第31話 私の言葉の届かない人
午後の早い時間に私とエルストナーは広場の噴水の前に着いた。私の容姿は手紙で伝えてある。ふいに私は待ち合わせの場所にエルストナーも一緒についてきてくれることを伝え忘れていたことに気がついた。一人旅ではなく親戚が付き添ってくれるとは伝えていたが、待ち合わせには私一人で来るつもりでいたからだった。でも、エルストナーがいるから母が私を見つけられないなんてことはないだろう。
旧都でさえ人の目を集めがちな彼は、新都に近いだけの普通の街では異様に目を引いた。軍服ではなく地味な服装をしているけれど、広場にただ立っているだけで絵になった。
私は落ち着かない気持ちで視線をあちこちに彷徨わせた。
――母はもう来ているの? どの人が母なの?
母は茶色の髪だと言っていた。私の母くらいの年頃の女性はいる?
噴水の縁に腰掛けていた中年に差し掛かったくらいの女性が立ち上がった。私と目が合ったような気がした。彼女は私を見つめたまま、ゆっくりとこちらに近づいてきた。私は立ち止まったまま、彼女が来るのを待った。
「マルガレーテ……?」そう声を掛けられて、私は小さく頷いた。
母の姿が想像していた通りなのか違ったのか、自分でもよく分からなかった。私はどんな人を想像していたのだろうか。もっと心が動かされるかと思っていたけれど、実際には静かな興奮の中に少しの驚きと疑いが複雑に混ざりあっていた。
――この人が私の母なの? 本当に来てくれたのね。あまり私と似ていない。
忙しく揺れ動く内心とは対照的に私の反応は乏しかったことだろう。喜びとはかけ離れたこの感情が何なのか、私自身、明確に掴めなかった。
黙り込んでいる私の代わりにエルストナーが口を開いた。
「マルガレーテの母上ですか?」
「ええ……ヘレナ……です」
「マルガレーテの従兄のエルストナー・カエリムです。父と母は店を離れられなかったので、私が代わりに付き添ってここまで来ました」
エルストナーが”私”というのを初めて耳にした。
「それは……お手数をおかけしまして」
「いえ、無事にお会いできて良かったです。私がいないほうがお互いに話しやすいかと思いますので、これで失礼します」
彼はまるで母の方に一歩近づけるみたいに私の背中に手を添えた。私がエルストナーを見上げると、彼は小さく私に頷いた。
私は母の方を再び向いた。
*
「この辺りでお茶でも飲みながらお話しましょうか」
母は穏やかにそう言った。私は頷いて同意を示した。さっきからうまく声が出なかった。
席につくなり、母は微笑んで言った。
「元気そうで安心したわ」
――安心してしまうの?
彼女には私が元気そうに見えるのだろうか。母にそう言われて、私が本当にかけてほしい言葉がおぼろげながら掴めてきた。
『心配していたの。ずっと会いに行けなくてごめんなさい』
多分、私はそう言ってほしかったのだ。
「もう十八歳よね? 本当に立派になって……」
そうね、祖父母が一生懸命育ててくれたから。
つい皮肉な考えが浮かんでしまう。
駄目だ。私は十八年間の思いに何かしらの決着をつけにここに来たんだから。皆が手助けしてくれたというのに、無駄にしてはいけない。
「私に、会いに来ようと思ったことはあるんですか?」
「ええ……でも、テオのご両親のところに預けられたと聞いて、とても伺えなくて……」
「場所はご存知だったでしょう?」
「ええ、数回伺ったことがあったから」
場所は知っているけれど、来るつもりはなかったのだろうか。
私は違う質問をすることにした。
「父と離婚してからは、どのように過ごしてらっしゃったのですか?」
「実家に戻って母を看取ったの。父はすでに亡くなっていたから」
実の母の面倒は見るのね。娘のことは預けるのに。
――いけない、そんなことばかり考えては。
「今は、お一人でご実家に?」
やけに丁寧な口調で話してしまった。まるで知らない人のことを話しているみたい。実際、会ったこともなかったのだけれど。
「あの……今は別の家族があって……」
さっき、母が家名を言わなかったのは再婚していたから躊躇したのか。
”別の家族”。私は彼女にとって何なのだろう。家族だったことなど、あったのだろうか。
「再婚なさっているのに私の手紙がちゃんと届いたんですね。今も実家にお住まいなんですか?」
「実家に届いた手紙は、家の管理をお願いしている人が届けてくれたの」
なぜだろう。なんだか言葉が上手く届かないみたい。
彼女の言っていることに悪意がないのは分かる。なのに、残酷だと感じてしまう。
酷いことを言われているわけではない。むしろ優しく気遣うかのような言葉を掛けられている。
——そう、まるで気遣っている”みたい”。
意識しなくてもその言葉の軽さに気づいてしまう。その違いが私には分かってしまう。
だって、私はかつて深く愛されたことがあるから。
「また、手紙を書いてもいい……?」
かすかな希望にかけて、最後の勇気を出したつもりだった。そして、断られるはずがないと心のどこかで思っていた。
母はためらいがちに答えた。
「……ええ……大丈夫だと思うわ」
――『大丈夫』? 『だと思う』?
なぜそんなにあやふやなの。どうして自分で決められないの。
その瞬間、私の心が外界とのあらゆる接触を絶ったのが分かった。これ以上彼女と接したら、きっと取り返しがつかないほど傷ついてしまう。
私は隠されなきゃいけない存在なの?
娘と公言できないなら、もういい。
私の存在を認められない人なんて、私だっていらない。
私は席を立つと母を見下ろした。
「なら、もういいわ。会ってくれてありがとう」
――もう会うことはない、私はそう心の中で自分に誓った。




