僕のともたち。2
中学に上がって初めての大事件から一夜明け、天変地異でも起これと思う稔の意思とは反して変わらずやって来る日常には、少年の気持ちに考慮なぞしてくれる訳も無い。狂い無くいつも通りに進む時間に、いつもと同じように飯を食い、いつもと同じように学校へと向かう。校内の喧騒もいつも通り、それでもその中に、僅かな好奇心や猜疑心、自分が巻き込まれない範囲から、知らぬ事になんやかんやと勝手な憶測を付け、隠しきれない喜色を滲ませた聞きたくもない【噂話】が、確かに稔の耳に纏わり付いた、そんな火曜日。聞きたくもない話に、アイツは調子に乗っていたからだ、と、普段は関りもない様な人物までもがここぞとばかりに声を上げ、友を馬鹿にした言い振りにも、稔は一人聞こえていないと耳を閉じ、視界の隅にもその姿を入れないようにと、我関せずの態度でもって何とか学校での一日をやり過ごした。そして教師が就業を告げると共に、昨日同様に、稔が一目散に教室を後にしたのが一時間と少し前の事。
「・・・・・でっふぇ、れん・・・・せ!!」
「・・・・・・ディファレンス!!」
学校からの避難場所であり、予習とテスト勉強の場として此処を選んでしまったことを稔は後悔し始めていた。
「なんでやねんっ!お前コレ、ワシちゃんと読んどるやろっ!!」
「それローマ字読みじゃんか!英語はなんか、こう、違う読み方なんだってばっ!!」
「アイアム、ア、ペン・・・・、・・・・・・何言うとんねんコイツ。」
「どんな文章読んでんの!?そんなの教科書乗ってないよね!?」
暇を持て余した家次という存在は、時に稔にとっては事勉学面に関して、大きな障害として立ちはだかる事がそれはもう結構な頻度で間々あるだ。役に立つ時と言えば日本史における人物やその時代背景の解説、そして国語においてはことわざや四文字熟語に詳しい事くらい。それ以外の時はポンコツか、ないし逆に在りもしない筈の問題を作り出しては、稔の手を大幅に止めさせる原因、要因となりえるのだ。
「『私は筆です。』なんやコイツ、ガキん時に髪で筆作ったん自慢する時くらいしか使わんのちゃうんか?そんなもん昔から一定数作っとるヤツおるやろ、何の自慢しとんねん、阿保なんか?それとも物の気持ち伝えとんか?オマエ何様やねん。」
「お願い待って家次さん、勝手に話と世界観作んないで!僕これからもその教科書使うんだよ思い出しちゃうよ授業になんないよっ!!」
「そんなんワシに言うなや、コイツのせいやろ。」
「家次さん一人のせいだよっ!!!」
机を挟んで向こう側、一人お手玉で遊んでいた筈なのに、気が付けば最近のはどうなっているのか気になるから見せろと取り上げられた教科書に、書き写したノートから単語帳を作る事になってしまった稔は、今一人、懸命に声を上げては家次にそれを返せと訴えかける。確かに翻訳が必要な物や進出単語と言った類はノートに書き写しているが、ノートを回収した後にされる文法の解説や、軽いチェックポイント等教科書に書き込んでいる内容も勿論ある。その中にテストで出ると言っていた物もあるし、今からそこに取り掛かろうとしていた矢先の突拍子のない家次の行動に、稔の勉強予定が大幅に狂わされていることは言うまでもない。立ち上がりはしないまでも、身を乗り出して返せと手を伸ばす稔の姿を尻目に、家次は自分の頭上に開いた教科書を持ち上げて、気になるところに目を通しては、なんとかそれを声に出し、読み上げることに必死だった。
「『へっろ、みき!ほおう、あれぇ、よう?』」
「やめて家次さん!もうそれにしか思えなくなるからやめて!もうそれ以上は僕の英語死んじゃうよ!」
「ケンタ・・・・友達やったら相手の顔見たらわかるやろ、人として終わっとんな。」
「英語の例文に人間関係見出さないで!!ケンタはちゃんとミキはちゃんと友達だよ!!」
「そんなん分からんやろ、こんなしょーもない事言う・・・・・、コイツ照れてんか・・・・?」
「それ中学生の教科書なんだよ!止めて複雑な人間関係勝手に構成しないでーっ!!!」
たった数行のやり取りに、一体どんな人間関係を見出したのか。ハッ!っと目に力を入れて教科書を見つめる家次の頭の中で今、新たな物語が紡がれようとする中、そんな様子に痺れを切らしとうとう立ち上がった稔に、この終わりの見えない渾沌の場を収めるに最も的確な人影が、音も無くするりと居間へと姿を現した。
「アンタらホンマにいっつも何してんのん?元気なんはええけど、今日はまた一段とやかましいなぁ。」
「姉やん、来たんか。・・・・・ンン゛、『ハロー、シスター』!」
「家次アンタ、英語話せんのんかいな・・・・、賢なってもう・・・・えらいこったなぁ。」
「俺かて頑張ったら何でも出来んねん・・・・・、賢いのバレてもうたな・・・・・。」
そう言ってさも当然、鼻高々と自信満々に笑う家次に、極端に弟に対する事象に対してハードルの高さ調整を見誤る点のある実姉のチカは、英語もどきを口にした弟の姿に、感動したとばかりに口を押え、喜びを目尻に称えている。よう出来たなぁ、と歓心と賛辞の言葉を述べるチカと、もっと褒めても構わないとばかりに再度覚えたての拙い単語を口にする家次の様子に、一人増えたことでようやっと現状を再確認することの出来た稔は、これはもう勝ち目がないと一気に勢いを無くし、今立ち上がったばかりだというのにそのまま素直に膝を再度曲げ、静かに腰を下ろしたのだった。
「姉やん悪いな、俺が賢いばっかりに・・・・、才能が多いんばれるとな、色々大変なんや。」
「・・・・・・ホンマにそんな賢かったら、アタシが面倒見んでもええもんなぁ。ホンマ現実は世知辛いもんやわ。」
「・・・・・おぉぉおうッ!!?なんで急に切りかかって来たんや!?褒めてくれとったんちゃうんかッ!!?」
「こんなん誰に自慢できるんな?外で言いなや。恥かくんはアンタちゃう、面倒見てるアタシやねんからね。」
「俺かて分かっとるわ誰が外で喋るかぁ!!姉やんの阿呆ッ!!弟いじめやぞ!!」
「そんな大きい子供に何言われたところで毛ほども無いわ。・・・・・ごめんやで稔、今日も世話なってもうて。」
目の前で行われた凄まじいまでの手のひら返しに、家次のみならず、ただの観客、または傍観者と化していた稔までもが、チカの言葉にハッ!と我を取り戻す。急に話を振られたせいで呆気に取られ、自分でも知らぬ間に開きっぱなしになっていた口を慌てて閉じて、稔は言葉を返すより先に、大丈夫だと伝わる様にと、その首を勢い付けてぶんぶんと横に振ってみせた。チカと家次の姉弟漫才のようなやり取りは何時もの事で、姉弟ゆえのテンポや呼吸があるのだろう。早口で始まるやり取りは一度始まってしまえば二人の掛け合い、会話が終わるか、それか向こうから話の輪に入れてくれない限り、稔はただの傍観者になる他道が無い。それはもう慣れっこだから大丈夫だと稔はチカに伝えたかったのだか、その様子を見たチカは、少しばかり眉尻を下げると、そうだと稔へ帰宅の挨拶を忘れていたと、おかえり、と優しい音を響かせた後に、ごめんなぁ、と少しばかり申し訳なさそうに、謝罪の言葉を付け足した。
「テスト前やのに堪忍なぁ、この子今新しいおもちゃ探しとってね、なんにでもいっちょかみしてくる年頃やねん。」
「俺子供かいな!?姉やんこそ暇人やろ!!やったら俺のビー玉返してくれたらええやろ!!」
「アンタが勝手に賭ける言い始めたんやろ!欲出すからいっつもそないなんねんやろ、いい加減引き際位分かる様にしよしっ!」
言い切るチカの言葉に、家次は反論の言葉が出てこないのか、いつもの様に癇癪を起したとばかりに拳で机を二度ほど殴ると、そのまま教科書を体の下に巻き込むようにして、机の上に突っ伏した。僕の教科書が、人質になっている。家次の大きな腕の中、突っ伏した顔を見られまいとまるでガードするように机の上で頭を抱えた両の腕に、とうとう自分の勉強道具まで巻き込まれてしまった稔が、その腕の拘束から、大切な教科書を取り戻す方法なんぞ、思いつける訳も無い。屈強な家次の身体を少しでも動かせるような腕力も、交渉に使えるような菓子も持ち合わせていない。詰んだ。完璧に詰みだ。こうなると家次の機嫌が直るまで待つ形になる持久戦しか、現状稔にとっての選択肢は残されていないのだ。
「僕、どうしたら教科書取り戻せるんだろ・・・・。」
「巻き込んでごめんなぁ稔、・・・・家次、姉ちゃんのお手玉貸したろか?」
「・・・・・・・・・・、」
「ちゃんと小豆のお手玉やで?四つあるから一緒にするか?」
「・・・・・・俺三つでするから、姉やん出来ん。二個ずつはおもろない。」
「我がままばっかし言いな、それかおはじきするか?」
「・・・・・・おはじきええな・・・・、俺十個使う。」
「ええよ、ほんならしゃーないからアタシのん貸したるから、な?」
この条件で良いかと問いかける姉の言葉に、家次はのっそりと机の上から体を少し起こすと、膨れっ面はそのままに、姉に対してコクコクと、小さく首を縦に振ってみせた。そのやり取りを机を挟んで向かい側からまたもや傍観者として観察していた頭の中では、よくこの状況でまだ自分の我儘を通せるものだと思う気持ちと、この姉は弟をどれだけ甘やかせば気が済むのか、弟が我儘に育った原因は寧ろ姉のせいなんじゃないのか等、様々な考えが過っていたが、決してその一つも口から漏らすことは無かった。口を出してもいつもの事だ、此処は大人しくスルーしよう、それが最善、最良の選択であると、稔は確かに知っているからだ。
のそのそと上体を上げた家次の傍に、服のポケットから取り出した小さなちり緬の巾着袋がじゃら・・・・、と重たくも乾いた音を立てながら、チカの手により机の上に置かれる様を見つめながら、この場で一番幼いながらも、一番大人の選択肢を選んだ自分自身に、稔はそっと胸の内で、自分は良く耐えていると、自画自賛の手喝采を密かに送るのだった。
「ホンマにごめんねぇ、こんなしょーもな「俺悪ないっ!!」・・・・こんなんで勉強、進めれた?」
「ぇっ、あ、と・・・・・・、まだ教科書に書き込んだの、まとめれてないんだ。」
「アレか・・・・。ん―・・・・、稔、悪いけど今日は帰った方がええわ。このままやと裏写りもしそうやしなぁ。」
「裏写り・・・・・?・・・・・・ぇ、・・・・・エッ!!?」
思わず、チカに声を掛けられなければそのまま意識を遥か彼方に飛ばしたままだったかもしれない。今にも現実逃避に走り出していた稔の思考を現実へと引き戻した鶴の一声に、稔ははた、と自分の現状を認識し直した。チカの言葉を頭の中で反芻すると共に、すい、と指先で促すような視線誘導に、稔はまだはっきりとしない意識の中、素直にそれに従う。そして少しの時間を置いてから状況を理解すると同時、現在進行形にて目の前に広がる光景に稔はただただ息を飲んだ。
「~~~ッそれ僕の教科書ーーーーーーッ!!!!!」
突然目の前に現れた逃れようのない現実に、思わず張り上げた声は裏返り、稔は叫ぶと共にガバリと身を乗り出して、家次の方目掛けて腕を伸ばした。何故教科書を渡してしまったのか、そしてそのままの状況を自分は許してしまったのか。突っ伏すと同時に体の下に隠された事を何故不審に思わなかったのか、どうして筆箱を机の真ん中に位置する場所に置いてしまっていたのか、次から次に噴出するたらればに、自分の危機管理の無さを今更悔いても悔やみきれない。
「ちょっ、返して!返して家次さ・・・・・あぁぁぁあぁぁあ~~~~~!!!!!!」
「お前っ、早よ返せ稔!まだヒゲかけて無い!まだかきかけやぞ!!」
「かきかけじゃないよこれ僕の教科書・・・・ああぁあぁ~ケンタぁ~・・・・・!」
ぐッ!と力強く開かれた教科書のその一ページはもう既に入学当初に終わった、英語学習の導入にあたる。もう見ることもないだろうページではあったが、新しい文法が出てくる度に、自己投影並びに親近感を持たせて共に学習をすると言うアイコン的な役割を果たす教科書の登場人物である『ケンタ』の初登場から簡単な挨拶を交わそうという、彼の最初の見せ場にあたるページだ。そのケンタのシルエットはさっぱりとしたショートカットヘアに、顔は特徴の一つも無い、一本線で描かれた眉につぶらな瞳と、それは良くある【アイコン的モブキャラ】でしかなかった。無かった筈なのに、今稔の手元に戻ってきた彼は、最初の印象とはかなり違う、それはもう個性的なイメチェンに成功していた。
「なんで油性ペンで描いたの!?せめて消せるようにシャーペンで描いてよッ!!」
「何言うとんねんペンの方が濃いやろが!なんか腑抜けた顔しとったからな、気合い入ったやろ?」
「もう別人じゃん!しかも頭リーゼントになってんの何!?これにヒゲ描くの!?」
「前に垂れてもうてちょいイモったいけど、まぁしゃーなしや。折衷案や。」
「何が折衷案!?誰との間の話し合い!?あッ、裏写り・・・・してるぅー!!!!」
全く悪びれた様子の無い家次の屁理屈に対応しながら、稔はチカに言われた言葉を思い出し、急ぎページを次へとめくると、そこにはポツポツとした線の始まりと終わりの地点がくっきりと、場所によっては重ね塗りをしたのだろう部分には、じんわりと、インクが滲み込んでいた。確かにもう使用しないかもしれない、それでも稔は基本が真面目且つ几帳面な性格だ。家も勿論裕福ではない、生活水準的に見れば、どちらかと言えば貧乏な家庭に育っている。だからこそなんでも手に入らない環境に慣れ、全ての物を大切にしなさいと、幼い頃から母に言われていた事を稔も守ってきた。だからこそ、教科書に必要事項を書き込む以外は、軽率に扱うことは避けてきた。だからこそ、今回の事はそう簡単に許せるかと言われれば、それは勿論【否】である。
「家次さんの阿呆ーーーーーーッッ!!!!!!!」
「あぁ~あ、これはやってもうたな。家次ちゃんと謝りよ?」
「ッ!!?なんでや、ちゃんと男前になっとるやろッ!?」
「そういう問題じゃないの!家次さんの教科書じゃないの!僕のなのっ!!」
そう言い切って更にもう一度、肩を怒らせ力いっぱいに阿呆と叫ぶ稔の姿に、油性ペン片手に思いもしなかった反応を返されたと言わんばかり、一目見ただけで分かる程にも家次は狼狽している。わなわなと怒りに震えて非難の声を上げる稔に、確かに自分がしてしまった事だがどうせ一年しか使わず、来年には捨てるから大丈夫だろうと、先を生きたからこそ他人の教科書に落書きをする事は大したことは無いと踏んでいた家次とでは、現時点における教科書という物に対しての重要性の落差がある事をきちんと考慮出来ていなかった。ワーッ!と声を上げ非難を続ける稔の姿に、どうにかして宥めなければと、家次もとりあえず急ぎ立ち上がると、握ったペンはそのままに、スマン、スマンかった、ワシが悪かった、と、それはもう大変珍しく、謝罪の言葉を繰り返す他に道は無かった。
*
「ほな稔、またね。気ぃ付けてお帰りよ?」
「うん、またねチカ姉さん。・・・・・家次さんも、またね。」
「・・・・・・おう、またな。」
靴を履き、鞄片手に玄関の土間に立つ稔の声は、頗る機嫌が悪いと言わんばかりに、低く抑揚を無くしている。見送りをすると共に来てくれたチカの背中に隠れる様に、少し奥から顔を覗かせる家次を、じとりと見つめる稔の視線は確実に不満の色を濃く映してはいたが、それでも口はちゃんとさよならの挨拶を口にする。怒っていても礼儀を忘れてはいけないと、そう稔の中に挨拶の概念があるからこそのこの行動は、確か家次が教えた筈の物だったが、教えた本人は今日はどうやらそれが出来ないらしい。少年に畏怖を感じたか、返事を返すが、余程今の自分の分の悪さを悟ってか、実の姉を盾にして、その背から出てくる気は無いようだ。
「ごめんな稔、ちゃんと姉ちゃんが止めるべきやったわ。新しいのいるんやったらいつでも弁償するから、遠慮せんと言いね?」
「ううん、どうせもう最初の方だったし、もうこのページ使わないと思うから大丈夫。・・・・社会の教科書だったら無理だったかもだけど・・・・・。」
「偉人の写真なぁ~・・・・・。良かったわ、絶対もっと描いとったわ。」
「・・・・・スマンかった、けどそんなん描く「人のやで?」・・・・すまん。」
ちゃんと反省をしているのか、寧ろ最初からする気があったのか、謝罪の後直ぐに続いた言葉に、思わず稔の目力が増すと同時に、それを感じとったチカの言葉が素早く家次の意見を断ち切った。危ない所だ、折角宥めたというのにそれ以上言ってしまえばまた再度、第二弾・中学生による常識の無い大人に対する激しい糾弾大会が開催されるところであった。口は災いの元だと、振り返り、シッ!と口の前に人差し指を立て、即座弟に注意をするチカの姿に、此処は自分が大人にならなければと、稔はフン、と小さく鼻を鳴らして不機嫌を表現するも、聞かなかったことにするとばかりに鞄を一度肩へと掛け直した。
「じゃあ僕今日はもう帰ります。家で勉強することにします。」
「せやね、集中して出来た方がええもんね。でもあんまり根詰めたらあかんよ。」
「うん、分かった。じゃあねチカ姉。・・・・・家次さんも、じゃあね。」
「ぉ、おう、またな・・・・・、」
返事を確認し、体を翻し振り返ることなく去っていく小さな背中を見送りながら、その背がくぐり戸を越え、その戸が閉まるその時まで、家次の心臓はどぎまぎと、それはもう大きく脈を打っていた。体が大きく力は強いが、実は気が小さい家次は、真正面から正論で怒られると上手く返事が出来なくなる。しかも今回は自分が引き金であることを分かっているからこそ、悪さをした自覚がある分、無駄に屁理屈をこねる事も出来ずじまいに。その上普段からあまり感情を表に出すことの少ない稔が本気で怒っていることを感じとっていたのだろう、今回は本気でヤバいと、子供相手であるとしても実は心の底からビビり散らかしていたのだ。
「ほんまに・・・・、アンタビビり過ぎやで。アカン分かってんねんやったら、最初からしな。」
「教科書なんか落書きするもんやろ・・・・。アイツあんな怒る事あるんか・・・・、」
「あんなに綺麗に使っとんねんで?あの子の筆箱もキレイに使ってんのん見とったら分かるやろ。今回はどう考えてもアンタが悪い。」
「分かっとるわッ!!やから俺も反省しとる!!!・・・・アイツむっちゃ怖いなぁ・・・・。」
立ち去った少年に気圧された図体のデカい弟に少しのお小言を零しながら、何時まで経っても子どものままの性格に、一体どこで教育を間違えてしまったのかと、チカは答えの出ない問い掛けに、人生で何度目かも分からないため息を吐いた。素直に楽しい事を求めているだけだからこそ余計に質が悪い。叱られたらいつも確かに反省の姿勢をとるにはとるが、楽しいと思ってしまうとその感情に流されてしまう癖は、どうしても変わらないままこの年まで来てしまった。それは間違いなくチカの教育不足のせいだと本人も自覚をしているからこそ、此処からどうして矯正しようとしても難しい事に変わりは無い。稔を通してもう一度、その当時に足りなかった教育を出来るのではないかと少し希望を抱いていたが、当時家次が地域でも有名なクソガキであった事実は変わらないし、それは今も変わらずどうしようも無い本人の気質によるもだ。きっともうこれ以上の矯正は不可能なのだろう、とチカは一人、言いようも無い思いを抱えながらも、それよりもそろそろ本題に切り替えなければと、額を少し抱える様にして息を吐くと、静かに家次の方へと向き直った。
「それよりも家次、分かってると思うけどもう来てる。稔には悪い事したけど、こっちも結構待たせてるからなぁ。直ぐで悪いけど、もう姉ちゃん呼んできてもかまへんか?」
「あ、あぁー・・・・・、もう来てんのんか。・・・・一服したアカンか?俺も落ち着きたい。」
「アカン。それやったらあの子と一緒に茶でも飲みながら話ししよし、あっちも時間限られてるねんよ。」
「ほんまかぁ~・・・・・、あンのくそジジイが・・・・。分かった、来てもろてくれ。」
「ほな連れてくるから、アンタお茶用意したっとってな。」
言うが早いか玄関に揃えられていた草履を素早く履いて、サッサと玄関を後にしたチカの背中を目で追いながら、家次は気持ちを整えんと、唇を少し窄めて腹の底からふぅ~・・・・と一つ、長い息を吐き出した。今日家次が稔にした無駄ともいえるちょっかいには、実の所理由がある。だがそれを稔本人に直接伝える事は、未だ心が幼い、成長の足掛かりの時期に差し掛かったばかりの少年にとって、今回の事は将来的に見ても大きな傷に成り兼ねないからだ。そしてそれは稔だけではない、全く関係の無いと思われていたような他人と言われる俗称の人間にも波及しかねないだ。狭いコミュニティーの内で生きるからこそ生じるその波紋は、動ける範囲が、世界の広がった大人にとって、それはさざ波程度、気に掛ける事も無いようなものかもしれない。だがそれがもし中にいるものが広いと思っていた水槽の中に生きている者には、井戸の中見上げた上空から、大人が持ち上げるのに苦労する程に大きな石が投げ落とされた時に出来た水面の衝撃は、それはもう波を越えて、災害に等しい力を持っているのではないだろうか。知らなくて良いのであれば、今は知らないままで良い。遅かれ早かれその内容を知る事になってしまったとしても、その内容を受け止められるようになった時に、自ら知る・知らないという【選択肢】を、その時にでも選べば良いのだから。
稔に続き、チカが去ったくぐり戸が、きぃぃ・・・・・、と控えめな音と共に、ゆっくりと、外側から開かれる。西日は家次の背の方にあり、東に面した戸は暗く、家の陰に覆われている。そこからゆっくりと、頭を下げて一歩中へと入ってきた良く知った短い黒髪が、初夏の風にふわふわと毛先を揺らす様子を見下ろしながら、後ろ手に戸を閉めるのを待ってから、家次は静かにその少年の名を呼んだ。
「逃げんとよう来たな、刀也。元気そうやんけ。」
「こんばんわ、家次さん。お邪魔します・・・・・、」
「おう。稔も心配しとったぞ、お前の事、大事な友だちなんやて。」
「そんな心配することなんもないのに・・・・・、稔は優しいから、今度ちゃんと謝るよ。」
「そうか・・・・・、ほな早速で悪いけど、ケン、ワシと【話し】しよか?」
短く交わされた挨拶代わりの会話の最後、家次の言葉に刀也の身体が確かに一瞬硬直した。そして無言のままに頷き返すも、その分まるで何かに耐える様に握り込まれていく刀也の両の手を確かに目の端で捉えながらも、家次はそれ以上は何も言わずに、小上がりから降りる事なく、そのまま家の中へと踵を返した。
・家次さん
教科書は授業の最中に飽きた時に落書きするためのものと思って生きてきていたので、まだ何も書かれていない稔の教科書を見て、いっぱい書いてやろうと、とりあえず目に付いた特徴をそぎ落とされてパッとしない容姿になっているのだろうケンタを男前にしようと思った。角の有る太眉にキリッとした目、大きめにした口に控えめなリーゼントと、詰め込めるだけ詰め込んだがそれでも威厳が無かったのでヒゲを足そうと思っていたら、稔に取り上げられた上に怒鳴られて謝らせられた。怒った稔に驚いてはいたが、落書きが完成していないことに関しては、大変腑に落ちていない。
・稔くん
幼い頃から母親に、うちは母子家庭で貧乏だから買い替えとか、皆みたいに流行りだから次々物を買うことは出来ません!と教育をされていたので、物は大切に使いましょうという言いつけを大切に守って来たところに、急に変化球で友達にも書かれたことのない盛大な落書き(油性マジック/普通)をされたことでビックリして声を上げてしまった。昨日から気が立っているので、思わず言葉を止める事が出来なくて家についてから悪い事したかな?と思い返していたが、イヤどう考えても家次が悪いんじゃないか?という結論に至った。そしてリビングで少し勉強をして机の上に置きっぱなしにしていた稔自身が悪いのかは分からないが、風呂上りに机の上でおいていた場所から位置が変わっていたのでイヤな予感がしながらも教科書を開いてみた所、リーゼントケンタと向き合うミキの容姿が、ゆるふわツインテール少女漫画系キラキラ女子(油性マジック/細)に姿を変えていたことに、リビングの中心でそれは盛大な雄叫びを上げた。母曰く、見合う容姿にしたらしい。今日も普段通り、基本自由な人間に振り回されながら生きている。
・ケンちゃん(自宅謹慎中※親同伴のみ外出可能)
今回の件について、家次が話の仲介になると言われて母と共に向かったが、家次と対面の方が話しやすいだろうと母はチカの家で待機することになった。だが家にお邪魔して最初、思い出したと言わんばかりに家次に、お前のせいで稔に怒られた!と愚痴を零された事に怖がっていた筈が思わずズッコケそうになった少年刀也。稔『が』家次『に』怒られる、では無く、稔『に』家次『が』怒られる、で本当にあっているのか?ホントに??と全く本題と関係の無い話題に頭の中がいっぱいになってしまい、この後の会話の事を一瞬失念してしまい、本題に入った時に再度緊張することになる。不憫である。
・チカ姉さん
家次の育て方を間違えたと日々実感しているが、知能的には家次は決して成績が悪かった訳ではなく、どちらかと言えば成績は優秀で何でも出来る子供だったので、何があったら急に方向転換をすることになったのかと、当時から今までずっと頭を悩ませている。多分映画でも字幕で見せたら軽く話せるようになるのだろうと若干確信めいているが、調子に乗ると厄介且つ面倒なので特にこれといって何もしない。家次の言っていた【私道】は実は元々は一つの敷地として繋がっており、土地開発の際に周辺に家が軒並み建ったのを切掛けに、往来が面倒になるだろうと車道通行禁止にて、自転車、人のみが通れるようにとわざわざ土地を分けたものであり、道を挟んだ向こう側に、チカは一人で二階建てのお家を建てて、小さなお庭を管理しながらのんびりと過ごしている。
・いつまで続く?スーツのお兄さん
やっと定時出社、定時帰宅の日々に慣れ始めたお兄さん。何もないと思っていた店舗だったが、思ったよりも都心に土地を貸して収益を得ている地主の方との取引が多いらしく、今までの様に顧客を奪い合ったり、営業成績での序列合戦が無くなったかと思えば、今まで以上に細やかな気遣いが必要仕事であった事に気付くと同時に、一回限りもある不動産販売では無く、土地を持っている地主という社会的に優位な序列にいる人種が、自分が思っていた以上に懐が深く大らかだからこそ、礼節を欠いてはいけないのだという、人間関係の根幹のようなものを、社会人になって初めて学ぶ機会を得た。そんな折、一顧客から便りが届いた。季節の挨拶から始まり、親族が迷惑をかけて申し訳ない、今後ともどうぞ宜しくお願いします、と簡潔に、だが丁寧に書かれた一筆箋に、自分のデスクの上、視界の端に捉えた自分の文字が目に入った。止めも跳ねもバランスも、なにも無い、ミミズが這った様な汚いそれは文字というには余りにもお粗末で、一体いつから自分は字も書けなくなっていたのだろうと、職務中、一人静かに涙を流し鼻を啜っていた。(もう一回くらい続きます。)




