第5話 橋の下
空腹とは痛みである。
痛みは無視することが出来る。正確には無視ではなく、意識を逸らすのだ。戦いの場で痛みに気をとられると、そのまま死に直結する。それを避けるための技術があり、俺はそれを身につけていた。
だから俺が感じているのは違和感だった。
腹の周辺に蛇のように蟠る違和感をここ数日ずっと感じながら生きている。
俺はその違和感を抱えたまま、孵化街に戻った。
孵化街は川岸に小屋とも呼べないようなかろうじて屋根があるだけの「建物」がひしめき合っている『街』だった。ここでは熱源である太陽は価値があるもので、雨は屋根で凌ぐことが出来るから、力が強いものは空が見える川岸を専有する。そして屋根に使える板を確保できない弱者が、橋の下で寄せ集まって暖を取ることになる。その力さえないもの達は、晴れてる日は道ばたで寝て、雨の日は寝ないで一晩を明かすこととなる。
橋の位置取りも分かりやすく、街の中心に近い開けた川辺が一番強いグループで、離れるにつれて弱くなる。俺が迎え入れられた浮浪児のグループが暮らしているのは孵化街の中でもかなり端の方にある橋の下だった。利便性が悪いだけではなく、木で作られた橋桁で、雨が降ると雨漏りがひどい。
それでも屋根があるだけましなのである。実際、居場所を持たない孤児たちが橋の下をのぞき見ては、先住者に威嚇されて慌てて逃げ出す光景が頻繁に見られる。
俺は大丈夫だ。既に仲間なのだから。
橋に近づいた俺を当然のように歯をむき出して武器をちらつかせながら威嚇する浮浪児たちを抑えて、
「お帰りなさい」
いつものやさしい口調で迎え入れてくれたのは、この橋の下で暮らす浮浪児の間でリーダー格として動いているアイビーだった。
俺はわずかに身体が竦むのを感じた。当然だが俺はアイビーが苦手なのだった。アイビーは十六、七歳くらいだが女性であり、俺が女性に動揺せずにすむ耐性を身につけてないというのが最大の理由だった。何しろアイビーは着ている布地が少なくて太ももがかなり上の方まで見えている。なんだか内太ももだけ白いのが気になってしまうのである。完全にデバフにかかっていた。戦士は自分より強い相手への警戒を緩ませない。当たり前の嗜みだった。そして自分が怯んでいることも悟らせてはならないのである。
俺は可能な限り自然にアイビーに笑顔を向けながら橋の下に入ると、そこには浮浪児たちの体臭と料理中のスープが混ざってなんとも言えない酸っぱい匂いが籠もっていた。パッと見ただけで、十人ほどの浮浪児たちが橋の下にいた。
「どうでしたか?」
アイビーは所作が美しく、極めて言葉が丁寧だった。父上の側近の、「賢者」と呼ばれていた高位魔術師が同じような口調で話しており、毎度どこか懐かしさを感じた。
俺は立ち止まり頭を下げた。
「すまん。仕事は得られなかった」
アイビーは頷いた。
「そんな顔ですね。大丈夫気にしないでください。うちの縄張りの冒険者宿は少ないですし見つからなくて普通です」
アイビーの背後で枝を折っていた十三歳くらいのハルプが、
「アイビー、ちょっと新入りに甘いんじゃねぇの?」
と口を尖らせた。
「違います。十日はやさしくするって決まりですよね? 十日で仕事が見つからなかったら、こっちで仕事を選ぶ。ハルプもこっちに来たときに同じルールだったこと、忘れたのですか?」
「それはそうだったかもしれないけど」
「そもそもハルプだって仕事見つけられなかったからここで料理の手伝いをしているのでしょう?」
「……悪かったよ」
ハルプに続いて俺ももう一度頭を下げた。
「ともあれ俺がふがいないのは疑いようのない事実だ。明日こそはきっと仕事を得てみせる」
「あまり思い詰めないでくださいね。アーシュは最近こっちに来たんでしょう? ずっとここにいるみんなだって仕事を見つけられるわけじゃないのですから」
「やはり仕事を得るのは難しいのか?」
「難しいです……でもアーシュは大丈夫だと思いますよ」
アイビーは少し遠い目になり、
「ですが、いつまでも孵化街にいてはいけません。アーシュはそういう人間ではないと思います」
「……」
アイビーが笑顔で俺を見た。俺が言葉に詰まっていると、ちょうど仲間の一人、コウが帰ってきて、アイビーはそちらを向いた。
「お帰りなさい」
俺とは異なり仕事を得た十五歳くらいのコウは(俺から見て)誇らしい顔つきで、腹巻きの中から十枚程度の銅貨を大事そうに取りだしてアイビーに渡した。
「これが今日の稼ぎ」
「ありがとうございます。がんばりましたね。いつものように半分はコウのものとして貯めておきます。半分はみんなのために使います。いいですか?」
「わかってるって。毎回言わなくていいよ」
「ダメです、こういうのはちゃんとしないといけません」
コウを皮切りに続々と仕事を終えた仲間が帰ってきた。
同時に、
「食事、そろそろいいよ」
という料理番の声も掛かった。
料理の準備は二人の少女が、先ほどのハルプたちのように仕事を得られなかった者達を手伝わせて行っている。基本的に一日一回で、メニューは毎回変わらず、塩に加えて、肉片のようなものと、野草、豆が一緒に煮られたスープだった。
アイビーは橋の下にいる面子を確認し、
「あと戻ってきてないのはガサだけでしょうか?」
「ガサはダンジョンの荷物運びの仕事だろ? 帰ってこない可能性だってあるぜ?」
「そうでしたね……では先に食べてしまいましょう」
アイビーの言葉に一斉に歓声が上がった。
ガサ分のものを取り分けたあと、皆が持つ、あちこち欠けている木製の食器に湯気が立つスープがアイビーの手で順番に注がれていく。
体格、年齢に関係なく、全員、基本的に同じ量だった。
俺もまた自分の食器に注がれたスープを受け取った。肉片が他の人より多い気がしたのは、意味があると考えてしまうのは、何かの病気だろうか。
とにかくそれを飲み、紛れた空腹感が復活する前に寝てしまうのが通例だった。
皆、掻き込みたいのを我慢して、ゆっくりと口に入れ、繰り返し咀嚼して、それから嚥下する。噛めば噛むほど満腹感が増えることが経験上、皆理解しているから真剣な顔で噛み続ける。
俺もアイビーに説明されたとおり、液体も飲み込む前に何度も咀嚼した。食事に時間を掛けることは戦士としての作法に背くが、やってみればそれによって満腹感も得られることも事実であったので、食料に問題がある間に限定して続けている。飢餓に近い欠乏状況を知ればおそらく父上も納得してくれるだろう。
食べ終えてもガサは帰ってこなかった。
食事が終わればもうやることはなかった。橋の下で皆集まって、身体が大きい者が外側に、身体が小さかったり幼い子は内側に配置され、お互いの体温で温め合うように寄り添って寝るだけだ。
俺は一番外側で、その隣にはアイビーがいた。体温を逃がさないよう身動きするのが難しいぐらい密着している。
アイビーは寝れないのかもぞもぞと動く。下には枯れ草を敷いているだけで、体重の分散がうまくいっていないのだろう。
身じろぎしたアイビーの、なぜか芳しく感じる体臭が俺の鼻腔をくすぐった。
途端に弱っていたデバフが強まった。下腹部に熱が溜まってきて、痛いほどだった。当初は逃げ出すことも考えたが、今はちょうどいい鍛錬だと思って我慢することにしている。このデバフの対策はおそらく慣れなのだ。
俺は目を開け、全身に力を込めて身じろぎもせずただ時間が過ぎるのを待った。
無限のような時間だった。
デバフは未だに続いているが悪化もしておらず、目眩や吐き気、痺れは始まっていなかった。鼓動が早まりあらゆる感覚がアイビーに向かっていて、身体を勝手に動かそうとする何かがあり、下腹部への熱の集中が続いている、がそれだけだ。ギリギリの戦いであれば支障にもなるだろうが、ギリギリの戦いには流血や骨折など支障がたいていあるものだ。大きな問題ではない。
うむ。
俺は全身に力を込めたまま納得した。
この感覚に慣れていけば問題はどんどん小さくなるだろう。
そうであってほしい。
周りの子供達が次々と眠りに落ちていく中、俺がギンと目を見開いてまんじりともしてないでいた。
しばらくしてアイビーが再び動いた。
呼吸音から寝てないことは気づいていたが、アイビーは半身を起こすと周囲を確認し、それから皆を起こさないようにそっと立ち上がった。
そのまま橋の下を出ていく。
排泄行為かとも思ったが、この辺の治安は決して良くなく、俺は念のためついていくことにした。




