第13話 恋愛遊戯からの戦線離脱
俺は彼女に聞こえないように小さく嘆息した。この女優ともまだ特別な関係というほどではないんだが。サロンの主催者をやっているくらいだから、煩わしいことなしに疑似恋愛を楽しませてくれるのかと思ったのに。俺が暗黙の了解と思っていたものはどうやら存在しなかったらしい。
「どうされました? ヴェラ」
彼女の感情的な声に誘われたのか、突然若い男がやってきて彼女の手を取ると口付けた。俺はその光景を見てほんのちょっと眉を上げた。
何だ、この男は。やたら馴れ馴れしいな。彼女はこんな無体を働かれて怒り出さないのか?
「ハロウフィールドさん、何でもないの……私、噂の真偽を問いただしていたのよ」
伯爵か侯爵か忘れたが、どこぞの貴族のお気楽次男坊か。……まあ、俺も次男で兄よりは気楽にさせてもらっているのは事実だが。
彼女は手を引っ込めようともせず、わざとらしい仕草で嘆いてみせた。なんだ、思ったより簡単に触らせてしまうんだな。
――ああ、だから彼女は以前、俺にキスしてきたのか。
こいつと同列に扱われているとは一気に白けた気分だった。この調子じゃ、こいつともキスしていてもおかしくないな。目前の男の唇に間接的に触れたような気がして、俺は眉根をかすかにしかめて無意識のうちに唇を軽く指で擦った。
「噂?」
「こちらの”紅大尉”の意中の方は、彼が最近エスコートしている麗しきお嬢さんなのかと聞いていたところですの」
なんてつまらない説明をするんだろう。舞台の上の台詞は脚本家が書いているから彼女自身の知性でも機知でもないのだろう。俺は気のない顔で目の前で繰り広げられる茶番を眺めていた。大げさな態度の二人は劇場で演技をしている俳優と女優に見えなくもなかった。
「あれは母が後見人をしている従妹で、社交界デビューに付き添っているだけだ」
俺の答えを聞いてないのか、男は彼女に熱心に話しかけた。
「ヴェラ、次の舞踏会のあなたのエスコートは私に任せてもらえませんか?」
「まあ、どうしようかしら」
彼女はちらりと俺を見た。
俺が動くのを期待しているのか。ちょっと面白いが、乗ってやって誤解をさらに深めるのは面倒だな。
俺はシャンパンを口に含んだ。女優の目つきがきつくなった。視線に構わず、そばの机に置かれていた小さな菓子に手を伸ばした。
母やマルガレーテが喜びそうだな。手元の菓子をしげしげ眺めた後、俺はそれを口に放り込んだ。うん、悪くない。
「この菓子は旧都の店のものか?」
女優は引きつった顔で答えた。
「……新市街の通りに新しく出来たのよ」
今度家に寄るときに手土産に持っていくか。
「カエリム大尉、あなた、私と舞踏会へ行くつもりがあるの?」低い声で女優が尋ねた。
「? 彼と行くんじゃないのか?」俺は手で相手の男を示した。
そいつは嬉しそうに微笑んだが、一方の女優は苛立ちをあからさまに表した。
「あなたがそのつもりなら、本当に彼と行くわよ」
「どうぞお好きに」俺は鷹揚に微笑んだ。
女優にも大して興味はないし、この男と張り合う気もさらさらない。必要な情報はもらえたことだし、この辺りで引き上げることにするか。
「明日も仕事があるし、俺は失礼するよ。では」
俺は女優と俳優もどきの貴族次男坊に会釈をして部屋を後にした。
出口で従僕に預けていた夜会用の帽子を受け取っていると彼女が追いかけてきた。
「もう帰るの?」
「ああ、楽しかったよ」
「ねえ、分かってるでしょう? あんな人なんでもないわ。だから怒らないで……この後、上にある私の部屋に来てくれてもいいのよ」
上目遣いに俺の腕に自身の腕を絡めてくる姿は、もはや何の感情も引き起こさなかった。
誘うならあの男にすればいいのに。きっと嬉々として行くぞ。そう言ったら平手打ちでも食らいそうだったから、にこやかに答えた。
「いや、行かないよ」
「……そんなに怒るの? ねえ、何もないのよ、あの人とは」
「俺と君の間も何もないよ」俺は愛想よく微笑んで、実際に何もないと手を広げてみせた。
「でも、そんな……冗談でしょう? だって、前に舞踏会にも一緒に行ったじゃない」
「君がしつこく言うから、一回付き合っただけだ」
「しつこ……」彼女は二の句が継げない様子だった。
「俺と君の間には何にもなかったし、これからもないよ。じゃあ、これで」
女優はギラギラと目を光らせて俺の服を掴んだ。
「あの赤毛の従妹に乗り換える気!?」
よく分からない男と並べられただけでも困惑しているのに、マルガレーテまで持ち出すなんて。どいつもこいつも俺に面倒をかけようと示し合わせているのだろうか。
「乗り換えるも何も、君とは何もないと言っているんだが」彼女の手を離しながら俺は淡々と言った。
逆効果だったのか、女優は金切り声を上げた。
「男は皆そうよ、すぐ若い女にうつつを抜かして!」
言いがかりもいい所だ。怒り狂った彼女の姿は少し滑稽なほどで、俺はうっかり笑ってしまわないようにするのに苦労した。
「俺は誰にもうつつを抜かしていない。君とは何もない。従妹もただ保護者代わりのお守りをしているだけだ。じゃあ、これで」
事実だけを簡潔に伝えると、俺はなおも言い募る彼女を尻目に外へ出た。
通りを歩いていると、女の大きな声が夜の路上に響いた。
「私を袖にするなんて、覚えていなさいよ!」
俺はため息を漏らした。また根も葉もない噂になるんだろう。もう言わせておくしかないな。マルガレーテのことだって噂になっているらしいし。
——とにかく、老大佐の死が本当なのか確かめなくては。
その考えが頭の中を占めていて、先ほどの女優のことは忘却の彼方に消えてしまった。




