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怪異記録02 『騎士団であった怖い話』後編

 誰も、すぐには口を開かなかった。


 ラッセルは立ったまま、机上の報告書を睨んでいる。

 笑おうとしていた口元は、もう動かなかった。


 リアの掌には、アリシアの指がある。

 確かに、ある。


 その温度を確かめるように、リアは触れている感覚だけを意識した。


 机の上には、別の一文が残っている。


 ――リアは、アリシアの手を離した。


 まだ、そうなってはいない。


 けれど、先ほどもそうだった。


 ラッセルは二度笑った。

 三度目も笑うと言った。


 それなのに。


「……くだらん」


 ラッセルの声は低かった。

 いつもの大きさではない。


「書いてあることと逆をすれば済む話だろうが」


 言いながら、彼は報告書には触れなかった。


「グローリー卿。離さなければいい。それでこの一文は外れる」


 リアは答えなかった。


 間違ってはいない。

 少なくとも、今のところは。


 アリシアの手は、まだ自分の手の中にある。


「りあ?」

「はい」


 リアは少女を見た。


「ここにいます」


 アリシアはそれだけで少し肩の力を抜いた。

 その足元から少し離れた場所で、黒猫が身を伏せている。


 猫が見ていたのは人ではなかった。

 机の下。


 魔法灯の光とは合わない方向へ伸びた、細い影。


 先端は動いていない。

 リアには、そう見えた。


「出口を見る」


 クランが扉へ向かった。


 取っ手。

 蝶番。

 扉の隙間。

 次いで窓。


 淡々と確認していく。


「異常は?」


 ラッセルが訊いた。


「ない」

「なら結構だ。今夜は誰もここから出さなければ――」


 かさり。


 音がした。

 全員の動きが止まった。


 紙だった。

 誰も触れていない。


 それなのに、紙の端が机を擦った。

 リアはアリシアの手を離さないまま、そちらを見た。


 最後の一文。

 その下に、黒い点が浮かんでいた。


「またかよ」


 ラッセルが吐き捨てる。

 点から細い線が伸びる。


 一文字。

 もう一文字。


 人の手より遅く。


 けれど、止まらず。

 文章が形を取っていく。


 ――アリシアは、当直室にいなかった。


 リアは文字を読んだ。


 次に、隣を見た。

 アリシアはいる。


 白い髪。

 赤い瞳。


 リアの手を握っている。

 何ひとつ、変わっていない。


「……いるぞ」


 ラッセルが言った。

 誰に向けた言葉なのか、リアには分からなかった。


「見れば分かる。娘はここにいる」


 アリシアが不安そうに顔を上げた。


「りあ」

「います」


 リアはすぐに答えた。

 さっきよりも、はっきりと。


「私も貴女もここにいます」


 報告書には、


 ――リアは、アリシアの手を離した。


 そして、


 ――アリシアは、当直室にいなかった。


 二つの文章が並んでいる。

 それでもリアの指は、アリシアの手を包む力を強めていた。


「扉を閉めろ」


 ラッセルが言った。

 クランは扉の前から振り返った。


「開いている方が確認しやすい」

「外へ出なければいいだけだ」

「何かあれば出る」

「何か、だと?」

「火でも、人でも」

「そうなった時は考えればいい!」


 声が大きくなる。

 リアは二人を止めようとして、言葉が出なかった。


 どちらも間違っていない。

 だから余計に嫌だった。


 窓の外では夏虫が鳴いている。

 湿った夜気が、生温い風になって室内へ入ってきた。


 昼の熱を残した石壁は、まだぬるい。


 何も変わっていない夜。

 机の上だけが、先へ進んでいる。


「増えた」


 ノエラが言った。

 それだけだった。


 ラッセルが彼女を見る。


「何がだ」

「文章」

「見れば分かる」

「違う」


 ノエラは報告書から目を離さなかった。


「止めようとした後が多い」


 ラッセルの眉が動いた。


「それがどうした」

「それだけ」

「……ふざけるな。何か分かってるなら――」

「分からない」


 ノエラは遮った。


「だから、それだけ」


 黒猫が机の脚から離れた。


 二歩。

 三歩。


 そこに座る。

 細い影から距離を取ったようにも見えた。


 意味は分からない。


 リアは考えた。

 離さない。


 アリシアを外へ出さない。

 紙に書かれたことを、一つも現実にしない。


 それなら。

 そのはずなのに。


「りあ」


 手の中で、アリシアの指が動いた。


「どうしました?」


 返事はない。

 リアは少女の顔を見る。


 アリシアはリアではなく、つながれた二人の手を見ていた。

 けれど、リアの意識はまた机へ戻った。


 新しい文字は増えていない。

 影も、先ほどの位置にある。


 今ならまだ。

 このまま朝まで。


 何が書かれても、その逆を――


「リア」


 クランの声だった。

 リアは顔を上げた。


「手を見ろ」


 言われた意味が、すぐには分からなかった。


 手。

 自分とアリシアの。


 リアはようやく、そこへ目を向けた。

 細い指が赤くなっていた。


 自分の指が、その上から食い込んでいる。

 リアの手だった。


「あ……」


 力を緩める。

 アリシアの肩が、わずかに下がった。


「痛いですか?」

「……いたい」


 短い答えだった。

 胸の奥が冷えた。


 報告書が何をするのかばかり考えていた。


 離してはいけない。

 離せば、何かが起こる。


 そう思って。

 今、痛がっている子を見ていなかった。


 リアは報告書を見た。


 ――リアは、アリシアの手を離した。


 まだ成立していない。

 その下。


 ――アリシアは、当直室にいなかった。


 こちらも、まだだ。

 紙は何も命じていない。


 離せとも。

 離すなとも。


 リアはアリシアへ向き直った。


「アリシア」

「うん」

「手を離してほしいですか?」


 赤い瞳が、自分の手を見た。

 それからリアを見上げる。


「……うん」


 リアは指をほどいた。

 アリシアの手が、掌から離れた。


 それだけだった。

 何も消えなかった。


 アリシアは赤くなった手を胸元へ引いた。

 そして反対の手で、リアの袖をつかんだ。


「ここにいます」


 リアは言った。

 紙は消えなかった。


 影も。

 文章も。


 数秒が過ぎた。

 何も起こらない。


 ラッセルが報告書へ身を乗り出した。


「……終わった、のか?」


 さら。

 どこにも筆はなかった。


 それでも、紙の上を筆先が走る音がした。

 ラッセルが口を閉じる。


 リアの背を、冷たいものが這った。


 黒い点。

 また。


 今度は、紙の下の方だった。


「まだある」


 ノエラが言った。

 点が横へ伸びる。


 文字になる。


 リアは見ていた。

 もう、目を逸らせなかった。


 最初の文字。

 次の文字。


 短い文章だった。

 だから完成するまで、ほとんど時間はかからなかった。


 ――夜勤は、異常なく終了した。


 外から音が消えた。

 リアは最初、何が変わったのか分からなかった。


 風は入っている。

 魔法灯も揺れている。


 アリシアも袖をつかんでいる。

 それなのに、何かがない。


 夏虫だ。

 あれほど鳴いていた夏虫の声が、消えていた。


 机の下で、影が動いた。


 伸びない。

 逆だった。


 床へ細く伸びていた黒が、ゆっくりと縮んでいく。


 机へ。

 紙へ。


 最後には、報告書の真下へ潜り込むように消えた。


「……おい」


 ラッセルの声が掠れた。

 誰も答えなかった。


 リアの頭には、短い事実だけが浮かんだ。


 翌朝。

 三人はいなかった。


「どこが異常なく――」


 ラッセルの言葉が止まった。

 口を開いたまま、報告書を見る。


 拳が握られる。


 だが机は叩かなかった。

 紙にも触れなかった。


「……知るか」


 吐き捨てると、ラッセルは椅子へ戻った。


「俺様はここにいる。それで十分だ」


 リアは彼を見た。

 いつもの尊大さは残っている。


 けれど、報告書へ勝ち誇ろうとはしなかった。


「クラン」

「ああ」


 クランは扉を見る。

 開いている。


 廊下にも異常はない。

 クランは扉の外へは出なかった。


 リアはアリシアへ向き直った。


「手、まだ痛みますか?」

「ちょっと」

「見せてもらえますか?」

「うん」


 赤みはある。

 腫れてはいない。


「ごめんなさい」


 アリシアはリアの袖をつかんだままだった。


「りあ、いる?」

「はい」


 それ以上は言わなかった。


 当直室には五人いる。

 黒猫もいる。


 報告書もある。

 夜も終わっていない。


 それから、長い時間が過ぎた。

 誰も時計ばかりは見なかった。


 砂時計の砂が落ち切る。


 返す。

 また落ちる。


 報告書に文字は増えなかった。

 ノエラが机のそばを通った時だけ、足を止めた。


「増えてない」


 ラッセルは返事をしなかった。

 クランは定められた確認のため扉へ行き、廊下を見た。


 戻る。

 それだけだった。


 リアもアリシアを連れてどこかへ移ろうとはしなかった。


 アリシアが水を欲しがれば渡した。

 眠そうにすれば椅子を寄せた。


 怖いと言えば、


「そうですね」


 と答えた。


 紙のことを考えなかったわけではない。

 誰も忘れてなどいない。


 視界の端には、ずっと白い紙がある。

 そのたび、


 ――アリシアは、当直室にいなかった。


 という一文が目に入る。

 けれどアリシアは、リアの袖をつかんでいた。


 さら。

 音がした。


 全員が机を見た。


 報告書。

 誰も近づいていない。


 また、筆で紙を擦ったような音。


 ラッセルが椅子から腰を浮かせる。

 クランの身体が扉と机の間へ向く。


 ノエラも立ち止まった。


 リアはアリシアを見る。


 ──いる。


 それから紙を見た。

 文字は増えていなかった。


 黒い点もない。

 音だけだった。


 黒猫が耳を動かした。

 やがて、窓の外で虫が鳴いた。


 一匹。

 すぐに途切れる。


 誰も安心したとは言わなかった。


 夜はまだ続いた。

 魔法灯の光が弱くなり、補充する。


 湿った空気が少しだけ冷える。

 石壁に残っていた昼の熱が、ようやく抜けていった。


 報告書は何も書かなかった。

 それが、次に何かを書く前の沈黙なのか。


 もう書くことがないのか。

 リアには分からなかった。


 分からないままで、必要なことだけをした。


 アリシアを見た。

 周囲を見た。


 誰かが動けば、その姿を確かめた。


 紙に書かれたからではない。

 今ここにいる者たちを、今ここで見失わないためだった。


 リアは、窓の外が薄く青んでいることに気づいた。

 夜の黒が、少しずつ色を失っている。


 朝だった。

 それでもリアは、すぐには立ち上がらなかった。


 向かいにはラッセルがいる。

 椅子に浅く腰かけ、腕を組んでいる。


 扉の近くにはクラン。

 壁際にはノエラ。


 その足元にいた黒猫が、身体を伸ばした。


 そして。


「りあ」


 袖が引かれる。

 アリシアがいた。


「はい」


 声が少しだけ震えた。

 それを隠そうとはしなかった。


「おはようございます、アリシア」

「おはよう」


 赤くなっていた指も、夜中より色が戻っている。

 リアは触れずに、それを確かめた。


 黒猫が開いた扉へ向かった。


 廊下へ出る。

 誰も追わなかった。


 誰も、それを安全の合図だとは言わなかった。


 机の上には報告書が残っていた。


 ――リアは、アリシアの手を離した。


 それは起きた。


 ――アリシアは、当直室にいなかった。


 アリシアは、リアの隣にいる。

 そして最後には、


 ――夜勤は、異常なく終了した。


 昨夜と同じ文字。

 訂正もされていない。


 消えてもいない。

 誰もいなくならなかった朝の光が、窓から机へ届いた。


 朝の光の中で、アリシアがいないのは、報告書の上だけだった。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 『騎士団怪異録』怪異記録02、これにて終了です。


 書かれたことが正しいのか。

 目の前にいる人が正しいのか。


 少なくとも今夜、彼らが選んだのは――紙ではなく、そこにいる人でした。


 次回の怪異記録も、よろしくお願いします。


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