僕のともだち。3
多分あと1本で終わる予定です。お付き合いの程、よろしくお願いします。
事の始まりから数えて五日目、それでも学内に話が広がってからと考えればまだ三日。だが学生という集団が生み出す効果か何なのか、停学中の幼馴染の話題は、皆の日常会話の中ではもう【終わったもの】として消耗されてしまったようだ。いや違う、終わったものと消耗されていろと願っていたのは稔だけなのか、たった三日しか経っていない筈なのに、今や刀也という存在は《アイツみたいになるぞ!》と、一つの悪戯の代名詞の役割まで課されてしまったようだ。何も知らない者達が、何も知らないままに憶測を立て、ふざけるに値して相手を嘲笑するためのモデリングケースとして名前こそ出しはしないが、からかいの範囲で口にする。その日もやはり、稔は只々不快だった。歯がゆくて、不愉快で、そして何より自分が弱虫であることが情けなかった。友人の事を蔑ろにされて、それでも反論の声一つ上げる事の出来ない自分が、声を上げて変わる他者からの視線の変化が、反応が、怖い。休憩時間の度、嫌でも聞こえてくる誰とも知らない相手の会話の合間に、『刀也』の存在や名前が飛び出す度に、稔は只々机の上に体を伏せては、昼寝をするフリを続けていた。
そしてまた逃げる様に学校から飛び出した稔の足は、唯一弱さの拠り所であり続けてくれる場所だ。昨日落書き事件を起こされたばかりだが、そんなことよりもずっと稔の心を楽にしてくれる場所であると、足が勝手に向かってしまうのだ。嫌な事から逃げるのは格好悪い事だと思っても、自分一人ではどうしても抱えきれない問題は、家次は逃げても良いと言ってくれた、その言葉を常に頭の片隅に、稔は駆ける速度を上げていった。やっと一つ息を吐けたと思ったのは、公道に面した木々の瑞々しい新緑とした隙間。駆けてきたせいで心拍数が上がったせいか、不安からの解放からか、きっとどちらもそうなのだろう。交通量の少ない片道一車線ずつの車道に、信号機の無い遊歩道を足早に横断して、誰にも見られていないのに、木々の隙間に隠れる様に、稔はその細い体を滑り込ませた。
*
早足に木々の間を潜り抜け、強く光差す方へと目掛けて少し、暗がりから顔を出したせいで一瞬強く思えた日差し少し目を細めながら、稔はいつもと変わらない広い庭先に、見慣れた人物が一人、今日も分からず縁側に腰かけていた。
「・・・・・・っ、ただいま、家次さん・・・・、」
「・・・・おっ?来たんか稔、おかえりぃ。」
いつもと何ら変わらない挨拶に、昨日の事があったからか、家次は意外とばかりに目をしばたたかせていた。風通りの良い縁側の廂の下で胡坐を掻いて、片手に煙草、その傍には灰皿を入れた、漆塗の細工の施された木箱が一つ。もう傍らにはこれも何時もと変わらず菓子が入った籠が、と、思ったがどうも今日は違ったらしい。家次のもう一方に置かれたものは、その陰に隠れながらも微かに当たる光がガラス瓶の中反射して、良く知ったはずの真白の金平糖が、まるで本物の宝石の様にキラキラと淡く瞬いていた。いつもであれば独り占めをして、カラになっている状態か、満杯になった状態でしか見たことが無かったガラス瓶に、もう半分手前まで嵩を減らしているが確かにそこに存在していた。珍しい事もあるのだなと、稔の目は家次のすぐ隣の瓶に一瞬釘付けになっていたが、獲られてなるものかとおもったのだろう、視線に気が付いた家次本人の手によって、素早く背後へと隠されてしまった。
「・・・・・こっち見んで、早よ手洗って来い。」
「別に僕盗ったりしないしぃー!・・・・・昨日のお詫びでちょっとくれても良いケド・・・・?」
「お前・・・・・、狡ズルなったな・・・・。早よ玄関行け!!」
口を尖らせて牽制の言葉を放つ家次に、稔も負けじと昨日あったばかりの出来事を引き合いに出して応戦をしてみるが、金平糖に対する家次の執着心は他の追随を許さない。どれだけ自分が悪かったとしても、他の菓子は渡してたとしても、小ぶりな砂糖の粒は絶対死守と本能にでも刻まれているのか、明らかに稔の要求に明確に答える事を拒絶しては、寧ろ早く行けとばかりに頻りに手を払う仕草を繰り返している。
「お邪魔しまぁーす。家次さん僕金平糖大粒ので良いよー?」
「抜かせクソガキぃー、いらん事言わんでええから早よ手洗って来い!!」
「大粒で良いよぉー!!!」
「阿保抜かせガキが!茶っ葉入れんぞッ!!!」
今日は特に勉強をする気がない稔は、玄関脇に鞄を置いて、慣れた様子で小上がりに足を掛ける。目の前に広がる視界のその先、縁側にあった筈の大きな人影はその場から消え、今は台所で急須を片手にお茶の準備をしてくれている。その時、つい先程まであった筈のガラス瓶の姿は縁側からは消え去っており、どうやら居を場所を移したらしい。稔が家次に対して強く出れる、有利な立場に立てるのは今位のものだ。この時を逃してなるものかと、稔は声を張り上げて、家次に今日のおやつの要求を伝えるが、相手はこれだけは譲らないとばかりに頑なだ。折角越した茶の葉を、茶こしをチラつかせながら譲る気はさらさらないとばかりに脅しを掛けてくるのだ、なんと卑怯な大人だろう。唇を尖らせてぶつくさと文句を垂れながら廊下を進み洗面台へ向かう稔に、家次も負けじと眉間に皺を寄せて眼光鋭く文句の応酬を続けた。そして稔が手を洗い、縁側へ戻ろうとした時には、のっそりと、動かず静かな岩の様に、その大きな背中はいつも通りの定位置へ、確りと収まっていた。
「お茶ありがとう家次さん。・・・・、よっ、いしょ・・・・・と、」
「まだ若いんに、ジジくさい掛け声やなぁ。」
「家次さんも何時も言ってるじゃん、ジジくさい掛け声。」
「あぁ゛ん!!?ワシはええんや、もうジジイやからな!お前はガキやろがい。」
「もう小学生じゃないもんね!しかもあと六年で法的には成人扱いだし!!・・・・あ、これ、」
いーっ!と口を真横に引いて、これではまるで子供同士の口喧嘩だ。家次の程度の低い言いがかりに稔も負けじと応戦するが、内容のなんともくだらない事か。しかも稔の言う通り、立ち上がったり座ったりと、動作の節々に声を挟むのは家次の方であり、稔がこうして声を出す様になったのも、家次と関りを持つようになってからに他ならない。家次さんのせいだと言い募った稔だったが、ふと二人の間にいつも通りに置かれた盆の上、急須と氷の入った湯呑茶碗のすぐ傍に、普段から見たことの無いそれはもう小さなガラスの小鉢が一つ、まるで稔の目から隠す様に、急須の陰に隠れる様にそっと置かれていた。手のひらに収まるどころか、包み込むことも出来そうな程の小さく可愛い花を模した小鉢の中には、大小の小さな砂糖粒が、本当にほんの少しではあるが顔を覗かせている。
「金平糖!もしかして僕の今日のおやつ!!?」
「お前が食べたい言うたんやろ、これで昨日のんはチャラやぞ。もう文句言うなや。」
「家次さんが金平糖くれるなんて・・・・ありがとう!!」
フンッ!と不満だがしたかないとばかりに鼻を鳴らし、急須の陰から盆の上、稔の側へと器を移動させた家次に、稔は滅多に口に出来ない美味しい金平糖にありつけると、先程までとは一変、その顔をキラキラと輝かせた。が、しかし、現実はそんなにうまい話がある訳が無い。自身に用意された茶碗の横に揃える様に置かれた小鉢に、わぁ~っと、心から驚嘆の声を漏らした稔であったが、その喜びは長くは続かない。器から指が離れると共に、家次の指先が、ひょい、ひょい、と、器の中に二つだけの大粒を、そのまま攫って行ってしまった。堂々と目前で行われた犯行に、稔は口をあんぐりと開けたままその指先を目で追ったが、どんな望みも本人の思うままに進む事など稀であり、さも当然と言わんばかりに二粒きりの大玉は、そのまま家次の口の中へと消えていった。
「僕の大粒・・・・・、ぇ・・・・・?」
「ワシのんや。」
「イヤ僕のって言ってなかったっけ!?」
「全部とは言ってない。お前は小さいから、小さいヤツや。ワシはデカいから大きいヤツや。」
当り前やろ、そう言って金平糖を奥歯で噛み砕いたのだろう、ガリッ!と軽やかな音を響かせて言い切った家次に、向けられる稔の視線は落胆の色が多く滲んでいた。それでももう取られないようにと、稔は盆の上置かれたガラスの小鉢をそっと持ち上げて、胸の前まで持ってくると、その器を手で包み込むようにして家次から守るのだった。
「大人ってズルいや・・・・。」
「何言っとんねん、ワシの気持ちで分けたってんぞ。感謝せえ。ほれ、籠。」
「僕今日海老満月一人で食べるから。それでチャラで良いよ。」
「何ど厚かましい事言うてんや、ワシのんでお前のんちゃうぞボケぇ。」
一人落ち込んだ体で横暴極まれりな注文を付ける稔ではあるが、わがまま放題・好き放題謎の愛嬌だけでに生き抜いてきた家次を出し抜ける訳がない。大胆な菓子独占宣言も籠を奪い取られ、お盆のすぐ傍、二人の真ん中にパッケージの後から背開きの様に封を切られては、もう独占も難しい。やはり今日も負けなのか、否、それでも戦果はある。稔は手のひらをそっと広げ、小さなガラスの器の中を覗き込む。二つあった大粒のそれが姿を消しただけで、なんとも見た目が貧相になってしまったが、それでも小粒を数えてみれば、最低でも十粒は存在を確認できる。普段口に出来ない物を手に入れられたんだから、こればかりは諦める他ないのだろう、家次の落書きをした英語の教科書は、稔の母の手によって、更に進化を遂げているのだから。それでもやっと手に入れられた稔にとっては希少な菓子だ、たとえ数粒だったとしても渡すまいと、自らの身体を盾として稔はそれはもう注意深くガラスの小鉢を菓子袋とは反対側、家次の手の届かない場所へと静かに置いた。
「・・・・・この金平糖ホントに美味しいよねぇ~」
「せやぞ、特別なヤツやからな。やから買うてんねんやろが。」
「久々だけど美味しいー、うまぁ~・・・・。」
「お前も口肥えてかなんな、えらいこったや。」
器の中から指先で一粒摘み上げ、そのままひょい、と口の中に放り込めば、固く乾いた表面が少しずつほろほろと溶けて、下の上に優しい甘みが広がってく。スーパーの駄菓子コーナーや、土産屋の軒先で売られているものとは訳が違う。着色料や香料の一切を使用せず、砂糖の粒子まで拘りがあるらしい。歯で噛み砕くことなくほどける様に口の中溶けて、後引かず無くなるその味は、家次が用意した煎茶の苦みにも良く合うのだ。そして合間に摘まむ海老満月の塩気と旨味が余計に砂糖の甘さで際立って、口の中がずっと美味しいで満たされる。これは菓子が好きな家次が渡さないわけだ、と、隣からそれは鋭い眼差しを向けてくる家次に、稔は知らぬ存ぜぬを決め込んで、また次の金平糖を口の中へと放り込んだ。そしてそんなに時間は経ってはいない筈なのに、気が付けば優しく小さな甘さの結晶は、早々に底をついてしまったらしい。指先で一粒、摘まもうとしても捕まらないそれに器の中指を動かせば、指の腹や爪の先が触れるのは、ひやりと固く滑らかなガラス小鉢の内面だ。確認しようとそのまま器を持ち上げて覗き込んだ小鉢は、きらきらと太陽の光に柔らかな反射を返すだけで、その中に転がっていた筈の小粒の星は本当になくなってしまったようだ。幸せな時間が過ぎ去るには早すぎる、右を見れば開けた時には山になっていた筈の海老満月も、もう残すところ2、3枚といったところ。何故に此方までそんなに数が減ってしまったのか、訝しがるように視線を上げ、怪訝な表情を浮かべ見上げてくる稔の無言の問い掛けに、同じく疑惑の目を向けられた家次は眉間の皺を深くして、口をへの字に曲げて応戦した。
「家次さんヒドイよ、そんなに食べなくて良いじゃん。」
「ワシやない、お前が一人で食べとったんやろが。こっち擦り付けんな!」
「うっそだぁー!そんなに金平糖で怒る事ある!?しかも大粒くれなかったくせに!」
「お前、人からもろといてよう言うわっ!お前が半分食うた、ワシだけやない!!」
うっそだぁー、と何度も繰り返し問いかける稔に、家次の眉間の皺は更に深く濃い影を作り、眉を膨らませて大声を出す寸前という所か、何とか怒鳴らないようにと怒りを抑えながらも、無実を訴える眼光は鋭く、唇を尖らせてぶつくさと漏れ出す文句は止まる事を知らない。
「僕普通にしか食べてないもん!いつも通りゆっくりだったし、重ねて食べたりしないもん!」
「何言っとんねんワシが何回お前の茶注ぎなおしたか分かるか?二回やぞ!?」
「僕そんなにお茶飲んでない!家次さんこそ話し作って誤魔化してるんじゃないの!!?」
「なんでワザワザワシがそんなことせなあかんのんや!お前が金平糖とずっと交互に食うからそうなっとんのんやろがッ!人の菓子贅沢な食い方しよって文句までよう言うな、ワシの海老満月はお前とは二枚差や!寧ろワシの方が食うとる分少ないわッ!!」
稔の返答に咆哮宜しく一気に捲し立てた家次に、それでも家次よりも食べた量が多いと言われるのには納得がいかない。くだらない冗談をいう事は合っても嘘はつかない、何時だって喧嘩口調の家次の口から出る言葉は真実だ。しかも今回は金平糖の事もある、根に持たないわけがない家次だ、たかが小さな煎餅と謂えど、枚数を数えていたことも頷ける。
「・・・・・大人が食い意地張ってるのは、僕は良くないと思う。」
「お前はまずワシに対して素直に謝ったらどうやねん。」
唇を尖らせて、負け惜しみにぶつぶつとそう呟いた稔の頭に、家次の手刀が真っ直ぐに振り落とされる。ゴっ、と低く鈍い音と共に、いてッ!と漏れた少年の声に、家次は当り前だと言わんばかりに、フン、と鼻を一つ鳴らして見せた。
*
「今日の菓子はもう仕舞いや。お前ワシの分まで食いよって、食い過ぎや。」
「僕食べた気してないのに、家次さんはヒドイや。」
「何言っとんねんワシの菓子やろうが!食えるだけありがたいと思え。」
副うそう無い家次からのド正論に、稔は頬を膨らませ不貞腐れた表情を見せるが、返す言葉の在ろうはずもない。菓子にしても茶にしても、その金の出どころは間違いなく家次出資だ、甘えさせてもらっているのを分かっているが故に、本来なら稔がそう易々と反論なぞ出来ようものか。それでも素直に、特に今日の菓子は美味しく感じたのは事実、名残惜しいやら口さみしいのか、どうにも何か物足りないと、稔は一応黙りはしたが、頬をぷくりと膨らませ、唇を尖らせた。
「今日のお前はホンマにめんどくさいのぉ・・・・、ホレ、これやるから。」
「・・・・・なんでこんなの持ってるの?」
「駄菓子屋で売っとったんや。ババアがまけるから買え言うて、勝手に袋に入れよった。」
「はあえぇー・・・・ヒヨリ婆さんがくれたんだ、お菓子じゃないって珍しいね。」
「貰たんちゃう、買わされたんや!!何処の誰が人にタダで物渡す!?あのババアどんだけがめつい思てんや、一円でもまけんぞ!!」
この分の金があれば馬券が一枚買えたのにと、そう語気を荒げながらとてつもなくくだらない文句を垂れつつ、家次の手は乱暴に脆いパッケージを引き裂いた。誰もが予想できただろう事態だが、パンッ!と乾いた破裂音を響かせると共に、良く知った黄緑色した吹き具がシャボン液の入ったピンクや黄色のボトルと共に、縁側の上で各々気の向くままの方向へと好き放題に飛び散っていった。目の前飛び釣っていく【しゃぼん玉セット】に稔は唖然とばかりに口を大きく開けたまま、ただ空中に描かれる軌道を、その目で追い続ける事しか出来なかった。思わず体が動いたと、ボトルの一つでも掴み取れればよかったが、その衝撃なぞ、袋を引きちぎるが如くして開けた家次の迫力に比べれば所詮ただの日常の一コマでしかない。寧ろこの後起こるだろう事象に、稔はほぼ反射的に、無意識下で即自身の耳を両手で覆った。
「~~~ッんで破れとんじゃこンの袋如きがぁぁぁああーーーー!!!!!」
今日一、否、この二ヵ月で一番の咆哮と言っても良いだろう。ビリビリと震える空気を肌で感じながらも何とか鼓膜を守る事は出来た稔だったが、まるで家次の雄叫びを広げる為に訪れたのか一瞬だが強く吹いた風が、木々と家を壁にして、空目掛けて上へと抜けた叫び声が辺り一帯に木霊する。これは完璧にやってしまった。散らかったボトルも何もかも気に掛ける暇は無い。稔はただただ静かにその場で耳を塞いだまま、素早くその身を折りたたみ、床の上でなるべく小さく丸まった。それは自身がこの件に対して関係は無いとそう静かに全身で表現する、今の少年にとって出来うる最善の、無駄な被弾を回避するという唯一の方法であると知っているに他ならなかった。
「―――――じゃかましいのん誰やこンの阿呆がーーーッ!!!!!!」
扉にはめられた硝子が割れるんじゃないかと思う程強く、そして激しく叩きつけられた間口の縁がバァァンッ!!と大きな悲鳴を上げたが、声高らかに現れたチカの視線が突き刺さるのは、小さくなった稔の姿を越えて向こう側、破れた袋を手に固まったままの実弟へと突き刺さる。
「いい加減にしいよ家次ッ!!いつも叫ぶな言うてるやろ!!」
「わっ、俺が悪いんちゃう!!弱い袋が悪いんやっ!!」
「そんな話し聞いて無いねん!アタシはアンタがウルサイ言うてんねん!!ホンマ近所に響いて、姉ちゃんどんだけ恥かいてると思てんの!?ええ加減にしい!!」
一体どこにそんな声を出せるような余白があるのだろうか。家次とは違い細身のチカの口からは、それはもう普段の落ち着いた様子とは相反した、何人の反論も許さないと言わせるような、大変迫力のある、そして覇気の強い言葉が一呼吸の間に発せられる。そうなのだ、破天荒の弟にだけ目が見蹴られがちだが、その弟を育て上げた親代わり、そして同じ血筋で出来ている間違いのない唯一無二の【姉弟】なのだ。家次を育てた、その事実だけでも、チカ自身が普通である訳がない。
「姉ちゃんが静かにしぃって・・・・、言うとるやろッ!!!!」
細身、だが世代的に見て家次同様背は高く、基本的に何でも数回触れれば覚えてしまう器用さを兼ね備えている。そして何より、本人は隠しているが、どの分野においても輝ける【才覚】が、その身にはきっちりと宿されていた。一体どこから取り出したのか、手の中に納まるほどの小さな何かが、最後の忠告と共に、家次の顔面目掛けて投げ付けられた。コンパクト且つ素早い腕の振りと共に、それでも乗せられた勢いは十分、真正面から衝撃を受けた家次が、短い悲鳴を上げて後ろに倒れる音を聞きながら、稔は静かに心の中でチカに賛辞を贈ると共に、とても大切な事を思い出していた。チカには逆らってはいけない。家次の様な怪力を持ち合わせている訳では無いが、彼女は稔が簡単にの持ち上げる事の出来ないソレを、片手であっても持ち上げ、降ろすことが出来るということを。そして手で耳を押さえているから聞こえないとでも思ったか、残念ながら二人のやり取りの全てを稔の耳はしっかりと、一言一句逃さずに聞き取っていた。そう、通常の人間の発声量であれば疎らに内容を拾える程度の物だろうが、此処に居る姉弟はその規格を一定以上に凌駕する存在だ、耳を塞いで防げるのは余りにも大きな、それこそ人間の耳の許容範囲を超えた衝撃波のようなそれだ。寧ろ会話の内容を理解するのであれば耳鳴りを防ぐ上により鮮明に言葉だけを拾えるこの構になるのが、この二人の間での最善手と言える。
「・・・・んまにしゃーない子やわ全く・・・・・、―――稔ッ!!!」
「ぃうわぁい!!はっ、はいッッ!!!」
「アンタには悪いけど、その子の事頼むわ!姉ちゃん今日忙しいねんッ!!」
張りの在る己を名指した存在に、稔は飛び上がる様に声のする方へと居住まいを正すと、真っ直ぐにそちらへ体ごと向き直った。いつも着ているシンプルで軽やかなワンピースとは違い、きっちりと着付けた着物に、結い上げられた長い髪。そして普段していない化粧を施した美しい女性の浮かべる表情は、稔が今まで見た中でも三本の指に入る程、それはもう険しく苛立ちの色を浮かべていた。美人が怒ると怖いというのは稔自身もう何度も体験しているから分かってはいるが、それでもその怒気を真っ直ぐ向けられるとなると、傍観している時とは違う、知らず知らずの内に喉がカラカラに乾く程の緊張を伴ってくる。要らぬ言葉を発してはいけない、静かに相手の言葉を待て。思わず詰まる喉元は仕方なしと、稔はただ真っ直ぐに、少し乱れたらしい髪の一房を耳に掛けるチカの一挙手一投足に、ただただ静かに次の言葉を待つ事しか出来なかった。
「ああ、直さんな・・・・・。稔、ちょっとその子の事頼むわ。家次ッ!姉ちゃん七時前には弁当持って帰るから、ちゃんと待っときぃ!分かったねっ!!」
ひらりと白基調の着物の袖を翻し、此方に背を向けた麗人は、その見た目には見合わぬ勢いで、登場時宜しく激しい音を奏でながらバシンッ!!!!と家が揺れる程の力でもって玄関扉を閉めて姿を消した。そして直ぐにその少し先にあるくぐり戸の鍵が落とされた音に、稔は知らず詰めていた息を一気に吐き出すと深呼吸を数度繰り返す。思いがけず起きた出来事に、今更ながら激しく動き出した心臓に、早く落ち着けと言い聞かせるよう、両の手でそっと胸を押さえた。
「・・・・ビックリしたー・・・・、こっわぁ~・・・・・」
「・・・・・、そう言えば・・・、今日会食言うてたな・・・・・、」
「ぅわっ動いた!!急に起き上がんないでよ家次さ~ん、またビックリしたじゃんか・・・・。」
「やかましい、ワシの勝手や。・・・・クッソ、いったいなぁ~・・・・。」
先程までの危機をやっと脱したと、気が緩み出した所をまるで狙ったかのように所に、稔の声に呼応するように、のそり、と体を起こした家次に、稔は肩を跳ね上げながら、非難するような声を出した。一方の家次は稔の事など意にも解さぬ様子で、顔面に投げ付けられたものだろう、小さく少し丸い形をした、何かを持っていた。家次の手の中収まったそれは家次の手が大きいせいか、一見本当に握っているのか怪しく見えるか、確かに手の中からじゃら・・・、と子気味の良い乾いた音を響かせていた。きっと昨日チカの言っていた、小豆で作ったお手玉なのだろう。
「いった・・・・、鬼でもこんなん喰ろた事ないやろ・・・・、しかも一個やったら遊べんやろ・・・・・。」
「流石に鬼も豆袋ぶつけられることないんじゃないかな?家次さん、眉間赤くなってるよ。」
「綺麗に顔の真ん中に投げよって・・・・、やから嫌なんや、姉やんは怒らしたらアカン。」
目頭のど真ん中、顔の中心部分を完璧に捉えた事を示す赤い痕に、家次はその場所を静かに摩りながら、稔の言葉に静かに答える。どうやら突如として現れた最強の存在に、家次の怒りはもうすっかりと冷め切ってしまったらしい。姉の機嫌を損ねれば、今日の夕飯にも有り付けないとなると、それは大きく話が変わるという事か。これ以上騒げば自身に対してのみ最大火力の鉄槌を下せる絶対的存在、実姉の本気から逃れる事は出来ない。もう大人しくするしか道は無いと先程までとは一転、驚くほど大人しくなった家次は、少しの間ダンマリをしてから、落ち着いた様子で口を開いた。
「・・・・稔、そっち飛んだボトル取ってくれ。大人しぃしとくぞ。」
「あ、忘れてた・・・、分かった。・・・・・フタ開いてないみたいだよー良かったぁー。」
家次に言われるがまま、稔は自身の方目掛けて飛んできた、そして飛び去って行った、床板の上に放置されたままだったしゃぼん液の入ったボトルを手に取った。安物だと言っていたから少々不安に思っていたが、思いの外丈夫な蓋に、液漏れの心配はなかった様だ。合計四本、内三本は縁側から庭へと転げ落ちてしまったようだが、此方も見た限りでは一部ボトルは歪んでしまっているが、液は一滴も漏れてはいない様だ。乱暴に子供が扱うことも考慮してか、思ったよりも柔軟性のある素材を使っている辺り、何物も一括りに安物だと言うことは出来ないなと、稔は一人静かに感心したっきりだった。
「ガキのおもちゃやからなぁ、蓋はしっかりしとんのやろ。・・・・・ホレ、お前の分や。」
「・・・・・しゃぼん玉、僕もするんだ・・・・。」
全てのボトルを回収した稔に家次から差し出された一本の吹き具、それは誰もが一度は手にしたことがあるだろうものだ。どれだけ時代が経とうが変わらない黄緑色に、先だけを液に浸していた筈が、いつの間にか気が付けば持ち手の所まで液垂れし、子供心に何度不快に感じた事か。誤飲を防ぐために開いている横穴も、知らずボトルに浸して中身を口に入れたことは数知れず。公園で大声を上げて泣いて母を困らせた、それはもう色んな意味で苦い思い出の数々が稔の頭を駆け抜けていったが、それから時間は随分と経った。もうそんな易々と過去の過ちは繰り返すことは無いだろうが、まさか中学生になって再度、自ら触れる機会が回って来るとは稔自身思いもしていなかった。一旦断りを入れた稔だったが、早く受け取れと圧を掛けてくる辺り、家次も引く気は無いらしい。中々受け取らない稔の様子に家次は眉間に皺を寄せると、早く受け取れとばかりに、稔の前に差し出したそれを、より顔の前へとズイ、と一つ近づけた。
「一人で四本も使い切れるか。お前も一緒に大人しぃしとけ。」
「僕静かなのに、巻き込まれただけなのに・・・・。」
早く受け取れ、さもなくばお前の額に突き刺すぞと圧を発する家次に、稔は仕方なしにボトル三本と引き換えに、家次の手から黄緑色のそれを受け取った。そして静かに靴を履いたまま縁側に腰かけて、かぽっ、となんとも可愛いらしい音を立てて開けられたボトルの中、ゆるりと動く液面へと、そっとその先を触れる様に付け引き上げた。唇に銜えて最初の一吹き、つけた量が少ないとばかりにしゃぼんの膜は丸く膨らむまでも無く、ただ稔の吐いた息がが、黄緑色した筒を通って、外へと抜けていくばかりだった。
「もっとちゃんと漬けんと、しょぼくれたまんまやぞ~。」
「分かってるけど、僕ベタベタするの好きじゃない。」
「そんなん水道で流したら仕舞いや、石鹸なんやから。」
「・・・・・、確かに。」
アホな事言うてんな、そう呆れ顔で言った家次の銜えた筒からは、次々と丸い形をしたしゃぼん玉が空気中へと放たれていく。稔と違ってボトルの中、少し深めにまで付けていたのか、一息で生み出される量は凄まじく、丁度良く吹き込んだ風に舞い上がり、太陽の光を浴びたそれらは、きらきらと虹色に光り輝きながら空を舞っている。
「洗面台水浸しにしたらゴメンね。」
「お前どんだけ豪快に手ぇ洗うんや、ちゃんと拭いて帰れよ。」
濡らしても良いが掃除はきっちりしないと怒られるらしい家次の言葉に、稔も数回、ボトルの中に付けたそれを再度口に銜えて息を吹き込んだ。今度はちゃんと液が馴染んだらしい、先からぽこぽこと生み出されていくしゃぼんの泡は少しばかり引っ付いて双子になったり、三つ子になったりしながらも、不格好にもふらふら空へ向かって舞い上がっていく。付けては吹いて、吹いては付けて。こういった単純な遊び程、思ったよりも人は夢中になってしまうのだろう。気が付けば家次と稔は無言のまま、ただひたすらにしゃぼん玉を吹き続け、不意に家次が稔に話しかけた時には既に、ボトルの中の液体は、半分を少し切った頃になっていた。
「なぁ稔、聞きたい事あるんやけどな、お前【嘘】って吐けるか?」
「嘘?誰に?なんで吐くの??」
「せやんなぁ~、ワシらは基本吐かんからなぁ・・・・・。」
家次の問い掛けに対する稔の反応は、予想したものその物だったらしい。喉の奥でう~ん、と唸り声を上げながら、家次の吹き出したため息とも思われる長い一息が、なんとも長い、うねうねとした形の大きなしゃぼんを作り出すのを、稔は少しの歓声と共に見守っていたが、それでも問い掛けの意味を図り兼ねるとばかりにもう一度、なんで?と口に出して家次へと問いかけた。
「お前はなんでやって思うんやろ、ワシもそう思う。その時点で嘘吐きの思考やない。まず【嘘を吐く】って選択肢が無いんや。ワシらは言い訳も苦手やし、こっちが悪なかったとしてもなんや秘密事はむず痒いし、気色悪ぅ?悪い事して後ろ暗い?みたいに自分で感じてまうんや。」
「そうなの?嘘か・・・・、そもそも吐くような事しなきゃいいんじゃないの?もし間違ってたら素直に謝った方が自分にもだけど、なにより相手に対しても、僕は良いと思うよ。」
「お前・・・・・。アカン、ワシらやと話んならんな。」
「えぇー、聞いて来てなんでそんな反応・・・・?家次さん意味わかんないよ、変だよ。」
「そこはもっと嘘でも気ぃ使って心配せぇ、阿呆が。」
そう言ってもう一度、ふぅー・・・・・、と長く吐き出した息と共に、不安定に長く大きなしゃぼんの泡が、ほより、と揺蕩う様に庭先で風に揺られて空へと向かって舞い上がる。途中、二、三の玉に分かれながらも舞い上がっていく歪な球体は、空気中いつ弾け飛ぶかも分からない中、それでもなんとか風に乗って、上へ上へと舞い上がる。歌の歌詞にもある様に、屋根近くまで届くものやそれ以上、最中弾け消えそうなもの程視界の外まで飛んで行ったり、はたまた綺麗な円形のもの程、不意に弾け気えることもある。作っては消えて、消えては作って、この過程に意味はあるのかと言われればきっと誰かが暇つぶしの一環にする位の意味しかないのだろうし、こうして予期せず飛んだり、儚く消える様こそが美しいと、そう美意識的な事から話をするものもあるだろうが、稔には家次の問い掛けと、このしゃぼん玉が一体何を意図するのだろうと、それとも問い掛け自体に意味が無く、案外ただ気になっただけだとか、そんな普通の疑問しか抱くことは出来なかった。
「家次さん今日なんか変だよ、明日病院行った方が良いよ。」
「やかましい黙っとけ、お前はホンマに・・・・。んん゛~・・・・・・、」
唸り声から少し、家次の右手が珍しくいつもその傍らに置いている木箱に伸ばされる。指先で摘まむようにして持ち上げられたのは、吸いかけの煙草に使い捨てのライターだ。稔が家に寄った際は出来るだけ吸わないようにか吸っても風下でととても気を使っていたのに、横に居る状態で吸うというのは中々に珍しい。どうするのかとそのまま見守っていれば、素早く火をつけて一吸い、そして煙を吐き出さずに吸っていた煙草の先の火をもみ消すと、そのまま今度は左手に持った吹き具を口に銜えた、そしてようやく息を吐き出した。
「・・・・・・おおっ!白いしゃぼん玉だ!!そんなの出来たんだ!!」
「しゃぼん玉はな、こうやって遊ぶもんや。」
少し苦しかったのか、ふぅ・・・、と短く息を吐きながら言う家次の顔の前を、緩やかに真っ白な色をしたしゃぼん玉が飛んでいく。風に併せ緩やかに、だがはっきりと姿を現したそれは、先程までの透明とは打って変わり、白い渦を中に宿しながら空目掛けて舞い上がる。稔との会話になにか疲弊したのか、稔の前で珍しく煙草を吹かした家次は、その煙を中に閉じ込める様にして、少し白んだ煙を包み込んだガラスでできたような玉を一つ、あえて作ってみせた。
「どこまで上がるかなぁ・・・・?」
「煙は重いからな、そんな上まで行けんやろな。でもな、なんかええやろ?」
「・・・・・うん、なんか特別で良い!」
「せやろ、風があればまぁ上がれるとこまで行くやろ。」
白く、玉の中対流する渦の流れが、太陽の光に照らされてよく見える。ぐるぐると吐き出した息の流れが、外からの風から受けた衝撃にぐにゃりと歪んだりしながらも、耐えて上へと上がる姿は、なんだか少し、言い表せぬような不思議で複雑な気持ちを稔に抱かせた。
風に乗って上がった白のしゃぼん玉は、少し先にあった木々の新緑に触れて呆気なく割れた。割れたと同時にたちまち風にさらわれ立ち消える煙に、あった筈のものが無くなるのは、コレも中々に味気なく、少しの時間とは言えど気に入っていたものが目の前で無くなるのは、存外悲しく、稔はそんな自分の感情に少し残念な気持ちになった。
その日の夜遅くに、件の家へ、一部関係者の誰かが足を運んだらしい。
そして翌日の木曜日、もう誰も話題に上げる事の無くなった刀也の名前が、一日の終わりのホームルームにて、担任の教師から口から飛び出した。もう皆が知っているとそう判断し、簡潔に内容を告げると共に、騒ぎ立てないように、と、確りと釘を刺した抑揚を押さえた【忠告】に、クラス全体にぞわり、となんとも言えない緊張感が波及した。
・家次さん
ただ今大変気が立っている。今日これ以上チカに逆らうと、夕食用の弁当を貰えないから大人しくしていた。お気に入りのおこわ入りのええとこの幕の内弁当らしく(魚系)、お値段がそこそこするので普段から気軽に買えないから絶対に食べるマンになっている。実はしゃぼん玉は結構好きなので、家にストローがある時は先を切ってしゃぼん玉用にして一人でぷかぷかする位には気に入っている。
・稔くん
気が立っている。なんだか忙しすぎる毎日に、テスト勉強もしないといけないし友だちの事も気になるしで、結構面倒な事になっている。しゃぼん玉液で手が汚れるのは、吹き具を上に向けるからだと家次に教えられ、幼い頃は無自覚に飛ばす事だけを考えて上を向いていた事実を知った。木曜日は社会のテストの穴埋め暗記プリントが配られるから家に寄らないと宣言したが、ワシかて明日は忙しいから家居らんのんじゃ!と言い返されて少しムッとしている。
・チカ姉さん
一番気が立っている。夏に入って最初の寄り合いに、きっちり恰好整えてもう出ないといけないというタイミングで聞こえた弟の叫び声に、思わず小豆のおじゃみをぶん投げた。肩が強い。弟の事を稔に頼んだので、一緒にお弁当を稔くんと稔母の分も買ってきて帰りに持たせてくれた(肉・魚どっちも入ってる)。稔の母には先に連絡を入れていたので、稔くんが家に帰った時にお弁当!!!と言って息子を出迎える母親が爆誕したことを知らない。
・やっと終わるよ、スーツのお兄さん
少し落ち着いてきた日々に、パソコンやスマホばかりで文字を書かなくなっていたことを自覚して、今になって自分と向き合う時間が出来たお兄さん。定時帰宅にも慣れ、顧客との折り合いの付け方や、怒るポイントがどこなのか等、今になってやっとコミュニケーションの大切さや、身に付いていなかった大切な基礎を、自分のビジネス手帳を持って、一つずつ書き込んで纏めていくという、一度頭で考えてから文字として書き出すという作業をすることによって少しずつ人間としての基礎固めに励んでいる。この度帰宅時の道にある本屋にて、キレイな文字の書き方練習という様なものを購入した。この後に訪れる暑中御見舞いはがきの為に、少しでもきれいな字が書けるようにと、ご飯を食べて寝るまでの余暇時間に文字の練習をしている。




