第28話 兄弟の結婚観
バルトの書斎で俺たちは久しぶりに二人きりになった。俺が藤の椅子に腰掛けるとバルトはサイドボードへ向かいグラスを手に取った。
「子育てというのはね、本当に大変だよ。あまり遅くならないほうが良いぞ、エル。体力と気力が必要なんだ」
「年寄りじみたこと言うなよ。まだ老け込むには早いぞ。そういえばエレノアが生まれたとき、バルトは何歳だった?」
「二十八だな」
「今の俺と同じ歳か」
「ほら、もう生まれていてもおかしくないぞ」
バルトは俺が旧都から持参した深紅のポートワインのコルクを抜くとグラスに注いで俺に差し出した。
俺は苦笑しながらそれを受け取った。
「子どもなんてまだ想像もつかない」
「そうだろうな。私も具体的には想像できなかったよ。生まれてしまえば、もうそれまでだ。眼の前の命を守るために一生懸命やるだけだよ」
「それなら……多少想像がつくかもしれないな」
バルトは香りを嗅ぐように自身のグラスに目を伏せた。
「エルは子どもを上手く導けると思う。責任感があって理性的だから。それに何と言っても忍耐強いだろう? 子どもを育てていて分かったんだが、代わりにやってあげるのは割合簡単でね。導くのは余計に手間がかかるし、本当に忍耐がいるよ。失敗しそうな時なんてつい口や手が出そうになるし……もどかしいけれど、なるべく見守るように頑張ってるよ」
「”子育ては忍耐”、か」
「まあね。でも、放っておいたらいつの間にかできるようになっている、なんてこともあるんだけどね」
バルトはワインを口に含んだ。
その姿につられて俺はグラスに口をつけた。
「その前にまず、相手を見つけないと」
「今は誰かいないのか?」
最近ダンスした相手の顔をいくつか思い浮かべたが、その内の誰も結婚相手として本気で考えるにはピンとこなかった。
「決まった相手はいない、かな」
「エルは昔からもてるから……選び放題というのも、決め手に欠けるんだろうな」
バルトは俺の反対側の椅子に腰を下ろした。
選び放題というわけではないが、どこで手を打てばいいのか判断しかねているのは確かだった。若い時はただ好みで付き合えばよかったが、じきにそういうわけにもいかなくなるだろう。近々セスが婚約するが、同年代の友人はまだ結婚していない者の方が多いし焦るほどではない。条件の合う女性がいれば、というのが正直なところだ。しかし、その条件が何かと言われると明言するのが難しいのだった。兄のバルトも弟のレイも結婚が早かった。彼らはどうやって決心したのだろうか。
俺は近くの小卓に頬杖をつくと、見るともなしに本棚を眺めた。
――相変わらずすごい量の本だな。俺は将来家庭を持っても書斎はいらない気がする。
「バルトはどうやって結婚を決めたんだ?」
バルトは少し考え込んで答えた。
「難しい質問だな……。勢い……かな?」
真面目な兄の口から飛び出した意外な言葉に、思わずバルトの顔を見た。
「……勢いで結婚したのか?」
「もちろん勢いだけじゃないが、勢いは必要だよ」
決心には、ということだろう。だがその判断は勢いでするものではないはずだ。
「そこに至るまでの過程は? この人だ、と決めるのはいつ、どうやって?」
質問攻めにする俺にバルトは困ったように微笑むと窓の外に視線を移した。
俺はワインを口に含んで答えを待った。お互い会う機会が少なくなってしまって、こんな話になること自体まずない。バルトが照れたからって逃すつもりはなかった。
バルトは観念したのかぽつぽつと話し始めた。
「レクシーは風変わりだし家庭環境も少々気の毒な状況だったから、最初から気にかかってはいたんだ。……同情や好奇心なのか、それとも愛情なのかは自分でもすぐには分からなかったが……」
手元のグラスを見つめてバルトは続けた。
「なんと言えばいいのか……理屈じゃない感じ、かな。いつもの自分らしくない、普段だったらしないようなことをしたから」
「何をしたんだ?」
バルトは微笑んだだけで答えなかった。
冷静で落ち着いているバルトが何をしでかしたのか興味はあったが、兄は言わないとなったら言わないだろう。無駄な追求をするのは止めておいた。
「エルはそういう経験、ないのか?」目を細めてバルトが聞いた。
「……若気の至りで多少馬鹿げたことをしたことはある」
「どんなことを?」
「言わない。バルトだって言わなかっただろ」
「それは残念。……まあ、自覚がないならまだなのかもな。明確に分かるだろうから」
「そうなのか?」
「ああ、とんでもなく振り回されるんだ。困惑して『一体なぜなんだ?』って悩んで……で、気がつく」
バルトは片手を頭の近くで振りながら言って、最後に手を広げてみせた。
明るくて朗らかな印象の兄嫁レクシーに振り回されるバルトか。そんなことがあったとは知らなかった。弟のレイもそんなものなのか? あいつのほうがいつも澄ましていてよっぽど人間味がないが……そういえば、マルガレーテが「あのレイが婚約者に夢中だ」と驚いたように話していたな。
他人事だったら楽しめるが、自分がそうなるのは遠慮したいと思った。みっともない姿を晒すのは誰だって嫌だろう。
――だが、当の本人は渦中にいる時は気が付かないんだろうな。
「聞いた限りでは、あまり羨ましくないな」
「はは、でも案外悪くないよ。全て上手く行けば、の話だが」
「上手く行かなかったら?」
グラスを目線に掲げると、バルトはグラス越しに俺を見ながら口角を上げた。
「まあ、地獄みたいなものだろうな」
「天国か、地獄か」俺は苦笑して首を振った。
バルトはグラスの中身を飲み干した。
「希望を打ち砕くようで悪いが、上手く行っても常に天国というわけではないんだ。……まあ、幸せってこういうものなんだろうって思うことは時折あるが」




