第15話 それぞれの居場所
次の瞬間、アイビーの右腕はラウダに掴まれていた。すごい力で引きはがそうとしてもまったく動かなかった。そのまま座ったままのラウダに抱きすくめられた。男臭さに息が詰まり、そのあと悲鳴を上げようとしたら、その口をラウダの右手で塞がれた。
身体を強く押しつけられ、
「女の身体になったじゃねぇか。ぶん殴って気を失った後に犯してもいいんだぞ? 顔と股が痛いか、股だけが痛いかの差だ。」
恐怖が全身をこわばらせた。
犯すという言葉は理解が出来た。
父親が刑死したあと、十四歳だったアイビーは天涯孤独で何もかもを失って彷徨っているところを、当時のリーダーであった少女に拾われた。そしてそれから浮浪児たちと生きてきた。浮浪児の主な仕事は、冒険者たちのダンジョン内での荷物運び、周辺地域での採集作業、地回りの手伝い、そして売春だった。
当時のリーダーは「いやならやる必要は無いよ。仕事は色々あるんだし。私? 私は嫌いじゃないから」という方針で、アイビー自身の売春は免れていたが、知識はあった。その知識がアイビーを恐怖に陥れさせた。
嫌悪と拒否感はあるのにどうしても身体が動かなかった。
逃げないと思ったのか、ラウダが顔を近づけてきた。口が開き長い舌が現れ、ぞろりと頬を嘗められた。鳥肌が立った。
「俺は女の目を嘗めるのが好きなんだよ。嘗めていいよな? 殴らないからさ」
舌が眼球に近づいた。
目を閉じることも出来なかった。代わりに、
「アーシュ!」
その瞬間、影の中にアーシュが立っていた。
「そのくらいでやめておけ」
アーシュのたった一言で呪縛が解けた。アイビーはラウダから自分の身体を引きはがして、距離を取って、それから救い主を見た。
一方、一瞬怯んだラウダは現れたのが子供であることに余裕を取り戻していた。
ゆっくりと近づき、再びアイビーに手を伸ばしてきた。
アイビーは今度は動けた。拳を握り、必死にラウダの手を振り払おうとした。
だが、その懸命な抵抗の拳は軽々と受け止められ、
「痛!」
腕がひねり上げられて、骨が軋んだ。
「痛い方が好きなのか? 俺も嫌いじゃねぇ。楽しくなってきたぜ」
ラウダが再び顔を近づけてくる。
「アーシュ!!」
必死に首を捻ってアーシュを呼んだ。
アーシュは黙って歩み寄り、アイビーの腕をひねり上げるラウダの腕に手を乗せた。
「なんだぁ!? ひねり潰すぞ? 失せーー」
ラウダの言葉が途中から甲高い悲鳴に変わった。
アーシュは枯れ葉を移動するように軽々とラウダの腕を引きはがした。
「こういうのは良くないぞ?」
「な、なんだてめぇ。ふざけんな!!」
状況が理解できないのかいきなり殴りかかってきたラウダの拳を、さっきアイビーの拳を受け止めたときのラウダよりも余裕な様子でアーシュは受け止めた。
アイビーは目を見張ってそれを見ていた。
命の危機から助け出してくれたのはアーシュである。強いことはわかっていた。だが、その強さをまじまじと見たのは初めてだった。
不器用で世間知らずの少年の姿はそこになかった。
それだけではない。アイビーは生得スキルで未来を見た。
そこでアーシュは世界を救っていた。あまりにも絶対的な魔王に相対し、それを鎮めていた。
そうなのだ。
アーシュがこんなチンピラに負けるわけが無かった。
ラウダは左手で刃物を抜いた。
だが、その刃物を持つ左手もそっとアーシュが右手を添えると、ピクリとも動かなくなった。
「な、なんだおまえ。いったいなんなんだよ……この力……お前いったい……」
動けないまま泣きそうな顔でラウダが言った。
「獲物を出すのは良くないぞ。こちらも手加減がしにくくなる」
ラウダに怖い顔を見せた後、アーシュは左手でラウダの持つ刃物の峰の部分をつまんでむしり取ると、川の方に投げた。
遠くから水音が聞こえてきた。
「これでいい。さて……、このあとはどうするか」
アーシュは少し考え、アイビーが何か言う前に、「うん」と頷き先ほどの刃物と同じように、ラウダの首根っこを掴んで、そのまま川に投げ込んだ。ずいぶん大きな放物線を描いたようで、先ほどの何百倍も大きな水音が聞こえてくるまでかなり時間が掛かった。
大柄なラウダを小石のように投げたアーシュは何事もなかったかのような顔でアイビーを振り返り、
「これでいい。では帰ろう」
と笑顔を浮かべた。
「は、はい……」
アイビーがなんとか返事をするとアーシュは歩き出した。
アイビーはまだ驚きから醒めていなかった。アーシュがなにごともなかったかのように歩き出すのに引きずられて、アイビーも歩き出した。
歩き出して、違和感を覚えた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「どうした?」
「……あ、あの、まず、最初に言っておきます……助けてくれてありがとうございます」
「どういう意味だ? 俺はアイビー殿こそが俺を助けてくれた、と認識しているのだが……」
アイビーは肩から力が抜けた。そうだった。アーシュは驚くほど常識がずれていたのだった。
そのことを思い出し、さっきまで全身を埋め尽くしていた恐怖がまた少し遠のいた。
途端に別の不安が首をもたげてくる。
アイビーは確認した。
「ラウダは死んでいませんよね?」
「誰だ?」
「さっきの人です。ミダ一家の人なんです」
「知り合いだったか。もしかしてまずかったか?」
「そんなことはありません。ざまぁみろと思っています」
「そうか。よかった。この川は浅い。まぁ、死にはしないだろう……もし殺した方がよければ今からとどめを刺しに行ってくるが」
「それは大丈夫です」
「そうか」
アイビーは歩き出した。アーシュもついてきた。
「……アーシュはやさしいですね」
「やさしくないぞ。俺は戦士であり、戦士とは優しさとはかけ離れた存在だ」
「そういうことではありません。だってわざわざ私を助けてくれたんですから」
「さっきも言ったと思うがアイビー殿を助けたわけではない。仲間に危害を加えようとした人間を排除しただけだ。それは当たり前のことではないのか?」
「それは、そうですが……」
「なら俺は当たり前のことをしただけだ」
「……なぜか腹が立ちますね。どうしてでしょう」
「む? 俺はまた怒らせるようなことをやってしまったのか? なにがアイビー殿を怒らせたのか後学のために教えてほしい」
「いいえ。教えません。自分で考えてください」
「それは困る。成長できぬではないか」
「そんなに急いで成長しなくていいのではないでしょうか?」
「そうはいかぬ。待たせている相手がいる」
「そう……なのですか? ……アーシュは天涯孤独じゃないですか……」
「うむ。俺は真の戦士となって父上のもとに戻る。そのための修行の身だ」
「……羨ましいです。私の父はもう死んでしまったので。自業自得でしたが」
「そうか。残念だったな。だが戦士とは常に死と隣り合わせの存在だ。こればかりはどうにもならぬ。運が悪かったということだろう」
「私の父は戦士ではありませんでしたよ」
「ああ、そうか。戦士以外の生き方がここではあるのだったな」
アイビーは立ち止まった。アーシュも立ち止まり、アイビーを見た。
アイビーは迷った。
「ひとつ言っていいですか?」
「もちろんだ」
「私はアーシュのお陰で助かりましたし、アーシュのことを気に入っています。これは嘘じゃありません」
「……うむ」
「でも、アーシュはここにいちゃダメだと思います。戻る場所があるんだったらなおさらです。孵化街にいてはいけません」
「……そう、なのか?」
「はい。出ていった方がいいです。アーシュは私たちとは違います。世界を救う人はこんな所に居てはいけないのです」
アーシュは哀しい顔をした。その顔を見てアイビーはズキッと胸が痛んだ。だが思ったことを言うべきだった。
アーシュはアイビーたちと違う。たぶんいてはいけない相手だ。
しばらくしてアーシュは顔を上げ口を開いた。
「俺はものを知らない。ただの間抜けだ」
「そんなことはーー」
「真の戦士にも至ってない。だが、そんな俺でも、アイビー殿もまたここにいてはいけない気がするのだ」
「……」
「アイビー殿はもっと別の生活が出来るはずだ。そして、その方が似合う、と俺は思う」
アイビーは何かに撃たれたように顔を上げた。
「そう……ですね。わかりました。アーシュも自分の居場所を探してください。私も準備をしてから、新しい場所に向かいます」
そう宣言した途端、気持ちが軽くなった。そうか、と思った。孵化街は自分の終生の居場所ではなかったのだ。
そもそも逃げ出した先にあったのが孵化街と言うだけ。
「うむ。俺もまた真の戦士を目指して懸命に生きる。だがさっきの男ーーラウダと言ったか。奴が戻ってくるのが少し心配だ。やはりとどめを刺した方がーー」
「大丈夫です。きっとなんとかなります。はい。だからアーシュは行ってください」
「……わかった。だが、ではなぜアイビー殿は泣いているのだ?」
「え?」
驚いて自分の顔を触った。アーシュが指摘したとおり涙が流れていた。
「あ」
慌ててアイビーは首を振った。
「少し寂しいだけです! それだけですから!!」
アーシュはアイビーをじっと見た後、頭を下げた。
「そうか……今までのこと感謝する」
「こちらこそ……またどこかで会えるといいですね」
「ああ。そうだな。うむ」
アーシュは背を向け、歩き出した。
その背が見えなくなるまでアイビーはその場で見送った。




