旅行おみやげ。②
皆さん何が好きですか?私はアレルギーが出てもたべます。美味しいからです。
茹だる様な暑さが増す日が続く中でも、今日の稔の足取りは軽やかだ。もう何日も晴れ間しか続かない日々に、屋外に出したフライパンで実際に目玉焼きが焼けたという、なんとも残念だが面白い理科の自由課題が成功したという事もあるかもしれない。だが実の所それさへも、今日この日の為に有ったのかもしれないと思える程に、稔は一人静かに、ただただ今日という日を待っていたのだ。
何時も訪れる時間より、ほんの少しまだ日が昇り切っていない頃、舗装された道は今だとばかりに太陽光を浴び反射させては、自らの上を行くもの全てを上下から容赦なく焼き上げようとしてくる。《外はカリッと、中はジューシーに!》そんなキャッチコピーが似合いそうな上等な蒸し機能付きのオーブンに焼かれている食材になるその前に、稔は今日も足早に家次宅へ急ぎ向かう。
「・・・・・、良い匂いするー!」
いつも通り太陽に向かって青々とその葉をはためかせる木々の姿が見えると共に、路地裏に入って直ぐに、稔はくん、と鼻を尖らせて、辺りに漂う空気を微かに吸い込んだ。家次と、その姉であるチカの家の間にわざわざ造られた路地裏は私有地であり、地元の人間が通行出来るようにとわざわざ造られたもので、車が通れる道幅は無く、利用者の殆どが学生や社会人と言った歩行者だ。朝や夕方と言った時間帯であれば、疎らに人が散見されるが今は丁度昼前の時間帯、カンカン照りの太陽が眩しい真夏のお昼前のこの場所は、人の姿がある方が珍しい。そんな自分以外誰も居ない裏路地の入口から直ぐに、稔は最初こそクンクンと、小さく鼻をひく付かせていたが、確信を持ったのか、最後には大きく一つ、勢い付けて目一杯にその空気を吸い込んだ。確かに感じた鼻先を擽る芳しい醤油の香り、そして吸う程に甘じょっぱく、ふわりと奥に感じだ海鮮の出汁の香り。鼻の奥がツンとなる様な棘の無い、何処までもまろやかで甘い。そしてなによりそれを支えるコクのある出汁の香りが一体何から来ているのかを、稔はもう理解している。
「美味しいだあー!!!」
人目が無いからと思わず思った事が口を突き、その体がグン、と上へと飛び上がる。そしてはた、とこの場が私有地であれど屋外であったと慌てた稔は、着地から直ぐにキョロキョロと周りに視線を走らせながらも、その体を小さくして、まるで何かから隠れる様に、いそいそと玄関へ向けて足を急がせた。
*
「こんにちわー!家次さぁーん!僕来たよぉー!!」
「・・・・・・んなデカい声出さんでも聞こえとるわ阿呆!おう、入れや。」
「おじゃましまぁーす。・・・・・あ、それ良いじゃん!」
「せやろ?やっぱコレあると無いとで変わるからなぁ~。」
「やっぱここウチより涼しいー、快適ー・・・・。」
先日の攻防を踏まえた上で、二の鉄は踏むまいと、稔の準備は万端であった。玄関戸をくぐる際にワザと呼鈴を押し、なんなら内側の軒先にある呼鈴も押して、少し強めに扉を開け放ちながら声高らかに登場を宣言したのだから。これならば文句が無いだろうと胸を張って姿を現した稔を、今日は眠っていなかったらしい家次が、一人縁側に立ちながら怪訝そうな顔をして出迎えた。いつもと変わらない筈の視界が今日はやけに暗く見えると、一瞬目を顰めた稔であったが、その原因となっている物は日本の夏に大変馴染み深いものになっている【簾】であった。いつもならば燦々と太陽光の降り注ぐ庭が見えていた筈だが、一定の暑さを越えればそれまで。幾ら地面でも照り返しや西日が不快だと感じた頃に、雨除けの向こう側から縁側の床下へと引っ掛ける様に付けられたフックは、例年通り変わらず仕事を受ける事になったらしい。余分な日差しや雨粒を排し、柔らかに空気の入れ替えを怠らないそれは、日本という多湿な土壌に良く合っている。必要な時に必要なだけ使用して、用事が終われば冬を越す前に燃やしてしまえば虫も湧く心配も無い。残り続ける物には必ず理由があるのだと何時かに家次が言っていたことを思い出しながら、時折吹く風に風鈴が音を立てる横で同じように緩やかに凪いだ簾の姿を目にしては、なんだか良いな、と、その情景に今年初めて夏の到来を嬉しく感じたのだった。
いつもと変わらない挨拶をして、招き入れて貰って早速、待っていたとばかりに真っ先に稔が一直線に向かったのは扇風機の前だ。今日も今日とて変わらずカクンカクンとなんとも不安になる挙動でもってして首を振り、自らの仕事に励んでいる少しくすんだ水色をしたそれと対面する事が、最近の稔のお気に入りだ。
「・・・・・あ゛~~~~、・・・・・・あ゛~~~~、」
「ちょ、止めぇ、うっさいのう、」
「だってこれ家で出来ない・・・・・あ゛~~~~、・・・・・・これなんでやっちゃうんだろ?」
今年の扇風機の登場初日から、わざわざその前を陣取ってまでやっているのを見る限り、余程気に入っているらしい。これまでもそれをやる機会なんぞ幾らでもあっただろうに、何故今年に入って、しかもわざわざ中学へ進学して大人に近づいて行っているにも係わらず恥ずかしげもなくやるものだから、家次の眉間の皺が少しばかり深くなり、どうしても訝しがるような視線を向けてしまう。
「ガキやからやろ。ワシも子供ン時にはやっとったけどな、お前はアカン。行儀悪いぞ。」
「去年までやってなかったから、いいの!僕だってやりたい事やるんだもんね。」
「何が《もんね》や、かわい子ぶってんちゃうぞ。お前ソレ余所でやんなよ。」
「しないよー、此処でしかしないー・・・・・あ゛~~~~・・・・・・」
背後から掛けられる家次の言葉に、稔は振り返ることなくそう答えると、また扇風機に向き直った。【やりたい事】とは、一体何のことだろうかと、一瞬その言葉が一体何を意味するのかと頭を過ったが、家次は敢えてそれを考えない事にした。稔の家には扇風機が無い。だからそう言った日常の中のただの遊びと捉えられている事柄が、他者との間で常識や認識の【ズレ】として稔の身に起こる事が間々ある事を、確かに家次も知っている。小さな世界で起こる小さな摩擦と、大人になれば思えるだろうが、子供にとってみれば《僅かな世界の中の大きな亀裂》となってしまう事もある。小さなコミュニティだからこそ起きるズレは、時に嫌われ嫌悪され、そして淘汰される。そして心が弱ければ、代償は決して軽くはない。稔はその辺り《自己と他者》の線引きがはっきりとしている分、意外と図太い神経の持ち主かと家次は思ってきていたが、世界が広がって来ただけに、多少自分自身でも他者との感性の違いに気が付き始めたのかもしれない。だからそれを埋めようと、自分の知らない、見聞きしただけの事を行動に起こしてみたいと思ったのかもしれないし、ただ単に子供の様な、純粋に面白いという、一過性の遊びとして行動をしているだけかもしれない。どちらにせよ自分の甘えられる場でのみの許されている行動、という認識を本人が持っているのであればそれで良い。家次は自分の目の届く範囲で稔が行動し、自らの監督者責任を追及されないのであれば、後は常識の範囲で好きにすれば良いと思っているので、短い小言に最低限の必要を混ぜた返答を確認すると、そっと稔から視線を切り、そのまま静かに台所へと向かった。
それから気の済むまで扇風機に向き合う事数分、いい加減冷え切った上に痛くなってきた顔に気が付いた稔の耳に、ジュッ!となんとも子気味の良い音が飛び込んできた。続いてジュー・・・・・、聞き覚えのある音が耳に届くので、稔はすくと立ち上がると、そのまま家次がいるであろう台所のコンロの傍へと小走りに駆け寄った。小さなコンロが隠れてしまう程に大きな背中に、後ろからでは家次が一体何を作っているのかは分からない。かと言って覗き込もうと隣に立とうものならば、危ないから近づくなと怒りを買うのは火を見るよりも明らかだ。もうそこまで小さくなければ、家では母を手伝って家事もそこそこ出来る稔であるが、此処は家次の家であり、台所に無暗に踏み入れられるのを良く思う家主の方が珍しい。だから稔は少しばかり家次の背後で足音を立てて存在感を露わにしながら、作業と作業の合間を見計らって声を掛けてみる事にした。
「家次さんっ、それ何作ってんの?」
「これか?お前の昼飯で・・・・細麺の醤油味やぞ。」
「・・・・・もしかして母さんの買ったイカ!?」
「せや。・・・・・・あ?お前、今日のメシ分かっとったんか・・・・・?」
僅かに首を動かして、家次はするりと声のする方へとその視線を流す。本当に少しだけ距離を取りその場に立った少年の表情は、言うまでも無いとばかりににんまりと口元を引き合上げて、悪戯っぽい、それでいて上機嫌な笑みをその顔面に浮かべてみせていた。
「チカ姉さんから母さんにお礼の電話があって、それで聞いた!『良いイカ』だってっ!!」
「お前、なんちゅう・・・・・、あ~、まぁ・・・・・、ええか。今日は海老無いけど、烏賊で十分出汁出とるから文句は言うな。」
「うんっ!!あ、僕も一回手洗ってくるねっ!あと冷蔵庫からお茶出して良い?」
「アレやったらコップも一緒に持ってけ。あと箸も。」
「はぁーいっ!」
返事よりも先に動き出した背後の気配に、遅れる様に遠退きながらも確かに返事を返してくる。自らの母の用意した土産を充てにしていたとは、中々の根性をしている。もう旅行に行った先で、それこそ浴びる程食べてきただろうに、自らの親が子が世話になっているからと、中々の金額を出したであろう中元という名のお礼にまで手を出そうとは恐れ入った。
「アイツも口肥えてもうてんなぁ・・・・、・・・・・・ワシのせいか・・・・・??」
思い当たる節は山ほどある。なんなら思い出そうとせずとも記憶の引き出しを開ければ、それはもう開けた一番上にあるだろう心当たりに、家次は自らそっとその記憶に蓋をして、幾ら独り言とはいえど、声に出さないようにしようと、短く咳ばらいを一つして、目の前の鉄板に静かに向き合う事にした。
*
せっせと卓上に用意したコップが二つに、茶色に染まりながらも向こう側まで見える位に澄んだ茶の入れられたガラス製の茶瓶は良く冷えている様で、机の上に運んだ時点で、もう既に歩の表面をうっすらと結露で濡らしている。箸は一善、使い捨ての割り箸を使えと渡されたそれは、今日の焼きそばの具材が少し滑りやすいからという配慮からの提案で渡されたものだ。
「準備が出来ました!」
自分用の座布団の上にちょんと正座をし、目を輝かせてそう宣言する稔に、盛り付けた皿を片手に様子を伺っていた家次は、またも怪訝そうな視線を稔へと向ける。
「お前今日なんやおかしいぞ?来しなにどっかで頭ぶつけてきたんちゃうんか?」
「失礼な!僕は今日ただ楽しみにしてただけだよ!美味しいの食べたいじゃん!!」
「まぁ・・・・・、美味いんは否定せんけどなぁ・・・・・、」
自分の作った料理を褒められては、誰だって別に悪い気はしない。現に腕に自信のある家次にとって、既製品や出来合いの物と比べても、自らの方が断然美味いという自負を持っているが、それを他者から肯定されるのでは、得られる喜びと、自らの料理スキルの確かな肯定を得られるのだ。だから嬉しく感じる事はあれど、悪し様に思う事はそう無い、のだが、どうも言われている相手の様子がおかしいのだ。思えば家に入って来たその時からおかしい。雰囲気と言うのだろうか、何処か忙しなく落ち着きのない様子に加え、普段のあまり自我を表に出さない筈の稔がその表情をコロコロと変えて、自ら行動しては先に先にと家次さへも動かそうとしてくる。おかしい、どう考えてもおかしい、のだが、一体その原因が何処にあるのかの【核】たるものを、家次はどうにも掴みあぐねていた。
「家次さん!お昼ごはん下さい!僕あったかい焼きそばが食べたいんです!」
「お前預かられてる身で飯まで要求してくるんがどんだけド厚かましいか分かるかぁ?」
「だってかつぶし元気なくなってきてるもん!僕早く食べたいんだけど!!」
早くと急かす稔の言葉に、家次は自ら手にしている皿の上盛られた焼きそばへと視線を移す。そこにはふんわりと軽く解してまぶした筈の花鰹の削り節か、確かにゆらゆらと揺らめいていた筈であったが、最初に比べて随分と勢いを無くしてしまった様子が伺える。食べるのであれば一番香りの立っている、鰹節が躍っている間に口にしたい、言いたい事は分からないでは無いが、今日の稔の言動はどうにもこうにも家次の癪に触って仕方ない。
「・・・・・まだ熱いからちゃんと冷まして食え、分かったな?」
「はい!・・・・・じゃあ、いただきます!!」
パシッ、と乾いた音を立てて割った箸を片手に、ちゃんと手を合わせていただきますと挨拶をした稔の姿を確認してから、家次はその身を台所へと翻す。
「・・・・・・、家次さん、お茶飲むー?」
「ワシ先鉄板片付けんなならんから、先にソレおとなしぃ食うとけ。」
「わかったぁー。あ、今日も美味しいよぉー!!」
「そうかぁ~、早よ食うて喉詰めんなよ、ちゃんと噛んで食え。」
「わはっふぁー!・・・・・んむー・・・・・、」
言った尻から喋りながら口に麺を押し込む奴が何処にいる、箸先で持ち上げられる限り麺を摘み上げ、そのままずるりとすすり上げ頬を膨らませる少年の姿に、家次は隠す気にもならないとばかりに重々しい溜め息を一つ残しつつ、のそりと台所へ向けて一歩足を先へと進めた。
一方溜息を吐かれた対象である稔は、家次のその様子を全く気に留める様子も見せないで、夢中で啜った麺の味を、文字通り、口の中一杯感じ取る事で手いっぱいだ。夏休みの間島りと共に、待ちに待った醤油味の海鮮焼きそば、念願叶ったりとまではいかないが、どれだけ恋しく思っていたことか。いくら鮮度が、高級食材がと言えど、意外と料理は削った先、根本の素材の味と、何より作り手の味によって評価は大きく判れるものだとこの年で稔は思っている。数年前に家次に出会ってからというもの、口にする食材は値段どうこうで味に差が出る事はあるが、意外と作り手の調理・仕上げ方にこそ大きく化けるという事に稔が確信を持ったのは、小学校も高学年の頃。どこにでもある、何ならこのあたりでも美味しいと評判の喫茶店のパンケーキを食べた数日後に、フライパン一つで焼き上げたホットケーキを食べた時に、稔は衝撃を受けたのだ。仕込みに半日、注文から数十分かけて小奇麗な皿に盛り付けられてからやっとテーブルへ運ばれてきた千円程のパンケーキよりも、こうボールでガッ!っとやって、チャッと混ぜて、んでだーっと流してんでじんわりさせたら出来るんや、と、フライパンの上、乱雑にフライ返しで押し切って渡された、ふんわりとしていて、且つもっちりとした食感の一切れの方が、稔の口にはずっと優しく美味しい味がしたのだ。そしてその後チカによって知らされたのだが、家次の食へのこだわりはこの辺り一帯ではどうも有名なものの様で、事食べ物に対するこだわりはそんじょそこらの人間よりも頭が二つ三つ飛び抜けているらしかったのだ。定職に就かず、日々を自転車と共に回り物に行くというだけの単調な日々を過ごす家次にとって、料理というものはいわば一つの遊びに分類されていたらしい。が、今ではその遊びも十分な実力を伴ったことにより、低価格且つ簡素であるが、美味しさを追求するという究極形態まで進化を遂げてしまったそうだ。これこそが、【好きこそものの上手なれ】の体現なのであろう。今ではチカのみならず、商店街でも家次の味覚に対してのこだわりは周知されており、だからこそ自ずと食材も色や形たけではなく、味の良い物を家次の分として取り置いて用意されるようになっているらしい。だからこそ家次の【ヒトタラシ】という不名誉な謂れは、伊達では無いという事らしい。
そんな事も大前提の上で、本日終業式以来にやっとあり付けた焼きそばの味はといえば、だ。店に比べて各段良い等ではない、何が、と言われても明確に言葉に出来れば良いのだが、具材全てが比べられない程に美味いのだ、お店よりも美味しいと言う他に稔の頭ではまだ上手く言語化出来ないまである。だがそれでも、熱い鉄板に焼き焦がされた薄口醤油の香りに、一緒に鼻から抜けるのは、家次による自家製ネギ醤油の香ばしさ。そして辛くない程度の適量、より全体の味を纏めて締まる様に加えられたラー油は、ほんの少しだけ柚子の香りが添えられている。一々手が込んでいる。しかも家次はそれらを常にキッチンに常備しているので普段からこのレベルの調理過程が特別ではない。本人に至っては普通、所詮【並】の料理という基準を一般より高みに置いているのだ。そんな面倒臭くてこだわりの強すぎる人間の作る料理が美味しくない筈があろうことか。食事は絶対美味い物を食らい味わうのだという圧倒的な自己満足が透けて見える者が作るのだから、味の保証は完璧だ。そして何よりも今日一番、稔の心を躍らせて止まないものが、その皿の中にぽつぽつと、確かに存在しているのだ。
「・・・・・うまぁー・・・・・!!」
一気に口に欠き込んで、啜り上げていると思いきや、皿の上ちゃっかりと分けて残されている一つの具材を、稔は端の先で一つ一つ丁寧に摘まみ上げては、ゆっくりと口の中へと運び込む。ストレスに大変弱く、身の傷みが早い烏賊を運搬する技法というのは、近年目覚ましい程の進歩を遂げているらしい。そんな中稔の母が送った物は、生のまま、なんなら生け作りにしても家で捌いて食べられるような、それはもう上等な物を送ったそうで。生きていたとして一体どうやって動き回る烏賊を捌くのか、稔は見当もつかなかったが、送る相手が家次となれば話は別だ。絶対に美味しい、そう確信したと共に、その瞬間には調理方法も大体検討が付いてしまったのだ。稔が旅行先を告げた時、ポツリと『食いたい』といっていた名を、料理名を思い出してしまったのだから。
「うーまぁー・・・・・、ぅわ、生姜・・・・・うまぁー・・・・。」
噛むほどに染み出す甘辛い醤油の味に、臭み消しというよりは後味を残さないようにと切れの良い辛みと香りを担当する生姜の風味が鼻腔に広がってから鼻へと抜ける。食感はゲソらしい噛み応えのあるものの、どちらかといえばむっちりと柔らかで、繊維の奥深くまで柔らかく煮漬けたのだろうが、新鮮が故に残された歯ごたえが、噛むほど確かにそこに在ることが分かる。
「甘じょっぱいのうまぁー・・・・・。」
「・・・・・・それが目的やったんか、お前・・・・・・。」
「うわッ!ちょ、急に出てこないでよ!美味しいの飲み込んじゃったじゃんっ!!」
「ワシの家やねんからワシがどっから出てきてもワシの勝手や。」
「・・・・・確かに。」
一体何時から聞いていたのか。稔にとっては突然の登場となり不名誉にも非難の声を上げられた家次だが、机を挟んだ向こう側から、怪訝そうに此方を見下ろす様に立つ大男というものは中々に迫力があるものだ。その上で投げ掛けられた言葉の意味を理解しながら、対面にのそりと大きな体を丸める様に座る家次の様子を伺いながら、稔はもう残り少ない烏賊の乗った皿をそっと自分の方へと引き寄せた。
「誰が人の食いさし狙うねん。それやったらワシかて身ぃだけ先に別に食うとるわ。」
「これ僕のだし。もうこんだけしかないんだよ!?大事に食べてるんだよ!!」
「なんでお前が被害者ヅラやねん。ワシが分けたったんやから寧ろ感謝するもんちゃうか?」
「僕向こうで煮たの食べて無いんだもん!生か、揚げたのか、焼いたのか!」
「贅沢なやっちゃなぁ~・・・・・、はぁ~?・・・・・ンで、ワシの煮つけはどないや?」
真剣な表情で、真っ直ぐに家次を見つめる稔の視線に、家次の表情に緊張が走る。家次とて負ける気なぞ更々無いが、それでも自他の評価は違って当然だ。しかも旅行帰り且つ口が肥えていると家次も認めた相手だ、その評価を正面から受け止めるのだ、度胸が無ければ乗り切る事は難しい。
「多分・・・・・、近年で一番優勝してる味がする!」
「ほー?・・・・・何と比べて?」
「去年の家次さん。」
「・・・・・・今年一決まったか、まあ姉さんも喜んどったし、ええ出来やったんは確かや。」
昨年度、そう無い完成度だと姉に褒められた烏賊の煮付けを越えた、その評価の大きさたるや。美味しいわぁ、アンタ上手やもんなぁ、と味見をして上機嫌に器一杯大事に抱えて持って帰った姉の言葉に、嘘偽りはなかった様だ。作った量の半分を超えて持っていかれてしまったが、稔の言葉が本当であれば、家次史上過去最高の出来だと謳って相違ない。机の下、小さく握り拳を作って、静かに喜びに上を向いた家次に、稔は最後のゲソを口に運んでは、もっちもっちと頬を動かし、最後までその味を堪能し切るのだった。
「良い烏賊ってスゴいんだね。どうやって作ったの?」
「神経抜いて、頭引っこ抜いて、んで骨抜いて要らんとこ切ったらええんや。」
「凄い物騒なんだけど・・・・・、味付けは?」
「烏賊は出し惜しみしたらアカン。酒もみりんも醤油も砂糖も、後生姜も、だーっと使うんや・・・・。」
「凄いね目分量って超える事あるんだ。」
「だーっとして、んでワーっとなるまで見て、手前でクツクツにすんねん。後は時間との戦いや。目ぇ放せへんかったらええ。」
「凄い何にも分かんないけどなんか普段より手が掛かったのは分かる。美味しいし!」
最後の一口を飲み込んで、稔はコップの中に入った茶を一気に飲み干した。少しばかり温くなってしまっていたが、お陰ですんなりと喉につかえる事無く腹の中へと落ちていく水分に、飲み切った口からは、すっきりとしたとばかりにほ、っと柔らかな息が漏れる。腹が膨れて、お目当ての烏賊の煮付けにもあり付けた。作り手も大満足とばかりの様子で未だ上を向いて火加減が・・・・、となにやらうんちくを垂れているが、今の所稔の欲しかったものは大まかにだが手に入ったように思える。だからこそ、大本命を逃すつもりの無い稔は、食べ終わった皿の上に箸を置き、きっちりとごちそうさまと、カラになった皿に手を合わせ、そして未だに上を向いたままの家次に向かって、真っ直ぐにその視線を突き刺した。
「家次さん、僕、おやつにイカ飯が食べたいなー?」
「・・・・・・ぁあ゛?」
真っ直ぐ、逃がさないと言わんばかりに目を輝かせ、真正面から純粋を装った瞳でそうのたまう少年に、どこか遠くへ行っていた家次の意識が、はたりと現実へと引き戻される。
「チカ姉さんが言ってたんだ、美味しいからこそイカ飯にするって。いっぱいくれたから僕の分もあるって聞いたんだぁ。」
「・・・・・・・・・お前、今日ホンマはそれが本命やったんか・・・・・、」
「昨日煮て、今日食べ頃だからおいでって。僕も食べていいよって言ってたよ?」
「姉やん・・・・・・、なんで要らん事言うてんねん・・・・・ッ!!」
決して家次の逆らえない相手の名を逐一会話に挟むという、かなりいやらしい物言いをする辺り、稔の言葉は絶対に逃がさないと言わんばかりだ。何がそこまで執着することがあると思う気持ちもあるが、姉の言葉に家次自身、先程最高傑作だと言って仕舞った手前、もう相手に言質は獲られているに等しい。最後まで取っておきたかった冷蔵庫の中で味の良く染み込んだイカ飯は、稔が帰ってから家次が晩飯前に食べようと思っていた数少ない残り一つなのだ。
「冷蔵庫の中の僕のイカ飯!今日のおやつで良いからねぇっ!!!」
「なんで入ってんのん分かんねんッ!もう食うた!足しか残ってなかったんやっ!!」
「はい嘘ー!さっきお茶とる時に見ましたぁー!2段目のタッパーのなかですぅー!!」
「こん・・・・・っ、クソガキぃぃ゛~~~~!!!!」
先程までと一転、今度は高々と両拳を上げ喜びの雄叫びを上げる稔に対し、家次の身体が勢い良く机の上に崩れ落ちる。稔の完璧なまでの反論に勝機を無くした家次の拳が、ダァンッ!!と重たい音と共に座卓の上に振り下ろされたが、それに臆するようではこんな言葉の応酬なんぞ出来ようはずも無い。
「・・・・・・くっそが~、後で食べようと思うとったんやぞ・・・・・っ!!」
「人の取ったら駄目なんだよ、家次さんっ!もし食べてたらチカ姉に言いつけるよ、僕!」
「ああああぁああぁあぁあ゛あ゛あ゛ッッッ~~~~!!!!!」
どうやっても最初から逃げ場の無かった状況に、家次は机の上に突っ伏したまま唸り声を上げるが、今日は最初から勝負にさへもならなかったのだから、諦める他道も無い。おやつ楽しみー!と子供らしく陽気な歓声を上げる稔の声を確かにその耳で聞きながら、絶対に【次】があったら見つかってはなるものかと、家次の頭は冷蔵庫の中、隠せそうな場所をひっきりなしに探し続けるのであった。
・稔くん
初めてイカ飯を食べたのは家次作の物で、小学生には生姜の辛みがきつくて美味しくないと途中で食べるのを止めてしまったが、外で美味しいと評判の物を食べた時に、家次作の方が美味しかったと思い、それ以降家次の作るイカ飯しか食べなくなってしまった口の肥えた子ども。母親が一体何杯の烏賊を買ったのかは知らないが、電話口でもち米の用意をしていつ作るから、とチカに言われていたので、絶対に食べようと気持ちが先んじていた。はち切れんばかりにパンッパンに米の詰められたイカ飯はとても美味しくて、大満足でした。
・家次さん
最初のはごはんに、足は卵と一緒におかずに、そして残りはなんぞに食う気満々だった食いしん坊。冷蔵庫でしっかりと冷やして味の染み込んだものを、昼に鍋でもう一度火を通して食べたらやっぱり美味しかったので、夕方のなんぞ食いに絶対一本残しておきたかった。最近稔が成長期に入って食欲が増えてきたので警戒をしていたが、まさか姉という名の伏兵がいるとは思っていなかった料理上手。最終的にこの後おやつに残りのイカ飯を差し出すことになったが、四つに切った家と下を稔がくれたので、少し不完全燃焼ではあるが、まぁ、なんぞ食いか・・・・、贅沢な。と、場違いな気持ちを胸に抱いている。
・チカ姉さん
基本イカ飯よりもゲソをおかずにご飯を食べたい人だが、今回の味が大変お気に召していたので、少しだけ多めに持って帰った家次の戦犯。と、見せかけて、実は真空パック機を持っているので、いくつかの三つ程イカ飯を冷凍できるようにしてくれていた優しい姉。夜になって今日起きた一連の騒動の文句を言いに来た家次に、冷凍庫に入れておきなさいと渡してくれた。ちゃんと冷凍やけになるから早めに食べる様にと注意点を伝える事も忘れない、全部見越している系姉である。




