第6話 灰淵街
それから数時間。もう無言で黙々と歩いた。
精神年齢四十五歳の男に体力があるはずもない。喋る気力も失せて、ヒロコとモルの後ろ姿を追っていた。
なんだよこの樹海!広すぎだろ!と文句を言ってみてもしょうがない。立入禁止の樹海らしいから、こんなところに転移させた魂審官たちを恨むしかないのである。
ヒロコがいなかったら、確実に餓死していただろう。そう考えると身震いがしてくるな。
それにしても――。
ヒロコとモルは楽しそうにお喋りしている。猫はともかく、ヒロコの体力もなかなかのものだ。
この世界の住人は皆こんな感じなのかな、と思うと溜め息が出た。普通の人間に見えるけどね。
すでに日が傾いてきている。太陽なのかどうかはわからないが、やはり、環境は地球と同じと考えてよさそうだ。それだけが心の救いだった。
「あの…いつ樹海を抜けるんでしょうか?」
ヒロコは面倒くさそうに振り向いて、告げた。
「あと三日ってところかしらね」
「嘘やん!」
驚いて関西弁になっちゃったよ。その反応が面白かったのか、ヒロコとモルは笑い合った。
「冗談よ。樹海はとても広いのだけど、ここはその端っこなのよ。立入禁止区域には違いないけど、それは一般の話でね。北方面全域が未開区域になっているから、そこは私たちでも、なかなか立ち入りの許可が出ないわ」
「はあ…」
だから何?と思うのだが、反論しても意味がない。とにかく、いつ街に着くんですかね?
「あと一時間ってところかしら。日が暮れるまでには着けるわよ」
「そうですか…」
もう凄いところに来ちゃったな。何がいい感じのところだよ。またシンラコウに怒りが湧いてくるのだが、ここで気づいた。
「そういえば、転移魔法とかないんですかね?皆さん、移動はどうされてるんですか?」
「あなたね」と、ヒロコがまた不機嫌そうに答える。
「転移術式は高いのよ。あなたがどうやって転移してきたのか知らないけど、国を越えるような転移術式はとても手に入らないわ。この国の車はとっても高いし、だから歩きよ!」
ああ、安月給なんですね。もうプリプリしなさんなって。というか、高いってどういう意味だろう?術式が買えるってことなのかな?
なんだか面白そうな話だ。それに車があるみたいだし、どんな車があるのか楽しみだな。
俺の能天気さがここで発揮され、それからの一時間はいくぶんか楽だった。
ようやく森が開けてくると、見えてきたのはまた海だった。
と言っても、ビーチではなく断崖絶壁の海岸線に敷設された道だった。舗装はされていないみたいだけど、確かに王都に続いている。
はるか向こうの内陸に、王都と呼ぶに相応しい城が見えるからだ。尖った屋根の塔のような建物が連なり、王都感満載になっている。そして、その城の近くから海辺に向かって、低い屋根の民家っぽい建物が広がっていた。
「おお…」と、自然と声が漏れ出た。
「ラウネ王国の王都よ。私はあそこに住んでいるの。そこで、あなたとはお別れね」
そういえば、そんなことを言っていたな。まあ、刑務所みたいなところへ送られるのなら、逆に食い物くらい出してもらえるだろう。
モルが悲しそうな顔をしているが、モルは渡さない。それだけは決定しているからな。
「金輪際、会えないってことでもないんですよね?」
「さあ、どうかしら。行けばわかるわ」
ヒロコはなぜか嬉しそう。その顔が赤く染まっていると思ったら、海に夕陽が沈み始めていた。
やがて、王都の入り口らしい城壁の近くにたどり着くと、俺はそのスケールに驚いた。
城壁は果てしなく続いているかのようだった。城を中心に、広大な範囲を囲っているのだ。
「私はこの中だから。あー疲れた。それじゃあ、がんばってね」
ハイ、じゃあさようなら。ってわけあるかい!
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「何よ。こっちはIDがないと入れないのよ。ついてきたら、王立軍に射殺されるわよ。モル君だけは連れて行けるけどね。ペットならIDはいらないし。どうする?」
クッ、この女。とことん俺と合わないようだな。モルは行かねーよ!
「いいの?」なんて言って…って、え?モル君?
モルがめちゃくちゃ行きたそうな顔をしている。そうだったよ、こいつは演技が下手だった。態度に出まくりなのだ。
そうかい。なら俺にも考えがある。
「困ったな…野垂れ死ぬくらいなら、フレアジェイルぶっ放して、王都を焼き尽くすか…」
ポツリと呟いてみる。するとモルは、俺の膝に肉球を押し当てて歯ぎしりしていた。
フッ、かわいいやつめ。そうだろ、お前はカルマエギのために、日記を書かなくちゃいけないんだからな。
「ごめん、ヒロコ。やっぱりベルマを放ってはいけないよ。心の底から残念だけど」
すると、ヒロコはまたモルを抱き上げた。
「ううん、いいのよ。本当にかわいそうな子。ベルマが頼りないから、ちょっとイジワルを言ってみただけ。モル君を見捨てたりしないわ」
そして俺には、対照的な冷たい視線を向ける。
「あなたは、あっちよ」
ヒロコの視線が切り替わり、城壁に沿って流れる川の向こう側を示した。
川と言っても、大河と思しき川が海に向かって流れている。河口には大きな帆船がいくつか見えるほどだ。
巨大な石造りの橋が架かっていて往来が可能になっているが、対岸に広がっているのは、木造の粗末な家々だった。しかも、王都の城壁と並ぶくらいの広大な範囲に家々が連なっている。
まさか、あれって――。
「そ、スラムよ。世界最大のスラムって言われているわ。ここは、そういう国なのよ」
ヒロコの顔から笑みが消えていた。
「IDを持たない人たちの行きつく先よ。あなたはあそこに行くしかないでしょ?」
なるほどね。上品そうなヒロコからしたら刑務所に見えるわけか。でもね、俺はそういうところの連中を相手にしてきたんだよ。
「そういうことでしたか。まあ、樹海でキャンプするよりマシですよ。なあ、モル」
「え?う…うん」
露骨に感情を出す猫だな。お前しか魂液を持っていないんだから、しっかりしてくれよ。
「で、あそこの橋を渡って行けばいいんですね?」
こう言うと、ヒロコはなぜか目を丸くしていた。
「あなた、本当に能天気ね。言っておくけど治安は最悪よ。私もそんなに詳しくないけど、あれだけ広大だから、地区とか縄張りみたいなのがあるらしいのよね。最深部には王立軍でも手出しできないわ。気をつけなさいよ」
なるほど。要はヤーさんの巣窟なんですよね?
「大丈夫ですよ。俺はヤーさんに縁があるので」
「ヤーさん?何を言っているのかわからないけど、そんな可愛い感じならいいわね。あそこは通称、『灰淵街』。枯れ果てた港という意味よ」
「灰淵街ですか。響き的にはカッコいいですね」
ヒロコは呆れたように息をついた。
「船が見えるでしょ?外国と怪しい取引をしているみたいで、国籍不明の人間も多いのよ。まあ、あなたもそうだから仲良くできたらいいわね」
「ええ、まあ最悪の時は樹氷で固めて…」
モルのパンチが飛んできた。
「じゃあ、私は行くから。早くシャワー浴びて休みたいし。モル君、残念な飼い主が嫌になったら、ここへ逃げていらっしゃい」
ヒロコはモルの前に座り込んで、顎の下を指先で撫でた。
そして立ち上がり、王都に向かって行きかけたが、「そうそう」と言って振り返った。
「私の知り合いに、ミートクって人がいるから。その人を訪ねなさい。ナコントンパークの七番街にいるはずよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「それから…」と、ヒロコはまた言って、口ごもった。
「はい?」
「私も折を見て、ミートクさんのところに行ってあげるわ。モル君に会いにね。その時には、友達になってあげてもいいかな、なんて…」
フッ、俺もね、無駄に年取ってきたわけじゃないんだよ。だからわかる。そういうパターンだと。
可愛いやつめ。だが、ここで安易に笑顔を見せてはいけない。シリアスモードでいこう。
「ああ、ありがとうヒロコ。じゃあ、俺も行ってくるよ」
そして、逆に俺がさっと立ち去る。俺は上着の裾を、モルはマントを翻して颯爽と歩き出す。
完璧だな。もう俺に夢中になってたりして。
橋の手前でこっそり振り返る。すると、もうヒロコの姿はなかった。
なんだよ。まあそんなもんか、と息をつく。さて、これからどうなることやら。
橋の手前には、関所のようなゲートがあった。
素通りできるわけではなかった。関所の中から二人の男が出てきた。
白を基調とした軍服と軍帽っぽい制服に身を包んでいる。腰には拳銃――というより、44マグナムみたいな物騒なブツが見えている。どう見ても王立軍って人たちだよね。
「君、灰淵街へ向かうのかね?」
「ええ、まあ」
よかった。紳士的な感じで。
「往来する者は少ないのでな。知っているとは思うが、また戻ってくるつもりなら、ここで登録が必要だ。IDを提示して来てもらおう」
そういうことね。向こうからやって来るヤーさんを堰き止めているわけですか。逆に、行くならご勝手にって感じかな。
「いえ、じつは記憶喪失になってしまいまして。IDを持っていないんですよ。だから仕方なく、向こうで受け入れてもらおうと思っています」
「は?」
軍人は固まった。予想だにしない返答だったのだろう。まあ、わかるよ。
「そ…それは大変だな。しかし、行ってしまえば戻ってこれぬぞ」
「それはもう。じゃあ、行っていいですよね?」
「しかし…」
まだ何か言いたいのか、軍人が引き留めようとする。だが、もう一人の軍人が彼の肩に手を置いて首を振っていた。
もうよせ、放っておけ、という心の声が聞こえる。
ナイスだ、もう一人の軍人。最悪、ヒロコの名前を出すか、樹氷で固めようと思っていたところだ。
じゃあ、さようなら。二人の前を横切りながら、心の中で言っておく。
それは、まるで冥界の道みたいに高くて長い橋だった。両側の断崖絶壁を繋いでいるようで、みすぼらしい灰淵街の街並みは、左側の海に向かって勾配のついた丘陵に沿って広がっていた。
すれ違う人は一人もいない。橋の終点に関所のような建物が見えてくる。だが、こちらには誰も詰めていなかった。どうにも傷んだ感じで、廃墟のようになっている。
フム、ここからもうスラムってわけね。こうして俺とモルは、なんということもなく灰淵街へと足を踏み入れたのだった。
「さて、モルよ。ミートボールとシリモンコンだったかな?」
「全然違うよ。ミートクって人がナコントンパークにいるんだよ」
「左様か。では参ろう」
モルは何か言いたげな目で見ていたが、こんな時こそ気分を上げて行こうよ。なんとかなるって。
広大な灰淵街の入り口に差し掛かる。
すっかり日が落ちて、街の明かりが冥界で見た魂のように儚い輝きを闇に滲ませている。
そこは、確かに木造のみすぼらしい建物が密集しているのだが、思っていたのと違った。
もっとこう、ジメジメした不衛生極まりないゴミ溜めをイメージしていたのだけど、ホームレスっぽい人の姿も見えなかった。
軒先から布をタープのように伸ばした露店が賑わっているのだ。迷路のように路地が入り組んでいるけれど、どこも人で溢れている。
「えっと、なんか思ってたのと違うな。綺麗ではないけど、汚くなくない?」
モルは自分の肉球を確かめていた。おそらく汚れをチェックしているのだろう。神経質なやつだ。
「そうだね。でも油断してると、サクッと刺されちゃうかもね」
どうも気に入らないみたいだね。俺としては、ここで全然生活できる自信があるんだけどな。
「思ったんだけど、この世界ってお金がないわけじゃん?だったら、強盗とか意味ないと思うんだよね。ルピートだって持ってないし、死んだら魂液は霧散するって言ってたし、何も奪えないじゃん」
「まあ、それはそうかもね。逆に聞くけど、それでどうやってこれから生きていく気なの?」
「うーん、とりあえずメシを食おう。店はいっぱいある」
「ボクの話、聞いてた?どうやって支払うのさ」
それはな、お前の体で払うんだよ。とにかく腹ペコだ。
屋台が並んでいるみたいで楽しいのだが、迷うのも面倒だし、何がうまいかもわからない。ここは即決だ。
「サーセン!」
目の前の店に飛び込み、陽気に店員さんっぽい女性に声をかけると、女性は俺を見て目を丸くした。
そんなに俺がタイプなのかな?とりあえず、空いている席に座っていい?という視線を送ってみる。
「あんた、王都から来たのかい?」
「え?まあ、そのような、そうでないような…」
「誤魔化しても無駄だよ!出て行ってくれ!ここで揉め事が起きたら、店が壊れちまうよ」
オイオイ、いきなりえらい剣幕だな。
「いや、揉め事なんて起こしませんよ。食事をいただきたいだけで…」
「起きるんだよ!あんたの猫、ルピートを付けてるじゃないか。不用心にもほどがあるよ。王都じゃ盗まれる心配はないかもしれないけどね、ここじゃ襲ってくれって言っているようなもんさ。だから、ホレ。さっさと出て行ってくれ」
ああ、そういうことね。
「モル、刺されるのはお前だったな」
こっそり耳打ちすると、モルはブローチを前足で隠した。すぐ態度に出るから面白い。
「いえ、こいつのはただの石ですよ。ブローチの飾りで」
「そんな御託はいいんだよ。強盗にそう言ってやんな。ホレ、早く行かないとアタイのコークスクリューパンチを…」
店員さんは拳に息を吹きかけていたが、何かに驚いた様子で俺を見つめた。
どうした?ホントに強盗でも出てきたのかい?
しかしまあ、ここまで言われたら仕方がない。食事は諦めよう。モルのブローチを隠して、他の店に凸するしかないなか。
なあ、モル。そう思って視線を向けると、そこにモルはいなかった。
キャン!という悲鳴のような声が聞こえた。モル?
背後を振り向いたその時――。
見知らぬ人間が抱きついてきた。ヒロコだったら嬉しいが、汚らしいおっさんだった。
気色悪っ!でもなんか、時間がゆっくり流れているような…。
いや、これってデジャヴかな?こいつ、ヤーさんじゃないの?
不思議と冷静に思考していた。あの時と同じだった。
少しだけ腹に痛みがある。男が離れたので手を当ててみると、血がべったり付いていた。
ああ、やっぱり。俺は刺されていたのだ。
血が滴るナイフを手にしたおっさんが何か言っている。ルピートがどうとか。
もう一人の仲間がモルを掴み上げていて、モルは暴れているようだ。
ごめん、モル。心配してくれていたのに、本当になっちゃったよ。また死ぬみたいだ。
だけど、お前だけは助けてやるから。お店のお姉さんには申し訳ないけど、やってやるよ。
そう決意した時、刺された腹の痛みは消え、胸が燃えるように熱くなった。
ごめん、お姉さん。力の制御はできない。せめて、範囲が小さくなるように祈りつつ発動させよう。
「樹氷…」
掠れた声で呟くと、魔法陣が二人の男を捕獲した。四つの積層が二人の首から下に向けて絡みついた。
そして、ホルマリン漬けの標本のように、二人の首から下を凍らせたのだった。
男たちは、息も絶え絶えに、呻き声をあげるだけだった。そりゃあ、まともに呼吸ができないだろう。
俺はその光景を見て笑みを浮かべる。消滅させるのも後味が悪いし、こうしておけば、たっぷり後悔させてやれる。
見たところヤーさん丸出しの風体だ。情状酌量の余地はなかろう。で、俺はそろそろ死ぬのかな?
だけど…えっと、意識がまだしっかりしているような…。なかなか死ぬ感じがしてこないんだけど?
それに痛みがないんだよね。腹に手を当ててみると、確かに血は出ている。けど、止まっているような。なぜ?
モルが近寄ってきた。大丈夫?という目で見ている。こんな時でも、喋る猫を封印しているのだな。
まあいい。でも考えてみると、いくら祈ったとはいえ、樹氷の威力がイマイチだった。もしかして、治癒に力を使っちゃったとか?
ああ、もう俺のことがわからねー!頭を抱えてふと気づく。
顔を上げると、そこには、しーんとなった微妙な空気が流れていたのだった。




