第8話 老軍人の話
俺は出された手を反射的に握って握手した。
「ライナー上級曹長……お会いできて光栄です」
王国陸軍? 教本でしか見たことないぞ。共和国になる前ってことだろ?
今は上級曹長なんて階級はない。一体何歳なんだ、この老人は。
胸には勲章以外に部隊章までつけているように見えた。
「共和国になって久しいのに、今でも近衛騎兵という名で呼ばれているのかね?」
老人は再びよろめきながら腰掛けた。手を貸そうと思わず腰を浮かせたマルガレーテを彼は手で制した。
「旧都だけですが、最後の王制の名残りと言われております。新都には用人警護の親衛隊が別にありますので」
答えつつ、俺は内心忙しく考えていた。
本物だろうな? 耄碌した老人が法螺を吹いているんじゃないよな。
だが本当だったらとんでもない失礼になる。
とりあえず、誰かに聞いてこの老人が本物の元軍人なのか確認したい。
「マルガレーテさんというのか、あなたによく似合っているね」
「ありがとうございます」
こんな調子で話に付き合わされたんだろう。
「君もここに掛けたまえ」マルガレーテとは反対側の空いた椅子を自称、上級曹長は軽く叩いた。
冗談じゃない。こんなところで身元の怪しい老軍人と長々話していたら関係者だと思われるじゃないか。
「いえ、私は」
「まあ、いいから」
「大変失礼ながらライナー上級曹長、従妹と次のダンスを踊る約束をしておりまして」
不思議がるようにマルガレーテが俺を見上げた。状況を察して口裏ぐらい合わせて欲しいものだ。
「ああ、そうか。若者は若者同士で、ということだね」
俺は取り繕った微笑で応えた。マルガレーテは恋愛対象になんて箸にも棒にもかからない子どもだが、もはやこの老人にどう思われようと構わない。
「興味深いお話を聞けましたわ、ありがとうございました」マルガレーテが答えた。
よし、これで終わりだ。あとはさっさと立ち去るだけだ。
「それはよかった。マルガレーテさん、年寄りの話を聞いてくれてありがとう。仲間は皆、先に逝ってしまってね。もうこんな話をできる者もいないのだよ。いや、私はちょっとばかり長く生きすぎたな」
「まあ、そんな。ずっとお元気でいてください」
「もういつ逝ってもいいんだ。ただ、心残りは若くして散った戦友のことだ……戦後、私は彼らが残したものを届けていたんだが……」
俺は思わず目を天井に向けた。
——嘘だろ?
また話が始まった。これじゃいつまで経っても終わらないぞ。
マルガレーテがいちいち馬鹿正直に返答するから、こんなことになるんだ。
「何を届けてらしたんですか?」予想通りマルガレーテが律儀に返した。
ほら、言わんこっちゃない。
俺は苛立たしげな視線をマルガレーテに向けたが、老人の方を向いている彼女は気付きもしなかった。
「彼らの遺書だよ。ほとんどは家族の元に届けられたんだが……私は最初、逓信兵だったものでね」
「とても大切なお役目を果たされたのですね」
そんな与太話を信じて……俺は常にマルガレーテの監視をしていないといけないのか?
「マルガレーテ、ダンスが始まる」
二人は俺の言葉を無視した。俺はげんなりして再び天井へ目を向けた。
「一通だけ届けられていないのだよ、それが心残りで」
「まあ……それでも他の方には届けられたのですから、その方々にとっては本当にありがたかったと思いますわ」
「そうだな、泣いて感謝されたよ。でも……」
「でも……?」
「いや、この意志を引き継いでくれるものがいればな」
そう言って、老軍人は俺を見た。俺は目が合わないように視線を脇に逸らした。
何十年も前の大戦のときの遺書だなんて、そんな厄介なもの絶対に引き受けたくない。
「エルストナー、何か調べられる?」
俺を見上げて放たれたマルゴのとんでもない台詞を掻き消す勢いで、俺は老軍人に向かってきっぱりと言いきった。
「いえ、私は一介の騎兵にすぎませんので! 問い合わせられるのでしたら、戦勝記念館か軍の資料室がよろしいかと。では本当に申し訳有りませんが、時間がありませんので失礼します。マルガレーテ、行くぞ。君が戻ってこないので母が心配している」
「そうだわ、伯母様のことすっかり忘れてた。それでは失礼します、ライナー上級曹長。興味深いお話をありがとうございました」
俺はマルガレーテの腕を半ば強引に取って立たせると、老軍人に会釈して足早に去った。
「帰るぞ」
「踊るんじゃなかったの?」
「これ以上あそこにいられるか、あやうく変なものを押し付けられる所だった。君も大概にしろよ」
「え?」
「俺に面倒を押し付けるなってことだ」
「何も押し付けてなんかいないわよ」
俺は盛大にため息をついた。
「紹介もされていない見知らぬ老人と話し込んでおいて? 何十年も前に戦死した軍人の遺書について調べる? これが面倒を押し付ける以外のなんだって言うんだ」
「『何か調べられる?』って聞いただけよ。できないってあなたが答えたんだから、問題ないでしょう?」
「そんなことを言わせるような話の流れにしないでもらいたいもんだな。……もういい、とにかく今夜は帰るからな」
言い合っている内に母の待つ席にたどり着いた。
「マルガレーテ、ずいぶん姿が見えないから心配したのよ」
「ごめんなさい、アンナ伯母様。実は……」
「案の定、紹介もされていない自称退役軍人に捕まってましたよ。マルガレーテもダンスの約束はもう全て済んだようですから、早い所帰りましょう。」
「あら、もういいの?」
「厄介事を押し付けられそうになったんです。長居すると本当に巻き込まれかねない」
「そういうことなら……分かったわ」
母は話が早くて助かる。マルガレーテはいちいち「なんで?」「どうして?」と口を挟んできて、全部説明してやらなきゃならない。しかも察しが悪いときたもんだ。本当になんでも教えてもらいたがる好奇心旺盛な子どもみたいだ。
俺は眉をしかめてマルガレーテを見やった。当の本人はただ驚いて大きな目をさらに見開いた後、不当な扱いを受けたと言わんばかりに口を尖らせた。
――もう子どもの世話はうんざりだ!




