第34話 病気がうつったエルストナー
「うつると困る」と言われ、宿の従業員にマルゴの看病は拒否されてしまった。新都の高級な宿なら快く引き受けてくれそうなものだが、しがない街の宿の対応はそっけないものだった。
往診を頼んだ医者は「いわゆる、おなかの風邪です。一日二日、吐くだけ吐かせて、安静にしていれば治りますよ」と言った。
「うつらないですか?」
「感染します。気をつけてください。よく手洗いして、清潔を保って」
俺は額に手をやると、ため息をついた。
――マルガレーテの吐瀉物の始末は、もう宿の従業員に頼めそうにないな……。
仕方なく俺はマルガレーテの吐瀉物を受ける桶を宿の中庭の井戸で洗ってやるのだった。
当初予定していた日に帰れないのは明らかだった。翌日、マルガレーテの様子が落ち着いた隙に、鉄道の営業所に行って取り置きしていた切符をキャンセルし、電信局で港町のバルト宛のメッセージを送った。
『マルゴハラノカゼ、スウジツオクレル』
二日足らずでマルガレーテは回復した。安堵したのもつかの間、今度は俺が全く同じ症状で床に伏せることになるのだった。
*
体調が回復すると、私は前よりも元気になった。だというのに、入れ替わるようにエルストナーの具合が悪くなってしまった。
彼はあんなに鍛えていて頑丈そうだから病気になんてならないと思っていた。私がお医者を呼ぼうと言ったら、彼は「そんなものは意味がない」と拒否した。
看病を申し出たが、彼は「いいから部屋から出て行け」と酷い顔色で言うのだった。
しばらくしてエルストナーの部屋を覗くと彼は眠っていた。額におそるおそる手を乗せると熱かった。
私の時は、喉が渇くのに吐き気がして水をほんの少しずつしか飲めなかった。恐らく彼もそうだろう。水差しの水は全く減っていないように見えた。私はコップに水を注ぐとスプーンですくって彼に飲ませようと試みた。
「エルストナー、水よ。口を開けてくれる?」
子どもにするみたいに世話を焼いたら彼は怒るかと思ったが、熱で朦朧としているのか彼は大人しく口をかすかに開いた。背に腹は代えられないと観念したのかもしれない。私がスプーンで彼の口に水を伝わせると、彼の唇が閉じて喉元が動いた。その様子に、私は思わず息を呑んだ。
いつもエルストナーに怒られたり呆れられたりしてばかりだから、彼を美しいと意識する間もないけれど、眠っている彼を眺めていると改めてその際立った容姿を認識した。
秀でた額と高い鼻梁、綺麗な線を描く眉。
瞼のはっきりとしたくぼみとそれを縁取る長い睫毛、引き締まった端正な口元。
むらのない肌が綺麗に乗って骨格や筋がかすかに透けるような、そういう美しさだった。
彼がかすかに眉根を寄せて吐息を漏らしたので、我に返った。もう一度水を飲ませようとしたが、タイミングが合わずに彼の口元に落ちた雫が顎を伝った。
「ごめんなさい、こぼれちゃった」
私は慌てて彼の口と首を拭いた。
――私のせいなんだもの。ちゃんと看病してあげなきゃ。
額に滲む汗といい、首を伝う雫といい、なんで濡れると少し艶っぽくなってしまうんだろう。辛そうなエルストナーには申し訳ないけれど、カタリナや皆が彼に夢中になるのも分かる気がした。
エルストナーには人を惑わせる力がある。それが彼にとって幸いか不幸か、私には分からなかった。
*
体調を崩すのは久しぶりのことだった。子どもはしょっちゅう熱を出して大変だとバルトが言っていた。
やはりマルガレーテは子どもだ。
——前に病気になったのはいつのことだったか……。
士官学校へ入って間もなく、具合が悪くなり医務室へ行ったことを思い出した。
頭が痛んで小さな物音も響く。晴れた空の陽の光さえ、強すぎてまるで目の奥を刺すようだ。壁に手をついて一人でふらつきながら医務室へ向かった。
軍医は「熱もないし、休んでいけばいい」と言うと、若い女性の看護師に俺の世話を頼んで、昼食を取りに行った。看護師は俺を簡易ベッドへ案内すると、脈を取ってこう言った。
「かなり辛いでしょうね。ゆっくり休んで」
俺は目を開ける気力もなくただ横たわっていた。しばらくして、先程の看護師が様子を見に来ると独り言のように言った。
「こんなに若い……幼いくらいの子が新しい環境で頑張っているんだもの、体調を崩すのも無理ないわ……」
――誰も気が付かなかったのに。
存在を認めてもらえない感覚だと思っていた。
ああ、やっぱりこれは辛いんだ。
言わなくても、気が付いてくれる人がいるんだ。
夢現に看護師の立てるかすかな物音が聞こえて、ずっと張り詰めていた身体が次第にほどけていく心地がした。
友人たちは店の看板娘だとか、女優だとかの噂をしている。
どうして皆は医務室のあの看護師に気が付かないんだろう。
脈を取る時に添えられた手と穏やかにかけられた声。
瞼を閉じると、彼女の声が優しく蘇る。それだけで心が落ち着く。
たとえ誰も気が付かなかったとしても、俺にとっては特別なんだ。
医務室の前を通る時に、姿が見えないかとゆっくり歩いてしまう。
名前を聞くこともできぬ間に彼女はいつの間にかいなくなってしまった。
社交界の花形として恋愛遊戯に興じている今から思うと、信じられないほど淡い記憶。
なぜ、こんなことを唐突に思い出したのだろう。
彼女の顔立ちさえ思い出せないのに、誰よりも美しく思えたことははっきりと覚えている。
あの時に感じた思いが、初々しさもそのままに戻ってきたようだった。
――俺は自分でも気が付かないうちにマルガレーテに同じことを言っていたんだな。




