怪異記録03『誰も入っていない部屋を、全員が覚えている』
七号室がなかった。
プレデリカ・ヴァン・アズワールは、扉を開けるつもりで伸ばしかけた手を止めた。
指先の向こうにあるのは、取っ手ではない。
石壁だった。
一瞬、何を見ているのか分からなかった。
昨夜、確かにここへ負傷した伝令の従騎士を運んだ。
プレデリカはゆっくり手を下ろし、廊下を振り返った。
深い蒼のボブヘアの先が頬にかかり、灰青の瞳が並んだ真鍮の部屋札を端から追う。
銀の騎士装に重ねた濃紺の外套が、身体を返した拍子にわずかに揺れた。
一号室、二号室。
三、四、五。
六号室。
そこで終わっている。
「……どういうこと」
眉を寄せ、もう一度数え直した。
今度は急がない。一つずつ札を見る。
やはり六までしかない。
部隊を預かる身で、見間違いのまま人を動かすわけにはいかない。
プレデリカはまず、自分の方を疑った。
六号室の前まで戻る。
札を見て、その先を見る。
間違いなく壁だった。
朝の光が細い窓から差し込み、濡れた石の継ぎ目まで隠さず照らしている。
暗がりに扉を見落としているわけではない。
昨夜はそこに、濃い色の木でできた扉があった。
真鍮の札には七と刻まれていた。
雨の街道で見つけたセドをアンジェと二人で運び、その扉を開けた。
寝台へ横たえた。
アンジェが傷を洗った。
プレデリカが灯りを持った。
そこまでは、はっきり思い出せる。
それなのに、今は扉どころか、その扉があった場所そのものがない。
「プレデリカ?」
背後から声がした。
暗い赤茶の髪を首の後ろで低く束ねた女騎士が、廊下の向こうから歩いてくる。
焦げ茶と深緑を基調にした軽装の上から外套を羽織り、肩には弓。
斥候騎士のアンジェ・パトリースだった。
「どうしたの?」
「アンジェ」
「うん?」
プレデリカは六号室の先を見た。
「七号室は?」
アンジェの足が止まった。
「七号室?」
「ええ」
問い返しながら隣まで来る。
アンジェはまず六号室の札を見た。
次に石壁。
廊下を振り返り、もう一度壁を見る。
「……ないね」
そう言ったあとも、視線は壁から離れなかった。
数秒。
「……いやいや、そんなはずないでしょ」
笑ってはいなかった。
六号室の札へ手を伸ばす。
「六」
「……六よ」
アンジェは廊下を戻り、自分でも部屋札を数えた。
「一、二、三……四、五、六」
戻ってくる。
「七は?」
「それを聞いているのよ」
「昨日あったよね」
「そうね」
「セドを運んだ」
「一緒にね」
アンジェの眉がわずかに寄った。
石壁の継ぎ目を目で追い、掌を当てる。
次に六号室の扉を開け、中を覗いた。
窓の位置を確認し、廊下へ戻ってくる。
「ここが六号室」
「そうよ」
「その隣に七号室があった」
「ええ」
「私、そこでセドの傷を洗ったよね」
「私は灯りを持っていたわ」
アンジェは返事をしなかった。
もう一度、壁を見る。
先ほどまで声に残っていた軽さが消えていた。
「塞いだ跡は?」
「見当たらないわ」
アンジェが壁と床の境目へ視線を走らせる。
やがて立ち上がった。
「……外を見てくるよ」
「東側をお願い。基礎と屋根も」
「分かった」
アンジェは玄関へ向かった。
プレデリカは壁の前に残った。
雨は明け方には止んでいた。
外から入る朝の光は、壁も六号室の扉も昨夜よりはっきり見せている。
見えるほどに、見間違いでは済まなくなっていく。
ほどなくして、アンジェが戻ってきた。
外套の裾に濡れた草がついている。
「どう?」
「だめだね」
「何が?」
「部屋がひとつ入るようなスペースはないよ」
今度の声に軽さはなかった。
「東の壁はまっすぐ。基礎も同じ。屋根も六号室のところで終わってる」
「増築跡は?」
「ない」
プレデリカは石壁へ視線を戻した。
二人とも、昨夜の七号室を覚えている。
なら、確かめる相手はもう一人いた。
「セドを探すわ」
「うん」
◇
伝令を務める従騎士セドは、厩舎脇の小部屋にいた。
プレデリカたちの姿を見ると、寝台から身体を起こそうとする。
「プレデリカ隊長」
「そのままでいいわ」
動きを制され、セドは素直に背を戻した。
まだ若い。
右肩には包帯が巻かれ、右足首は木片と布で固定されている。
昨夜より顔色は戻っていたが、一人で歩かせていい状態ではない。
「足は?」
「まだ少し痛みます」
「眩暈は?」
「ありません」
アンジェが足首の固定を見た。
「緩んではないね」
「ありがとうございます」
小さな部屋だった。
寝台と卓、水桶。床の隅には血を拭った布と、使った包帯が置かれている。
ここで処置をしたと言われれば、不自然なものは何もなかった。
たがプレデリカには、その覚えだけがない。
「セド」
「はい」
「昨夜、貴方はどこで手当てを受けた?」
「七号室です」
アンジェが顔を上げる。
「ここではない?」
「はい。奥の部屋でした」
「誰がいた?」
「お二人です」
セドは迷わなかった。
「アンジェさんが傷を洗って、隊長が灯りを持ってくださいました」
プレデリカの覚えているものと同じだった。
「ここへ移された覚えは?」
「ありません」
セドは答えたあと、少しだけ迷った。
それからプレデリカを見る。
「隊長、それ……夜明け前にも聞かれました」
プレデリカの動きが止まった。
「私が?」
「はい」
アンジェが顔を上げた。
「私もいた?」
「いました」
「何をしてた?」
「隊長が七号室のことを聞いて、そのあとアンジェさんが外を見てくるって」
「外?」
「建物の東側です」
アンジェは答えなかった。
「戻ってきた?」
「はい」
「何か言った?」
「部屋が入るようなスペースはない、って……」
プレデリカは尋ねた。
「そのあと?」
「ここを出るって、隊長が」
セドの声が少し小さくなった。
「荷物をまとめるように言いました」
プレデリカには、そのどれも残っていなかった。
壁を調べたことも。
セドへ聞いたことも。
アンジェに外の確認を頼んだことも。
ここを離れると決めたことも。
ただ昨夜の七号室だけは、今も思い出せる。
「……覚えていないんですか?」
「ええ」
アンジェが短く続けた。
「私もだよ」
セドは何か言いかけたが、やめた。
「他に、確実に覚えていることは?」
セドは少し考えた。
「馬が外へ出ていました」
「私たちが出したの?」
「はい。お二人が荷物も運んでいました」
「その後は?」
セドは首を振った。
「馬に乗せてもらったところまでは覚えています。あとは……眠ったんだと思います」
負傷した足へ一度視線を落としてから、そう答えた。
それ以上は聞かなかった。
◇
外へ出る。
厩舎の馬には鞍が付いたままだった。
荷は雨避け布でまとめられ、すぐ運び出せる。
「準備した覚えは?」
プレデリカが聞く。
「ないよ」
アンジェの返事は短かった。
プレデリカは荷を留めた紐を見る。
自分の結び方だった。
二人は一度、ここを出る準備まで済ませている。
「セドは馬へ」
「はい」
「アンジェ、南は?」
「通れるよ。崩れた場所は手前で避けられる」
「なら出るわ」
「うん」
二人でセドを支え、小部屋から外へ出した。
負傷した右足へ体重をかけさせないように馬まで連れていき、鞍へ乗せる。
荷を括り直す。
必要なものは揃っている。
プレデリカが手綱を取った。
そこで思い出した。
軟膏を置いてきた。
七号室の卓だ。
昨夜、セドへ塗ったあと、蓋を閉めて小卓の端に置いた。
騎士団の備品だ。
置いていくわけにはいかない。
すぐに取ってくればいい。
廊下を奥まで往復するだけだ。
時間もかからない。
プレデリカは宿直所へ身体を向けた。
すると医療袋が腰へ当たった。
視線が下がる。
留め金を開く。
白い陶器の壺が入っていた。
布に包まれ、袋の底へ収まっている。
そこへ入れた覚えはなかった。
「プレデリカ?」
アンジェが呼んだ。
壺を取り出す。
今ここにある。
それでも、昨夜七号室の卓へ置いたことも、同じようにはっきりしていた。
プレデリカは壺を袋へ戻した。
「もう……戻らないわ」
アンジェが頷く。
「うん」
「このまま出る」
「……隊長」
セドだった。
「何?」
「今朝も、そう言ってました」
プレデリカは医療袋の留め金を閉じた。
「出ましょう」
◇
アンジェが先を歩いた。
セドは馬上。
プレデリカが馬の横につく。
三人は宿直所を離れ、旧街道を南へ進んだ。
雨上がりの森には朝の匂いが戻っている。
葉から時折、水滴が落ちる。
馬の蹄が泥へ沈み、柔らかな音を立てた。
プレデリカは後ろを見なかった。
アンジェも見なかった。
しばらく進む。
もう宿直所は木々の向こうだった。
「待って」
アンジェが止まった。
「何?」
「そこ、踏まないで」
道の端へしゃがむ。
泥に、少し乾いた靴跡があった。
アンジェは自分の靴底を、その跡の脇へ寄せた。
「私のだね」
すぐ隣にも、もう一組ある。
プレデリカは自分の右足の踵を見る。
外側がわずかに欠けていた。
古い跡にも、同じ欠けがある。
その間には蹄跡が続いていた。
「雨のあと?」
「うん。今のより前だよ」
アンジェは立ち上がった。
古い跡は、宿直所の方から南へ続いている。
二人は道の端を歩き、その跡を追った。
沢へ下りる少し手前で、アンジェが止まった。
プレデリカも足を止める。
泥の上に、二人分のつま先が残っていた。
こちらを向いている。
蹄の向きも同じだった。
プレデリカは、その先を見た。
来た道だった。
古い靴跡と蹄跡は、そこから宿直所へ戻っていた。
人は、いま覚えていることを「自分が最後にしたこと」だと思って暮らしています。
鍵を閉めた。道を選んだ。もう戻らないと決めた。
普段、それが本当に最後だったのかを確かめることはありません。
今回の怪異記録を閉じたあと、そんな当たり前の記憶を、ほんの少しだけ疑ってしまったなら。
この話は、それくらいの場所に残しておこうと思います。




