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怪異記録04 蝉が止んだ午後【前編】

 その村では、夏になると蝉を数えない。


 何匹いるのか。


 いつから鳴いているのか。


 どの木に止まっているのか。


 そんなことを確かめる者はいない。


 ただ一つだけ。


 朝も、昼も、誰かがふと耳を澄ませる。


 ――まだ、鳴いているか。




 ◇




 朝から暑かった。


 街道の左右には麦畑が広がり、その向こうで木立が陽炎に揺れていた。


 馬の蹄が乾いた土を踏むたび、細かな埃が舞う。


「ひゃっはー! この程度の暑さ、俺様の情熱に比べれば――」


 前を進んでいたラッセルの上体が、ぐらりと傾いた。


 クランは隣から手を伸ばし、赤い外套の襟をつかんだ。


「落ちるぞ」

「落ちん!」

「今、落ちかけた」

「華麗な体重移動だ!」

「ラッセル」


 後ろから、シャルロットの穏やかな声が飛んだ。


「水を飲んでください」

「俺様は――」

「飲んでください」

「……承知した」


 ラッセルが水筒を取る。


 ごくり、と喉が動いた。


 ノエラがその様子を眺めていた。


「暑さに負けた」

「なー」


 腕の中の黒猫が鳴く。


「負けていない! 戦略的給水だ!」


 クランは反応しなかった。


 ラッセルもうるさいが、それ以上に蝉の声がうるさかった。


 麦畑の向こう。


 街道沿いの木々。


 山裾へ続く森。


 あらゆる方向から鳴き声が降り注いでいる。


 一匹ずつを聞き分けることなどできない。


 音というより、壁だった。


 じりじりと照りつける陽光。


 肌へまとわりつく湿気。


 馬の背から伝わる熱。


 そのすべてを覆うように、蝉が鳴いている。


「騎士長」


 クランは振り返った。


「村が見えます」


 街道の先に、低い屋根が並んでいた。


 入口には古びた木の門。


 色の薄れた板に、


 アステ村。


 そう書かれている。


 村へ近づいた時、道端にいた男が手を止めた。


 少し遅れて、井戸のそばの女も顔を上げる。


 子どもまで遊びをやめた。


 クランたちを見る。


 次に。


 森を見るのではなく、耳を澄ませた。


 蝉は鳴いている。


 男の肩から、わずかに力が抜けた。


 クランはそれを見た。




 ◇




「北の森へ入られるのですか」


 村長は、シャルロットの話を最後まで聞いてから尋ねた。


「その可能性があります」

「おやめになった方がいい」

「理由を伺っても?」


 シャルロットの声は変わらない。


 村長はすぐには答えなかった。


 窓の外へ目を向ける。


 いや。


 見ているのではない。


 聞いている。


 窓を閉めていても、蝉の声は入ってきていた。


「……まだ、鳴いているか」


 小さな声だった。


「何だ?」


 クランが訊く。


 村長はようやくこちらを見た。


「森へ入られるなら、覚えておいてください」


 膝の上で組んでいた手が強くなる。


「蝉が止んだら、目を閉じてください」


 ラッセルの眉が動いた。


「それだけか?」

「返事をしないでください」

「誰に?」

「誰に呼ばれても」


 村長は続けた。


「動かないでください。音が戻るまで、その場にいてください」

「理由は?」


 クランが尋ねる。


 長い沈黙。


「分かりません」

「分からない?」

「分かっていた者がいたのかもしれません。しかし、その人たちはもういません」


 村長の視線が落ちた。


「私たちに残っているのは、そうすれば帰ってこられることが多い、というだけです」

「多い?」


 クランが繰り返す。


「帰ってこない場合も?」

「あります」

「帰ってきた場合は?」


 村長はそこで口を閉じた。


 外で蝉が鳴く。


 しばらくしてから、低く答えた。


「帰ってきたものを、すぐ人だと思わないでください」


 ラッセルも、今度は笑わなかった。




 ◇




 最初に森へ入ったのは、薪を取りに行った若い男だった。


 二日経っても戻らなかった。


 父親が捜しに入った。


 その日の夕方。


 若い男だけが帰ってきた。


「怪我は?」

「ありませんでした」


 村長は首を振る。


「服もそのまま。持っていた道具も。話し方も、顔も」

「なら何が違った」

「汗です」


 クランは黙って続きを待つ。


「あの日も今日と同じ暑さでした。森から村まで歩いて戻れば、服まで濡れる。それなのに、あれは汗をかいていなかった」


 ──あれ。


 村長は、息子とも男とも言わなかった。


「水を渡した者がいます」


 シャルロットが尋ねる。


「飲みましたか?」

「杯は口につけました」

「それだけ?」

「はい」


 村長は自分の喉へ手を当てた。


「飲んだように見えたそうです」


 外の蝉の声が、急に大きくなった気がした。


「その夜、男は家を出ようとした。母親が止めると、森を指して言ったそうです」


 村長が一度、口を湿らせる。


「まだ鳴いているから、大丈夫だ、と」

「今、彼は?」

「翌朝、いなくなりました」

「父親は」

「戻っていません」


 その後、村の猟師が二人を探しに入り、昨日から戻っていない。


 三人。


 現在、森に残っている人数だった。


「捜索は俺たちで行う」


 クランが言った。


 村長の顔が強張る。


「騎士様でも同じです」

「分かってる」

「剣では――」

「それも分かってる」


 クランは立ち上がった。


 シャルロットも席を立つ。


「危険を確認した場合は、調査より退避を優先します」


 村長へそう告げた。


 ラッセルが水筒を腰へ戻す。


「俺様の出番というわけだな」

「静かに歩いて」


 ノエラが言う。


「なぜ俺様だけ!?」

「うるさいから」

「なー」

「猫まで同意するな!」




 ◇




 森へ入ると、蝉の声は近くなった。


 大きくなった、とは少し違う。


 頭上。


 横。


 足元に近い低木。


 至近距離の木々から、まとまった音が身体へ押しつけられる。


 声を張らなければ、数歩先の仲間とも話しにくい。


 クランが先頭。


 その少し後ろにシャルロット。


 ノエラは黒猫を抱いて歩き、ラッセルが最後尾を守る。


 猟師の残した目印は、途中までは見つかった。


 枝へ結ばれた布。


 刃物で削られた樹皮。


 泥に残った靴跡。


 それがある場所で途切れていた。


「引き返した跡はありません」


 シャルロットが足元を確認する。


「……」


 クランも周囲を見る。


 争った形跡はない。


 荷物も落ちていない。


 ただ、近くの木に蝉の抜け殻がついていた。


 珍しいものではない。


 森へ入ってから何度も見ている。


 違うのは色だった。


 白い。


 クランは近づかず、剣先で枝を押し下げた。


 乾いた殻が揺れる。


 通常のものより大きい。


 腹部も長い。


 内側に、一本だけ黒いものがあった。


「髪?」


 ノエラが言う。


「触るな」


 クランは枝から剣を離した。


 ラッセルも手を出さなかった。


 少し前なら「抜け殻程度」と笑っていたはずだ。


 蝉は鳴き続けている。


 それを誰も指摘しないまま、四人と一匹はさらに進んだ。




 ◇




 最初は、人間だと思った。


 木々の間に、一人立っている。


 森の奥。


 こちらへ背を向けていた。


「おい!」


 ラッセルが声を張る。


 人影が動く。


 ゆっくり振り返った。


「騎士長」

「見えています」


 シャルロットの右手が剣へ近づく。


 クランは一歩だけ前へ出た。


「そこで止まれ」


 人影は止まった。


 それだけなら、おかしなところはない。


 近づくまでは。


 白い。


 服ではなかった。


 肩から腕。


 胸。


 首。


 人間の輪郭を、白い蝉の抜け殻が重なるように形作っている。


 その隙間に皮膚はない。


 遠くから人に見えていたものは、人の形をしているだけだった。


 黒猫の身体が、ノエラの腕の中で固くなる。


 人型が口を開いた。


「こちらです」


 年配の男の声。


 村長から聞いた、薪取りの男の父親の年頃だった。


 もう一度、口が開く。


「助けてください」


 若い男。


 そして。


「騎士様」


 三つ目は、別の男の声だった。


 猟師。


 声だけなら、そこに三人いるように聞こえた。


 実際に立っているのは、一つだけ。


「下がってください」


 シャルロットが静かに言う。


 全員が半歩ずつ距離を取る。


 人型が腕を上げた。


 呼ぶように。


 その動きに合わせて肩の殻がずれた。


 乾いた音。


 一枚。


 二枚。


 形を保っていたものが崩れ始める。


 胸が割れる。


 首が折れる。


 白い殻が次々と地面へ落ちた。


 中には何もいない。


 骨も。


 肉も。


 人も。


 ない。


 白い抜け殻だけが、人の形をして立っていた。


 最後に顔が崩れた。


 空になった衣服のように、白い殻が地面へ散らばる。


 ラッセルが何か言いかけた。


 その瞬間。


 蝉が止んだ。




 ◇




 音が消えたわけではなかった。


 風はある。


 葉が擦れている。


 誰かの呼吸も聞こえる。


 鎧の革帯が、小さく軋んだ。


 だからこそ。


 ずっと森を埋めていたものだけが、突然なくなったことが分かった。


 クランは目を閉じた。


「閉じろ」


 短く告げる。


 それ以上は言わない。


 誰かが息を呑んだ。


 すぐ近くで、布が擦れる。


 全員が直前までいた位置を、クランは覚えている。


 前方には誰もいない。


 後ろにシャルロット。


 さらにノエラ。


 最後尾にラッセル。


 目は開けない。


 土を踏む音がした。


 一歩。


 止まる。


 どこから聞こえたのか、判断しづらい。


 枝の葉が揺れた。


 風かもしれない。


 また一歩。


 その時。


「クラン」


 リアの声だった。


 近い。


 すぐ手を伸ばせば届きそうな距離。


 クランは動かなかった。


 聞き間違えるはずがない。


 柔らかな声。


 呼ぶ時の間。


 その全部が、彼の知っているリアだった。


「目を開けてください」


 返事はしない。


 声を疑ったからではない。


 リアは、自分の声を理由にクランへ判断を捨てさせるような人間ではない。


 今この場で、声だけに従うことと、リアを信じることは同じではなかった。


 土が小さく鳴る。


 今度は左。


 誰かが位置を変えたようにも聞こえた。


 クランは動かない。


 呼吸を整える。


 風。


 葉。


 衣服。


 誰かの浅い息。


 それ以外を追わない。


 どれほど経ったのか分からない。


 やがて。


 一匹の蝉が鳴いた。


 少し離れた木から、もう一匹。


 さらに一匹。


 森へ少しずつ、夏の音が戻ってくる。


 それでもクランは目を開けなかった。


 一呼吸。


 二呼吸。


 三呼吸。


 蝉の声が再び森を満たしてから、ゆっくり瞼を上げた。


 シャルロットがいる。


 ノエラもいる。


 黒猫は腕の中で身体を固くしていた。


 ラッセルもいた。


「……終わったか?」


 さっきまでの大声ではなかった。


「まだだ」


 クランは周囲を見る。


 白いものがあった。


 道の脇。


 さっきまでは何もなかった場所。


 人の胸ほどの高さまで、抜け殻が重なっている。


 完全な人型ではない。


 頭らしき部分。


 肩。


 細い胴。


 作りかけのようだった。


 ただ。


 口元だけが妙に細かい。


 端の上がり方。


 唇を大きく開いた時の形。


 クランは横を見る。


 ラッセルが黙って白い殻を見ていた。


「俺様の顔を見るな」


 いつもの調子が少しだけ戻っている。


「顔ではない」

「ならどこだ」

「口だ」

「余計に見るな!」


 ラッセルの声が森に響いた。


 クランは水筒を投げる。


「飲め」

「命令するな」

「飲め」

「……今日は皆、俺様に厳しくないか?」


 それでも蓋を開けた。


 水を飲む。


 喉が動く。


 額には汗が浮いていた。


 クランは何も言わない。


 シャルロットも、ただラッセルを一度見ただけだった。


「戻りましょう」


 彼女が言う。


「これ以上は危険です」


 誰も反対しなかった。




 ◇




 帰路では、行きより言葉が少なくなった。


 蝉は鳴いている。


 それを確かめることが、もう無意識になっていた。


 少し歩く。


 鳴いている。


 曲がる。


 まだ鳴いている。


 遠くに木々の切れ目が見えてきた。


 その向こう。


 アステ村の屋根。


「見えたぞ」


 ラッセルが言った。


 ようやく声に少し力が戻っている。


「ひゃっはー……帰ったらまず水だ。冷えたやつを――」


 そこで言葉が途切れた。


 クランは振り返った。


 道が細くなったため、隊列は少し伸びていた。


 ラッセルは最後尾。


 クランから六、七メートルほど後ろ。


 道の右側には浅い窪地がある。


 ラッセルはその縁に立っていた。


「何だ?」

「いや」


 クランは前へ向き直る。


 蝉が止んだ。


 目を閉じる。


 誰にも言われる必要はなかった。


 今度は全員がほぼ同時だった。


 風が吹く。


 葉が鳴る。


 黒猫がノエラの腕の中で身じろぎしたらしい。


 小さく布が擦れた。


 後方。


 ラッセルの荒い呼吸。


 近い。


 直前までいた場所と合う。


 乾いたものを踏む音がした。


 殻。


 次に。


 靴底が土を掻いた。


 一度。


 強く。


 踏ん張ったような音。


 クランの足が動きかけた。


 枝が折れた。


 短い息。


 何かが土へ落ちる。


 そして。


 重いものが地面を擦る音がした。


 森の奥へ。


 クランは一歩出た。


 止まった。


 音だけでは分からない。


 第一の静寂で、そこにいない人間の声まで聞いた。


 今、聞こえている息がラッセルのものだと、目を閉じたクランには確かめられない。


 動けば。


 今度は何を残すのかも分からない。


 奥歯を噛む。


 引きずる音が遠ざかる。


 枝が一度鳴った。


 さらに遠く。


 その後は、風だけになった。


 クランは動かなかった。


 長く感じた。


 やがて。


 蝉が鳴く。


 一匹。


 次。


 次。


 森へ音が戻っていく。


 それでも待つ。


 一呼吸。


 二呼吸。


 三呼吸。


 もう一度。


 周囲の音を確認する。


 クランは目を開けた。


「ラッセル」


 返事がない。


 振り返る。


 いない。


 六、七メートル後ろ。


 さっきまでラッセルが立っていた浅い窪地の縁には、靴底で強く土を掻いた跡が二本残っている。


 その先の枝が折れていた。


 赤い布が引っかかっている。


 ラッセルの外套と同じ色。


 窪地の土には、そこから森の奥へ続く引きずり跡。


 クランは剣を抜いた。


「待ってください」


 シャルロットの声。


 クランもすでに見ていた。


 引きずり跡の横。


 白いものがある。


 先ほどのものより小さい。


 まだ形になりきっていない。


 抜け殻が重なった、歪な人型。


 顔のほとんどは平らだった。


 目も。


 鼻も。


 ない。


 口だけがある。


 大きく開いた形。


 見慣れた笑い方を、途中まで作りかけたような口元。


 中は空だった。


 クランは森を見る。


 引きずり跡は北へ続いている。


 蝉は鳴いていた。


 森の奥から、ラッセルの声で、クランの名が呼ばれた。

いつも聞こえているものは、あるのが当たり前になります。


蝉の声も。


仲間の声も。


だから、それまであったものが急になくなった時、人は思った以上に早く気づくのかもしれません。


続きは後編で。

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