第6話 屋根の必要性
俺の視界のギリギリをアイビーは川の流れとは逆の、通りの方に向かって歩いて行く。排泄行為ではなかったらしい。
既に日は落ち、街灯などもなく、月も出ていないため暗闇は濃く重かった。人はほとんど歩いていなかったが、アイビーは迷いなく歩いていた。
アイビーの目的地は孵化街の外だった。
アイビーのグループに加わった際に、アイビーから街についての説明も受け、その時歩いた道を俺は歩いた。その時は昼間だったが今は夜であり、趣もずいぶん違った。
商店が建ち並ぶ通りを抜け、冒険者宿と酒場が続く通りも超え、住居が建ち並ぶ地区を抜け、そして、立派な邸宅が並ぶ場所で歩みを遅め、アイビーは一軒の屋敷の前で立ち止まった。
ぼんやり、とした様子でその屋敷を見つめる。
アイビーが見ているのは、寂れた屋敷だった。おそらくは無人。塀は一部壊れており、その隙間から荒れ放題の庭が見える。門も鎖によって封印されていた。
比較的立派な邸宅が並ぶ中にぽつんと廃墟の気配を漂わす屋敷の存在はどこか不穏だった。
アイビーはそんな屋敷をわずかに視線を逸らすこともなく、じっと見ていた。
暗闇が下りた夜の通りだが、稀に人が通り過ぎる。
そんな中でアイビーは一人だけ道の端で立ち尽くし、屋敷を見続ける。
どれくらいその屋敷を見ていただろうか。
アイビーは、長く息を吐き、それからきびすを返して立ち去ろうとしたその時に、ちょうど通り過ぎようとしていた商人らしい中年男が突然愕然としたように立ち止まりアイビーを二度見した。
「……あれ?」
突然の注視にアイビーが固まり、目に怯えが走った。
中年男はだが、アイビーの顔に視線を釘付けのまま、よろけるように歩み寄り、動けないでいるアイビーの手を取った。
そのまま、
「ア、アイビー様……ではありませんか?」
アイビーが驚いたように顔を上げた。
中年男の顔を見る。何かに気づいた表情をしたがすぐに顔を背けた。
アイビーは顔を背けたまま、低い声で言った。
「……見間違いです。そのようなものではありません」
「そんなはずはない! 間違えるはずがない! お嬢様、私です!! ワランです!」
固く口を閉じて視線を合わせようとしないアイビーから拒絶の意志が分かり、俺は介入することを決めた。なぜなら俺はアイビーの護衛としてここにいるのである。加えて女子供を守るのが戦士というものだ。
俺は歩み寄り、アイビーの顔に固定された中年男の視線を遮るように間に立った。
「……アーシュ?」
俺の存在に、アイビーは驚いた顔をした。
中年男は俺の登場に怯えた顔をした。
俺はアイビーを振り返り、
「どうする? 帰るか?」
中年男は慌てた。
「ま、待ってください! 何でそんな格好でーーいや、それよりもとにかくお話しをさせてください。アイビー様のお父上の知り合いの方が、アイビー様を探しているのですーー」
すがりつくように必死に語りかける中年男を振り捨てるように、アイビーは「帰りましょう」と言ってそのまま足早に歩き出した。
俺も続く。
中年男はなおも話しかけながら五十ガルデ(メートル)ほど付いてきたが、商店の連なりが終わるあたりで諦めたようだった。
中年男の姿が見えなくなってもアイビーは沈黙したまま歩く。
俺も黙って横を歩く。
横を歩くアイビーが俺の顔をちらっと見てから何度も口を開き掛け、それから閉じるのがわかった。
俺は前を見ながら言った。
「辛ければ無理に言う必要は無いのだぞ」
「……大丈夫です。ありがとう……でもアーシュがいて驚きました」
「護衛していたのだ。迷惑だったか?」
俺の言葉にアイビーは少しうつむき、それから力ない笑みを浮かべた。
「……そんなことはないです。助かりました。心配させてしまったようですね」
「いや」
再び沈黙が続いた。夜の街は音を吸い込むように静かだった。
「……なにも、聞かないんですね」
「そうだな。聞かない。指揮官たるアイビー殿から必要な情報は下される、と信じている。我らは仲間だ。ではないか?」
「……仲間、でしょうか? バラバラで動いていると思うのですが」
「同じ釜で飯を食い、一つの宿舎で寝て、それぞれに仕事を探すのだから仲間だと思う。同じ戦いに臨む友、と言っていいだろう。父上が言っていた。居場所か目的を一つにする相手は仲間だ、と」
「……そう、ですか」
「そうなのだ」
夜の冷たい空気は肌にとげとげしく刺さった。だから隣を歩くアイビーの体温が不思議なほどやさしく思えた。懐かしい戦友に感じた安心感を俺は覚えていた。
歩きながらアイビーがぽつりぽつりと話し始めた。それは何というか、自分の過去を道のあちこちに落としていくような、そんな話し方だった。
「……昔、あの屋敷に住んでいたのです」
「ほう。そうか」
「とは言っても私の母親があそこの使用人だったというだけでして、あそこで私が幸せだったわけではないのです。もちろん、屋根はありましたが」
「屋根が重要なのか?」
「はい……屋根は大切ですよ?」
アイビーは弱々しく、それでも悪戯っぽく笑い、そう言った。
俺は内心首をかしげた。屋根などなくてもどうにでもなる。野宿は行軍の基本だ。だが、おそらくアイビーはそんなことを言っているのではないと考えた。
たぶん屋根は概念なのだ。
庇護者という意味だ。
つまり俺にとっては父上とその周囲の師匠達だ。
「なるほど。アイビー殿の所作の美しさもまたあそこで学んだものなのだな」
「美しい……ですか?」
「うむ。芯が通った動きをしている。戦闘技術に近い」
「……そんなことを言われたのは初めてです」
アイビーは驚いた顔をしてから、微笑み、そして続けた。
「私の母は使用人でした。でも私の父は、あの屋敷の主人であったミズーオ子爵でした……つまり妻子も身分もある立場だった人間が立場の弱い使用人に手を出して産ませた子供が私だったんです。母は十年前に亡くなり、父も三年前に罪を得て死罪となりました。だから……私は三年前から孤児なのです。屋敷で育てられてはいましたが、認知はされていません。ただの私生児です。私は公にはミズーオ子爵家とは何の繋がりもないのです。だからさっきの人は何かを勘違いしているのです。私には何の権利もないのですから……」
「ふむ」
俺は良く分からないまま頷いた。
屋根の比喩は理解できたが、次の言葉は良く分からなかった。産ませた子供、というのが特にわからない。なぜなら残念ながら子供の生産方法については、父上から「まだ早い」と言われて教わっていない。アイビーの父上とやらはいったいどうやって、使用人に自らの子供を産ませたというのか……謎だ。世界は謎に満ちている。
俺は知らないことばかりの世界に圧倒されて黙り込んだ。
その沈黙をアイビーはどう捉えたのか、それ以上は何も言わず、いつもの橋にたどり着いた。最後に、
「話しすぎた気がしますが、不思議と不安はないのです。でも、今日のことはみんなには内緒でお願いしますね」
と頼まれた。俺は当然、「わかった」と答えた。
指揮官から託された秘密は、墓場まで持っていくものなのは当然なのだった。
そして翌日俺は見事仕事を得た。
仕事内容は荷運びである。と言ってもダンジョン内でのポーター役ではなく、大規模パーティが遠征に入る前にダンジョン入口まで物資を運ぶ役だ。あくまで地上での仕事だったが、俺は誇らしかった。
何しろ仕事である。
つまり俺は一人前となったのだ。
俺は人一倍多くの荷物を運び、なんと「明日も来たら雇ってやるぞ」というありがたい言葉までもらった。
これはもう定職と呼んでいいのではないか。
ねぐらに帰る足も自然に大股になり早くなるというものである。何なら自然と踊り出しそうだった。
そして、その翌日、俺は喜び勇んで仕事に出かけた。
だから、ガサの死体が見つかった時、俺は孵化街にいなかった。




