。」


怖かった、そう自信の感情をやっと口から出したことで緊張を認めた稔の身体は、開放感から一気に全身から力が抜け落ちると同時に、離せない程強く掴んでいたカップから、ようやっと手を離し、混乱で儘ならないままにその気持ちを真正面から家次へとぶつけだした。知らない相手に急に寄られて戸惑った、成り立たない会話が異様で薄気味悪かった、知らない言葉を並べ立てさも悪人と決めつけて責められる状況に押しつぶされそうだった、そして何より、自分の存在を全く認めてくれないその状況全てが、怖かった。もし家次が姿を現すのがもう少しでも遅ければ、その先がどうなっていたかも分からない。全く先行きの分からない状況というものははこんなにも視野を狭め世界を閉ざし、気が付けば身動きがとれなくなくなっていたかもしれないと、今安全な状況下において考えても身震いするほどに恐ろしい。そう瞳に涙を浮かべて声を上げ、必死に訴える稔の姿に、家次はただ静かにうんうんと相槌を打ちながらも、その表情は真剣なものでは無く、何処か楽しそうでいて、そう言わんとせんばかりに、稔の話を聞くほどに、唇の端を釣り上げていった。


「それでも稔、お前自分の名前も、ワシの名前も出さんかったやろ?自分で何とかしよう思ったんちゃうんか?」

「知らない人に名前なんて言わないよ!てか思ってたよ!何とかしなきゃって!!」

「何とかしようと思うんなら、なんで誰か呼びに行かんかった?家入って、ワシんとこ来たら早かったんちゃうんか?電話してみるとかも考えんかったんか?」

「早、かったかもだけど・・・・、そんなの相手の思うツボじゃん!それに電話出して取り上げられたら終わりだし、相手変な人だし・・・・ッ僕だって考えて・・・・!!」


訴える程に声は震え、その時の事を思い出してはわなわなと腕を、全身を震わせて身振り手振りで自分は必死だったのだと、頑張って耐え忍んでいたのだと言い募る稔に、家次はまるで満足だと言わんばかりにその口元にニンマリと笑顔を浮かべると、稔から取り上げたガラスカップを卓上に下ろし、稔と対面する位置の座布団の上へ悠々と腰を下ろし、パンッ!と子気味良い音でもってして己の膝を叩いて見せた。瞬間音によって冴えぎされた言葉に稔は目を丸くして音を鳴らした家次へともう一度向き直ると、家次はそれはもう満足そうに、真正面から稔の目を見据え、そして大きく口を開けて短く笑った。


「ようやった!よう逃げんかったな!普通のガキなら一目散に逃げとったぞ。あんなん大人でも避けたり逃げたりしたやろに、逃げんと真正面からぶつかってくとは、あんなしょーもない相手に戦う選択しよって、稔、お前一丁前に男みせたなぁ!」

「イヤだから僕必死で!」

「守ろうとしたんやろ、ワシの事と、そんで自分の事と。その歳では普通出来んな。」

「どうしようって考えて、それで、それでも絶対に取り入ろうとしてくるから、何とかしなきゃって、必死で・・・・・、家次さん来なかったら僕もう、何も出来なかった・・・・・。」

「十二分に良ぅ出来とるわ。まあ安全考えて【逃げる】っちゅう選択肢が、ワシはいっちゃん欲しかったけどな。けど、ホンマによう頑張ったな、稔。」


座卓越し、軽く体を伸ばす様に半身を乗り出す様にして伸ばされた家次の左手が、稔の頭に届いたと同時に、まるでリンゴでも掴むかのように、そのまま、ぐっ、と鷲頭噛む、頭の半分ほどまでに覆い被さる大きな手に、稔はハッとする間もなく、そのまま首を軸にしてぐわぐわと前後左右に揺さぶられる。強い力というわけではないのだろうが、常人からすれば十分に掴まれていると錯覚するだろう感覚に、稔は成す術もなく唯々ぅわっ、わっ!と驚きの声を漏らすだけで、それでも家次の行動を決して止めようとはしなかった。


「よう頑張ったな、稔。ありがとうなぁ!」

「・・・・・っう、うん!僕頑張ったよ!!」

「おう、お前はよう怖い中頑張った!ワシの事も守ったんや、お前は凄いなぁ!」

「うんっ!う゛んッ“!!怖かった、けど、頑張ったッ・・・・!」


思わず滲む視界に、少しばかり鼻声になりながらも、頭は家次にされるがままに、ぐわん、ぐわん、と変わらずに揺さぶられている。そしてそうされたまま、稔がその手を退けようとしないのは、家次のこの手は何よりも稔の気持ちを労っていると、その真意を知っているからである。見ず知らずの大人の男相手に、少年がたった一人立ち向かう、その決意と勇気とは、どれほど覚悟が必要だっただろうか、考えるまでもない。傍から見聞きしたぐらいでは、中学生なら何がしか対処の仕様はあったのでは?と思う気持ちもあるだろうが、彼はまだ学年が上がって数か月、少し前までは小学生だったのだ。まだ知らない世界が多い男児が、全く知らぬ男に難癖をつけられたのだ、それでも対応できる存在の方が、世間的に見ても大変稀有な存在だ。


「ええか?次あったらちゃんと逃げてこい。もし入ってきてもきっちりワシが叩き出したる!」

「ぅ、うん゛ッ!お願い、しますっ!」

「そんで震えんのんも、怖かったんも忘れんな。絶対次に身ぃ守れるようになる。」

「僕、ぼくが、弱い、から・・・・、」

「ちゃうちゃう、活かせる言うてんねん。ほんで賢なるとか、体力つけるとか考えろ言うんや。」

「たいりょく・・・・・、体力つける・・・・!強くなるッ!負けない・・・・!」

「ほな今日から、一緒に腹筋100回していくかぁ~。」

「ムリィ゛~~~!!!」


鼻を啜り、涙ながらにそう訴える稔に、家次は豪快に笑って、そしてまたぐしゃぐしゃと稔の頭を揺らし続ける。何時か僕も強くなれたら良いな、そう漏らした稔の言葉に、その震えが【武者振い】になれたらな、と、家次はカラリと笑って答えてみせた。


•家次さん

腕節は自慢するもんじゃない、自分と向き合う為にもんや。喧嘩は基本売られても買わずに、それでも絡まれても逃げれるなら逃げる、がそれでも来たら2対1ならしゃーなしで受ける。3は走ってでも逃げる。喧嘩は嫌い、理由は『痛いから。』で、別に負けはしたことが無いらしい。(チカに確認も負けてはないらしいが、怪我の多い子は嫌いやと言った日から7割減したらしい。)


•稔くん

怖い震えが武者震いになるのを、余り良く思ってはいない。これからは素直に逃げようと心に決めた。でも少しは力付けたほうがいいかな?と毎日10回ずつ腹筋をしたりしなかったりするようになる。少し慣れたら腕立て伏せも10回するも追加しようかと思っている。


•スーツのお兄さん

近くある都市開発に先立って、この辺の土地を買いマンション建設をするために家次さんのところへ訪れたが、居留守を使われてご立腹だったので、なんとしてでも話をしようと画策した結果、出入りしている子どもがいると目をつけて、そして首根っこを掴まれた。

会社ではマトモに教えることも出来ない上司と、自分よりも給料が高く職務が少ないのに辞めていく後輩に囲まれ、仕事をしようとしてもやってる気になってるだけど蔑まれ、大人しくしていれば自分で仕事も探せないのかと馬鹿にされる。今回は上司から『仕方ないから分けてやる』と言われた土地買取の依頼打診の訪問に、なんとかしてでも話だけでもと一生懸命喰らいついていった結果、回りが見えなくなり、首根っこを掴まれた。このあと帰った先に待つ上司に、『出来ないお前にオレの仕事を分けてやったのに、こんなことも出来ないのか!』と馬鹿にされ罵倒される。社会の縮図である。(続きます。)


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