第32話 街を彷徨う
宿に戻った私はエルストナーに報告しないわけにはいかなくて、渋々彼の部屋の扉をノックした。反応がなくて、もう一度ノックしようとした時、背後から声がした。
「マルガレーテ?」
振りむくと何かの瓶を持ったエルストナーがいた。きっとバルト兄様へのお土産のお酒を買ってきたのだろう。彼は驚いた表情を浮かべていた。私の帰りが彼の予想よりずっと早かったからだと容易に想像がついた。
「終わったのか?」
その問いには答えずに私は言った。
「私は……父にも母にも要らなかったみたいよ」
私は扉の前に立ったまま、何でもないことのように言った。立ち話でするような内容じゃないのだろうけど、重く受け止めてほしくなかった。
彼は黙っていたが、ややあって口を開いた。
「慰めになるか分からないが……俺の両親はマルガレーテにいてほしいと思っているのだから」
「そうね、ありがたいことよね」
「ありがたがる必要はない。……愛されていると分かればいい。母やレイたちだけでなく、祖父母もだ」
「そうね……」
「皆、お前のことを気にかけて心配している」
「そう……ね……」
――両親は、自分のことだけが大事なんだ。
「こう言っては何だが、お前を愛していないというより、責任を持って子どもを育てられない人たちなんだと思う。お前だからじゃなくて、もともと向いてないんだろう」
「そうね……使用人に任せきりで自分たちは何もせず……だったら、いないのと同じなのかもしれないわね」
――それでもよかった。
たまにでいいから優しくしてくれれば、愛されていないことに気が付かないでいられたかもしれないのに。
「……飲むなら付き合うぞ」
「私、やけ酒なんてしないわ」
「そうか……」
慰め方を知らないのに、それでもなおエルストナーは私を放っておくことができないようだった。
部屋に戻る私の後を彼は律儀についてきた。私は部屋の扉の前で振り返ると言った。
「一人にして」
「部屋で一人ならまだいいが、一人で外に出るなよ」
――部屋に一人きりなんて、冗談じゃないわ。
「子どもじゃないのよ」
「慣れない街で若い女一人だなんて危ない」
「私はどこでも一人よ」
「……ある意味、皆一人だ」
「あなたには、いるじゃないの!」
エルストナーは黙って私を見つめていた。私は自室の扉を乱暴に音を立てて閉めた。
彼は面倒を引き受けてくれたというのに私は八つ当たりしてる。そもそも伯父様と伯母様が止めたのに私が母に会いたいと言ったのだ。傷つくだけかもしれない、という親切な心配を振り切って。エルストナーは『マルガレーテが望むならその権利がある』と言ってくれた。『守るだけが愛情じゃない』と。
守る以外の愛情って何? 傷つくのを見守ること? 八つ当たりを何も言わずに受け止めること?
――そんなものが欲しかったんじゃない。
ふいにレイのことが胸をよぎった。
レイならどうするだろう? すごく心配して、きっと抱きしめてくれる。でも、その愛は彼の婚約者であるリリーへまっすぐ向けられたものから分岐した余り物だ。私だけを愛してくれる人は誰?
――祖父と祖母だ。
二人は私を一番深く愛してくれた。
愛おしげに見つめてくれて、一緒に料理したり、本を読んだり、勉強を教えてくれたり。
あれは紛れもなく私だけに向けられた愛情だった。
でも二人はもういない。
その事実が何より辛かった。
私はエルストナーに何も告げずに宿を出た。彼が後をつけているわけでもないのに、当てもなく通りを早足で突き進んだ。通りの端の方まで来てしまって適当に目に入った雑貨店に入った。
思いつくままに買ってしまえばいいのに、どれも欲しいと思わなかった。
見ているようで見ていない瞳。品物を手に取っても動かない心。
何も買わないのに客のまばらな店にずっと居座るわけにもいかなくて、雑貨店を出ると私はすぐ近くにあったカフェへ入った。
ここならちょっとくらい長居しても文句は言われないだろう。
いつもは注文するのを迷う価格のアフタヌーンティーのセットを頼んでみた。
豪華で綺麗な見た目。なのに「すごいね」と一緒に分かち合う人はいない。
エルストナーの好きなチーズケーキがあるのに。一人でこんなに食べきれないわ。
私は冷めていく紅茶をじっと見つめていた。色とりどりのケーキもほんの少ししか口にしなかった。
今更になって、食欲がないことに気がついた。
――帰りたい。
唐突にそう強く思った。焦燥感と言ってもいいほどに。
どうしようもなく祖父母の館の子ども部屋が恋しくなった。
あの子ども部屋の壁紙を見たい。庭の木に触れたい。懐かしいあのカップでお茶を飲みたい。
私にだけ向けられる愛情を思い起こさせてくれるものが、今すぐ必要だというのに。
なのに、こんな遠くまで私は来てしまった。
ほとんど手つかずのお菓子と紅茶を残して勘定を済ませた。
通りをさらに小道へ進んでいると家々の間から小さな塔が見えて、自然と足がそちらに向かった。思った通り、そこは聖堂だった。私は聖堂の庭で草むしりをしていた関係者と思しき人に声をかけて、中に入ってよいかと尋ねた。力ない私の様子に「どうぞご自由に」とその人は言った。
私はわずかに開いていた聖堂の扉をそっと押して中に入った。祖父母の館の敷地内にある聖堂と違って、素朴な造りだった。豪華さはないけれどステンドグラスがあるのは同じだった。
私は窓際に沿って歩きながら、祈る人や神の化身があしらわれたステンドグラスを眺めた。私の目はステンドグラスのある箇所に引き寄せられた。目を閉じて横たわる人に優しく寄り添うような光の化身の姿。私が見ていたのは希望を与える光の方ではなかった。横たわっているその人は穏やかな顔をしていた。眠っているのか、もしかしたら死んでいるのかもしれない。
死にたいとまで思わないけれど生きているのも面倒だと、私はどこか投げやりな気持ちで見つめていた。
生きていて、失望することや辛いことばかりよ。
「そんなもんだ」って言ってほしいの。
「そんなことない」なんて気休めにもならない。
事実を認めてほしいの。
それが辛くて受け入れがたくても、私はちゃんと認識したい。
たとえ打ち勝つことができなくても、自分が対峙しているものをちゃんとこの目で見つめたい。
父も、彼の今の妻にとってはきっと優しくて愛情深い男性なんだろう。
でも私にはそうじゃない。
どちらも彼の一面で、彼の妻にとって良き夫なことを私は否定しないけど、私にとって酷い父であることも認めて欲しかった。
――あなたには”良い人”なんでしょうね。
私は、”私にだけ良い顔をする人”が欲しいんじゃない。
私と他の人で見せる顔を変えないで。
迷ったり考え直すのはいいの、見ないふりをしていない証拠だから。
意思がぼやけて輪郭の見えない人は嫌。
何を考えているのか、本心が見えなくて怖いから。
私は床に膝をつき長椅子に半身をもたれかけると、頬を腕に預けてステンドグラスをぼんやりと見つめた。
――神様、どうか貫く勇気を与えてください。私が折れないように、信じられるものを下さい。
それは信仰でも信念でもいい。人でなくても構わないから。




