旅行おみやげ。 ①
タイトルに①となっていますが特になにも繋がらないので、気にしないで下さい。
夏休みという名の長期休暇は、子供にとってはそれはもう特別な響きを持っている。毎日決まった時間に起きて、同じ道を往復する日々から解放され、カレンダー通りの休日から解放され、誰に文句を言われる事も無く好きな時間に寝起きし、再生紙に印刷され、教師から配られる月間行事予定に行動を縛られる事も無い。誰かが決めた毎日をなぞって行動するのではなく、自分の意志で、自分だけの予定を作り進めていく、一年の中でも特別に長い休みの期間である。毎日を友達と過ごそうか、どんな遊びをしようか。しっかりとエアコンが効いた、涼やかな部屋の中から、インターネットという世界に繋がる大海原で過ごすも良し、自らの足で現実の道を行き、熱を感じ、その身でもって、その時にしか得ることの出来ない唯一無二の楽しみを感じるも良し、何もせず、ただ布団の上に、椅子の上に根を張って普段とは一味番う長期休暇特有の直ぐに終わる事の無い【余裕】を、存分に堪能するも良し。過ごし方は千差万別、そしてそれは稔にとっても変わらない、皆と同じ義務を果たしたからこそ得られる、至極真っ当な権利に他ならない。夏休み前の学校で、各教科毎に出された課題はあれど、配布と共に休み前からコツコツと進めていた稔にとって、他人の目から見ても残る課題の量は決して多くは無いと分かる程度には減らされている。残る課題は国語の読書感想文と生物の自由研究、そして英語の書き写しがA4プリント数枚程度という所か。当に終わらせた社会の穴埋めと数学のプリントは、忘れないようにと既に通学鞄の底へと存在そのものを無かったものとして押し込んでしまっている。そして何より、簡単な物からでもこうして課題を終わらせているからこそ、何の気兼ねも、後ろめたさも無く、楽しめる予定が、夏休みの始まるずうっと前から稔には確かに存在していたのだ。
「暑い~・・・・・、湿気凄い~・・・・・・、」
昼を少し過ぎた午後1時頃、天辺を少し過ぎて尚、より存在感を増したカンカン照りの太陽の下、稔は一人薄手のビニール袋を片手に熱されたコンクリートの上を歩く。上からだけでなく下からも容赦の無い熱に挟まれて、オーブンで焼かれる食べ物の気持ちが嫌な程良く分かる。しかも蒸し料理機能付きらしいそれは、稔の身体の中から水分が出ていかないようにと、美味しさを閉じ込める要素も持ち合わせているらしい。まるで毛穴の一つ一つに至るまで塞ぐような全身に纏わりついて重だる熱い大気は、じっくりと時間を掛けて調理をする、塩釜焼を彷彿とさせる。塩は勿論だが、一番はやはり食材の旨味で勝負をしていると、白い歯を見せて言っていたホテルの調理スタッフの顔と、その後口にした肉の旨味が、スッと稔の頭を静かに過ったが、自分が調理される側に成るなんぞ、思いもしなかった。
「お魚と、とりさん・・・・・、美味しかったです・・・・。」
石窯焼きの中から、香草と共に何かの葉に包まれ蒸し焼きにされた身は、ほんのりと野菜の甘みと塩気が効いていて、それでいて噛むほどに溢れ出す肉汁が、ふっくらと柔らかく瑞々しい身が、それはもう本当に美味しかった。残っていればおかわりをと思う程人気だったそれは、確かに手間暇が掛けられているからこそ、そんなにも美味しかったのだろう。
「僕、骨と皮しかないのに・・・・、絶対美味しくない・・・・・、」
一体誰に向かっての反論か、それとも弁明か。一歩一歩ゆっくりと歩を進めながら、ぼそりと呟いた稔の言葉は誰にも聞かれる事も無く、時雨所か濁流の様な、鼓膜が痛くなる程盛んに繰り広げられる情緒も風流もへったくれも無い蝉の大合唱によって、全て掻き消されてしまった。
それらに耐えながらも歩を進め、視界の先に見えてきた良く知った家垣に、酷暑の中、ようやくたどり着いた目的地の姿に、ホッと安堵した息が、稔の口から漏れ出した。自宅からここまで歩いてそう時間は掛らない、だが環境が違えばその時間は長く苦しい、いわば苦行そのものへと姿を変える。春や秋どいう活動のし易い時期であれば、季節の移り変わりを感じながらの散策、と言えただろうが、今や真夏と真冬は拷問の一環に成り兼ねない。お昼は日傘を差した方が良いかもしれないと、未だ外を駆け回り遊ぶ思春期に差し掛かる前の男児に、母親が思わず男物の晴雨兼用の傘を購入しようとする程の酷暑だ、短い距離と言えども時間や日照りの強さを考えれば、恐ろしい事に他ならない。その心配を恥ずかしさから慌てて大丈夫!要らない!と、稔が母の言葉を遮る様にして断ったのが二日前の事、塀に近づくや否や、そそくさと木々の陰にその身を隠した自分の行動に、稔は変な見栄なんかはるんじゃ無かったと、天邪鬼な自らの行動に、少しばかり悔いたのだった。
玄関までもう少し、見えてきた大きな門構えに、稔はまるで助けを求める様に小走りで駆け寄る。門の手前を通り過ぎ、直ぐ傍にあるくぐり戸の前へと赴けば、時間が悪かったか、木陰から外れたナンバーロックは、その色も相まって、太陽光を吸えるだけ吸い込んでいたらしい。早く入力を、と、真っ直ぐに伸ばした指先が触れたのは、キーパッド部分の防犯兼水濡れ防止用のカバー。今の時間帯も、日光の強さも、気温も何もかも忘れ、一秒でも早く中に入ろうとそればかりを考えていた。自らの招いた報いだ、だが、だからこそ腹立たしい。
「~っだあッツい!!んの、蓋ァ・・・・っ、あっついなぁ、もう゛っ!!」
思わず。力の限り持ち上げた筈の蓋部分を、行き場の無い怒りに任せて叩き落とす。ヒンジ部分を中心に大人しく元の位置へと戻りはしたが、開いたのはお前だと言わんばかりに、パキャン、となんとも乾いた音を鳴らしたプラスチック製のカバーの音が、真昼に人通りの無い路地の中に、なんとも虚しい音を響かせる。この暑い中、突然の雨風の襲来も、日中の強い日差しからも守っているのに何たる仕打ちかと、きっとこの蓋に口が付いていようものなら、己を扱う稔に対して小言の一つや二つは漏らしていたに違いない。怪力の家次が扱ったとしても、そう簡単には壊れない、その【基準】を満たしているからこそ選ばれた物だ、稔程度の力なぞ屁でもないだろうが、それでも他人様の物に無礼を働いたのは事実だ。しかも軽めとは言えど結構良い音を響かせてしまっている反面、中にいる人物に聞かれていたとなればどうだ、なんとも言い訳の仕様も無い。
「あ・・・・っち、あっち・・・・、えぇ・・・・・視にく・・・・、んー・・・・?」
蓋の端をつま先で弾き何とか上へと持ち上げたが、使用の度に毎回数字がランダムに表示されるせいで、感覚で押すことも出来なければ、防犯の関係上薄らと浮かび上がる数字は、日の下では大変視認し難く、稔はぐっ、っと眉間に皺を寄せて、食い入る様にパッドの上に視線を走らせる。普段使わない分より厄介に感じるこの防犯システムが、稔そんなに好みではない。最初の方こそ、それはもう子供心にボタンを押して開閉するという開錠を一種の遊びの様に感じてはいたが、もう慣れてしまえば煩わしい事この上ない。それでもお前はいつでも勝手に入れるようにと、開錠ナンバーと、それ専用の複製キーを持たせてくれているのは、家次とチカの優しさに他ならない。
「・・・・・っし、鍵~・・・・・、お邪魔しまぁーす。」
ピピ、と番号認証完了の合図が鳴ると共に、稔はズボンのポケットから少し小ぶりな鍵を取り出し、機械の下側に設置されていた鍵穴に挿入する。そしてそのまま軽く捻ると、それと連動し、木製の厚い扉の内側に設置されているている装置が稼働して、少し遅れて扉の鍵が外れた音がした。路面の照り返しに熱を帯びた戸を押せば、少しばかり軋む音を鳴らしながらも、大人しく開かれた扉の向こうは、稔の今立っている場所とは打って変わり、開閉に揺らいだ空気が優しく頬を過ぎていく。カラリと乾き、少し冷たい空気に、青葉の瑞々しい苦みと、甘い花の香が混ざった匂い。いつもと同じで時期によって少し違う。良く知った、落ち着く香り。目を閉じて、その香りを鼻から肺一杯に吸い込んで、稔は一歩、敷地内へと足を踏み入れる。後ろ手に閉めた扉の電子ロックは有能で、戸をきちんと定位置まで戻せば、後はまた勝手に鍵を閉めてくれる。戸締りの心配をしなくてよいというのはなんとも気が楽なものだ。
「涼しぃ~・・・・、此処まで頑張った~・・・・・。」
木漏れ日が注ぐ石畳の上、一人自らを褒めたたえる言葉を口にしながら、稔はフラフラと少し左右に揺れながら最後の力を振り絞る様に、へにゃへにゃになった足取りで、開けっぱなしになっているであろう玄関へと一歩ずつ静かに歩を進めた。
*
然程力を掛けずとも、カラカラと軽快な音を立てる玄関扉に、稔は確かにお邪魔します、と口にしながら一歩、通り慣れた土間へとその足を踏み入れた。小上がりの向こう、靴を脱ぎながら視線を上げた先に、縁側に昼寝用の御座マットを敷き、片腕を枕に横たわる大きな男の姿を確認できる。夏の陽気もなんのその、かくん、カクン、と時折咬み合わせが悪いのかなんとも不安定ながらも首を振る扇風機に、蝉の声と凪いだ空気に揺れる風鈴の音色が重なって。あんなにも暑かったアスファルトに照り付ける太陽に空を行きかう電線が当たり前の筈の世界から、まるで昔に時間を止めて空間ごと隔離されたようなこの場所は、未だ幼い稔の胸に確かな懐かしさと、失いたくないと思わせるような愛着を抱かせる。風に揺れる木々のざわめきに、重なる様に鳴く蝉の声が押しては引いてを繰り返す。外から吹き込んでくる風はカラリと乾いて、そして少し土の匂いがする。そしてちりん、と鳴る風鈴の硝子の奏でる音は控えめで、静かに聞いている程確かに眠気を誘う。ああ、自分は此処に帰って来たのだな、そう思うと共に安堵した身体がゆっくりと一つ息を吐くと共に、稔は寝転がったまま動かない大男の元へ、とん、と軽く床を鳴らしながら近づいた。
「ただいま、家次さ「ぅおおおおおおおおおわぁぁあああ゛ッ!!!??なんじゃボケカス誰じゃお前ェアホンダラがぁああーーー!!!!・・・・・ぁ?お前か??・・・・んやねん、ビックリさせんなや!入って来たんやったらもっとちゃんと音出しながら出てこいや・・・・・、」・・・・・ビックリしたの、こっちだよ、・・・・・ただいま。」
数日とはいえ久々の訪問に、年甲斐もなく感じた少しのノスタルジック。この光景を大切だと思えた、そんなな少し背伸びをしたような、なんだか感傷的な一幕を、あの時間を返して欲しい。挨拶と共にいつもと変わらない返事があると思っていたのに、結果待っていたのは罵詈雑言のオンパレードだ。昼食をとって暫くの穏やかな昼下がり、いつも通り呑気に縁側に寝そべり、御座の上昼寝でもしようかと、家次はもしかしたら船を漕いでいたのかもしれない。だからこそ急に己に向けて掛けられた声に驚き、跳ね起きると同時に、そりゃ威嚇まがいの暴言も飛び出してしまうかもしれない。しれない、が、稔もわざわざ音を殺して家次の傍に忍び寄った訳では無い、寧ろどちらかと言えば音をさせていた方だ。
「お前、急に来んなや!ビックリしたぁ~・・・・・、お前ワシの血圧の事分かっとんのんかッ!?」
「急じゃないよ!ちゃんとおじゃましますって何回も言ってたし!何なら多めに音鳴らしながら入って来たよッ!!家次さんが無用心に寝てたんじゃん!それって八つ当たりだよね!!?」
「何言っとんねんお前っ!ワシが聞こえてへんからお前のせいやろ!蝉より小さい声で音立てた言われても聞こえるかぁ!!!」
「あんな大軍勢と一緒にしないで欲しいんだけど!?」
売り言葉に買い言葉とは言うが、これはもう売られ言葉に正当防衛だと、未だ心臓がバクバクと音を立てているのか、胸を押さえながら捲し立ててくる家次に、稔も今回ばかりは負けて堪るかと、懸命に言葉をぶつけられては叩き落としてを繰り返す事数分。よくもまあ口の回る事だと、この場にチカが居れば呆れを通りこし、寧ろ感心したとばかりに手を打って笑っていただろう。それ程までに油断した姿を晒したくなかったのか、縁側で眠っている姿を見られたくなかったのかの審議は定かでは無いが、今回の驚きに慌てふためいた姿を稔に見られた事が、家次にとっては在ってはならなかったという事なのだろう。
「・・・・・もういいっ!僕手洗ってくるから、お土産ここに置いとくねっ!!」
「なんや急に!最後まで話しせんのやったら無駄に言い返してくんな阿呆っ!!」
「僕じゃなくって家次さんが!話通じないんじゃんかッ!!洗面台借りまぁ~~~すぅぅぅ゛!!!」
焦った時に無意識に余計な事を口走る才能に掛けては、他の追随を許さない。それが家次という生粋のクソガキ根性の持ち主である。言葉を交わす程に終わりの見えないやり取りに、これ以上無駄な時間を過ごして何になる、そう思うと共に一歩引いた稔に、直ぐに不必要な挑発宜しい言葉を掛けた家次に、稔は手に持っていた土産の入ったビニール袋を、思わず家次の顔目掛けて投げ付けそうになるのをグッと堪えて、ゆっくりと袋の底が床板の上に着き、重さが手元から離れた事を確かめると同時に目一杯空気を吸い込んで、今ばかりは聞こえよがしに、家次目掛けて叫ぶ様にい要件を伝えた。そうして返事も待たずにフンッ!と鼻を鳴らし、家の奥へと歩いて行く稔の背中を見つめながら、気が付けば静まり返っていた蝉の鳴き声に、やっとその声に正気に戻った家次もまた無意識に、小さな声で確かに『こっわ・・・・、』と驚きの滲んだ言葉を紡ぎ出していた。
*
水に触れて少しは怒りも静まるかと思ったが、現実はそう簡単ではない。一人になるにつれて情報の整理の追いついた頭は、やはり自分は悪く無い、あれは完全に驚いた家次の八つ当たりだと、落ち着いたからこそより頭の中鮮明になった先のやり取りに、じわじわと稔の怒りが再燃させられる。勝手に驚いたくせになんだコノヤロウ!そっちの方がもっとずっと阿呆ではないか。バシャリと音を立てて少しばかり乱暴に汗の付いた顔を洗い、備え置かれたタオルに乱暴に手を伸ばし、少し強めに顔を擦り付ける。こうしてタオルを用意してくれている事には感謝するが、それでも意味の分からない八つ当たりは、誰だって御免被りたいに決まっている。
「はーらーたーつーぅ・・・・・!」
何とか自分の中沸き上がる怒りを鎮めなければと、それでもじんわりと抑えきれない感情を言葉にして深呼吸を一つ。稔とてもう駄々を捏ねる様な歳では無いのだ、感情のコントロールを出来る様にならなければと、首にタオルを掛け直して、水滴に濡れた洗面台をいつも通り綺麗に拭き上げる。相手は大人で、自分は子どもで、ご飯やおやつも当たり前の様にいつも用意されていて、そして預って貰っている身だ。我慢をして当然だ。
「・・・・・お土産持ってきてキレられるって何?」
だから自分は控えめにしなきゃと思い至りながらも、意図せず自らの口から出た言葉に、稔は一瞬ん?と首を捻らせたが、一旦その言葉は横に置いておくことにした。が、何だろう、妙に言葉が落ちたのか、言い知れぬ感情が一区切りついたとばかりに、蟠りを抱えていた胸の中が、正解を見つけたとばかりにストン、と心が落ち着いた。成程自分はそこに怒っているのだと、稔は原因の大元に気が付いた事を良しとして、その考えに今度こそ終止符を打つことにした。
「癇癪って向けられると面倒なんだな・・・・・よし、と。」
拭き終わった洗面台に、他に水が飛んでいないかを指差し確認して、稔はうんうんと納得したとばかりに一人首を縦に振って、そのまま居間に戻る事にした。納得できればどうということは無い。どうやったって【自分】と【他人】の境界線はあるのだから、何処かで切り離して考えなければ馬鹿を見るのは考えてしまう側の人間だ。だからこそ、答えの無いおいてけぼりの気持ちを一時的にでも脇にでも置いてしまえば、少しは安心できるという事だ。こういう小さな小競り合いは当人間では積み重なればなる程に、気が付けば大きな亀裂を生じさせるが、外から見てみればどっちもどっち、どんぐりの背比べと変わらない。何ならそっちの方が可愛らしく思える位にくだらない事なのだ、どうしても気になるのであれば、一人時間が経ってからでも思い返してみるのも良い。大体のいざこざは笑えない位にはつまらなく、そして第三者目線で見てみれば、どうしたって我の通し合いという、呆れる位くだらない事なのだ。
「・・・・・僕って大人だなー、ちゃんと片付けも人より出来るし、エライ。」
そしてこうして一人口から思いを吐き出して、自分を褒めてやっても良いのだ。結局の所自分の最大の理解者は自分しかいない、という事なのだろう。他人を変えるのではなく、自分と他人の間に、見えない位に細く、薄い境界線を引く事は、両者の面子を守る事に繋がる。幼い頃から働き詰めの母を持つ稔の考えは、他の家庭からすると少しばかり感情表現が乏しく見える上に、時には若干冷たく、まるで切り捨てる様な感情の使い分けをする。駄目だと分かればそこまで。それ以上は望めないと分かったらな損切してでも。決して深追いはしない。
母に迷惑をかけるな、その迷惑は何時か自分に跳ね返って来ると、幼い頃に何度か駄々を捏ねた後、そのせいで得られなくなった代償があったことを、稔は同年代の人たちよりも、早い段階で経験してしまっている。だから言葉を発する時は注意をしなければいけないと、稔は誰よりも分かっているつもりではあった。笑顔が少ない、冷めている、何を考えているか分からないと、小学校に上がる前には近所にも、同じ園に通う子供の保護者や保育士にも、言われているのを聞いた事がある。それ位、稔は喋ることは無かったし、その時生活する上で、別に困った事は無かったのだ。どれだけ他人に表情が乏しいと言われようと、その時々の感情を母が分かってくれれば問題は無かったし、何よりその頃からの付き合いの刀也という、子供離れした空気読みに特化した存在がいたお陰で、何も困る事は無かったのだ。一人でぼうっとしている時間が好きだった、誰にも迷惑を掛けなければ何を言われるでもなく、ただ自分だけの世界で生きるのは心地が良くて、息がし易い。だが年を取ると共に、そんな時間が続くこと無くなり、増え続ける情報に、増えては入れ替わってを繰り返す人間関係に、毎日何かしらの変化を伴う日常は、一人ぽっちで居たい稔を、一人きりにはさせてくれない。『可哀想』《仲間外れ》『入れてあげなよ』《押し付け合い》『誰か一緒に』《残りもの》。息苦しくて、助けが欲しくて、でも方法が分からなくて、精一杯で、何もかもが、嫌で。そんな頃に一人下を向いて帰路についていたある日、稔は此処の家主に、家次に出会ったのだ。
「・・・・・綺麗になったし、戻ろう。」
整え終わった水回りに最後にしっかりと指差し確認を忘れず終えた稔は、くるりとその身を翻して、ゆっくりと来た道を戻っていく。もしかしたらまだぶつくさと文句を垂れているかもしれない家次の存在が気にならない訳では無いが、気にした所でどうにかなるわけでもない。確かに自分も勉強中に扉も開けずに刀也が部屋の中に現れたと考えれば、驚きに何か奇声を上げていたかもしれない。そう考えれば確かに家次のあの反応も納得と言えば納得だが、普通瞬時にあそこまで無意識に他人を罵れるものかと思うと、そこには同意しかねるなと、稔はう~ん、となんともくだらない事を考えては首を捻りながら、縁側へと歩を進めようとした。明るくなる視界の先に目をやれば、そこに敷かれた御座マットはそのままに、その隣付近に置いたはずの、稔の持ってきたビニール袋が見当たらない。アレ?と思わず口を突いて出た声に、おい・・・・、となんともぶっきら棒な呼び声が居間の方から聞こえてきたので、それに釣られるがままに稔の顔が声のした方へと向き直る。
「・・・・・茶、冷たいんでええやろ、今食いモンは豆煎餅しかないからな。」
居間の何時もの定位置にどかりと腰を据えて、チラチラとまるで此方の様子を伺う様な視線を向けながら、唇を尖らせた家次が言う。机の上に置かれた盆の上には、氷の入れられたガラスカップが二つに、少しばかり表面に汗をかいている、同じくガラス製の茶瓶が一つ。そしてその隣には容器に入れるでもなく、パッケージのまま封も切られずに置かれた黒豆煎餅の大袋が一つ。そして一番わかり易い様にと、稔の持ってきていた安っぽいビニール袋は、立派な造りのテーブルのど真ん中に、ちょん、と、居心地が悪そうに乗せられていた。
少し寝ぼけた状態で声を掛けられて、驚いて慌ててしまってすまない、と、家次が謝罪の言葉を口にすることは決してない。否基本謝罪をしたら負けの世界であり、謝る様な事になる行動を取るくらいなら死んだ方がマシだという世界線で生きている家次にとって、謝罪を口にするという行動は、決して軽いものとは言い得ない。だが、言えない代わりに悪いと思っている時は、そこはきっちりと自分の中でもケジメを付けないといけないらしく、少しばかりしおらしい行動を取る時があるのだ。
「それ、僕のお小遣いで二人に選んだお土産なんだ。家次さんもう中身見た?」
「見てへん!そんな行儀悪い事ワシがする分けないやろっ!~っはよソコ座れ!」
「はいはい、座ります。あとお茶は冷たいのが良いです。」
そう言って自らの膝を叩き、そこへ座れと指差す家次に効果音を付けるとすれば、わたわた、あるいはソワソワ、だろうか。早くと急かす様はいつもと変わらぬように見えて、少し気まずいのだろう、唇の先が未だ尖ったままなのが分かり易い。それでも素直に指示に従って対面に腰を下ろした稔に、家次は仕方ないとばかりにフン、と一つ鼻を鳴らすと、氷が入ったコップの中に、良く冷えた茶を注いでから、ずい、と稔の前へと差し出した。
「ありがと、家次さん。あと御煎餅も食べます。」
「おう、開けぇ。・・・・・ほんで、土産、見してくれ。」
「うん!絶対喜ぶと思う!結構良いの見つけたんだー!!」
「ホンマか。そら楽しみや・・・・・早よ見せい!」
「まって今袋開けてるから、今僕の優先順位、煎餅の方が上だから。」
「・・・・・なんでやねん!!お前ワシに土産持ってきたんちゃうんかっ!!?」
ここに来て出た家次の要望に、袋の上を掴んでいた稔の手に力が入ったせいか、バリッ!と派手な音を鳴らした外装に、不規則に破れた袋の中から個包装された煎餅が、机の上に好き放題に飛び散った。
「あぁぁあぁぁあああ゛あ゛ア゛ッ!!!!」
「あぁー!飛んで・・・・・うっるさー・・・・!!!」
今日はどうやら絶好調らしい、良く通る叫び声が、飛び散る煎餅に重なってなんとも悲惨に思えてくる。個包装だからそんなに慌てなくても良いものを、良くもそこまで大袈裟に慌てられるものだと、稔は自分が事の発端であるにも関わらずに、何だか他人事の様に、この人本当に元気だなぁ、と、心の底からそう思ったのだった。
*
「ほんで、ワシにはなんや!?」
「家次さんにはねぇ~、コレッ!くまさんの彫ったヤツ!!」
「ほう・・・・・、ありがとうなぁ・・・・・・、ほう・・・・・・。」
「何か固い良い木の端っこ?のヤツを、一個ずつ手で削って作るんだって。」
美しい艶を持った木彫りのクマは、手を前にして、腰を下ろした姿に形作られている。刻まれた年輪は濃い色をして細く、細かく柄を成し、掌に収まる大きさのそれにしては、あまりにも上等な木材を使っていることが一目でわかる。良く乾き、固く反らず、削り出して即、布で拭くように磨いただけで艶が出たと、目の前でその光景を見ていた稔の話に家次は耳を傾けながらも、思ったよりも可愛らしい顔をした小さな熊を、一体どこに置こうかと、頭の中でいろんな場所に飾ってみては、あっちこっちと試行錯誤を繰り返していた。
「コレエエやんけ。根付にも出来るなぁ~。ちょっとデカいか?」
「根付もあったよ!でもこっちにしたんだー。コレね、後ろから見て欲しいんだけど・・・・・、」
「背中か?・・・・・ちょっと顔左に寄っとんな、削り出しは同じのん無いからな。」
「そう、この背中ね!僕コレ絶対買おうと思ったんだ!!」
「なんでや?」
手のひらの上にちょこんと座った熊の背中を眺めながら、家次は少しばかり頭が中心位置からズレていることに気が付いた。それでも手のひらの中、しっかりと安定をしている所を見るに、重心は真ん中にある事に間違いはない。という事は、稔はこの個体をわざわざ選んだという事だ、それに何の意味があるのかと、小首を傾げた家次に、先を言えと促されるままに、稔はそれはもう嬉しそうに、ニッコリと満足そうな笑顔を浮かべた。
「コレ!家次さんがスポーツ新聞見てる時と同じ姿なんだよっ!!」
「・・・・・・、分からんからもう一回言ってくれるか?」
「家次さんが右手に煙草、左手に馬券握って床に置いてる新聞覗き込んでぃいいたたたたたたたたッッッ!!!!!」
両手を握り、自信満々にそう言い切った稔の頭を、真正面から家次の右掌が鷲掴む。ガッチリと、五指で掴んだ少年の頭は、家次の人よりも大きな手から逃れる事は難しい。ミシミシと音を立てそうな程の力で掴まれた頭に、稔は必死に抗ってはみるが、幾ら利き手でないとは言えど、色々と握り潰せる握力の持ち主相手に勝ち目なんぞあろうものか。机を挟んでいる分多少力加減はしてくれているのだろうが、家次とてそう簡単に掴んだ頭を放す気は無いらしい。
「新聞読んどるワシに似てる熊なんやな?」
「ぅぅ゛、そう!だからそれにしたのっ!!」
「んで姉やんには何買うたって?」
「なんかキレーなビードロ・・・・・ぁぁぁあああ゛あ゛あ゛」
家次の機嫌を取るのは難しい。稔は確かに良い物を選んで来た筈なのにと、より頭に加わる力に声を上げながら、だってその熊似てたから!!と、最後の抵抗とばかりに火に油を注いだのだった。
・旅行帰りの稔くん
今帰宅した母が明日からの勤務に向けて家で寝ているので、疲れはあるが楽しかった気持ちのままお土産を持参したところ、喜び迎えてくれるかと思えば、大声で迎えられて一瞬息が止まったが、驚き過ぎて逆に冷静になった。この後頭の5か所が尋常ではない位痛くなる。
・血圧高いんだ家次さん
程よく涼しい場所で食後の日陰ぼっこ中にいきなり現れた少年の声に一瞬で血圧が跳ね上がり、一緒に体も跳ね上がって侵入者警戒態勢に入ってしまった。耳が痛くなるくらい心臓がバクバクしたので、ワザとでは無いといえども稔に少しの怒りと、悪い事をしたとは感じている。可愛い小物は好きでお土産系のものを集めて部屋に並べているので、結構喜んでいるが、余りにも稔の例えが悪かったので、思わず頭を鷲掴みにした。これは悪くないと思っている。
・チカ姉さん
昼間に不在だったため、夜になってから弟伝いにお土産を渡される。綺麗な赤と金箔の小ぶりなビードロに、あの子アタシの好きなの知っとったん!?と大変喜んでいた。その上で家次のお土産の熊の置物の顔が、おめめがくるくるのちょっと困り顔な表情が、小さい時の家次と似ていると大変お気に召して、それアタシにちょうだいな、と思わず言ってしまった。チカも気に入った為、何時でも見れるようにと家次宅の電話機の横に置かれることになった。




