第19話 舞踏会に現れた人物
その晩も舞踏会に参加していた。社交界シーズンも終盤に近づいているというのに、マルガレーテには特別に親しくなった男も求婚相手も現れなかった。顔立ちも性格も悪くないと思うのだが、いかんせん会話にも振る舞いにも色気がなさすぎる。いかにも生真面目な女学生だ。ダンス相手からしたら子どもに見えるか、全然脈無しに思えるだろう。
――碌でもないのに引っかかるよりはマシか。
本人も結婚相手を舞踏会で見つけるつもりはないと断言していたし、冬にも社交シーズンがあるのだから無理をすることはない。マルガレーテのお守りもあと少しで終わりだ。そう思うと知らず知らずのうちに口角が上がる。
もうじき夏だ。狩りが始まるし、川の水浴場で泳ぐのもいい。別荘に行くかな。人気のない湖で泳ぐのは最高だ。俺はこれから始まる楽しみに思いを馳せていた。
隣に座っていた母がふいに呟いた。
「……エル、どうしましょう」
「何がですか?」
マルガレーテの婚期を悲観したのかと思ったが、どこか様子がおかしかった。母はこちらを向いたが目線が合わなかった。最初、脳裏に浮かんだのは体調不良だった。立ち眩みでもしたのかと思った。
「どうしました? 具合でも悪いんですか?」
「マルゴ…………るの」
「何です?」
母親は何か言ったが、よく聞こえなくて俺は顔を寄せた。
「マルゴの父親がいるの」
「マルガレーテの父親?」
マルガレーテの父親は母の弟だ。俺自身は顔も知らない。会ったことがあるのかどうかも定かでない。とにかく放蕩をして身勝手だという親族の評価は噂に聞いていた。そして、幼いマルガレーテの世話を祖父母に託したということも。
「今ここに、ですか?」
母親は見るに耐えないものから顔を逸らすかのように目を閉じて、何度も小さく頷いた。
「恐らく……いえ、間違いないわ。……信じられない。なぜこんな所にいるのかしら?」
俺は会場にすばやく目を走らせながら聞いた。
「どこにいるんですか」
「あちらの……出入口からちょっと入った場所……今、ウィンズロウ卿と話している女性のそばにいるわ」
「ウェーブがかった赤茶の髪の、口髭を生やした男?」
「そう、そうよ……どうしましょう……エル、マルゴを早く連れて帰らなきゃ」
「今のダンスが終わったら俺がマルガレーテを引き取りに行きます。……マルガレーテには父親の存在を知らせないほうがいいですか?」
「今はだめよ、絶対に。テオはマルゴを傷つけることを言いかねないわ。……ああ、新都にいるはずなのに、なぜ旧都に突然現れたの?」
音信不通だった弟の出現に、母はすっかり動転していた。
「その”テオ叔父さん”は、母上がここにいることに気がついているんですか?」
「分からないわ……言ってやりたいことは山ほどあるけれど、今は困るわ。それにマルゴの前ではとても……」
「マルガレーテと母上は先に馬車で帰って下さい。俺はマルガレーテのダンスの相手に断りを入れておきますから。後でそちらに寄ります。マルガレーテには母上の体調が悪いからと説明しましょう」
「ええ……そうね。エル、お願いね。でもテオには話しかけなくていいのよ、決闘は申し込まなくていいから」
「決闘なんて今時しませんよ。そもそも剣も銃も持ってきていないし」
「そうね……残念なのかよく分からないわ。締め上げるのは今夜でなくていいから、夜道で襲ったりしないでね」
「一体、俺を何だと……ああ、ダンスが終わりますからマルガレーテを連れてきます。反対側の出入り口で待てますか? いや、俺がマルガレーテを連れていきますから、母上は先にホールに出て従僕に馬車の準備をさせておいて下さい。できそうですか?」
母の腕を取って立たせてやると、俺は身を屈めて言った。
「マルガレーテは気が付かないと思います。……大丈夫ですから落ち着いて下さい」
母は何度も小さく頷いた。
「では、俺は行きますから」
託すような眼差しに頷いて応えると、俺はマルガレーテを迎えに行った。
*
「マルガレーテ」
踊り終わったかどうかというタイミングでエルストナーが真後ろから私の肩に手を乗せた。
「わ、何? びっくりするじゃない、エルストナー」
「悪いが、母が体調不良なんだ。帰るぞ」
「え、今すぐ? 伯母様どうなさったの?」
エルストナーはたった今私が踊っていたパートナーに、詫びるような微笑を向けた。
「申し訳ない。マルガレーテの付き添いの体調が優れなくて、今夜はもう失礼しなくては」
「それはご心配ですね。大事でないといいのですが」
「すぐに帰りますので、大丈夫です。またの機会にぜひ……」
「ええ、ぜひ」ダンスパートナーは私に微笑みかけた。私も困惑したまま「ごめんなさい」と微笑み返した。
丁重にダンスのパートナーに会釈すると、エルストナーは私を連れて足早に出口へ向かった。
「そっちは遠回りじゃない? アンナ伯母様はどこなの?」
「いいんだ、母はホールで待っている」
「だから、ホールならこっちのほうが近いのに」
「いいんだ」
エルストナーの有無を言わさない口調に、私はそれ以上粘るのを止めた。その代わり伯母様の容態を聞いた。
「……伯母様の体調不良ってどこが悪いの? 大丈夫なの? こんなに急いで帰るなんて。ダンスの約束があったのよ、相手の方たちにお断りしないと」
「俺が事情を話しておく」
「あなたは残るってこと? 私には事情を話してくれないの?」
「……今は母に付き添ってやってくれないか。気分が優れないのは本当だから」
――伯母様の体調が悪いのは本当。じゃあ、本当じゃない部分があるの?
エルストナーは部屋を出る前に何かを確認するかのように部屋の中を見回した。私も見たが、何も変なところはないように見えた。部屋を出た私たちは廊下を突き進んでいた。
「マルガレーテ、ダンスカードを俺に預けてくれ。約束した相手に謝罪しておくから」
私は腰のリボンに下げていたダンスの予約を書いたカードを取り外すと彼に手渡した。
彼はさっとそれに目を走らせると、「あと二人か」と確認した。私は頷いた。
文句も言わず従う私に、彼は眉を下げると言った。
「今度、埋め合わせをしてやるから。……すまない」
「いいけど……伯母様は大丈夫なの?」
彼は顎を上げて正面を見た。その仕草に促されて見た先には伯母様がいた。
「アンナ伯母様! 体調が悪いって聞いたけど大丈夫ですか?」
「ああ、マルゴ、ごめんなさいね……」そう言った伯母様は確かに顔色が悪くて、辛そうだった。
「吐き気ですか? 頭痛?」
「どちらでもないんだけど、酷い気分よ」
「大変、気持ちが悪いんですね?」
伯母様は小さく頷いて「じゃあ、後は頼むわね、エル」と言った。
エルストナーに伯母様を心配する素振りはあまりなく、無表情で小さく頷いた。
彼は私たちが馬車に乗り込むのに手を貸してくれた。
馬車の扉を閉めながら彼は言った。
「母上、後で俺も家に寄りますから。……マルゴ、母を頼む」




